二章 兆し
リティルは、エフラの民の子供達に囲まれていた。
「リティル様!風見せて!」
「リティル様!空飛んで!」
「リティル様!お花あげる!」
「わかったから、順番な!ほら、一列に並べー!」
わーっと子供達は、リティルの前に一列に並んだ。その列に、大人も加わりだした頃、ディコがやっと助けに現れた。
「ぜえぜえ、もお!解散!解散!解散!風の王は忙しいの!一日十人!大賢者の館で、予約すること!以上!」
大賢者の出現で、民達は不満そうに、だがスゴスゴと解散していった。
「ご、ごめんね、みんな、リティルが優しいからつけあがって」
「ハハハ、こんなこと普段ねーからな、楽しいぜ?どうした?インジュが迷惑かけてるか?」
楽しそうに笑うリティルの前で、ディコはへたり込んでしまった。ここは、楽園の外れにある花畑だ。ここルセーユ島の隣にある、本土と呼ばれているブルークレー島の花々の種が蒔かれていた。
楽園の中心にある、大賢者の館からここまで走ってきたのか、ディコは未だ息が整っていなかった。
「ね、ねえ、リティル、昨日、ゾナと何かあった?」
ディコは言いづらそうに尋ねた。リティルの様子は、ノインの言ったようにケロッとしている。だが、彼は隠すことが昔から上手い。本当に、大丈夫なのだろうかと、ディコは心配していた。
「ん?ゾナと何かあったのは、ノインじゃねーのかよ?今朝、よくわからねーけど、謝られたぜ?」
「ノインが、怒ってたみたいだから……。リティルは寝ちゃってたし、ゾナは何も言わないし……。ノインは何か言ってた?」
「あいつは言わねーよ。ゾナとぶつかるなんてな、あいつなら、大丈夫だと思ったんだけどな……インと違って、熱いよな」
そう言って、頭を掻きながら、リティルは困ったような顔で笑った。
しかし何があったのか。インが、ゾナを作った賢者に殺されたことくらいは知っているが、ノインはインではないし、ゾナもその賢者ではない。リティルから見て大人な二人が、過去のことで争うとは思えなかった。
フロインの言葉を代弁できるインジュが、ノインが怒っていたと言っていた。ということは、ゾナがノインを怒らせたのだ。彼が怒ること、それは、風の王・リティルを攻撃された時だけだ。
「ゾナに何かされたの?リティル!」
座り込んだまま、ディコはリティルの腕を掴んだ。
「オレ、ゾナに何かされるほど疎まれてるのか?」
微笑んだまま、リティルの瞳が鋭くなった。その瞳にギクリとして、ディコは口をつぐんだ。しかし、手は離さなかった。完全に拒絶する気はないんだなと、リティルは思った。
昨夜のインファの和やかな警告。ゾナもディコも味方ではない。
少し考えればわかることだった。彼等が敵に回るはずがないと、思い込んでいた。ディンが、リティルに後ろ暗いことをしてしまっているのだとわかった時点で、それをリティルに言えない時点で、味方ではないのだと覚悟しなければならなかったのに。
「ゾナ、あいつも変だぜ?どうしてノインに、喧嘩なんか吹っ掛けるんだよ?あいつが買うのも珍しいからな、オレ絡み――風の王絡みなんだろうけどな」
あいつは過保護なオレの騎士だと、リティルは言った。
「リティル……」
リティルは、俯いてしまったディコの隣に、ドサッと腰を下ろした。
「オレの感情は、この姿のまま、十九歳のまま成長しねーんだ。精霊は成長も衰退もねー種族だからな。だからな、オレよりも年上の容姿の奴が、オレよりも大人な奴が必要なんだ。オレを叱ってくれる奴が必要なんだよ。息子のインファも、オレを諫めてくれる貴重な存在なんだぜ?ノインは容姿以上に大人だからな、助かってるよ。おまえらから見れば、別れたときのまま、てんで成長してねーオレは頼りねーよな」
さあっとリティルの金色の髪を揺らして、風が吹き抜けた。リティルは少し寂しそうに微笑みながら、青い空を見上げていた。
「リティル、違うよ!違うんだよ!」
どこか必死に否定するディコに、リティルは困った表情を浮かべた。
そう言うならなぜ、話してくれない?リティルは冷たい心でそう思った。
「いいんだ。それが事実だ。だからオレは暴くぜ?オレの力でな」
ディコは、リティルの瞳が鋭いのを見て、哀しくなった。リティルはもう、こちらを信用していない。それがわかってしまったからだ。二五〇年前、あんなに信頼し合い命をかけて守り守られたのに、その絆が、音もなく断ち切れてしまった。そして、断ち切ってしまったのは、他ならないディコ自身であることが、この上なく哀しかった。
リティルと一緒にまた駆け回りたい。リティルが去ってから、変わらない笑顔を見るたび、変わっていく自分が怖くもあった。
もう、戻れない。あの頃と、変わらないリティルを置いて、進まなくてはならない。それでも、ディコは今でもリティルの仲間でありたかった。ありたいと思っていた。
それなのに……それなのに!風の王であるリティルの手を、取ることを躊躇ってしまった。
立ち上がったリティルは、おもむろに手の平に風を集めると、水晶球を風の中から取り出した。
「ノイン、そっちはどうだ?」
『調子は戻ったようだな?こちらは、ほぼ全滅している。スワロは辛うじて話ができるが、時間の問題だ。ルキも思わしくない』
ディコは、リティルが部外者がいる前で、仕事の話を始めてしまったことに驚いていた。空気を読んで去れと言っているのか、聞かれたとしても構わないと思っているのか、その真意を見抜けずにとどまっていた。
「ルキにまで影響があるのかよ?」
『皆の夢が押し寄せてくるといって、苦しんでいる。夢から精神を切り離せと進言しているが、手がかりがあるかもしれないといって聞かない。リティル、話してやれ』
「わかった。ルキ!おい、大丈夫か?」
『リティル?何?ボク忙しいんだけどね?』
水晶球の中に、黒い猫の耳を生やした、リティルと背格好の似た幼い少年が映し出された。かなり不機嫌な様子で、どうやら寝そべっているらしい。
「機嫌悪いなー。なあ、ルキ、ノインを頼れよ。こっちも、ルディルとハル、四大元素の二人がやられてるんだ。おまえまで倒れたら、オレ一人でどうすりゃいいんだよ?」
『君一人じゃ無理だね』
「わかってるんだったら、頼むよ。ルキ!」
『はあ、わかったよ。ノインはこき使ってもいいんだね?』
「死なねー程度に頼むぜ?」
『だってさ、ノイン、いいの?』
『始めからそう言っている。リティル、すまない。手を煩わせた』
「いいよ、ノイン、ルキのことよろしくな!それより、昨日は悪かったな」
『なんのことだ?』
「ハハ、ありがとな、もう大丈夫だ。オレが忘れてたら、定期報告そっちからしてくれ」
『了解した。ではな』
リティルはフウとため息を一つつくと、再び水晶球に話しかけた。
「インファ、状況は?」
水晶球はすぐに答えた。ディコは、ノインとインファが、いつリティルに話しかけられてもいいようにしていることを感じた。リティルは、リティルが十九歳のままだと言ったが、経験はちゃんと身になっているのでは?と感じた。大人だとリティルが認めている二人が、リティルを王として頼っていることを、ディコは感じていた。
『父さん、セクルースはわかっている限り全滅です。小鳥達を監視に放っていますが、動きはないですね』
「セリアは?」
『依然として目覚める気配はありません。大丈夫ですよ、そんな顔しないでください。オレの妃は強いですからね』
「インファの奥さん、どうかしたの?」
思わず、ディコは話しかけてしまっていた。
『ディコ?父さん、人払いはしてくださいよ。まさか、インジュはいませんよね?』
「ディコだけだよ。大丈夫だ。聞かれたところで害はねーよ。悪い、続けてくれ」
『いいんですね?わかりました。ユグラに頼んで、リストを作ってもらいましたが、所在がわからない精霊が数人います。目を通しますか?』
「ああ、ツバメに持たせてくれ。あと、レイシも水晶球持ってるか?」
『持っています。すぐに出るかどうかは、わかりませんが』
「ハハ、少しはレイシを見直してやれよ。ケルゥはいるか?」
『出掛けています。カルシエーナの話では何もないようですが、彼らは独自に動きますからね。一応、監視はつけています』
「しょうがねーな。まあ、あいつらにも期待しようぜ?インファ、おまえ自身も大変なときに悪いな」
『いいえ、父さんほどではないですよ。敵陣のただ中にいるんです。気をつけてください』
「ああ、心配するな。そのために、フロイン連れてきてるんだからな。引き続き頼むな」
『任せてください。父さん、インジュは邪魔になったら、監禁でもなんでもしてください』
「おまえ、容赦ねーな。インジュには、どっちに転んでもここで目覚めてもらうぜ?」
『インジュのことはお任せします。父さん、くれぐれも気をつけてくださいよ?死んだら許しませんよ?』
「わかってる。もう二度と死なねーから、心配するなよ」
『オレに信用されるように、動いてくださいね。オレは、たとえインジュであっても、父さんに仇なすモノには容赦しませんから』
そう言って、インファはいなくなった。
「敵陣の……ただ中……それでもリティルは、ここにいるの?ボク達のことを、もう、仲間だと思えなくなってても、それでも、笑ってここにいるの?」
インファはわざと辛辣な言葉を使ったのだ。ディコがそこにまだいると、わかっていてそう言ったのだ。インファもノインも、ディコ達のことを信用していない。遠くにいても、リティルを守ろうとそんな心を感じた。
「オレはそれでも、守りてーんだよ。気にするな。オレはオレの、生きたいようにしか生きねーからな。ああ、ディコ、オレの寝首、掻けると思うなよ?オレの戦闘能力はおまえらが測れねーくらい、高いからな」
そう言って、リティルは普段通りの顔で笑った。
敵陣だ寝首を掻くだのと言いながら、リティルは無防備にディコに背を向けた。
「おーい、レイシ!いるか?」
ややあって、レイシが現れた。
『父さん?何かあった?』
「それを聞きてーのはこっちだよ。ルディルとハル、どうだ?」
『ハルはずっと寝てる。師匠はまだ時々起きるよ。あの人たぶん、気合いだけど』
「ハハ、もう寝ろって言っとけ。ルディル、何か言ってるか?」
『うーん、うわごとなのかな?変なこと言ってるよ?オレの中から出ていけ、好きにはさせないって。あと、物騒なこと言うんだ』
レイシは、落ち込んだり、不安がったりという感情を、見せなくなって久しいのに、その鋭い瞳に不安を滲ませた。
『もし、オレがおまえのことをわからなくなって暴れたら、ためらわず殺せって』
「レイシ、その兆しはありそうか?」
『師匠、日に日におかしくなってるかもしれない。殴って寝かせたほうがいいかな?』
「ああ、今すぐ殴って昏睡状態にしてやってくれ。インリーいるか?」
『お父さん』
「インリー、封印魔法どれくらい使える?」
『大がかりなのは準備できないから無理だけど、簡易なのはいくつか。たぶん、ルディルを足止めするくらいはできるよ』
「わかった。もしものときは、オレかインファが行くまで持ち堪えてくれよ?」
『うん、任せて!得意だから大丈夫!……あの、お父さん』
「ん?どうした?」
『あ、あのね……レイシとイチャイチャって、どうしたらいいの?』
「インリー……オレ、忙しいから切るな!」
あのバカ娘!父親のオレに何聞いてるんだ!と、リティルは一方的に通信を切ると、疲れたように水晶球を風の中にしまった。
「イシュラースに、何か起こってるの?」
「ああ、あっちもこっちも無茶苦茶だぜ?だからな、時間かけてられねーんだよ」
リティルはディコの瞳をジッと見つめてきた。ディコが何も言わないでいると、いきなり空を仰いで明るく叫んだ。
「さてと、オレも仕事するかな!」
リティルはトンッと軽く踏み切ると、雄々しい翼を広げて飛んでいってしまった。
ディコはリティルの去った空を、いつまでも見つめていた。
リティルの通信の相手、ノイン、インファ、そして会ったことのない次男のレイシ。三人は別々の場所にいた。そのすべてに不穏な空気が感じられた。
時間をかけていられない――リティルは、本当はここにいられない状況なのだと、ディコは思った。
それでもここにいてくれるのは?ディコは、リティルが哀しみを背負う気でいるのかもしれないことを、思わざるを得なかった。
ディコは、リティルに甘えていたことをやっと思い知った。リティルなら許してくれると、思ってしまっていたことに、震えるほど後悔した。
「ボクは、リティルを選びたいよ。ゾナ……」
ディコは、できないことを口にしていた。ここでリティルを選んでしまったら、父親としてどうなのだろうか。まだ、悪だと決まったわけではないのに。
ではなぜ、リティルに言えないのだろうか。リティルの何を、そんなに恐れているのだろうか。大賢者の館に帰らなければならないのに、ディコはどうしても歩き出せなかった。
大賢者の館に引き返す途中で、金色のツバメがリティルに追いついてきた。
報告を受け取ったリティルは、ツバメのもたらしたリストを頭の中に開く。
「………………時の精霊……あいつらも古参だったな」
つぶやいたリティルは、そう言えばと、花畑を振り返った。
ディコの一族は、特殊な魔法の継承家系だったなと思い出した。
その魔法はどれも禁呪で、ディコはその魔法が使えることを、口外しない徹底ぶりだった。グロウタースの民が使う魔法は、すべて精霊に働きかけることで発動する。使う者と精霊との相性で、扱える力が決まるのがグロウタースの魔法だ。故に、多くの精霊と相性がいい者は、沢山の属性の魔法を使うことができる。
ディコならば、炎、光、風が使える。
そして、ディコの家系は、時の魔法の継承家系だ。息子のディンも継承者だろう。
「なるほどな。鎌かけてみるか」
リティルはつぶやくと、大賢者の館を目指して再び飛び始めた。
――リティルを苦しめるな。リティルは君を、信じている!
