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一章 病

 精霊の住む世界・イシュラースの昼の国・セクルースに、風の王とその家族の住まう城があった。

石と砂に覆われた荒々しい風の領域。大地の力とは対極の力故、風の領域は、緑の育たない荒涼とした場所だった。

 そんな土地にある風の城には、温室があった。それは、ガラス張りの建物であるために、そう呼ばれているだけだった。この建物の目的は、荒々しい風に、植物が枯らされないよう保護する目的で建てられたのだ。その建物は、元々の形から現在少し形状をかえて、彼女の部屋として使われていた。

大きな鳥籠のような姿の、ガラス張りの建物。内部は、蔓草と花で溢れていた。風と花とは本来相性の悪い関係だったが、風の王・リティルの妻は、決して散ることのない花と言われている、神樹の花の精霊だ。風の城に芽吹く植物達は、彼女の力に護られて、吹き荒れる風の中でも育つことができるのだった。

 天井から釣り下げられた空中ブランコに、彼女は座っていた。

キラキラ輝く金色の波打つ髪を、花の髪飾りで飾り、とてもグラマーな肉体を持つ女性だった。その背には、風の精霊の証である金色の翼があった。オウギワシの荒々しくも美しい翼を持つ、女神のように神々しい精霊だ。

彼女の名は、風の王の守護鳥・フロイン。

そんな上空にいる彼女を見上げる、キラキラ輝く金色の髪の青年がいた。彼の背にも、彼女と同じオウギワシの金色の翼があった。髪はリティルに似た半端な長さだったが、キチンと整えて縛っていた。

「インジュ」

名を呼ばれ、青年は彼の父によく似た切れ長の瞳を、声の主に向けた。父親の暖かみのある眼差しとは違い、硬質で真面目な雰囲気があった。しかし、冷たい印象は受けない。それは、女性的な印象を与える柔和な顔と線の細く華奢な体格、そして纏う雰囲気が春風のように柔らかく優しいためだろう。控えめに向けられたその瞳は、白の輝きの中に深い青と緑が混ざり合う、不思議な色をしていた。

「リティル。フロインに用事ですか?」

インジュは精霊には珍しい、精霊を両親に持つ、純血二世だった。

精霊は、力に意志が宿り目覚めるという生まれ方をする。それ故に、男女間の愛情が薄く、交わりによって増えていかない種族だった。死の概念も縁遠く、世界からその力が消えないかぎり生き続ける。永遠に近い命を持っていた。

純血二世の精霊は、産まれてから十二年でその力に相応しい姿となる。二十年生きているインジュはすでに、大人の精霊だった。そして精霊は、消滅するまで姿が変わることがない。老いのない存在だった。

「それもあるけどな。インジュ、おまえも応接間にいろよ。インファが心配してるぜ?」

インファは、インジュの父であり、リティルの息子だ。

雷帝・インファ。風の王の優秀な副官として、城を切り盛りしてくれている。

インジュは、インファの名を言われ、恐れと後ろめたさの入り交じった瞳で、俯いてしまった。雷帝親子の間には溝がある。そのことにはずっと前から気がついていたが、リティルは静観していた。たくさんの精霊を導いてきたインファなら、インジュを導いてやれると思っていたからだ。だが、兄弟達や他の精霊を指導するようにはいかないようだった。

手を出した方がいいのか、リティルはまだ決めかねていたが、インジュが大人の精霊となってから八年が経っている。そろそろ、何とかしてやらなければ、取り返しのつかないことになるかもしれないなと、リティルは危機感を持ち始めていた。

 リティルの姿を見たフロインが、嬉しそうな表情を浮かべて、舞い降りてきた。

「フロイン、いい子にしてたか?」

精霊の至宝・原初の風──リティルは初代風の王から、危険で強大なその力を継承された。それによって、しがない上級精霊でしかなかったリティルは、最上級精霊へと転生を果たし、烈風鳥王と呼ばれるようになって早二十年が経っていた。

原初の風を媒体に、リティルの守護鳥として、自ら望んで具現化したフロインは、人の姿を取れるまでに成長していた。それは、異例のことだったが、その特異な存在故か、彼女は口がきけなかった。そして、二十七、八の容姿であるが、その精神はまだまだとても幼かった。