「先生?」
ゾナはスフィアの声で、我に返った。皿の上で、氷は溶けてしまっていた。
今日は、素早く発想を形にするため、氷を彫刻する授業を行っていた。
インジュはゾナの不調に気がつくことなく、一生懸命氷に彫刻刀を突き立てていた。
その後ろで、オウギワシが風を使って器用に氷のバラを量産していた。昨夜、ノインに寄り添ったのを最後に、フロインは鷲の姿から人型になっていなかった。
――フロインの一番はリティルだ。二番はオレ。三番はインファだ。この順番は変わることはない。
風の王の守護鳥・フロイン。女神のように神々しい外見とは裏腹に、躊躇いなく王を守る刃。その洗練された存在が、ゾナの心を惹きつけていた。
リティルの為ならば、愛した者さえも躊躇いなく食い殺せる、その真っ直ぐな心に憧れる。
ゾナも、そうありたかった。この身の存在理由を、最後まで守りたかった。
ゾナは、フロインを、精神的肉体的に欲しているわけではなかった。純粋に、揺るがない彼女を美しいと思っていただけだった。ゾナに、恋愛感情はないのだから。
「ねえ、インジュ、フロインの二番はどうしてインファ様じゃないの?」
「え、あ、はい?ええと、ノインは誰のモノでもないからです。父には、母がいますからあれでも、遠慮してるんですよ」
「それって、ノインとフロインできてるの?」
インジュはスフィアの言葉に、危うく手に彫刻刀を突き刺しそうになって、慌てた。
「うわあ!ち、違いますよ!ノインは甘えさせてくれてるだけです。フロインはあんな姿ですけど、中身はオウギワシですよ?」
「ノインはオオタカじゃない」
「精神のことを言ってるんですよ!あなたは、そこで寝ている犬と、恋仲になれるんですか?なれないでしょう?そういうことですよ」
「ふーん、でも、フロインはもうちょっと進んでそうだけど」
「やめてください。もしそんな心が芽生えるくらい成長していても、フロインはリティルの持ち物です。リティルが一番なのは、どこまで行っても変わらないですよ」
「そういうもの?ねえ、フロイン、ノインのこと好き?」
スフィアは、フロインを見上げてそう訪ねた。
「好きだそうですよ?もう、本当にやめてください」
インジュは困り果てて、氷は無様に溶けてしまっていた。
そんなインジュの隣に、リティルが舞い降りた。風の王の姿に、インジュは助かったとホッとした。
「なんだよ、スフィアもそういうお年頃か?」
「あ、おじさま!だって、昨日ノインと寄り添ってたフロイン、すごく綺麗だったのよ。怒ってたノインを、フロインがこうやってジッと見つめて、ノインも見つめ返したりして」
スフィアは嫌がるインジュを相手に、昨夜の再現をした。
「ハハ、絵になるだろ?美男美女だからな。けどな、スフィア、二人にそんな気ないぜ?二人は力を認め合ってるだけだからな。フロインもノインも、オレの刃だからな、立ち位置がよく似てるんだよ」
「なんだ、つまらないの。あんなに怒ったノイン、初めて見たけど何があったの?」
「知らねーよ。オレ、寝てたしな」
「ノインに聞いてないの?おじさま、心配じゃないの?」
「ノインはオレより断然大人だからな。心配なんかしねーよ。まあ、ノインがフロインをほしいって言ったら、二つ返事で嫁に出すけどな!」
インジュの氷は真っ二つに割れていた。
「リ、リティル!」
「ああ?どうしておまえが焦るんだよ?今のところ、ねーから安心しろよ。インジュ、真に受けてると、ノインに笑われるぜ?」
ポンッとインジュは背中を叩かれて、椅子から転がり落ちそうになった。
「それにしても、楽しそうなことやってるな!オレもやるぜ」
「おじさま、風禁止よ?」
「ああ、わかってるよ。うわ!新鮮!」
リティルは子供のように笑うと、インジュの隣に座って氷の彫刻を作り始めた。ふわりと、フロインが化身を解いて、リティルの手元を興味深そうにのぞき込んだ。
「おーい、ゾナ先生、氷が溶けねーように霊力送るのも禁止か?」
リティルは顔をあげないまま、ゾナに問いかけた。
「禁止ではないよ。むしろ、それをしなければ仕上げることは不可能なのでね」
「やっぱりか?インジュ、おまえもやってみろよ」
リティルは相変わらず、氷から一切視線を外さずに没頭していた。
「さすがですね、リティル様」
ディンはリティルの正面に座ると、彫刻を始めた。
「ああ?オレこういうの、苦手なんだぜ?得意なのはインファだよ」
「そうですか?とても苦手なようには見えませんよ?」
「これでも長く生きてるからな。よき指導者にも恵まれてきたしな。ディン、おまえ、何作ってるんだ?」
「フロインです」
「人型のか?すげーな」
「顔です。本当に女神のようですね」
「そうだろ?オレの自慢の宝石だよ。誰にもやらねーよ」
「おや?ノインならいいと言っていたのにですか?」
「あいつならいいんだよ。愛で方を知ってるからな」
隣で、インジュがガタンと氷を転がして慌てていた。
「ディン、おまえの魔力、妙な気配がするぜ?何やらかした?」
「何も」
「そうか。それは、言わねーのか、言えねーのかどっちだ?」
「何もないのに、言うも言わないもありませんよね?」
「ニーナ、元気か?」
「ええ。母はそこら中飛び回っています」
「そっか、元気ならいいんだ。インジュの母親は病気中なんだよ」
「それはいけません。それで、インファ様から引き継いだのですか?」
「そういうわけじゃねーよ。風の城は適材適所だからな」
「こちらが適してるとは思えませんけれど?」
「ハハ、オレもそう思うぜ?けど、まあ、妃が昏睡状態じゃ、ちょっと外に出せねーよな」
「お母さん、そんなに悪いんですか?」
インジュは、立ち上がってしまっていた。リティルは、まあ、そうだよなと思いながら顔を上げなかった。
「インジュ、城に帰りてーか?」
「もちろんです!母のそばにいたいです」
「普通そうだよな。それでセリアのそばにいて、おまえ、どうするんだ?」
「どうって……看病します!」
「ナシャがついてるぜ?おまえ、ナシャ以上に役に立つのか?」
「それは……」
「インジュは帰しては、いかがですか?」
「そうしてーのは、山々なんだけどな、インファは極限状態で代理をやってるからな、戻せねーよ」
「お父さんの邪魔はしません!」
「おまえな、いるだけで邪魔なんだよ。オレが言ってる意味、わからねーよな?だからな、城には戻せねーんだよ」
「おじさま!それはさすがにひどくない?」
「そうだな。それが風の城の、今の現状なんだよ。みんなフル稼働なんだ。インファは城で、オレの代わりにすべてを把握してくれてる。そんなところに、何もしないおまえを帰せねーよ」
「リティル様、こんなところにいていいのですか?」
「今のオレの戦場はここだぜ?オレに帰ってほしいなら、教えろよ」
「何もないですよ」
「そうかよ、オレは気が短けーんだ。ほら、ゾナ!」
リティルは立ち上がると、ゾナに向かって氷の塊を放り投げた。
それは、時計の形をしていた。とても巧妙で、恐ろしくできがよかった。それを見たゾナは、ゾッとして慌てて立ち上がった。
「ディン、立て!」
「待ちたまえ!」
ディンに向かい、剣を抜こうとしたリティルを、ゾナは声で制した。リティルは剣を風から抜き放たずに、ゾナにゆっくりと視線を合わせた。その瞳が、秘密を言えと言っていた。
「リティル、今は待ちたまえ」
言えなかった。リティルの視線が、ゾナから外れてディンを射貫く。
この瞬間、ゾナはリティルを裏切ったことを認めざるを得なかった。
「悪いな、ゾナ。これがオレのやり方なんだよ!」
リティルの風が解放される瞬間、フロインはインジュとスフィアを抱え、リティルの攻撃範囲外へ離脱していた。
「ディン!魔法使ってみろ!それで、おまえらの負けだぜ?」
至近距離からのリティルの風の刃を、ディンは辛うじて避けていた。そこへ、容赦のない風の刃が襲ってくる。さすがに避けきれないと、ディンは、手にした杖を握り直した。
「おまえとやるの、久しぶりだな。来いよ、ゾナ!どっちの想いが強いか、勝負しようぜ?」
リティルの瞳には笑みが浮かんでいた。しかし、楽しそうではない。とても哀しそうだった。リティルの風の刃を弾き、ディンを庇って立ったのは、かつての師であるゾナだった。
これは何?スフィアは急に始まった争いに、硬直していた。
リティルがここへきたのは、あたしを監視するためだと思っていたのに、とスフィアは混乱していた。インジュも何も知らされていないらしく、リティルとゾナの魔法戦をただただ観戦していた。かばってくれているフロインは、状況を把握しているようだが、彼女は口がきけない。問うても、答えを聞くことはできなかった。
「これ、すごくいけない気がする!インジュ、とめて!あなた、精霊でしょう?」
「ボ、ボクは……」
「もお!役立たず!」
スフィアはイラッとして叫んでいた。そして、フロインの陰から飛び出していた。
スフィアは、ゾナ達が何かを隠していることは知っていた。しかし、それは、スフィアに対してだと思っていた。スフィアは、自分の出生をよく知らない。リティルだけでなく、インファやノインまでもが度々訪れて、気遣ってくれるのはなぜだろうと思っていた。そして、『ワイルドウインド』という本を読んで、なんとなくだが理解した。確証を得ようと、インファとノインに尋ねた。インファにはスルリとはぐらかされてしまったが、ノインは教えてくれた。
スフィアは、自分が魔物になるかもしれない、リスクを抱えていることを知った。その上で、ノインは守りたいから信じてほしいと言った。リティルもインファもノインも、共通して守ろうとしてくれている。スフィアは、彼らを信じ抜こうと心に決めていた。
スフィアは、物心ついた頃から、リティルを知っていた。
ここではない別の世界から会いに来てくれる、金色の翼の笑顔がまぶしい人。
十歳年上のディコとニーナが、風の王・リティルだと教えてくれた。当時二歳だったスフィアは、リティルとなかなか言えず、風のおじちゃんと呼んでいた。
「スフィア!なんだよ、泣いてるのかよ?」
小さなスフィアは、自分と人との違いに戸惑い苦しんでいた。
スフィアには右目がない。おとぎ話に出てくるのっぺらぼうのように、はたまた描きかけの絵のように、本来目のあるはずの場所には、瞳はおろかまぶたも何もなかった。
「おじちゃん、あたし、どうして目がないの?みんなが怖いって、みんなが気にするなって言うの。気になるよ。みんなと違うと、気になるよ!」
そう言って泣くスフィアを、リティルはそっと抱きしめると、よしよしと宥めるように頭を撫でてやった。
「そうだよな。気になるよな?オレもそうだった。オレな、この隣にある島に住んでたんだ」
「え?おじちゃん、ブルークレーに住んでたの?」
「ああ、九年間住んでたよ。おまえが生まれたころやっと、イシュラースに帰れたんだ。それまで、悩んだこともあったな。だからな、スフィア、悩めばいいんだぜ?悩みたいだけ悩んだらいいんだぜ?ただな、自分を嫌いにだけはなるなよ?嫌いな自分にだけはなっちゃダメだぜ?」
「うん。よくわからないけど、おじちゃんの言葉、覚えとく」
「ああ、覚えといてくれよ。スフィア」
リティルは、見ているこっちまでつられて笑ってしまうような笑みで、笑った。
それから七年後、リティルは息子だと言って、インファを連れてきた。当時のインファはトゲトゲしていたのを覚えている。生まれてから七年しか生きていないのに、インファはすでに十八くらいの容姿をしていた。それは、精霊を両親に持つ純血二世故のことだった。純血二世は十二年で一人前になる。その間の容姿や精神の成長は、それぞれまちまちなのだった。
「オレは、早く強くなりたいんです!強くならなければ、ならないんです!」
そう言って、ニーナの時間が許す限り、槍を習っていた。
「インファ!邪念が入っておるぞよ!そんなでは、わらわにかすりもせぬわ!」
ウルフ族のニーナは、大きな青みがかった灰色のオオカミに跨がり、対峙するのも恐ろしいほどだった。それなのに、インファは鋭い瞳で臆することなく、何度も何度も立ち向かっていた。そのインファは、数年後とても美しい精霊となって、スフィアの前に立った。
「お久しぶりです、スフィア」
そう言ってニッコリ笑うインファは、暖炉の火のような暖かな眼差しの、落ち着いた青年となっていた。こちらも娘盛りに成長していたが、インファは気後れするほどいい男になっていた。
「インファ――様?」
「驚きました?そうですよね。あなたは、オレの昔を知っている、数少ない人ですからね」
そう言って、インファは暖かく笑った。それからインファも、度々きてくれるようになった。もの凄く強くなっていて、ニーナも負かされるまでになっていて驚いた。
スフィアの知る三人目の風、ノインとの遭遇は秘密だった。
三十年ほど前のその日は、月が綺麗な夜で、スフィアは剣狼の塔と呼ばれている遺跡の見える丘で月見をしていた。
「君が、スフィアか?」
もらってきた団子を食べていたスフィアは、目の前に舞い降りてきた男に驚いて、喉に詰まらせた。
「驚かせたか?すまない」
ノインは咳き込むスフィアの背中をさすってくれ、水までくれた。
「誰?金色の翼ってことは、風の精霊?」
「ノイン」
「ノインって言うの?あの、その仮面、何?」
「これか?ある事情から外すことはできない」
それが、インファとそっくりだからという理由だったことは、つい最近知った。
その遭遇からノインも、たびたび会いに来てくれるようになった。それも、大抵夜だった。理由を聞くと、リティルに内緒で来ているからという返答だった。リティルに内緒と聞いて、スフィアはなぜかノインと会えることにワクワクした。故に、口止めされていたわけではなかったが、ノインのことは誰にも言わなかった。
当時、まだゾナは目覚めていなかった。それなのに、リティルはノインから、スフィアを遠ざけていた。
それは、スフィアは、闇の王の核だった娘だからだ。闇の王は十四代目風の王・インと深い関わり合いがある。リティルは、インの死の切っ掛けとなった事柄に、ノインを近づけたくなかったのだ。そんなリティルの優しさを知っていたが、ノインはスフィアと関わることを決めた。インファとリティル、二人だけでは守り切れないのではないかと、案じたのだ。
それから月日が経ち、スフィアは二十年前――ゾナが目覚める少し前、インファに問いかけた問いをノインにもした。そして、自分がなんなのか確信を得た。
「仕事帰り?こんなに頻繁で疲れない?」
「日常だからな」
「そんなに戦って、大丈夫?」
「無理のない采配になっている」
「ノイン、ノインはどうして会いに来てくれるの?おじさま――リティル様に内緒なんでしょ?」
「リティルとインファが気にかける君に、興味が湧いたからだ」
「興味が湧くような何かが、あたしにあるってこと?ねえ、ノイン、あたし、何者なの?」
その問いは、インファにははぐらかされてしまった。そのはぐらかし方が優しくて、スフィアは余計に気になってしまっていた。けれども、リティルに聞くのはとても気が引けた。
「スフィア、君は自分のことが好きか?」
「人並みには好きだと思うけど?」
「愛されていると、感じるか?」
「もちろん」
「これを聞いても、オレを、疑わないか?」
「どういう意味?」
「我々風の理由。我々が君を気にかける理由だ。だが、それだけではないことを、信じてほしい」
「理由が、あったのね……」
「オレは、リティルの命を受けてここにいるわけではない。オレは独断で、リティルの守る君を守るためにここにいる」
「守るって、いったい何から?」
「スフィア、我々を信じてほしい」
「信じるわ。疑わないから、教えてほしいの」
「スフィア、君の中には、闇の王と呼ばれる魔物がいる。すべてを腐らせる絶対悪だ。我々は、君を監視していた」
「――そ、う……」
「スフィア、我々は君を守りたい。だから、信じてほしい」
「急に、受け入れるのは無理。でも、自暴自棄に、ならないように気をつけるね」
それからしばらくして、スフィアはリティルに、フロインと引き合わされた。そして、リティルの口から、闇の王のことを聞かされた。
「君は、風の監視対象だ。それを偽る気はねーよ。でもな、絶対に守るから、信じてくれ」
リティルの瞳は揺るぎなく強かった。とっくにノインから聞かされていたスフィアは、リティルが打ち明けてくれたことが、素直に嬉しかった。
ある夜遅く、眠っていたスフィアの部屋の窓を叩く者がいた。何だ?と眠い目をこすりながらカーテンを開くと、そこにはノインがいた。
「こんな時間に許せ。だが、これを渡しておこうと思った」
ノインはどうやらまた、仕事帰りのようだった。渡されたのは、金色の羽のついた首飾りだった。
「フロインの羽根だ。君を守るだろう」
ノインはそう言うと、早々に飛び去ってしまった。長居してはいけないと気を使ったのかもしれない。風三人の気遣いが嬉しくて、スフィアは呪われた境遇でも、自分を呪わずに今日まで生きてこられた。
風を信じている。そして、自分自身を大事にしようと思った。
そういえば、何かがおかしくなったのは、ディンに、ノインから聞いたことを、打ち明けてからだったような気がすることを、思い出した。そして、ゾナが目覚めたのもその辺りだった。
だとするのなら、今目の前で起こってしまったこの戦いは、あたしのせいなのかもしれないと、スフィアは思った。
ディンは、まだ百年ほどしか生きていない若いエフラの民だ。兄弟として育った、ディコとニーナの息子で、生まれたときから知っている。度々来るインファに憧れがあるようだが、彼以上に物腰柔らかく、優しい性格をしていた。
それなのに、さっきの会話は?まるで、リティルを邪魔者のように!ずっと守ってくれている人を蔑ろにされたようで、スフィアはディンの態度に怒りを感じていた。
「リティル様!どうしても守りたい人を守るために、力を使うことはいけないことでしょうか?」
ゾナに守られながら、ディンはリティルに叫んでいた。その声に、わかってほしいという気持ちが込められていることを、リティルは感じていた。けれども、何も打ち明けてもらえていない今の状況では、敵対するより他なかった。ディンから感じる気配は、リティルの知らない精霊の力で、それは、世界を守る刃である風の王として、許してはいけないことだったからだ。
「間違ってねーよ!けどな、安易な選択はダメなんだよ!大きな力を使おうとすればするほど、どこかに影響が出る!そのことを顧みられねーなら、そんな力使うべきじゃねーんだ!」
ゾナの放った雷を、リティルは手にしたショートソードで切り裂いた。最上級精霊にまで上り詰めていたリティルには、ゾナの魔法は届かない。
こんなに弱かったか?と、リティルは思ってしまった。無意識に、リティルは剣を握る手に力を込めていた。
「オレ以外の精霊と契約するのも危険だ!オレの息のかかってねー奴らは、グロウタースに友好的かどうかもわからねーんだ!それが元で、破滅した奴を、オレが何人斬ってきたと思ってるんだよ!」
リティルは切っ先をゾナに向けた。
ゾナに刃を向けるのは、これが初めてではない。何度も、ゾナには関係のない怒りと憎しみにまみれた刃を、彼に向けた過去が蘇る。そんなリティルを、ゾナは正しい言葉を投げかけながら真っ正面から受け止め続けてくれた。道を見失い暗闇の中にいたリティルを、光はこっちにあると、ずっと呼びかけてくれた人。それがゾナだった。
「ゾナ!おまえ、昔はこんなじゃなかっただろ!おまえはいつも、正しかったじゃねーか!」
終わらせる。ゾナを沈め、ディンに魔法を使わせる。それで、彼の契約した精霊が誰なのかが決定的になる。
そして、彼等と過ごした時間はなかったことになる。楽しかった記憶が、ただ辛いだけの代物になる。
この手で、この手で!かけがえのない思い出を壊し、風の王として立ちはだかってやる!リティルは奥歯をギリッと強く噛んだ。久しく感じたことのなかった、言いようのない苛立ちがリティルの心を支配していた。
楽園の脅威にイシュラースの仲間達の病――すべてが、リティルの肩にのしかかっていた。
インファやノインだけでなく、修行中のレイシまでもが、ほぼ単独での仕事に就けなければならず、楽園の、信じていいはずだったかつての仲間達も非協力的だ。
ディンが言った、楽園の事案にあなたは適していないのでは?という言葉。本当にそう思う。もとより厳しいインファだったなら、涼しい顔でねじ伏せるノインだったなら、禁忌を犯したであろう者はのうのうとはしていられなかった。オレが甘いから、さっさと片をつけなければならないことまで、ダラダラと長引かせて、城の皆の足を引っ張っていると、リティルは余裕をなくしていた。リティルを助けてくれる現在の仲間達のことが、この上なく心配だった。今、楽園のかつての仲間と、現在の仲間達、どちらかしか選べないとしたら、オレは、現在の仲間達を選ぶ!