フロインは、背の低いリティルにギュッと抱きついて、子供のような笑みを浮かべていた。

そんなフロインの様子を、インジュは微笑ましそうに柔らかく微笑んで見つめていた。

フロインと同じ輝きを持つインジュも、原初の風の精霊だった。同じ性質を持つが、フロインはリティルの守護鳥で、インジュは原初の風の精霊だ。同じ司の精霊ではない為、一つの力の司は一人という精霊のルールには抵触せず、二人は反発することなく存在できていた。

 フワリと、風の吹かないはずの温室内を風が巡った。どうやら、風の精霊の誰かが温室に入ってきたようだ。

「ただいま戻りました。父さん、息苦しくないんですか?」

彼の声を聞き、インジュは身を固くした。しかし、俯くだけに留めて逃げ出したりはしなかった。

やってきた背の高い精霊は、フロインの胸に埋まっているようなリティルを見て、インジュによく似た、切れ長の瞳に暖かな笑みを浮かべた。

金色の長い髪を、肩胛骨の辺りから緩く三つ編みに結い、雄々しい金色のイヌワシの翼の生えた背に流してる。華奢な女性的な美しさのインジュとは異なる、中性的ながら男性的な強さを兼ね備えた美しい青年だった。

暖かな暖炉の火のような優しい眼差しで、リティルを父と呼ぶ彼が、息子であり風の王の副官である、雷帝・インファだ。そして、煌帝・インジュの父だ。

「は、ははは。お帰り、ご苦労さん。どうだった?」

フロインはインファの姿を認めると、リティルを解放し姿をオウギワシに変えると、空中ブランコに舞い上がっていった。王と副官の邪魔はしないと、そういうことらしい。

「思わしくないですね。しかし、今のところ監視する以外にありません。風の王、インジュを行かせてくれませんか?」

やっと、フロインの手から逃れたリティルは、笑いを収めたインファに王の顔で、副官の言葉を聞いていた。蚊帳の外だと思っていたインジュは、急に名を呼ばれ、ビクッと身を震わせた。

「はい?お、お父さん、ボクは……まだ……」

自信なさげに、インファと負けず劣らない長身の彼は俯いた。

インファの容姿的年齢は二十五。インジュは二十三だ。人間の常識では、似た特徴を持つ二人は兄弟のように映ることだろう。ちなみに、リティルは十九才だ。背が低く童顔な彼と、長身で美しいインファが親子、兄弟と思う者は初対面では皆無だった。

「あなたはもう一人前ですよ?いい加減、仕事しなさい」

冷ややかな瞳で、インファはピシャリと言った。

風の仕事は過酷だ。次元の大樹・神樹が貫き立つことによって繋がっている、三つの世界を見守り、安寧を脅かすモノを狩る。命の生き死にそのものである輪廻の輪を護る、世界の刃だ。

その日々は、戦いの連続で、永遠に近い命を持つはずの精霊の中で、風の王であるリティルは、十五代目だった。

「ハハハ、厳しいな。そういや、おまえは、未熟なときからオレと飛んでたな」

成長過程の幼いインファを思い出して、リティルは懐かしそうにガラス張りの天井を見上げた。すっかり落ち着いてしまったが、あの頃のインファはギラギラしていたなと、少しも闘志を感じられないインジュとは大違いだなと、しみじみ思った。

「え?怖くなかったんですか?」

インジュが信じられないと言いたげに、インファを見た。

「オレは、産まれたときから風の王の副官ですから。早く王と飛びたくて、しかたありませんでしたよ?インジュ、同じようになれとはいいません。ですが、風として産まれたかぎりは、戦い続ける運命を背負わざるを得ません」

「……はい……」

不安げに俯いたインジュを見て、リティルはインファを見上げた。

「インファ、おまえが付くか?」

「王命ならば従います」

即答したインファの瞳には、いつも当たり前のようにある、相手を気遣う優しさがなかった。ただただ冷ややかな声だった。

「インファ、おまえ……オレの前だからそういう態度なんだよな?二人のときは違うよな?」

自分の息子に、あまりに冷たく、他人行儀なインファに、リティルは驚いて思わず問いただしていた。いつもそんな態度を取られているインジュは、リティルの言葉に首を傾げた。それを見たリティルは溜息をつくしかなかった。

親子仲があまり上手くいっていないことは感じていたが、これは思った以上に溝が深そうだなとリティルは察した。静観しすぎたか?と、忙しさにかまけてなかなか気を配ってやれないインファの事を、案じた。

「わかったわかった!オレが行ってやるよ。インジュ、大丈夫だ。今回は戦うような仕事じゃねーよ。場所も楽園だからな。心配いらねーよ」

そう言ってリティルは、いつもの思わず頼らされてまう、影で魔性の笑顔と呼ばれている笑みを浮かべて、インジュの肩をポンッと叩いた。これには、インジュはますます戸惑うしかなかった。

「あ、あの、お、王の手を、煩わせるわけには……」

インジュは尻すぼみながら、なんとかそう言えた。父親の厳しく冷たい視線を感じる。だが、それから守るようにリティルの視線はどこまでも暖かだった。

「オレに畏まるなって言ってるだろ?これ、王命だから、覆らねーよ。インジュ、悪いな、シェラを呼んできてくれねーか?」

「は、はい」

あれよあれよと、初仕事を風の王とこなすことになり、混乱しているところに王妃を呼んでこいと言われ、インジュは慌てて飛んでいった。

 インジュが鳥籠を出るのを見計らって、リティルは背の高い息子に、ジロリと視線を合わせた。

「インファ!」

「なんですか?」

いつもの暖かい瞳で、とぼけるような息子の態度に、リティルは大きな溜息をついた。オレに対してはこんなに柔らかいのになと、リティルはインジュへの態度が未だ信じられなかった。

「あんまり、インジュに冷たくするなよな。あいつ、戦闘系じゃないぜ?力の発現もまだだろ?」

インファはこの城において、本当の兄妹のみならず居候にまで兄と呼ばれ慕われる、厳しくて優しい精霊だ。それだけではなく、彼を先生として頼る精霊も多い。

しかし、血を分けた自分の息子には、その優しさを与えてやれていないらしい。そして、指導者としても優秀な彼が、息子の性格や特性を、見極められないはずはない。それなのに、インジュには不得手な道を強引に歩ませようとしているように、リティルには見えた。

それは、この城において、城の住人の命を守るためには、やってはいけないことだった。いつ命を失うかしれない過酷な仕事の中で、誰がその案件に適しているのか見極めなければ、向かわせた者が怪我を負ってしまうかもしれない。最悪は、命を失ってしまう。

インファは副官として、それを見極め皆に仕事を割り振っていた。それは的確で、インファは王の不在時には、代理もそつなくこなしている。

優秀、冷静、仕事が早いと、三拍子揃っている、リティル自慢の息子なのだ。

「わかっています。しかし、インジュはオレより強くなります。インジュがいれば、オレに何かあっても父さんと一緒に飛べるでしょう?」

「おまえ!それ、本気で言ってるのかよ!オレは!おまえを失う気はねーよ!」

カッとして、リティルは怒りの瞳をインファに向けていた。しかし、それで怯むインファではない。真摯で強い瞳で、リティルの瞳を真っ直ぐに見返した。

「風の王!目をそらさないでください!オレは……あなた達ほど強くありません。オレが父さんのそばにいられなくなることを、考慮するべきです!」

「インファ!適材適所って言葉、おまえの口癖だよな?おまえ、いつもそれを優先してこれまでやってきたじゃねーか!どうしたんだよ?冷静で優しいおまえを、こんなに追い詰めたものは何なんだよ?インファ、オレはおまえが大事だぜ?何があっても、自分を犠牲にすることは許さない!その体に、傷一つつけるな!オレの言葉を、誰よりも重く受け止めるおまえに、命じるぞ!」

リティルは必死な瞳で、インファの両腕を強く掴んでいた。そんな目をしなくても、オレは死んだりしませんよと、インファは優しい父の様子に小さく微笑んだ。

 しかし、インジュのことは違う。彼は、自分を偽ってこの鳥籠に引きこもっている。それを知っているから、強引にでも外へ出したいのだ。

世界は広い。その広さを知らずして、安易に道を決めてしまった息子に、知ってほしかった。風の城に集う者達が守る、どこまでも続く空、世界の美しさ。過酷なだけが、この城の存在理由でないことに、気がついて欲しかった。