――ゾナ!おまえが教え続けた正しさを、貫いてやる!
天井近くで、切っ先を突きつけてくるリティルの姿に、ゾナは受け継いだ記憶の中のインを見た。双子の風鳥の未来を守る為、悪に身を落としたインのその姿と、今のリティルが重なっていた。目先ではない。ずっと未来を見据えて守ろうとする、風の決意を秘めた強い瞳。リティルは、ゾナの願った通りの風の王となっていた。
ゾナはインに、理想の風の王の姿を見ていた。ゾナ自身はインを認めている。冷静に記憶を分析すれば、インはその場面でできる最良を常に行っていたと言えるからだ。しかし長らく、心とは反する記憶の感情が、ゾナを惑わせていた。
けれども今、正しさを振りかざし、立ちはだかってくれたリティルの姿に、やっと心を一つに決められた。もう、機会はないのだろうが、ノインとも冷静に話ができるような気がする。
ゾナは、二メートルもある杖を水平に構え、シールドを展開する。リティルの風の刃を止める硬度は、もはやこの盾にはない。
ゾナは、リティルを見据えた。降伏するか、リティルに負けるかの二択しかなかった。ここにディコがいたとしても、リティルを止めることはできないのだから。
スフィアは、こんな低い天井でも難なく戦えるリティルを、尊敬の眼差しで見つめていた。しかし、リティルが切っ先をゾナに向け、その先端に風が集まるのを見たとき、机に飛び乗りその軌道に身を躍らせていた。
リティルにゾナを討たせてはいけないと、とっさに思ったのだ。
「!」
風の玉を放ったリティルは、その軌道に割り込む者を見た。咄嗟に力の解放を試みたが、間に合わなかった。
「え?フロイン!きゃあ!」
スフィアはフロインに庇われていた。フロインはその翼で、リティルの風の玉を受け止めていた。風の王の風を受けてフロインの美しい翼はもがれていた。片翼を失って、スフィアと共に机の上に落ちたフロインは、リティルを見上げて首を横に振った。その瞳がとても哀しげだった。
「スフィア!大丈夫か?怪我してねーか?」
フロインとスフィアの前に、リティルはすぐさま舞い降りてきた。フロインの散ってしまった翼に手をかざして再生させたリティルは、スフィアに手を伸ばした。その手がかすかに震えていた。
「あたしは大丈夫。おじさま、もうやめて。ホントは、戦いたくないんでしょ?おじさま、すごく傷ついた顔してる!」
スフィアはリティルの手をひったくるように掴むと、泣きそうな片眼で訴えた。
「あたし、おじさま達を信じてる。あたしが魔物にならないように、ずっと守ってくれてるんだから!何よりも信じてる!おじさま、フロインだよね?フロインがあたしを救えるんだよね?」
フロインは何も言わずに、ジッとスフィアを見つめていた。
「おまえ、気がついてたのか?オレ達がフロインを連れてくる理由……」
「気がついたんじゃなくて、ノインが教えてくれたの。羽根を持ってろって、くれて」
スフィアは、服の中から首に下げたフロインの羽根を取り出した。
「ノイン……!報告!ああ、そうだよ。おまえの中の闇の王と、フロインの力は反属性だ。フロインなら完全に消し去れる。けど、今はまだ無理なんだ」
リティルはごめんと、頭を垂れた。
「おじさま、いいから。あたし、耐えられるから!だから、もうやめよう?」
「それとこれとは、話が別なんだよ。オレ、風の王だからな」
リティルは力なく、微笑んだ。フロインがリティルの腕を掴んで、訴えるような視線を向けてくる。
「フロイン……大丈夫だ。やらなくちゃならねーこと、おまえならわかるだろ?」
もう静観することはできないと、突きつけてしまった。リティルは自ら退路を断ったのだ。
楽園、ルキルース、セクルース――風の城はバラバラに事に当たらざるを得ない状況だ。
風の城にいるインファにはシェラがついているが、セリアが病に冒され、インジュは使い物にならない。ルキルースのノインは単独だ。太陽の城にいるレイシからは、無理が感じられた。ケルゥはいつ発症するかわからない。
風の城で一番強い力を持っていても、リティルには、この問題を抱えながら穏やかな楽園に留め置かれたリティルには、皆を助けてやることができない。楽園の空気が穏やかであればあるほど、リティルは皆のもとへ飛びたくなった。
インファがディコに釘を刺してくれ、ノインが怒ってくれて、二人の気遣いに感謝しかなくて、だからこそ、協力してくれないディコとゾナに憤ってしまった。
これは、ディコとゾナに、甘えているのか?わからなくなる。どんな行動が正しいのか、リティルにはわからなかった。ただ、早く、皆のもとへ行きたかった。
守り、守られながら、リティルという不甲斐ない王のそばに、いようとしてくれる精霊達のところに、必要としてくれる者達のところに帰りたかった。
「先生!いいの?ディンもいいの?これでいいの?おじさまをこれ以上裏切って、それでいいの?」
スフィアもリティルの腕を掴んで、叫んだ。裏切らないで!と叫んでくれたスフィアの言葉に、焦りに駆られていたリティルは我に返った。
ああ、スフィアを見捨てるわけにはいかない。スフィアはオレの――
体の一部が欠けていたという理由で捨てられ、孤独と飢えと寒さで死に行くしかなかった憐れな赤子。インとの繋がりを破壊されて、自分が何者かわからずにこのグロウタースに墜落してしまった、風の王の左の片翼・死の翼・インスレイズが出会った、純粋に生きたいと声を上げていた魂。闇の王という腐敗の塊の中心にいた彼女を、リティルは見つけた。
闇の王を滅しようとしていたあの時、確かに、あたしはここにいる!と訴える声を聞いた。だからリティルは、ナーガニアの力とシェラの癒やしの力、そして自分自身の力のすべてを使って、スフィアに新たな体を与えた。インがすんでのところで止めていなかったら、リティルは代わりに命を落としていたことだろう。
スフィアは、霊力を分けたリティルの娘なのだ。
風の王としてまだ未熟だったリティルの力では、スフィアの魂と腐敗の力を分離することができず、彼女の魂は腐敗にまみれたままだ。それが全身を冒さないように守っているのは、魂を包み込んで吹き荒れる、リティルの霊力だった。スフィアに度々会いにきて、その霊力を補充していることは、シェラでさえ知らない、リティルの秘密だった。
あの時、リティルが力を使い切ることを止めたインは、スフィアの事を理解していたかもしれない。だとすると、インの記憶を持つノインは、リティルの秘密を知っているのかもしれない。だから、無断でスフィアに会っていたのかもしれないなと、リティルは思った。
「ディン、おじさまに言えないことに、あたしが関係してるなら、迷惑よ!あたしは、望んでない!先生も、おじさまを傷つけるなら、嫌い!ノインを呼ぶわよ!」
ノインを呼ぶことなど、スフィアにはできない。はったりだった。だが、思わぬ者にこのはったりが効いてしまったようだ。
「スフィア、おまえ……ノインとどれだけ仲いいんだよ?」
「おじさまの知らないところで、夜のデートしてた仲よ」
「ノイン……!報告!あいつ、今夜覚えてろよ!」
ノインのプライベートだ、報告の義務はない。だが、デートと聞いては捨て置けない。
スフィアに父親はオレだと名乗る気はなくても、ずっと守ってきた娘に手を出されては、気分がよくない!