そして、いつでも先陣を切る風の王を、一人にしないでほしい。

「父さん、オレは……それでもインジュに、この鳥かごから出てほしいんです」

最上級精霊として確かな力を手に入れてしまったリティルは、本当に手に負えないような戦いにしか出なくなった。他の細々とした討伐は、風一家の皆に任せ、城で雑用をしていることのほうが多くなっていた。

副官であるインファは、リティルが最上級精霊となる前は、ここぞという場面には必ず一緒に出かけていた。それが、今ではここぞという場面では、とても共に飛べなくなっていた。風の王の副官であるのに、その役目を果たせていないのではないかと、インファは苦悩してしまっていた。その心が、二十年経っても力を発現することのできない、名ばかり最上級精霊のインジュに向かってしまっているのか?と、リティルは疑った。

 何の力も持たずに、ただただ優しいインジュの本性も、フロインと同じオウギワシだ。

戦う力を十二分に持つ、強力な精霊であるはずだった。しかしインジュは、この鳥かごから出ようとしない。フロインも気になるのか、リティルの目を盗み、楽園へインジュを連れ出している。楽園には、インジュと精神年齢の近い、リティルもよく知る者達がいる。彼等が刺激になってくれればなと、リティルはフロインの規律違反を黙認していた。

「インファ……おまえは、原初の風の欠片を継承してたらって思ってるのか?インジュに冷たく当たるのは、オレがおまえを選ばなかったからなのかよ?」

リティルが初代風の王から継承した、原初の風。その力は強大で、リティルをこの世から消し去ってしまうほど切り裂いた。

そのころすでに意識に目覚めていた原初の風は、自らを割り、四分の一の欠片を雷帝妃であるセリアへ引き渡すことで、リティルを守ったのだ。セリアは受け入れたその欠片を、息子として産んだのだ。

インジュは、リティルを引き裂くほどの力を持った、原初の風の欠片の精霊だった。

原初の風は、精霊の守る至高の宝の一つで、その力は有象無象を惹きつけてしまう。

インジュは自身を偽らざるを得ず、宝石の精霊と雷帝の息子ということで、煌めきの皇帝──煌帝・インジュと名乗っていた。

インファは何も、息子を妬んでいるわけではない。より強力な精霊になってしまったリティルのそばに、自分の代わりにいてほしいだけだった。強い故に、背負ってしまうリティルを、孤独に歩ませないために。

リティルを生かす為、自らを割った原初の風の意志は、こんな鳥籠に引きこもって永遠を過ごす為ではないと、インファは信じている。今は見えない、インジュの存在理由を、インファは暴きたかった。それが、この城で何もできずに、肩身の狭い思いをしている息子の助けになると、思っていたからだ。

「さすがにそんなこと、思っていませんよ。ただ、歯痒いんです。これ以上強くなれない自分自身が。すみません。子供のようなことを言いました。ただ、インジュには接しづらいんです。やはり、インリーやレイシと接するようにはいきませんね」

インファは力なく微笑んだ。

血を分けた兄妹であるインリー。リティルの養子で血の繋がらない弟のレイシ。

彼女達以外にも、インファには兄弟と呼べる者がいる。彼等を導き、自信をつけてやったのに、息子であるインジュには、同じことをしてやれないでいるらしい。

「オレは、父親には向きませんよ……」

「あれだけいろんな奴に、兄貴って言われてるのにか?おまえ、育てるのオレより得意なくせして。よし!わかった!インジュはゾナに預ける」

繁栄と衰退を繰り返す愛すべき世界・グロウタース。その世界にある、双子の風鳥島という島の片割れ、ルセーユ島にある、楽園と呼ばれる集落。ゾナは今、その場所にいた。

かつて、リティルが風の王となるためにそばにいて鍛え守ってくれた恩師だ。それは、二五〇年も前のことになる。

「いきなり本丸ですか?ゾナは手強いですよ?そんな彼が、インジュ如きに隙を見せるとは思えません」

インファの脳裏に、知的な、どこか哀しげな目をした、賢者の姿が浮かんでいた。楽園は、ずっと変わらず穏やかな空気の中にあるが、リティル達は近いうちにそこが戦場になると確信していた。

それとは別に、気になることがあり、インファ達はそれを秘密裏に監視し探っていた。

「ハハ、何にもわかってねーインジュだから、わかることもあるんじゃねーか?まあ、インジュにスパイしろとは命じねーから安心しろよ。インファ、おまえは荒療治してーのかもしれねーけどな、オレは今のままでもいいと思ってるよ。正式に楽園行きを許可するのは、オレ達の守る世界に、しっかり触れてもらうためだ」

何もできなくても、インジュは風の精霊として生まれてしまった。この城が何を守っているのか、なぜ戦わなければならないのか、せめてそれを知っておいてほしい。

「父さん、ならばせめて、インジュに課題を出してください」

「課題か。ゾナとディコがいることだし、魔法の基礎でも学んでもらうか?インファ、あいつの存在理由が、原初の風の守護だったとしても、認めてやれよ?狩りができるだけがすべてじゃねーだろ?防御に治癒、諜報活動、仕事はいくらでもあるぜ?固有魔法さえ発現すれば、道は開かれるさ。ゾナは厳しいからな、嫌でもあいつのやる気、引き出してくれるぜ?」

ゾナを監視対象に定めながらも、彼に対する信頼は揺るがないのだなと、インファは矛盾とも取れる父の発言を冷静に聞いていた。インファも知的な彼が、インジュに何かするとは思っていないが、やはり不安を感じずにはいられなかった。

「リティル、どうしたの?インジュが血相を変えて呼びに来たわ?」

 カサリと草を踏んで現れたのは、青い光を返す不思議な黒髪に、神樹の花である光の粒を咲かせた、紅茶色の瞳の美姫だった。髪に飾られた、羽根の形をした金色のティアラのような髪飾りは、風の王から寵愛を受ける者の証だ。

愛らしくもあり凛とする美しさの彼女が、王妃である花の姫・シェラだった。

「ああ、ごめん。ちょっとインファと話したくて、君を口実に使ったんだよ。シェラ、オレ双子の風鳥に行ってくるよ」

「そう、ディコとニーナによろしくと伝えてね」

二五〇年前、シェラは当時十歳だった、ディコとニーナと行動を共にしていた。そして、助けられたことを、懐かしく思い出す。今ここにある幸せは、彼等の助力のおかげであるものだった。

だからこそ、平穏無事に天寿を全うしてもらいたい。けれども、そうはすまないモノが、楽園にはあるのだった。シェラは何度かリティルに楽園に連れて行ってもらったが、今回はそんな余裕はないだろう。察したシェラは憂いの瞳で、祈るように胸の前で指を組んだ。

「そんな心配しなくても、大丈夫だぜ?息子はちょっと訳ありっぽいけどな」

「ディン?何かあったの?」

スフィアではなく、ディン?シェラは意外な者の名に、瞳を瞬いた。

身長が二メートルにもなり、一対の太短い角を持つエフラの民のディコと、一五〇センチほどの、狼の耳と尾を持つウルフ族のニーナの血を引くディンには、一本の角しかなく、背も一六〇センチほどしかない。エフラの民の中では、欠けているように見えてしまっていた。しかし、そんな身体的なことなど彼が気にしている素振りはない。ただ、背の低さに少しばかり苦労しているようだが……。

優しくて聡明。それがリティルの評価だった。だのに、そのディンの気配がどこか変わった。それはいつからだったか、リティルにはその肝心なことがわからなかった。リティルも始終監視はしていられない。それは、仕方のないことだった。