「あたしにお父さんがいるなら、ノインがいいわ」
お父さん?ノインが、お父さん?リティルは、思わぬ言葉に驚きながら、まあ、あいつならいいかと思ってしまった。
「そうきたか。セーフだな」
「おじさま、精霊に恋するわけないでしょ!不毛すぎ!」
「それがな、不毛と思わねー奴も多いんだぜ?ゾナ、ディン、どうする?オレはこのまま続けてもいいぜ?勝つのはオレだけどな」
「おじさま!」
スフィアは、絶対に放さないとリティルの腕を強く掴んだ。フロインも心は同じなようで、必死に腕を掴んでいた。
ゾナとディンも動けないで、両者はしばし睨み合っていた。
しかし、睨み合いは唐突に終わりを告げた。
ガタンと、大きな音がリティル達の背後でして、皆は一斉にそちらを向いた。
「インジュ?えー?何にもしてないのに、なんで倒れるの?」
「はは、どこまで癒やし系なんだよ。ゾナ、ディン、休戦しようぜ?」
興がそがれたと、リティルは二人に手を放させると、インジュの様子を確かめに行ってしまう。スフィアとフロインも慌ててリティルの後を追った。
そんなリティル達の姿を見ながら、ゾナは詰めていた息を吐きディンを振り返った。
「ディン、続けるのかい?わかっていたことだが、オレではもうリティルに太刀打ちできはしないよ。しかし、続けたいと言うのならば、最後まで付き合うが?」
「リティル様を頼りたくはないのです。わたしには力がある。自分の力で、成し遂げたいのです」
ディンの瞳はまっすぐ、スフィアを見ていた。リティルを信用しきった瞳で見ているスフィアは、昏倒したインジュに穏やかに苦笑していた。
そんな和やかな様子に、ディンは無意識に拳を握りしめていた。ゾナは、そんなディンの様子を、ただ無言で見つめていた。
大賢者の館の中庭に、リティルとフロインはいた。もう、すっかり夜も更けていた。
イシュラースで、事に当たっている皆から報告を聞き終えたところだった。
『リティル、大丈夫?』
手にした水晶球の中に、シェラがいた。リティルの中には、シェラと繋がっているゲートがあるが、今夜は顔を見て話したかったようだ。
「オレ、そんなひどい顔してるのか?」
『ええ。インファが、わたしに楽園に行ってもいいと言うのだけれど、許可、しないわよね?』
「ああ、許可できねーな。ごめん」
病に冒されたセリアを治すために、シェラの固有魔法である無限の癒やしが、必要になるかもしれない。それだけではなく、風の城ですべての情報を管理しているインファにこそ、助けが必要だとリティルは考えていた。
『リティル、あなたを今すぐ抱きしめたいわ』
「ハハ、抱きしめてくれよ」
リティルの背中に、暖かく寄り添う気配が現れた。シェラの想いがゲートを通じて、リティルに伝わっているのだ。
「君が花の姫でよかったよ。離れてても、こうやって君を感じられる。オレは弱いからな、一人じゃとても、立てねーんだ」
『いつも、一人で行ってしまうくせに。インファがとても心配しているわ』
「不甲斐ねーな。あいつだって、セリアとインジュのことで、いっぱいいっぱいなのにな」
『あなたも、自分のことは二の次で、皆を心配しているでしょう?バラバラに戦っている皆を、あなたはその声と存在で安心させているわ。だから皆、あなたのことを心配できるのよ?』
「ありがとな、シェラ。なあ、シェラ、インジュのこと、君はどう見てるんだ?」
『インジュ?優しくていい子ね。インファを完璧だと思っているから、自信が持てないのね。力に満ちあふれていて、不毛の大地に、新たな生命を芽吹かせることができそうなくらいよ。あの子の力は生み出す力。わたしは、有ったものを元通りにしかできないけれど、インジュは無いものを作り出すことができると思うわ』
「無いものを、作り出す……創造の力か。すげーな」
『ええ、とても危険な力ね。だから、風の王が守っていたのね。インジュは本当はわかっているの。けれども、怖いのよ』
「あいつは、自分の力を正しく理解してるってわけか。オレにとっては、ただ綺麗なだけの宝石でしかねーのにな」
持ち主であるリティルに、原初の風の力は扱えない。植物を初めて受粉させ、実を実らせたと言われる原初に風は、受精という生命を生み出すためにもっとも大事な力だ。それは、至高の宝として結晶化し、悪用や失われることがないように、風の王が守っている。
リティルにとって、原初の風は装飾品のようなものなのだ。持つ者の恩恵として、リティルには魔法を使う為に必要な力である霊力が、無限に湧いてくる固有魔法・霊力の泉が備わっていた。霊力の泉は、原初の風の精霊であるインジュ、原初の風から具現化したフロインも使う事ができる。
妻である花の姫の能力が、傷を瞬時に癒やす無限の癒やしであるため、リティルは原初の風を得て、ほぼ無敵の精霊となった。
強大な力を持ってしまったリティルは、間違うことが許されない。間違えば、一人で世界を滅ぼせるまでになってしまったのだから。故にリティルは、間違ったとき自分自身を止める方法を、多数仕込んでいた。
「あいつは、どうなりてーのかな?風の城には、大体の見本が揃ってると思うけどな」
『どうしても、戦える人たちに、目が行ってしまうのでしょうけれどね』
「まったく、オレ達の小競り合い見てただけで気絶するって、どんな精神してるんだよ?レイシもオドオドしてたけど、ここまでじゃなかったからな」
『ええ、レイシは芯が強いもの。けれども、わたしはインジュの気持ちがわかるわ』
「あ、そうだよな。君はただのお姫様だったもんな。なんか懐かしいぜ。それが今や、百発百中の弓矢でガンガン戦うからな」
前線に立ち、勇ましく戦えるようになったシェラは、風護る戦姫と呼ばれていた。
『あなたは、本当は、こんなわたしは嫌い?』
「はあ?どんな君も綺麗で、大好きだぜ?」
実際弓引くシェラは、あの矢に射貫かれたいと思ってしまうほど美しい。
『またそうやって、はぐらかすのね。クスクス、けれどもありがとう。変なことを聞いて、ごめんなさい。リティル、今から言うこと、聞き流してくれる?』
「ん?なんだよ?」
『早く、帰ってきて』
油断していたリティルは、もの凄い衝撃を受けて、水晶球を危うく落とすところだった。シェラはおやすみと言うと、逃げるように慌てて通信を切った。
「うわ……シェラ……転がされてるな、オレ」
リティルは顔が熱くなるのを感じて、リティルは額に水晶球をゴツンッと当てた。フワリと、フロインがリティルの肩に手を置いた。
「ありがとな、そばにいてくれて。悪いな、シェラの代わりにしていいか?」
優しく微笑んで、フロインはコクリと頷いた。リティルはフロインの膝に頭を乗せると、すぐに眠ってしまった。そんなリティルの髪を、フロインはシェラがするように優しく撫でた。
フロインは、リティルや他の欠片を持つ者の感情を感じて、自らの感情を成長させていた。リティルの他者を想う気持ちを主軸に、インジュの優しさ、レイシの憎しみを吸収していた。フロインは、膝で深く眠っているリティルの、傷ついた心を感じていた。
「リティルは、眠ってしまったかい」
東屋の入り口に姿を現したゾナを見て、フロインはシェラに似たその優しい笑みを収めた。
『わたしに近寄らないで』
その声色はシェラとは異なるが、口調はそっくりそのままだった。
「君の主人に、危害を加えるつもりはないのだがね」
『あなたと話すことは何もないわ。不愉快よ』
フロインは、敵意をむき出しにしてゾナを威嚇した。リティルと決裂したことで、こちらを敵とみなしたフロインの潔さが、ゾナには眩しい。守護鳥である彼女心の中心は、いつでもリティルだ。フロインが懐いてくれていたのは、リティルがゾナに気を許してくれていたからだ。
『あなた達とリティルでは、その覚悟が違うわ。わたしとシェラが、何を課せられているのか、あなたにわかる?リティルは、リティルを確実に殺せるわたし達に、間違ったときは引導を渡すように命を下しているわ。その覚悟が、ディンにある?人は皆、安易に間違う。リティルは、世界をこのまま存続させるためだと言い聞かせて、そんな人たちを斬ってきたわ。あなたは、リティルにそれをさせるというの?』
「ディンが、間違うとはかぎらないではないか?」
心にもないことだった。ゾナにはわかっていた。ディンが間違っているということが。だから、今夜ここに来たのだ。
リティルは、ゾナが理想とする風の王になっていた。強く、揺るぎなく、優しかった、悪魔のようなインとその姿が重なった。そんなリティルを目の当たりにして、ゾナはもう、思い残すことがなかった。
『同じことを言うのね。自分の手に余る力を手に入れようとする者は、皆同じ。自分は特別だ。自分だけは大丈夫。自分には成し遂げられる!そんな身勝手な想いが、優しく世界を守るリティルを傷つける!あなたは敵よ!近寄らないで!』
フロインは怒りをその女神のように美しい顔に浮かべて、片手でゾナに向かい風を放った。その風をやり過ごし、ゾナは立っていた。
「フロイン、美しい君を、オレは好ましく思っていたよ」
『わたしは、ノインを選んでいるわ』
ゾナが一歩、フロインに向かい足を踏み出した。フロインには威嚇しかできない。リティルの命がなければ、相手を殺してはいけないとそう戒められていた。
リティルを守るため、とっさにシェラを模倣したが、未熟なフロインにはこれ以上は荷が勝ちすぎた。
「それ以上、フロインに近づかないでください」
そんな中、ゾナの背後に立ったのは、インジュだった。
「ボクには、何もできないと思っていますよね?できますよ。これでも、最上級精霊ですから」
「力を恐れる君は、オレに敵わない。引っ込んでいたまえ」
「フロインが助けを求めているのに、逃げられません。あなたを退かせます」
フロインは、今夜の会話をすべて聞かせてくれた。風の城の皆の報告、シェラとリティルの会話、それから、ゾナとフロインの会話のすべてを。
何もしないおまえは、インファの邪魔だと言われた意味が、インジュにはわかっていた。わかっていたが、この身に眠る力の強大さに臆していた。鳥籠に閉じこもり、何の努力もせず、生きているのに、死んでいた。皆が必死に前を向く中、インジュはただ瞳を閉じて、後ろも足下も見ようとしなかった。
そんな中、厳しいことを包み隠さず言い放ってくれたリティルは、インジュの力について皆に意見を求めていた。皆、仕事のことで頭が一杯だろうに、それでも誰一人面倒くさいと言わずに真摯に答えてくれていた。
皆の意見はある意味一致してした。
インジュは、戦闘には向かない。癒やし系だと。
ゾナがインジュに向き直った。
体が震える。それを、インジュは押し留めようと心に何度も念じた。震えを止めることはできなかったが、それでもインジュはゾナから視線をそらさなかった。
――こいよ。一緒に行こうぜ?
インジュが生まれる前、リティルがかけてくれた言葉だった。インジュは生まれる前、フロインと共に、リティルを消滅に追いやった。それなのに、リティルは笑って再び受け入れてくれた。リティルの中に残ったフロインは、そんな彼を守りたくて自ら守護鳥として具現化した。そしてインジュは、セリアの腹を借りて、インファの遺伝子をもらって精霊として生まれた。
――思い出して。あなたの生まれた決意を――……
フロインが楽園にインジュを連れ出していたのは、別れる前二人で誓った決意を、思い出してほしかったからだ。
この力は、リティルの為に――なぜ忘れてしまったのか。インジュは、リティルの助けとなる為に、望んで生まれてきたのだ。それをやっと、思い出した。
『へえ、初めてにしては上出来だな』
ヒュンッと、金色の輝きが矢のように鋭く、ゾナの後ろから飛んできてインジュの目の前に落ちた。そして、小さな影が立ち上がった。存在感は大きく、小さいのに大きな背中にインジュはホッとしてしまっていた。
オオタカの姿から人の姿を取り、インジュの前に立ったのは風の王・リティルだった。
「ゾナ、おまえに悪役は似合わないぜ?」
ゾナはお手上げだと言いたげに両手を軽く挙げると、肩をすくめた。
「オレがここでフロインとインジュに粛正されれば、彼の目も少しは覚めるかと思ったのだがね。いつから起きていたのかね?」
「おまえ、風の王のオレの目の前で、死ねると思うなよ?」
風の精霊に討たれることを望んだと言われ、そんなに追い詰められてるのか?とリティルは内心驚いた。それでもゾナは、ディンのことを話せなかったのかと、リティルはそんなに頼りないか?と傷ついた。その傷を完璧に隠し、リティルはゾナに苦笑するに留めた。
「フロインが、シェラの口調でしゃべり始めたときからだよ。あいつ、オウムかよ?そっくりで飛び起きたよ!」
「リティル、あの――」
リティルの後ろで、インジュが怖ず怖ずと口を開きかけた。
「よく頑張ったな。見直したぜ?あのゾナ相手に一歩も退かねーなんて、なかなかできないぜ?」
リティルは肩越しに、いつもの笑みを浮かべた。それを見て、インジュは最後に残っていた緊張の糸が切れて、その場にへたり込んでいた。
「なあ、ゾナ、最後の言葉が告白なんて、哀しすぎるぜ?そんな気もねーくせに、らしくねーんだよ!」
おまえ、魔道書だろ?とリティルは笑った。
「君に頼るまいと思っていたが、もう、そんなことを言っている場合ではなくなってしまったのだよ。リティル、オレが目覚めたときにはすでに、手遅れだったのだよ。そして、ディンは、こともあろうに君に嫉妬している。それに、気がついていないのだよ」
はあ?オレに嫉妬?思わぬ言葉に、リティルは瞳を瞬いた。
「みんな、思春期かよ!ああ、ごめん。スフィアの周りをウロチョロしてたからな、インファもノインも上手くやってくれてたのにな……それで、オレの答えで合ってるのかよ?先生」
ゾナは頷いた。リティルが氷の彫刻で作った、精巧な懐中時計。それが、ディンの契約した精霊だった。時の精霊・グロウ・ソラ・ミリオネ。現在、過去、未来を司る、三人で一つの精霊だった。
「敵なのかね?」
「わからねーとしか言えねーな。オレにも、どこにいるのかわからねー精霊なんだ。いや、三人か?とすると、ディンの受けてる恩恵は、存在の保存だな。ディンは成長できねーってことだ。心も、体も、力もな。教えてあるのか?」
ゾナは頷いた。
「それがどういうことなのか、理解してるのかよ?」
「理解しているのかどうなのか、不明なのが現状なのだよ。オレを作り出した、付喪神という禁呪は、その精霊の力を使っている。だが、オレの元となった男は、歴史に名を残すほどの賢者だった。ディンとは雲泥の差なのでね。思うに、君の手前退けないのだよ」
リティルは盛大にため息をついた。
「スフィアを助けてーなら、精進しないとだろ?あいつらとくっついてる限り、その道を自ら断ってるっていうのにな。どうするつもりだったんだよ?先生」
「オレが手を放せば、暴走するだろうことが、容易に想像がつくのでね。オレは、動くことができないのだよ」
「参ったな。どこにいるかわからねーからな、今すぐにはどつきにいけねーし。ゾナ、おまえも何も掴んでねーんだな?」
すまないと、ゾナは謝り俯いてしまった。そんなゾナの姿に、リティルは彼を越えてしまったことを知った。二五〇年前、リティルの前に聳えたってくれたゾナはもういなかった。そんなかつての恩師の姿に、リティルはズキリと胸が痛んだ。
「ディンがどうにもできねーとなると、スフィアだけどな、闇の王を、スフィアを殺さずに、滅する方法は今のところねーんだよ。だからオレは、ずっと押さえ続けてるんだ。こっちも見守る以外にねー状態なんだよ」
リティルは、すべてを話すことができなかった。イシュラースには、不可侵の精霊がいる。
グロウタースの民が契約してはいけない精霊だ。その精霊と契約した者は、否応なく風の王は斬らなければならない。とは言うものの、リティルは有無を言わさず斬ったことはなかった。しかし、それらの精霊と契約してしまった者の末路は、後味の悪いモノばかりだった。
そして、時の精霊はその不可侵の精霊の一つだった。
「あのとき、君の誘いを断っていなければよかったと、思っているよ。オレがいなければ、ディンは依存する者がいなければ、君を頼らざるを得なかっただろうからね。オレが目覚めたばかりに、事態を悪化させてしまった。許してほしい、リティル」
闇の王を討伐し、リティルとシェラが精霊としてこのグロウタースを去るとき、リティルはゾナを誘った。リティルを風の王として鍛えるという目的を終えた彼は、存在理由を失ってしまう。そう思ったリティルは、イシュラースに共に行こうと誘ったが、ゾナに断られてしまった。ゾナは、楽園の図書室の奥底で、朽ちるまで眠るつもりだとわかっていたが、その考えを変えさせることはできなかった。
そして、ゾナは、目覚めさせられてしまった。時の禁呪に呼び起こされてしまったのだ。
根っから教育者であるゾナが、共に戦った仲間の息子でもあるディンを見捨てることなど、できることではなかった。だから、そちら側に立っているのだと、リティルは理解した。
だが、それでも、リティルが強行に出る前に話してほしかった。そうすれば、お互いに無駄に傷つくこともなかったのにと、恨めしく思ってしまう。
「謝るなよ!気がついてやれなくて、悪かったよ。おまえは、オレを鍛えるために作られた魔道書だからな。他の奴を導くのは、難しいのかもな。今からでも遅くないぜ?オレのところの図書室に来いよ」
ゾナは力なく笑った。
「今度は、前向きに検討させてもらうとしよう。オレの存在は、この楽園においても異質で危険だ。イシュラースで眠るべきだったと切に思うよ」