「あのゾナデアンを目覚めさせたんだ。何もない方がおかしいぜ?」

二五〇年前、闇の王という魔物と、闘うことを運命付けられていたリティルの力を高める為、大昔の強大な力を持った魔導士の手によって書かれた魔導書。

魔書・ゾナデアンの意志が、ゾナの正体だ。

リティルが風の王としてイシュラースへ去ったあと、自らを封印し眠りについていた。そのゾナが、いきなり目覚めた。

リティルが何度呼びかけても頑なに応えなかった彼が、なぜ目覚めたのかリティルは疑問だった。そして、不穏なモノを感じていた。

故に、ゾナとディンは監視対象だ。

「ゾナの気まぐれではないの?あの人は、育てるために生まれた魔道書よ。ディコの縁なら、惹かれて当然だわ」

ディコの師匠でもあるのでしょう?とシェラは言った。

「君は優しいな。あの嫌み魔導士、そんな可愛い玉じゃないぜ?けど、頭は確かだからな、丁度いいからインジュをぶち込もうと思うんだ」

リティルが楽園に赴くと、ゾナは何かを警戒するようにこちらを窺ってきた。何かがあるから暴けと暗に訴えているのか、それとも知られたくないことを知られていないか探ってきているのか、リティルは再会したゾナの、心を許していない態度に戸惑った。そして、寂しく思っていた。何かに巻き込まれているのなら、今のオレなら助けられる。話して欲しくて、リティルは問いただせないまま、ゾナと本気ではない腹の探り合いをしていた。

そこに、何もわかっていないインジュを放り込んだら、彼は、どんな反応を示すのだろうか。それが見たくもあった。今回はリティルも共にいるが、インジュにはさらに、フロインをつける。精神は幼くても、彼女は立派な風の王の刃だ。彼女がいれば、リティルがもしそばにいられなくても、インジュに手は出しづらいだろう。

「インジュを?インファ、あなたはそれでいいの?」

引き籠もりで、力の発現もしていない未熟な精霊を、庇護下から解き放って、心配ではないの?とシェラは、インファを案じた。

「心配なんですけどね……セリアのこともありますし」

インファは珍しく、いいともいけないとも言わなかった。

「だからだろ?セリアがあの状態な上に、インジュまでいたら、おまえ、やりにくいだろ?なあ、おまえらの子供なのに、どうしてあんなに大人しいんだよ?」

インジュがいなければ、セリアのことだけ考えられると、リティルは言い、そして、かねてから疑問だったことを口にした。

「オレは、そんなに荒れ狂ってますか?」

冷静なつもりなんですけどねと、インファは心当たりがありそうに視線を逸らした。

「あれだけ暴れといて、今更大人しいフリするなよ。おまえの中身はオレだろ?」

オレと二人で、金色の天変地異って呼ばれてたよな?と、リティルは懐かしそうに笑った。

「なんですか?オレの中身はオレですよ?……やめてくださいよ。父さんまで」

インファは思わず吹きだして楽しそうに笑った。

「そう、その顔だよインファ!哀しい顔で笑うなよ。おまえはそうやって暖かく笑ってろ!」

リティルはトンッと軽く踏み切ると、背の高いインファの首を捕らえて地面に降りた。

「危ないですよ!父さん、は、放してください。わかりましたから!」

インファは首を引き落とされて蹌踉めきながら、楽しそうに笑うリティルと一緒に笑っていた。

「父さん、インジュを、よろしくお願いします」

やっとリティルから解放されたインファは、ここへ来たときよりは晴れやかに笑っていた。

「ああ、任せろよ。今度一緒に飛ぼうな!仕事抜きだって、いいだろ?」

もちろんです、と、インファはリティルを眩しそうに見つめていた。

 そんな父達の様子を、インジュはオブジェとしておかれている柱の影から、複雑な顔で見ていた。


 双子の風鳥島――生き死にを繰り返す、命の世界であるグロウタースへの門である、次元の大樹のある島だった。

インジュは、ここでかつて沢山の血が流れたことが信じられなかった。それほど、楽園に流れる空気は穏やかだったからだ。

ここで、リティルとシェラは出会って結ばれた。

それが、今、インジュにまでつながっていることが、とても不思議だった。

 ゾナの案内で、楽園の果樹園にやってきたリティル達は、一本のリンゴの木の下にいるディンを見つけた。

「リティル様?インジュさんに、フロインさんも?今日はどうしたのですか?」

三人でくるなど、今までにないと、ディンは驚いていた。

エフラの民にしては背の低い、それをカバーしたいのか、彼は歯の長い下駄を履いていた。茶色の髪色の多いエフラの民だが、彼の髪の色は灰色だった。

「よお!ディン、元気そうだな?」

「はい、元気ですよ?」

ディンは、ディコによく似た優しい瞳に笑みを浮かべて、首を傾げた。

リティルは笑みを絶やさず、ジッとディンを見つめていた。やはり、妙な気配がする。これは、もう、見て見ぬふりはできないかもしれない。そんなことを考えていると、不意に声が降ってきた。

「風のおじさま?」

リティルたちの頭上から若い娘の声がした。リティルが見上げると、リンゴの実る枝の上に右目を隠した娘がいた。彼女は、リンゴを収穫しているようだった。

「スフィア、君も元気そうだな?」

スフィアと呼ばれてた少女は、飛び降りるとリティルの前に軽くトンッと降り立った。

「へえ、煌めきコンビも一緒なの?今日は物々しいのね?」

彼女の頭には、灰色のオオカミの耳が生えていた。そして、背がリティルよりも十センチほど低かった。三人一緒に来たことを訝しがりながら、それでもリティルと会えたことが嬉しいらしく、尻に生えた灰色のオオカミの尾はゆっくりと左右に揺れていた。彼女はウルフ族と呼ばれる半獣人種だった。

「変わったこと、ねーか?」

「なるほどね、そういうこと。おじさま達は、本腰入れてあたしの監視に来たのね?」

スフィアはあからさまに拗ねた顔をした。

「否定はしねーよ。君は、オレたち風の監視対象だからな。けど、そのおかげで、多忙なオレと会えるんだぜ?」

嬉しくないのか?とリティルは笑った。その言葉に面食らって、スフィアは瞳を瞬いたが、フッと吹き出して笑った。

「おじさまには、敵わないわ!おばさまは元気?おばさまにも会いたい」

「シェラも元気だぜ?ここへ行くって言ったら、懐かしがってたぜ。城の守りを任せてるからな、なかなか連れ出せねーんだよ」

デートしたいのになと、リティルは冗談のように笑った。

「相変わらず風の城は危険なの?」

ディコはリティルが風の王となって、イシュラースに帰ったあと、ずっと危うい橋を渡ってきたことを知っている。話してくれる以上に過酷だったことを、感じていた。

「いや。今は安定してるぜ?」

「インファ様やノインがいるから?ノイン、元気?」

インファには敬称をつけ、ノインにはつけなかったのを聞いて、リティルはおや?と思った。それ以前に、ノインとスフィアが会っているのも、意外だった。リティルは、ノインに楽園行きを命じたことがなかったからだ。

「おまえら、仲良しなのかよ?」

ノインは、インファの守護精霊で、リティルの補佐官だ。いつも仮面をつけていて、ミステリアスな雰囲気のある風の精霊だった。彼も合わせ、リティル達は風三人と呼ばれている。

「こっちに出てくると、顔見に来てくれるのよ。あたしのこと、知ってるんだって」

知ってる?どうしてあいつが知ってるんだ?と思って、リティルはああと思い至った。

「あ、そっか、そうだよな。なあ、あいつの素顔見たことあるか?」

「素顔?仮面の下の顔?」

スフィアは首を傾げた。

「あいつ、インファとそっくりなんだぜ?インファの方が若く見えるけどな」

仮面外して隣に並べると、兄弟みたいだとリティルは笑った。

「確か、インの生まれ変わりなんだっけ?でも、インとは性格大分違うよね?」

十四代目風の王・イン。リティルの父親である先代の風の王だ。ひょんなことから、インファの守護精霊として生まれ変わった。今では友人のような存在として、リティルのそばにいてくれる。いつもクールだが、ひとたびリティルに危機が迫ると、鬼神のごとく荒ぶったりする、頼れる風の王の騎士だ。

「ディコも知ってるのかよ?ああ、オレ、すぐからかわれるんだよな。クールで大人で狡いよなー」

涼やかな目元に微笑みを浮かべて、余裕でリティルをあしらうノインの姿を、リティルは羨ましく思っていた。。必要以上に頼りそうになって、たまにどっちが王だ?と危うい。

「ほう、あのインの生まれ変わりが、君のそばにいるのかね?」

ゾナとインは、過去に因縁があった。スフィアに会いに来ているノインと会ったことがないとは、ノインは故意にゾナを避けているらしい。それはおそらく、ゾナの心に波風立ててしまうことを回避したい、彼の優しさなのだろう。