あの時、リティルと共にイシュラースに行っていたら、ゾナは、眠れる自信がなかった。役目が終わったのだと悟ったとき、ゾナは感じるはずのない寂しさを感じてしまった。去るリティルの背を見送らなければ、存在理由に背いて存在する、歪んだ存在になってしまっただろう。そして、歪みに心を蝕まれ、リティルの手で、消去される。そんな未来しか、ゾナには思い描けなかった。
今、その心を覆せるか?その答えは出ない。だが、正しい風の王の下なら、間違いを選択できない気がした。
「ゾナ、あんまりしょげるなよ!調子狂うぜ、まったく。けど、ホッとしたぜ。おまえらを斬ることになったら、さすがに記憶でも消さねーかぎり立ち直れねーよ。ゾナ、オレとおまえは敵対したままのがいいな。このツバメ使ってくれ。オレ直通の連絡係だ。それで、ニーナはどこにいるんだよ?」
金色ではないツバメをゾナの肩に留まらせながら、表面上だぜ?もう争うのは嫌だと、リティルは念を押した。
「契約破棄の方法を探して、ブルークレーへ行っているよ」
「反対派ってことだよな。ディンは知ってるのか?」
「母親が快く思っていないことは、知っている。ディコは、オレの側について暴走しないように監視しているのだよ」
「わかった。おまえとディコは、引き続きディンの味方でいてやってくれ。あと、ディコ!フォローしてやってくれな。インジュ、おまえはこのまま、スフィアにくっついててくれ。臆病なおまえがきっと役に立つぜ?」
リティルは右手に風を集めると、羽根の細工がされた金色の丸い髪留めを作り出した。
「らしくねーことをしそうになったら、思い出してくれ。おまえは、臆病なままでいいんだよ。今みてーな事態になったら、スフィア連れて全力で逃げろよ?おまえは、逃げていいんだよ」
リティルはへたり込んだインジュの、半端な長さの髪を解くと、髪留めで元のように結ってやった。インジュは背後に、リティルの力強い風を感じて、守られているようなそんな気分になった。
「リティル……わかりました。ありがとうございます」
オドオドした瞳のまま、それでもインジュはリティルを見返した。それを受けて、リティルは明るく微笑むと、ポンポンと頭を軽く叩いた。和やかな雰囲気を感じ取ったのか、フロインがオウギワシの姿で、リティルの肩に舞い降りた。
「フロイン、安易にノインを引き合いに出しちゃダメだぜ?ノインも、おまえのお守りまでできねーよ」
フロインははいともいいえとも意思表示しなかった。それは珍しいことだったが、リティルは気にはなったものの、ここで問いただすことはできなかった。
まだそういう感情に、芽生えていないと思いたかった。もしも、冗談ではなくフロインが好いてしまい、追いかけ回されるノインを想像して、不憫だと思ってしまうリティルだった。
「ゾナ、フロインはやらないぜ?」
「そうかね。それは、至極残念だよ」
そう冗談めかして答えたゾナは、いくらかリティルの記憶にある彼と重なるようだった。
「君にそんなに信頼される、ノインが羨ましいよ」
大それて望むことすらできないが、リティルの傍らに立ち彼を守る刃でいるノインを、眩しく思う。役目を終え、ただ朽ちることを望んでいるゾナと、存在を明け渡してでもリティルの未来を守ろうとしたインとでは、その覚悟から違う。最後まで、リティルの魔道書でいることを守れないオレは、もう、やはり生きているべきではないのだとゾナは悟っていた。
そんなゾナの心を、リティルは気がつかなかった。リティルにとってゾナは、彼を遙かに超えてしまった今でも、聳える壁のような恩師なのだから。
「大人ぶってるオレと違って、あいつは大人だからな。ディンのこと、ノインなら叱れるんだろうな。オレはこんな容姿だからな、同じこと言っても、ディンには伝わらねーよな」
リティルは星空を見上げた。あまり考えたこともなかったが、年を重ねて得られる貫禄が、自分にはないことをリティルは悔しく思っていた。
ディンは、星々の瞬く青黒い空間にいた。
ここへ来るのは、彼等と契約した時以来だった。しかし、なぜここにいるのだろうか。
『時は満ちた』
あの時のように、幼い少女と少年、そして老人の声がかぶって聞こえてきた。ディンは、何をと問う前に、襲ってきた懐中時計の鎖に縛り上げられていた。
『今こそ、我々の願いが成就されるとき』
ディンはこの時初めて、自分が間違ったことを知った。そして、彼等らの恐ろしい企みも。
「リティル様……申し訳ありません」
そう謝りながらも、ディンの瞳は諦めてはいなかった。
水晶球が光を失い、レイシはハアと緊張の解けたため息をついて、ソファーに身を深く沈めた。
「これ結構緊張するね。兄貴とノインは平然とこれやってるのかー」
今日はリティルの都合で早い時間に、定期報告をすませたレイシは、インリーの入れてくれたお茶をホッとした顔ですすった。
「そうだね。こういうときって、お父さん、やっぱりちゃんと王様の顔するから、なんだか違う人と話してるような気分になるよね」
「これが、兄貴達のいる世界なんだ……」
いつもは端で聞いているだけだったというのに、実際に風の王と対峙するとこんなに疲れるんだと、レイシは今更ながらに風三人の大きさを痛感した。
そして、小柄で童顔な癒やし系なリティルなのに、王の顔をすると威厳があるなとレイシはグッタリした。水晶球越しでも襲いかかってくる威圧感。あんなモノをぶつけられて、侮る者はグロウタースにはいないだろうなとレイシは思った。
「インリー……オレ、ちゃんとやれてる?」
レイシは机に突っ伏して、ソファーの背の後ろからのぞき込んでいたインリーに尋ねた。
「うん!レイシ、すごいよ!格好いいよ」
格好いいよと言ってしまって、ハッとインリーは口をつぐんだ。レイシは、そんなインリーに、どうしたのかと言いたげな瞳を向けた。
「インリー?」
「あ、ああ、あのね――」
「インリー」
「は、はいい!」
レイシが体を起こして名を呼ぶと、インリーは驚いたように飛び跳ねた。これは、意識しすぎなくらい意識しているなと、レイシは頭を掻いた。困ったな。あの時、インリーがレイシの隣にいる意義がないことに気がつきそうになって、咄嗟にうやむやにする為に言ってしまったが、こんなに意識してもらえるほど、男として受け入れてもらえるとは思わなかった。
物心ついたときにはすでに一緒にいたのに、なぜインリーは兄妹だと認識しなかったのだろうか。疑問だ。疑問だと思って、それはオレも同じなんだと、思った。
インファとは兄弟だが、インリーとは違う!と思い続けてきた。どうしてそう思っているのか、レイシには未だにわからなかった。かといって、インリーは女か?と言われると、それも違う気がする。
「あのさ、気がないなら、オレのこと、振ってくれていいんだよ?振られたからって、オレ、態度とか何も変える気、ないからさ」
いつも通り、隣にいていいよ?とレイシは言ってみた。あまり意識されても、調子が狂う。
申し訳ないが、本当に口から出任せだったからだ。インリーの、壊れそうな傷ついた瞳が、レイシの心を一瞬狂わせた。抱きしめてしまいそうになった。
――オレのモノになるって言わないと、君は、オレの隣っていう居場所、永遠に失っちゃうよ?
そんな声が聞こえた気がした。気がついたら、始まる気があるか?なんて、大それたことを聞いていた。あれ?オレ……あれ?と内心動揺していた。そして、あ、ヤバイ、父さんに断っておかないとと、その勢いのまま、リティルに許しを請うてしまった。驚いただろうなと、巻き込んでしまった父の胸中を思った。
――いや、あれ?なんで出任せだったのに、父さんに許してもらわないとって、思ったんだろう?
レイシは、湧き上がった疑問に向き合おうとしたが、それはインリーによって阻止された。
「え?えええ?ヤダ!」
「え?」
「だから、ヤダ!レイシのこと、好きだもん……」
「それってさ、どういう好き?」
レイシは鋭い瞳に、またまた違うよね?と言いたげな微笑みを浮かべて、そう問うた。
「レイシ、強くなったよね。ずっと、守ってあげなくちゃって思ってたのに、もう、守らなくてもよくなっちゃった。そのね、空の翼、とっても綺麗で、ああレイシは、こんな心の持ち主なんだなって、思って……」
レイシの背負う、ガラスのような煌めきの空色の翼。
レイシは、風の精霊ではない。人間と、ルディルの先代の昼の世界の支配者との、混血精霊だった。原初の風の欠片を、リティルから継承されるとき、レイシの霊力を使ってこの翼を作ったのだ。あのとき、風の精霊になりたいだの、風の王の血がほしいだの、不可能な我が儘でリティルを困らせた。そしてリティルは、空の翼という精霊の名と、このガラスのような見た目の幻の翼を、一緒に作ってくれた。
「ああ、これ?父さんと一緒に作ったんだよ。オレの心の形ってわけじゃないよ。アハハ、インリー、ごめんね。もう、意識しなくていいよ。オレ達ずっと一緒だったしさ。今更だよね」
レイシは努めて明るく言うと、ヤンワリ拒絶した。これは、早急にインリーから離れた方がいいかもしれないなと、レイシは思った。そうしなければインリーは、意味もわからずに、とんでもないことをしてくるような気がした。
「レイシ!」
「うわ!な、何?」
インリーはドサッと、レイシの隣に座り込んだ。そして、ずいっと詰め寄った。レイシは反射的に逃げていた。
「レイシ!」
「だ、だから、何?」
インリーはさらに詰め寄って、ソファーの端にまでレイシを追い詰めていた。
「レイシ!」
レイシはインリーに体をまたがれて、詰め寄られていた。
インリーって、母さんによく似てて、でも表情が明るくて可愛くて綺麗な娘だよな……と、近くでマジマジと見てしまったレイシは、そんなことを思ってしまった。
どうしてこんな娘が、オレに執着するんだろう?ふっと湧いた疑問に、レイシは思わずインリーに問うてしまった。
「……インリー、あのさ、君は本当は、オレとどうなりたいわけ?」
問われたインリーの瞳が、え?と僅かに見開かれた。左右で違う、風と花の姫の色の瞳。レイシがほしいなと思っていたもの、その両方を持っている娘。
レイシは、インリーと離れたかった。一緒にいちゃいけないと思った。自分に流れる血が、穢れているとわかったとき、レイシはインリーに、離れてほしくなった。一緒にいたら、穢してしまうと思った。本当は、離れてほしくない。一緒にいてほしい。でも、望んではいけないと思った。大切だから。大事だから。
この想いはなんなんだろう?この気持ちに名前をつけるとしたら、どんな名が相応しいのだろうか。
頑なに、わたしの居場所はレイシの隣と言い続けるインリーは、オレのことをどう思っているのだろうかと、レイシは考えてしまった。
混血精霊の、こんな穢れたオレに、どうして、君は――
不意に、城の奥へ続く扉が開かれた。
「え?師匠?」
レイシはインリーに詰め寄られたまま、扉を見た。入ってきたルディルは、とても具合が悪そうで、片手を扉についたまま俯いて体が揺れるほど大きく息をしていた。
「なぜ、このオレが――」
「え?」
インリーは体をこわばらせていた。レイシに突き飛ばされて初めて、自分がルディルに攻撃されていたことを知った。
「インリー!封印!封印!」
レイシは、飛び込んできたルディルと切り結んでいた。あんな体制から、ルディルの最初の一撃を鏡の盾で防ぎ、即立ち上がってレイピアを抜き切り結ぶとは、風顔負けの素早さだった。
「師匠!しっかりしてよ!あんた、太陽王だろ!」
正気を失った瞳で、ルディルは獣のような息遣いで、レイシのレイピアを素手で掴んでいた。レイピアは針のように刺す剣だ。握ったからといって、刃が刺さることはないが、レイシの剣は太陽光が形となったものだった。その刀身は発火するほどの熱を持っていた。なのに、ルディルは手の平が焼けるのも構わずに、刀身を握りしめていた。
「許、さん」
「この!」
レイシはレイピアから手を放すと同時に、ルディルの腹を飛び上がって両足で蹴っていた。ルディルは体格のいい大男だ。中肉中背のレイシでは、さほど突き放すことはできなかった。
でも、これでいい。レイシは魔水晶でできた小さな笛を取り出すと、ルディルから距離を取りながら音を鳴らした。音がキラキラと煌めく銀色の光となって、プラチナでできたかのような光沢の、トンボの羽を持った女性が姿を現した。その姿は、高貴な妖精の女王ようだった。妖精の女王は、なおも掴みかかってくるルディルの手を、自らの手で受けて、互角に組み合った。
「兄貴!父さん!師匠が!」
レイシは笛を持っていない方の左手に銀色の光を集めると、水晶球を取り出して叫んだ。
『レイシ!持ちこたえろよ!すぐ行くからな!』
水晶球からリティルの叫ぶ声が聞こえた。それに応える暇もないまま、レイシは水晶球を落とす羽目になっていた。
「わたしが、消える、の」
レイシの呼び出した、妖精の女王と押し合うルディルを気にした様子もなく、花を飾ったドレスを着た、女性が部屋に入ってきた。オレンジ色の長い髪にも沢山の花を飾った、派手な顔をした女神。ルディルの妻である、レシェラだった。
風の城の皆がハルと呼ぶ彼女は、うつろな瞳で何事かをつぶやいていた。
その瞳が、インリーを見つけると、ギラリと殺意が宿った。
レイシは水晶球捨てながら、動けないでいるインリーとハルとの間に割って入る。
「インリー!手伝ってよね!」
レイシは、細いハルの腕を掴んで押しとどめた。彼女が戦えない精霊でよかったと思ったが、それにしてはもの凄く力が強い。両手を封じられては、笛が吹けない。レイシは笛の音で魔法を操るため、相手と距離を取らなければならないハンディがあるのだ。これは、もう少し改良が必要だなと、ハルと力比べをしながらレイシは思った。
ハッと、やっとインリーが我に返った。
「ハル!ごめんね!」
インリーの両腕が、レイシの肩に乗せられていた。至近距離でハルの前に突き出されたインリーの両手の平から、金色の風が放たれ、それはロープのように彼女を縛り上げていた。
「あとは師匠だ!」
見れば、妖精の女王の女王が押し負けて消滅していた。障害がなくなり、こちらに向かい、ルディルがその太い腕を振り上げて迫っていた。
レイシはルディルの腕が振り下ろされる瞬間、笛を鋭く吹き、鏡のような盾を作り出して彼と自分たちとを隔てた。鏡の壁に阻まれたルディルは、狂ったように拳で叩き始めた。
その危機迫る迫力に、レイシでさえ呆然としてしまった。
「消えてたまるか!」
ルディルが吠えた。そして、振り上げた両腕が同時に振り下ろされた。パキンッと鏡は砕かれていた。なんて怪力だと、レイシはインリーを庇い、ルディルをその紫色の瞳で睨んだ。もう一度鏡の盾をと笛を吹きかけたレイシとルディルの間に、金色の強風が流れ込んできた。強風に庇った顔を上げ、風の吹いてきた方を仰ぎ見ると、そこにいたのは風の王・リティルだった。
「ルディル!」
リティルの声に反応して、ルディルが空を見上げた。その刹那、金色の閃光が走っていた。ルディルの懐には、リティルがいた。レイシがあっと声を上げる。ルディルの両手がリティルの両肩にかかったからだ。
「リ、ティル、病、冒されてねぇ、最、上級、捜せ」
リティルの手には、真っ白なナイフが握られていた。そのナイフは、ルディルの胸に深々と突き刺さっていた。
ルディルの声に顔を上げたリティルは、彼の正気に返った瞳と視線が交わった。
「このオレを、調べ、ろ」
ルディルは、揺れる瞳に、フッと笑みを浮かべた。そして、瞳を閉じると、ドッとリティルの足下に倒れた。
「父さん!」
「ああ、大丈夫だ。よく持ちこたえたな二人とも。インリー、これでハルの胸を刺してやってくれ。シェラの作った封印の楔だぜ」
リティルは、ルディルの胸に刺さったナイフと同じものを、インリーに渡した。インリーは頷くと、すぐさまロープをほどこうと暴れているハルのもとへ向かった。
「これさ、みんなこうなるの?」
駆け寄ってきたレイシが、眠りに落ちたルディルを、苦々しい顔で見下ろした。
「ああ、たぶんな。ナーガニアもこうなったからな」
リティルがレイシからの通信を受けたのは、ブルークレー島だった。
リティルは、ディンの母親で、かつての仲間であるニーナを捜して、ルセーユの隣にある本土と呼ばれている彼の島に渡っていた。この島の中心には、次元の大樹・神樹がそびえている。
『兄貴!父さん!師匠が!』
切羽詰まったレイシの短い通信を受け、リティルは緊張した。
――もし、オレがおまえのことをわからなくなって暴れたら、ためらわず殺せ
太陽の城で、ルディルが警告したとおりの事態になっていることが、即座にわかったからだ。
「レイシ!持ちこたえろよ!すぐ行くからな!」
レイシは答えずに、通信は途絶えてしまった。レイシの力は殺傷能力が高い、殺さないように手加減をしてでは、あのルディル相手では厳しいだろう。インリーがうまく機能してくれればいいが、ハルまで相手にしなければならなかったとしたら、かなり旗色は悪い。
リティルは目的地を神樹へ切り替えて、鋭く飛んだ。
「ナーガニア!太陽の城へゲートを開いてくれ!……ナーガニア?」
いつもの、波紋のような波動が感じられなかった。
「!」
リティルはゾクッとして、背後を警戒した。
『私を差し置いて!』
リティルは体が吸い込まれるのを感じて、慌てて両手で何かに捕まった。それは、開いた空間の境界だった。目の前にナーガニアが現れた。その瞳はうつろで、殺意に満ちあふれていた。
「ナーガニア!おい!オレがわからねーのか?ナーガニア!」
空間は、リティルを飲み込んで閉じようとしていた。両手に力を込めてこじ開けようとするが、徐々に押し負けていた。このままでは非常にまずい。この先の空間がどこに繋がっているのか、見当もつかなかった。そんなところに飛ばされている暇はないというのに!
『リティル!昏睡状態だった精霊達が暴走を始めたわ!』
渾身の力を込めて、閉じる空間をこじ開けようとしていたリティルの頭の中に、シェラの声が聞こえた。
「ああ!今、ナーガニアと交戦中だぜ。くっ!シェラ、報告、あとでもいいか?」
『手助けが必要かしら?』
「インファいるか?次元の刃、このっ!貸してくれ!大至急だ!」
空間が閉じられる。空間に挟まれてこちらの世界に残ったリティルの指に、ぐっと力がこもった。ビシビシッとリティルの白金の光に包まれた指を中心に、空間にヒビが入る。そして、バキンッとはじけ飛んだ。リティルはすぐさま脱出した。そこへナーガニアがつかみかかってきた。
「許さない!」
錯乱しているのが見て取れた。ナーガニアは、拳を握ると、リティルの小さな胸を叩き始めた。
「ごめん。オレ、行かなくちゃならねーんだ」
その姿が危機迫っていて、哀しくなる。こんな彼女を傷つけることは躊躇われるが、今、優先順位を間違うわけにはいかなかった。
『リティル、封印の楔を使って!』
リティルの左手に、白い優しい光が集まった。リティルはそれを、躊躇いなくナーガニアの胸に突き刺した。華奢で白いナイフだった。ナイフに胸を貫かれたナーガニアの瞳が、正気に返る。そして、焦点の定まらないまま小さく微笑むと、フッと瞳を閉じた。力を失ったナーガニアを受け止めて、リティルはホッと安堵のため息をついた。
「シェラ、そっちは大丈夫か?」
『ええ、終わったわ』
その短い言葉から、セリアに襲われたことをリティルは悟った。インファは無事だろうか。気になったが、今はレイシとインリーのもとへ行かなくてはならなかった。
「オレはこのまま太陽の城に行く!」
『お願いね、リティル。お母様のことは任せて』
リティルは右手に、金色の刀身に白い光の絡みつく華奢な剣を抜くと、空間を斬った。その華奢で美しい刃は、インファだけが扱える、次元を切り裂く剣だった。
リティルは息子に借りた剣で作った、次元の裂け目に飛び込んだのだった。
風の城はとても静かだった。
いつも誰か彼かがの出入りがあって、変化の少ないイシュラースで、おそらく一番騒がしい城だとナシャは思っている。
とても静かだ。城の住人がほとんど出払っているということはあるが、これがイシュラースの普通だというのに、何かの前触れのような気がして、落ち着かない気分になった。
ナシャは、昏睡状態のセリアの診察を行っていた。
あまり人の霊力を弄くり回すのも気が引けるが、それでもやらなくてはならなかった。
弄くり回すのも気が引ける?そう思って、ナシャは自嘲気味に一人笑った。ずいぶん甘くなったものだなと思った。探究心が暴走していた昔だったなら、こんな状況願ってもないことで、相手の負担など考えずに昼夜弄くり倒していたことだろう。
ボクもずいぶん、優しい風に感化されたなと、ナシャは今度は、悪くないと言いたげに笑った。
「!」
セリアの霊力を探っていたナシャは、弾かれたように飛び退くと、転がるように応接間を目指した。
「インファ兄!シェラ!」
応接間に続く扉を開くと、ソファーに二人は座っていた。
「どうしました?」
インファの気配が緊張するのがわかった。ナシャはしまったと思った。オイラがこんなに取り乱しては、セリアに何かあったと言っているようなものじゃないかと、ナシャは軽率な自分を責めた。
「セリアはまだ寝てるよ!あ、あのね!変なんだ、セリアの霊力に変なモノが混じってるんだ。生き物みたいな、意思みたいなもの」
「何かに取り憑かれていると、そういうことですか?」
「そんな感じなのかな?インファ兄、確証なくてごめんね。でも、セリアを封印した方がいいと思う」
思えば始めからあれは、セリアの中にあった。だが、熱のせいで、変調をきたした霊力の不整脈のようなものだと思っていた。それが今、異質なものとして、セリアの霊力を犯していた。
「……わかりました。母さん、いい魔法はありませんか?」
ややあって、インファは承諾した。
「痛々しくなってしまうけれど、本人に一番負担が少なくて、解く方法も簡単な楔を使うわ。インファ、いいかしら?」
シェラは差し出した両手の平に、自身の髪に咲く花のような白く儚い光を集めた。手の平に恭しく乗せられているのは、小ぶりなナイフだった。
「これで、セリアの心臓を刺して」
これがセリアを傷つけないとわかっていても、無防備に眠っている妻の心臓に突き立てなければならない現実に、インファはすぐには動けなかった。しかし、動かなければ、シェラにわたしがやると言われてしまう。インファは、何も考えないように、何も考えないようにと言い聞かせながら、シェラの手に乗っているナイフに手を伸ばした。
ガタンッと、静かな応接間に家具の倒れるような音が響いた。
ハッとして皆が城の奥へ通じる扉を注目すると、そこには扉に寄りかかって、今にも倒れそうなセリアがいた。
「セリア!」
インファはそんな痛々しい妻に駆け寄ろうとして、その身を強ばらせた。顔を上げたセリアの瞳に、憎しみが浮かんでいたからだ。妃のあんな瞳を、初めて見た。そして、憎しみの感情を向けられているのがオレなのだと悟って、インファは愕然とした。
「なぜ、生きてるの……?」
フーフーと肩で大きく息をしながら、セリアはつぶやいた。
「インファ兄……」
ナシャの怯えた声で、インファは我に返った。そして、インファは金色の風を右手に集め、その中から槍を抜いた。
「インファ、動きを止められる?」
そんなインファの隣に、シェラが戦姫の顔で並んだ。
「難しいですが、やってみます」
インファはセリアを見据え、槍を強く握り直した。
セリアには、正面の身躱しという、特殊な能力があった。それは、体の正面に対峙した者からの攻撃をすべて避けるという能力だ。その上、幻惑の暗殺者と名高い、宝石三姉妹の末妹である彼女の素早さは折り紙付きだ。インファであっても、出し抜くには骨の折れる相手だった。
「イ、ン――ファ」
このタイミングで名を呼ばないでほしかった。
錯乱したままなら、心を凍らせて対処できるものを……インファは、耳を覆いたくなるのを必死に堪えていた。
「い――や、こんなこと、したくない!あああああ!止めて!わたしを止めて!インファ!」
セリアの、左右で違う青と緑の瞳から、涙が流れていた。
「なぜ、いきてるの……?わたしは、消えるのに!」
不意に、セリアの瞳に憎しみが宿った。そして、様々な宝石で作られた剣が空中に現れた。あの中に、ダイヤモンドがないだけマシだった。インファは襲い来る剣達に応戦する。
シェラは白い弓を引き、インファを襲う剣を狙っていた。表情には出さないが、息子がかなり感情的になっていることが、シェラには感じられた。あれくらいの攻撃、インファが一撃でも当たることはないというのに、傷つけてほしいと言わんばかりに、無防備な戦い方をしていた。
無理もない。インファは本当に、セリアを大事にしている。目覚めなくなってしまった今も、寝る間を惜しんで事に当たりながら、毎日欠かさずセリアの様子を見舞っていた。
それなのに、これは――あまりにむごい仕打ちだ。
冷静に、シェラは一本一本、宝石で作られた剣を射貫き砕いた。
「インファ――!インファ……あああああ、嫌!」
最後の剣を突き砕き。インファはセリアとの距離を、あと二メートルまで詰めていた。
「止めて!止めて!」
狂ったように泣き叫びながら、セリアの瞳には、憎しみが宿っては消え宿っては消えしていた。必死に抗うその姿に、シェラは歯痒くて奥歯を噛み締めた。早く、楽にしてあげたいのに、隙がない。
「セリア」
「こ、んなこと、したくない!」
「少し黙ってくれませんか?」
インファの瞳が射貫くように鋭くなっていた。セリアはその低く硬質な声を聞いて、一瞬身を硬直させた。
「母さん!」
インファはその隙をついて、セリアの背後に回ると、彼女の両腕を腕で取って羽交い締めにした。セリアはすぐに暴れ始める。シェラは狙いを定めるが、セリアの抵抗があまりに激しく、狙いが、定まらない。
「セリア、強引でもいいんですか?」
シェラは矢の代わりにつがえていたナイフを放っていた。その楔が、狙いを寸分違わず彼女の胸に突き刺さったのを確認して、シェラはサッと視線をそらした。
セリアの耳元で何事か囁いたインファは、シェラが見たこともない甘い瞳で、動きを止めて振り向いたセリアに口づけしたのだ。シェラはその隙をつき、ナイフを放ったが、息子夫婦の口づけを見てはいけないと思ったのだった。
そして、インファのその瞳が、ベッドの上でのリティルと重なるようで、シェラはドキドキしてしまった。ああ、似ていないようで、リティルとインファは親子なのだなと思ってしまった。
普段、手すら握っている場面を見たことがない息子夫婦の、知られざる一面を知ってしまった。そして、普段こんな顔で、この部屋で、わたし達もキスしているのかしら?と思って今更恥ずかしくなった。そして、無性にリティルに逢いたくなってしまう。そして、こんな心で逢って、彼に何をしようというの?と過り、鼓動が落ち着かなくなる。
「インファ?」
インファは、セリアを抱き上げてソファーに戻ってきた。母の声を受けて、インファは疲れたように小さく笑うと言った。
「オレが今、この場所を離れるわけにはいかないでしょう?母さん、父さんに連絡してください。昏睡状態にあった、精霊達が暴走し始めています」
シェラはそうだったわと、思い、そっと両手を胸の前で合わせて指を組んだ。そして、念じる。
『リティル!昏睡状態だった精霊達が暴走を始めたわ!』
『ああ!今、ナーガニアと交戦中だぜ。くっ!シェラ、報告、あとでもいいか?』
すぐさま、リティルの切羽詰まった声が返ってきた。
ナーガニア?お母様は戦う力をもっていないはず……。シェラは胸騒ぎを感じて、問うた。
『手助けが必要かしら?』
『インファいるか?次元の刃、このっ!貸してくれ!大至急だ!』
「インファ!次元の刃を、早く!」
シェラは、セリアをソファーに寝かせていたインファに叫んだ。インファは何も聞かずに、シェラの自分に向かって伸ばされていた手を取る。インファから受け渡された力をゲートに流し込み、シェラは手を放した。そして、再び両手を胸の前で組む。
リティルの気配はグロウタースにとどまっている。別のどこかへ飛ばされずにすんだことがわかり、ホッと胸をなで下ろした。
『リティル、封印の楔を使って!』
シェラはすぐに、セリアの意識を封じた楔をリティルに送った。
しばらくして、リティルから気遣うような声をかけられた。
『シェラ、そっちは大丈夫か?』
『ええ、終わったわ』
『オレはこのまま太陽の城に行く!』
応接セットの机の上に、置かれたままになっていた水晶球に視線を走らせると、誰かから通信が入った痕跡があった。セリアと交戦中でまったく気がつかなかったが、太陽の城へ行くということは、レイシからの通信だったのだろうか。
『お願いね、リティル。お母様のことは任せて』
リティルとの会話を切り、顔を上げるとインファがこちらを見ていた。水晶球の痕跡を見てくれたらしい。
「父さんは、太陽の城ですか?ならば、オレの出番はないですね」
シェラは頷くと、気が抜けて思わず座り込んでしまった。セリアに、ナーガニア、そして、ルディルにハル……どうして、こんなことに?シェラは、風の城が精霊達の総攻撃に遭っているような気分になり、違う!彼等も被害者だと暗い考えを振り払った。
「大丈夫ですか?」
インファは、すぐさまシェラに駆け寄ってくれた。シェラはそんな息子の手を借りながら、ごめんなさいと力なく微笑んだ。
「インファ、この城に封印の楔を打ち込んだ皆を集めるわ。私の霊力で、皆が弱っていかないように守るの。お母様――ナーガニアをここへ連れてきて」
ナーガニア、ルディル、ハル――そばにいなくても、リティルを助けてくれている大事な精霊達だ。そして、他の古参の精霊達も、敵ではない。皆が眠るなら、これはもしかすると、皆をこれ以上何者にも支配されないように守るチャンスかもしれない。シェラは、すぐさま気持ちを切り替えると、脳裏に魔方陣を描き出し始めていた。
「わかりました。すぐに戻ります」
シェラがイシュラースの神樹へと開いたゲートへ、インファはすぐさま飛び込んでいってくれた。開いたゲートは、そのままにしておいた。
風の城の応接間は、無駄に広い。風の王がここで来客の相手をするため、天井まで届くほどに高いガラス窓のそばに、応接セットがあるだけで、ほとんど何もない部屋だった。
何もない空間には、大型のドラゴンが優に三匹寝そべっても窮屈ではないほどの床面積があり、天井はそのドラゴンが舞えるほどに高く広かった。
「ナシャ、セリアをお願いね」
立ち上がったシェラは、ナシャに優しく微笑むと、その何もない床に向かった。
そして、大体真ん中くらいに座り込むと、両手を床につけて意識を集中した。白い儚い光がシェラの手から放たれ、光が神樹を描き出していった。神樹の絵を丸く囲むように、精霊の言葉が何重にも書き連ねられていった。
「凄っ!やっぱり、最上級精霊って違うね」
あまりにもスケールの大きな魔方陣に、ナシャは目を見張り、感嘆の声を上げずにはいられなかった。
魔方陣を描き終わったシェラは、セリアを抱き上げると、白い光の魔方陣の中に寝かせた。涙の痕の残るその顔を見ていると、悲哀を感じてしまう。
インファとシェラを想い、別の意識と戦ってくれたセリア。優しく強い、息子の妃だ。シェラがセリアの頭を優しく撫でて立ち上がるころ、インファがナーガニアを連れて戻ってきた。彼女も魔方陣の中へ寝かせた。
「どうやら、太陽の城も終わったようですね」
机の上の水晶球が、金色の光に包まれていた。インファはすぐさま声をかける。
『インファ、ルディルとハルも終わったぜ。レイシとインリーも連れて戻るな。あと、ノインから連絡あったか?』
「いいえ、まだです。……ルキルースも終わったようです。ノインが帰還しました」
顔を上げたインファは、窓の外の中庭に目を向けていた。中庭のバードバスの水面には、ルキルースの幻夢帝の居城に通じる扉がある。その扉が開き、ルキを抱いたノインが戻ってきていた。
「ルキ!すぐに癒やすわ、しっかりして!」
ガラス戸を開けて、応接間に入ってきたノインに抱かれているルキを見て、シェラは青ざめた。彼は深く傷つけられ、自分では動けないくらい疲弊していたのだ。
「うん、頼むよ……。宝石三姉妹の姉二人に手こずってね。ルキルース全体を閉じてきたんだよ。もう、疲れたよ……」
ルキはゆっくり大きく息をしながら、瞳を閉じてしまった。シェラの癒やしはきちんと作用し、ルキは一命を取り留めていた。
「ノインは大丈夫?」
「オレの受けた傷はさほどでもない」
そう言いながら、ノインの瞳には疲労と痛みがあった。強がりはリティルと一緒だ。シェラは瞬時に見抜くと、彼を睨んだ。
「強がらないで。みんな、無事でよかったわ」
シェラは俯きながら、ノインの傷も癒やした。
そうしていると、応接間の天井が、次元の刃で切り裂かれて、その向こうから太陽の城に行っていた面々が次々に帰還してきた。楔を打ち込まれたルディルとハルも連れ込まれて、魔方陣の中へ寝かされた。
「次元の刃便利だな。オレもほしいな」
リティルの手の中で、インファの力が効力を失って消えていってしまった。借りた力は、長くはとどまれないのだ。
「セリアが起きたら、作ってもらいますか?」
「おまえな、人数分作ったら、今度は何日眠るつもりだよ?」
次元の刃は負担の大きな固有魔法で、セリアのいない今、その魔法を使うと、インファは霊力を使いすぎて倒れてしまう。セリアがいても、一日一回が限度で、二度使えばやはり倒れてしまうのだ。
「半年くらいですかね」
「却下。おまえがいねーと、城の業務が滞るからな」
そう言って笑いながら、リティルはインファの肩を叩いた。
「ありがとな、インファ。おまえ少し寝てこいよ。疲れただろ?心が」
そう言われ、瞳を覗き込まれて、インファは危うく泣きそうになった。王の代理として気を張っていたのに、この人は何の前触れもなくほぐしてくるなと、インファは憎らしく思った。こんなことをされては、子供のように父にすがりたくなってしまうと、インファは思いながら苦笑した。
「……はい。すみません、お言葉に甘えます」
インファは風の王に一礼すると、足早に城の奥へ続く扉に消えた。シェラの描いた大がかりな魔方陣の中に、セリアがいる。彼女に一瞥もできないとは、セリアと対峙しなければならなかったインファの、心の傷は深いなと、リティルは案じると共に、憤りを感じた。
こっちは大丈夫だったのだろうか?とリティルは、ルキをソファーに寝かせているノインに近づいた。
「ノイン、ご苦労さん」
ルキが傷を負ったということは、ノインはその前に怪我したのだろうなと察した。そうでなければ、ルキが傷を負うことなどありえない。オレはまだ余裕があるし、今のうちにノインを休ませて――
「楽園はいいのか?」
ノインにそう言われ、リティルの脳裏に思い出したくないことが、押し寄せるように蘇った。すぐに答えられなかったリティルを、ノインが振り返る。彼の、涼やかな瞳に見つめられ、何やら嫉妬するような、怒りのような感情が湧き上がってきた。
「気になるのかよ?そうだよな、おまえ、スフィアと仲良しだからな」
ジトッとした目で見つめられ、ノインはうっと押し黙った。
「どういうつもりなのか、突っつきてー気もするけどな、おめでとうノイン、おまえも晴れて子持ちだ」
リティルに肩を叩かれたノインは、身に覚えがなく首を傾げるしかなかった。
「え?ノイン、いつの間に?意外とやることやってたんだ」
レイシの何気ない言葉を切っ掛けに、皆がえ?とノインに注目した。身に覚えのないノインは、ただただたじろぐしかなかった。
「スフィアがな、お父さんは、おまえがいいんだってよ」
してやったりと言いたげに、リティルはニヤリと笑った。
「養子はとらない主義だ」
ああ、そういうことかと、ノインは冗談に冗談で返した。
「つれない奴だな。ハハ、驚いたかよ?これくらいの嫌がらせしねーと、やってられねーよ」
リティルは疲れた顔で、ため息をついた。ノインにぶつけたら、どっと疲れが押し寄せてきた。風の城で、気を許せる者達の無事な姿を見て、気を張っていたリティルの心は急激に安堵していた。
「リティル、おまえも少し休め」
ノインは、楽園でリティルの心がかなり痛めつけられたことを知った。リティルだけではない。セリアと対峙しなければならなかったインファも、大がかりな魔方陣で皆を守ろうとしているシェラも、要となる者達の心が疲弊しているのをノインは感じていた。
「シェラ、王と共に下がれ」
普段ならリティルを思って、すぐに言葉に従うシェラが一瞬押し黙った。そして、理由をつけて拒んできた。
「けれども、エセルトとメリシーヌも回収に行かなければならないわ」
「あ、それ、オレが行くよ」
レイシがそっと手を上げた。そして、楔ちょうだいと、シェラに有無を言わさずズイッと手を差し出した。シェラは、レイシに押されて楔を数本手渡してしまっていた。
「楔打ち込んで、とりあえず寝かせとくから、回収はあとで母さんがしてよ。いってきます」
誰の了解も得ずに、レイシはさっさと玄関へ向かって行ってしまった。
「レイシ待って!わたしも行く!」
レイシの後を、慌ててインリーも追っていった。
ノインはレイシ達を追っていた視線を、シェラに戻した。シェラはどこかよそよそしく、次の理由を口にしそうになった。いったい、どうしたのかと、ノインは訝しがった。
シェラのよそよそしさが、彼女が息子夫婦のキスシーンを見てしまった為だとは、ノインもリティルでさえも知るよしもなかった。今、リティルと共に部屋へ行くことが、シェラにはたまらなく恥ずかしかったのだ。
「ケルゥとカルシエーナは――」
「ケルゥ、首尾はどうだ?」
『ノインかぁ?絶好調だぜぇ?あと一体ぶっ倒したら、帰るからなぁ!』
血のような色をした瞳に凶悪な笑みを浮かべる、短い白銀髪の男が、ノインの手にした水晶球に映し出された。風の城の居候、再生の精霊・ケルディアスだ。
ケルゥは恋人のカルシエーナと共に、風の城の通常業務である魔物狩りを、行ってくれていた。
「だ、そうだ。リティル、シェラ、気兼ねはいらない」
リティルは、ノインの手際に苦笑しながら頷いた。
「ハハ、風の城が攻められるようなことはねーとは思うけどな、ノイン、一時間か二時間、頼むぜ。楽園にインジュとフロイン置いてきてるしな、すぐ戻らねーといけねーからな」
そう言って、リティルは無意識なのだろう、再び小さくため息をついた。これは、楽園で洒落にならない何かを、しでかしてきたな?と、ノインは察した。
「リティル、ルキルースは閉じた。楽園へは、オレが行こう」
ノインならそう進言してくると思っていた。けれども、ノインに押しつけるわけにはいかなかった。リティルには、ゲートで繋がるシェラと、守護鳥のフロインがついているが、ノインは己の力のみで身を守らなければならないからだ。そして、今後大がかりな争いが起こりそうなあの場所は、ノインだけでは彼の手に余ってしまう。
楽園へ、ノインを送るのは、彼の体や命を思うとできなかった。
「いや、あっちは面倒なことになってるからな、オレがやる。ディンが契約してる精霊、時の精霊だったんだ」
「やはりな。しかしよく確証を得たな」
昨夜の今日で仕事が早いなと、ノインは何をしてきた?と視線で問うてきた。リティルはノインに怒られることを承知で、力なく微笑むと素直に告げた。
「ディンに戦い吹っ掛けた。ゾナとディコと決定的に決裂するからな、あんまりやりたくなかったんだけどな……」
リティルは寂しそうに俯いた。
「おまえは……呆れるほど自虐的だな。かつての仲間と敵対などと!仕方のない。しかし、了解した。王の采配に従おう」
でも、ちゃんと和解してきたぜ?と顔を上げたリティルに、ノインは呆れ顔で、そして和解しても論外だ!と叱った。
ノインであっても、今はリティルに従うしかなかった。インファの様子をしっかり確かめていない。どちらの補佐につくことが最良か、今は判断できなかった。
だが、リティルのこの落ち込み様は尋常ではない。インファも交え、一度話をしたほうが良さそうだなと判断した。
「おまえは、インファについててやってくれよ。シェラがこんなに疲れてるんだ。あいつ、かなりきてるぜ?」
「了解した」
ノインは胸に片手を当てると、優雅に一礼した。様になるよなと、リティルはノインの所作を羨ましく思ってしまい、ああ、ダメだなと、リティルは邪念を振り払った。
「ナシャ、ルディルを調べてくれねーか?あいつ、オレを調べろって言ってたんだ。意識なんて完全になかったのにな、すげー奴だよルディルは」
ノインやケルゥよりも、さらに年上の容姿をしたルディル。粗暴な雰囲気はあるが、彼を前にして侮る者はいないだろう。初代風の王が見た目からして強そうなルディルで、今の風の王は華奢で童顔なオレ……リティルは自分自身が不甲斐なくて、瞳を伏せた。
「うん、やってみる。リティル、インサーリーズとインスレイズ貸して。危なくなったら助けてもらうから」
「ああ、わかった。インサー、インス、ナシャのこと、頼むな」
風の王の右の片翼・インサーリーズ。左の片翼・インスレイズ。命の生き死にである輪廻の輪を守る、生と死を司る鳥達だ。
リティルの翼が淡く輝き、金色のクジャクとフクロウが姿を現した。
「リティル、なにしょげてるの?そんな暇あるの?しっかりしてよね、王様なんだからさ!そんなナリなんだから、そんな顔してると舐められるよ?ほら、早く寝に行きなよ。早くしないとまた、睡眠薬盛るよ?」
いつも前向きで明るいリティルが、かなり打ちのめされている様を見て、ナシャは心配になった。けれども、口から出た言葉はとても、気遣っているとは思えない言葉だった。ナシャ自身、なぜリティルにだけこんな態度をとってしまうのか、わからなかった。
リティルの事が好きなのに、なぜか天邪鬼になってしまう。
「ハハ、わかったよ。ありがとな、ナシャ」
「ふ、ふんだ!」
ナシャはそっぽを向くと、ルディルのところに行ってしまった。素直ではない少年の姿の精霊に、リティルはありがとうと微笑んだ。
「じゃあ、ノイン、頼んだぜ」
ノインは、片手をあげてリティルに応え。風の王夫妻を見送った。
そして、ハアとため息をつくとソファーにドッと腰を下ろした。
今回の仕事は、思いの外悲惨だった。シェラが察して傷を癒してくれたが、服の下はかなりの傷を負っていた。何とか傷ついた翼を超回復能力で癒し、切り裂かれた服は風で直したが、治癒が追いつかなかった。ここまで、傷を負ったのは久しぶりだった。
「ノイン、強がり」
「オレの役目だ」
ノインはソファーの背に頭を乗せ、背後に近寄ってきたナシャに疲れた笑みで答えた。
ついでに診てあげようか?と言ってくれたナシャに、礼を言いつつ、もう大丈夫と答えた。
毒の精霊であるナシャは、世界中を旅して、毒だけでなく薬草など、治癒に関することの見聞も広めている。最近は、一時的に力を高めるドーピングにも、手を出しているらしい。
「みんなボロボロだね」
「これだけ多くの精霊が関わればな。昼と夜の支配者までをも巻き込んでいる。首謀者は、ただでは済まないな」
ノインの瞳に、ギラリと鋭く静かな怒りが灯る。
「リティルがやるの?」
「それが風の王だ」
そう言って、ノインはおもむろに服の中から首飾りを引っ張り出した。
「それ、誰の羽根?」
革紐に結わえられていたのは、キラキラと煌めく金色の羽根だった。
「フロインだ」
「ちょっと待って!ノインってその……」
ナシャは言いよどんだ。精霊の婚姻の仕方は、自分の欠片で作ったアクセサリーを贈り合うことで成立する。ノインがフロインの羽根を持っているということは、しかもその形状が首飾りであるということは――
「どうしたものか、悩んでいる」
ということは、保留中なんだと、ナシャはなぜか安堵した。
「フロインってしゃべらないよね?そういうつもりでくれたの?違ったりしないわけ?」
「彼女は、会話するときシェラの模倣をする。あれも少し、戸惑うな。彼女の根幹は、リティルの他者への優しさだ。オレに何の守りもないことが、気になっての行動ではないかと思うのだが、返事をできないでいる」
「受ければ?もともと、魂を分け合うって、恋愛感情抜きでもやってたでしょ?風はグロウタースに近いから、どうにも恋愛色強めだけど」
永遠に近い命を持つ精霊は、子孫を残すという概念がない。もともと、精霊の婚姻は魂を分け合うといい、相手の力を自分の物にするという意味合いの方が強かった。
ナシャからすれば、風の城の魂を分け合った精霊達の方が異質だった。
「フロインはリティルの持ち物だ。リティルの了解を取らなければならない」
「言いづらいの?バラしていいならバラしてあげよっか?」
「おまえに、借りを作るのはあまりいい気はしない」
「それくらいの判断能力は、まだあるんだ?」
「子供の姿の精霊にしか話せていないのにか?ルキにも受けろと言われたが、この城の気質を考えると受けづらい」
「好き嫌い抜きなら受けられるってこと?」
「風の城の助けになることが、わかっているからな」
「リティル、許可しなさそう」
「この理由では、許可しない。かといって、偽るわけにもいかない。そして、フロインは怒りを買う」
「叱られるよね。ノイン、こんなに困ってるし」
フロインの中身が幼いことは、ナシャにもわかっていた。容姿的にはこれ以上ないくらい釣り合うが、精神年齢がまるで釣り合わない。フロインは確かにノインを好いているようだが、どうも、オウギワシが飼い主に懐いているようにしか見えないのだ。
「受けな。ノイン」
ムクリと、丸まって寝ていたルキが欠伸をしながら体を起こした。そして、開口一番そう言った。
ナシャは、幻夢帝と話など怖くてできないと言いたげに、逃げるようにルディルの霊力を調べる!と言って一目散に行ってしまった。
「君は、強いんだけど、守りながらの戦いは慣れてないよね。ボクを庇ったせいで、あんなに怪我して。超回復能力なかったら、死んでるからね?」
「回復力を上回る傷は負わない。自分の能力くらい心得ている。ルキ、あなたに苦言を呈する!あなたに死なれては、元も子もない。我々のことは盾と割り切ってくれなければ、守れない!」
「リティルか、身代わり宝石のインファなら遠慮なく盾にするよね。でもさ、君は死んじゃうでしょう?ボクはね、ノイン、リティルを悲しませるようなことはできないんだよ。ガルビークに誓ってね」
ガルビークとは、ルキの先代の幻夢帝だ。ルキは、彼の死の直後生まれ変わった二代目の幻夢帝だった。風の城は、ガルビークの死とルキの誕生に関わっていた。
ガルビークとルキは、リティルに恩を感じ、いついかなる時も力を貸すここと、絶対に裏切らない誓いを密かに立てていた。
「ノイン、受けな。フロインはリティルを最上級精霊に押し上げた力だよね?力の使い方の上手い君なら、最上級精霊に匹敵する力を手にできるよ!」
ルキには、フロインの心が見えるようだった。心も能力も完成されたノインは、強い。さすがは、無敗を誇った風の王の生まれ変わりだと思う。けれども、無敗の王は、たった一度の傷で命を失った。ノインを見ているフロインは、その危うさに気がついて、リティルの代わりに守ろうとしたのだろう。
リティルは王として頑張っているが、完成された十四代目風の王の、知識と経験を持つノインには勝てない。大人なノインは、出しゃばらずにナンバー3でいるが、ここぞというときには、簡単にリティルを丸め込んでしまう。
故に、ノインは、リティルには力及ばないというのに、過酷な場所で戦う羽目になっている。今回も、色々理由はあるのだろうが、ルキルースにリティルだったと、ルキは思っている。誰かを守りながらの戦い方は、リティルの方が上手いからだ。それに、超回復能力をフルに使うリティルは、痛みに対しての耐性がかなり高いのだ。それは、見たくも想像もしたくもないが、腕が切り落とされても平然と戦えるほどだ。
普段、傷を皆無と言っていいほど負わないノインは、その耐性が低い。その弱点を補う為なのだろう、彼は風の障壁という盾を作り出す魔法を得意としている。フロインと婚姻を結べば、ノインは霊力の泉の恩恵を得て、能力の割に少ない霊力を高めることができる。彼は器用にも、生命力と霊力を相互変換できるようだし、湧き上がる霊力を超回復能力に回せば、リティルが使うように、癒す傷を選んで、瞬時に癒すという芸当もできるだろう。
「彼女を道具のように割り切れればな」
「その羽根くれたってことは、道具でも構わないって言ってるんでしょう?だったら、好意に甘えなよね」
「ルキ、オレもまた、グロウタースに近い。フロインを、道具のようには扱えない」
「だったら、女として見てあげたら?あの姿ってさ、誰のためなのかな?シェラよりもの凄く派手だよね?ノインの好みとかじゃないの?」
子供のルキから見ても、目のやり場に困る胸の大きさだ。よくあれを押しつけられて、リティルは平気だなと思うほどだ。それにあの香り。フロインからほのかに漂う香りは、何か危険な気がした。子供であるルキに、恋愛感情はない。それなのに、悪夢の王でもあるルキが危うさを感じるほど、彼にまで、フロインの色香は微妙に作用していた。そんなフロインに、好意を向けられて、ノインはよく平気だなと思った。
「彼女のあの姿は、原初の風そのものだ。ダイヤモンドのように、高貴な煌めきの宝石だった。オレを誘惑するためではない。それに、彼女の心はまだ幼い」
あんな拙い色香に惑わされるものかと、ノインは平然としていた。
確かにフロインの魅了の色香は拙い。イタズラにまき散らされてはいるが、すでに結ばれている者、思い人のいる者には作用しないのだ。あれに惑わされるのは、精神の未熟な者に限られる気がした。故に、風の城で彼女の虜になる者はいない。感情の起伏の激しいレイシにも効かないのだ、あまり危険視することもないのかな?とルキは思った。
「じゃあ、自分好みに育てれば?君の心一つなら、そうやって割り切ればいいじゃないか。多分リティルは、君以外にフロインはあげないと思うよ?」
「リティルはおそらく、フロインのお守りまで、オレに押しつけられないと思っている」
ルキは、イラッとした瞳でノインを睨んだ。
「頑固だね!」
「それで、守れるのならばいくらでも。やはり、受けられないという決断になるな」
ノインは、テーブルに置かれた羽根の首飾りを見下ろしていた。
ノインが、首飾りを拾い上げようとしたそのときだった。
「ぎゃああ!なんじゃこりゃぁ!」
玄関ホールへ続く扉が開き、騒がしい大男が入ってきた。白い髪の黒ずくめの男、再生の精霊・ケルディアスだ。彼の肩には、黒いシンプルな膝丈のワンピース姿の、十七、八の少女が頬杖をついて乗っかっていた。濡れたような美しい、カラスの濡れ羽色の髪をしていた。ケルゥの恋人である、破壊の精霊・カルシエーナだ。
「ああ、お母さんの力だ」
魔方陣をまじまじと見つめたカルシエーナは、とても静かにつぶやいた。
「そ、そうかぁ。けどよぉ、こんなふうにゴロゴロ寝ていやがると、気持ち悪りぃなぁ」
カルシエーナはリティルとシェラの娘ではないが、そう呼びたくてそう呼んでいた。ケルゥと同じ、風の城の居候だ。
「おう!ノイン、やぁっと帰ってきたんかぁ」
「おかえり、破壊と再生。少々不本意な形となってしまったがな」
「はん?らしくねぇなぁ。ただいま!おめぇも、おかえりなぁ!」
ノインよりも少し年上に見える大男は、凶悪な顔に嬉しそうな笑みを浮かべると、ノインの首に後ろからその太い腕を回し、じゃれるように彼の首を絞めた。そんなケルゥの腕を、ノインはフッと微笑むとポンポンッと叩いた。
「ルキルースは閉じたよ。もう、収集つかなくってね」
ルキは不機嫌そうに言い放った。それはそれは、大変だったなとケルゥは遠慮なく、ルキの頭をぐりぐりと撫でた。そんなケルゥの手を、シャーッと言ってルキは猫さながら威嚇した。けれども、本気で嫌がっているのではないようで、こっそり笑っていた。
カルシエーナが、めざとく机の上に置かれた羽根に気がついた。
「それ、フロインの羽根?綺麗……首飾り?」
「うお!まさか、ノイン……」
ケルゥの肩に乗ったまま、カルシエーナは髪の毛をウゾウゾと伸ばし、まるで手のように使いフロインの羽根を拾い上げた。ケルゥは冗談のつもりで、からかうようにノインを見た。
「ああ、彼女にもらった」
「そうだよなぁ、ノインがまさかなぁ……うえええええ?」
「本当なの?」
大げさに驚くケルゥと対照的に、カルシエーナは冷静に、首を傾げると、ケルゥと同じ赤い血のような色の瞳を向けた。
「ノイン、壊してしまうって」
ルキはますます不機嫌に言った。
魂を分け合う気がないのなら、受け取ったアクセサリーは壊すのが決まりだった。
「壊すのか?ノイン、フロインは嫌いか?」
キョトンとした顔で、カルシエーナは問うた。
「いや、嫌いではないが、好きでもないな」
「おめぇ、あんな女神に口説かれて、心少しも動かねぇんかぁ?」
「中身はオウギワシだ」
「超絶美人なのになぁ、勿体ねぇ。ノイン、ホントに壊すんかぁ?」
「それが、礼儀だ」
カルシエーナの髪から首飾りを取り上げようとしたノインの手から、髪はスッと逃げた。
「お父さん、知ってるか?」
カルシエーナが父と呼ぶのは、リティルのことだった。
「いいや」
「言わなければ、いけない。ノイン、報告しないなんて珍しい」
カルシエーナのつぶらな瞳に見つめられ、ノインは苦笑した。
「さすがに、言いづらい」
「だよなぁ。なあ、よぉ、ノイン、こっそりもらっとけばぁ?それって、持ってるだけでも効力あんだろう?この羽根、見てるだけでもよぉ、凄いぜぇ?フロイン本気なんじゃぁねぇかぁ?」
ケルゥは、カルシエーナの髪に釣り上げられた羽根をマジマジと観察した。立ち上る純粋な霊力から、持つ者を守ろうという優しい心が感じられた。それは、リティルがインファに贈ったという、髪留めから感じる気配に似ていた。この感情は好意だが、男女間の愛とは違いそうだとケルゥは思った。
「受ける、受けないは、オレの選択だ」
ああ、だからか。と、ケルゥは、ノインが受けたくない理由がわかった気がした。フロインはまだ、婚姻を結ぶ意味を、理解していないとノインは判断したのだと。それでは、折れることはできないよなと、ケルゥは思った。
「兄ちゃんとシェラ、いねぇのかぁ?」
ケルゥが兄と呼ぶのは、インファだけだ。あの二人がこれを知ったら、どんな反応を示すのか見てみたくもあった。
「インファはリティルが下がらせた。シェラはリティルと共に下がった」
「ふーん。リティル帰ってきてるんかぁ。ルキスース帰りのおめぇが残ったってことは、リティルも相当やられてんだなぁ」
「かつての仲間と、敵対したようだな。そして、ナーガニアと交戦、ルディルと連戦したようだ」
「ああん?昔のダチと喧嘩ぁ?こっちも、らしくねぇなぁ。その上、ルディルかぁ。そりゃ、おめぇを気遣う余裕もねぇよなぁ」
かつてないほど、風の城の皆はバラバラだ。そのすべてを気にかけるリティルが、疲弊してしまったことは容易に想像がついた。強大すぎる力を持つケルゥでは、儚く壊れやすいグロウタースに赴くことはできない。できることは精々、魔物を狩りまくることだけだ。
そして今回、ケルゥは病に冒される可能性があった。こんな状態では、風三人を手伝えない。まったく歯痒いなと、ケルゥはノインの向かいに腰を下ろした。
「ノイン、大丈夫?権限はないが、わたし達がいる。休んでもいいよ」
カルシエーナの優しい言葉に、ノインは力なく、けれども片手をあげて大丈夫だと返した。
「休みな!君さあ、なんでそんなに頑ななの?リティルが動けなくなるととたんに、自分を蔑ろにしだすよね?知らないだろうけど、リティルが君のことで悩んでたよ?」
痺れを切らしたように、ルキが怒りの声を上げた。こういうところは、インファの方がまだ柔軟だ。隙間を見つけては、このソファーでだって寝ているのだから。
「ああ、オレ様も相談されたぜぇ?おめぇに、力を渡す方法はねぇかってなぁ。フロイン、そういうリティルの心、感じてたんじゃあねぇかぁ?」
「それは、複雑だな」
「他人事みてぇになぁ。本当はわかってんだろう?返事はよぉ、この際いいじゃぁねぇかぁ。持ってろよぉ」
ケルゥはそっと羽根に触れてみた。途端に、純粋な霊力が体に流れ込んできた。連戦の疲れが、嘘のようになくなっていた。この力は、単独での仕事が多いノインにはうってつけだ。感情はまだ拙くても、戦う為に何が必要なのか、彼女はわかっていてこの羽根を贈ったことは明白だった。
「持っていると、フロインの視線が、な」
「嬉しい気持ち、わたしにもわかる」
「おめぇ、苦労が絶えねぇなぁ。じゃあよぉ、もうリティルに話すっきゃねぇじゃぁねぇかぁ」
ませやがって、あのオウギワシ!と、ケルゥは前言撤回してやっぱり中身はガキだと、恋に恋する子供なフロインにガッカリした。もしこれがシェラだったら、返事はいらない、わたしがあなたを護りたいだけだからと、平然と言ってのけただろうに。
「という、結論だ。仕方ない、起きてきたら話そう」
ノインは手を伸ばすと、カルシエーナから羽根を取り返し、首にかけると服の中にしまってしまった。
「ノイン、部屋に下がるの抵抗あるなら、ここで寝る?わたし達、隣の部屋に行ってる」
カルシエーナは、暖炉の隣にある、白い扉を見やった。その華奢な白い扉の奥は、花園の間と呼ばれていて、シェラが自室として使っている。だが、彼女がいないときは入ってもいいことになっていた。
カルシエーナに心配されるようでは、いけないなとノインは苦笑すると、しばらく頼むと言って、自室へ引き上げていった。
「ルキ、ルキルースそんな大変だったんかぁ?」
「もう、ね」
ルキは首をすくめた。そして、チラリとノインの消えた扉を見やった。
「錯乱した宝石姉二人相手に、よく戦ったよ、ノインは。ボクがしくじらなければ、翼が傷つくことなかったのになぁ。フロインの羽根がなかったら、彼でもしんどかったと思うよ」
幻惑の暗殺者と呼ばれている宝石三姉妹のうち二人が、ルキルースにいた。セリアの姉達の戦闘能力は高く、風の精霊に匹敵する。彼女たち相手に、ルキを守りながらの戦いは、ノインであっても分が悪かった。超回復能力で傷が徐々に癒えるといっても、癒やすそばから傷つく戦いを強いられた。悪夢の王の異名を持つルキでさえも、見ていて辛かった。
「しょうがねぇよ、おめぇ戦闘系じゃぁねぇもんよぉ。ノイン、いてよかったなぁ」
「それはね。リティルに感謝してるよ。……何?何か言いたそうだね?ケルディアス」
「おめぇにも、しおらしいとこあるんだなぁってなぁ。ノインなぁ、中途半端なんだよなぁ、強さが。兄ちゃん、よく絶妙に割り振るよなぁ」
ケルゥは、まだ寝そべったまま起きられないルキを見下ろした。
「ノインはね、守りながらとか苦手なんだよ。一人なら無敵だよ。攻撃を一撃も食らわないからね」
「一度に何人相手できるんだぁ?オレ様、組んだことねぇから知らねぇんだぁ」
ケルゥは、十四代目風の王・インの相棒をしていたことがあった。その技をそっくりそのまま扱うノインの戦い方は知っていたが、風三人は常に進化する。ノインが今、どんな戦い方をしているのか、よく知らないのだった。
「リティル二人、一時間。残念ながら、勝つのはリティルだけどね」
「凄いな。それで心配いるか?わたしでも、お父さん二人相手は無理」
「キャリアの差だね。ただね、一度攻撃が通ると脆いんだよ。痛みに慣れてないからね。フロインの能力は霊力の泉。ノインは超回復能力持ちだし、相性いいよね」
「ノイン、リティルに話すと思うかぁ?」
「ノインは嘘つかない」
「リティル起きねぇかなぁ」
「寝室行ってみれば?」
ルキはニヤリと面白そうに笑った。
「オレ様、ノインと兄ちゃんに殺されたくねぇ」
シェラと一緒なのに、寝室行けるか!とケルゥはルキの頭をグリグリ撫でた。