「なんだよ?ノインはインじゃないぜ?そんなに気になるなら、おまえ、風の城に来いよ!ノインに会わせてやるぜ?」

「引き抜きかい?しかし断るよ。今はディンのそばにいなければならないのでね」

「おまえさ、オレに隠し事してるだろ?いい加減、話せよ。大事になる前に」

「君の手を煩わせるつもりはないよ。捨て置きたまえ、風の王」

やはり、話してくれないかと、リティルはズキッと胸に小さな痛みを感じた。しかしそれを、感じなかったフリをした。

「ったく、ゾナ、オレはディンに何もしないぜ?風は見守る者だからな。オレは特に、甘い風の王って言われてるんだぜ?手に負えなくなってからでもいいから、抱え込むなよ?」

ゾナはわかったと言って、片手をあげた。そんなゾナの様子に、ディンは瞳を伏せた。

「そうだ、ゾナ、ディンの先生やってるよな?こいつ、インジュも見てやってくれねーか?」

「彼の父親は、ずいぶん優秀ではないかい?オレの出る幕があるのかね?」

インと容姿の似た、無表情で冷たかったインとはまるで違う、温かな暖炉の火のような瞳の青年。活字は子守歌だったリティルとは違い、読書家でやけに記憶力のいい精霊だったなとゾナは、インファを脳裏に思い描いていた。

初対面でいきなり、何か隠してますよね?と言われた時にはドキリとした。侮れない眼力の、リティルの息子。

「ちょっと、複雑なんだよ。インファは兄貴気質でな、父親には向かねーって落ち込んでるんだ。なあ、頼むよ。見てやってくれよ。ディンとも精神年齢近いしさ」

リティルを見つめるゾナの目が優しい。そして少しだけ、哀しそうだった。二人はインジュの知らない遠い昔、関わりがあったようだが、真っ直ぐに信頼しているリティルとは違う感情が、ゾナにはありそうだなとインジュは思った。それに、隠し事?リティルの預かり知らぬところで、楽園の四人と会っていたインジュは、彼等が秘密を抱えていることに全く気がついていなかった。四人はよく、リティルの事を楽しそうに、話題にしていたというのに。

「まったく、オレは精霊の教育係ではないのだよ?君一人で、お役御免のはずだったのだがね……。いいだろう。しかし、オレは厳しいが、ついてこられるのだろうね?インジュ」

「善処します」

インジュに拒否権はない。不安そうな顔のまま、インジュはそう言わざるを得なかった。

「ありがとな。急な呼び出しがねーかぎり、オレもここにいるからな」

「暇なのかい?」

意外な言葉に、ゾナは問うていた。リティルは少し話をすると、すぐにどこかへ飛んで行ってしまう。いつも忙しないのだ。そんなリティルがこの楽園に留まる。ゾナは、心に淡い喜びを感じた。だが、すぐに打ち消した。風の王が留まるということは、楽園に危険が迫っているということだ。ゾナは、いよいよなのか?と、スフィアを盗み見た。

「ああ、オレは比較的な。風の城のやつらは頼れるからな。インファに代理任せてるし、シェラもいるからな」

「姫のそばにいなくて、いいのかい?」

あの慌ただしさでは、シェラともゆっくりいられないのでは?とゾナは案じた。この楽園で目覚めてからは、まだ一度もシェラには会っていなかった。二五〇年前では考えられなかった、弓矢を使い、勇ましく戦う戦姫になっていると聞いている。か弱く、リティルの事を健気に案じながら俯いていた彼女が、今、どんな顔でリティルの傍らにいるのか、とても懐かしく、会ってみたいものだとゾナは思っていた。

「オレ達ゲートで繋がってるからな、会えなくたって会話くらいできるぜ?インファが城にいてくれれば、シェラを通して、力も借りられるからな」

「ゲートとは、便利なものだな」

「ああ?おまえ今誰でも使えると思っただろ?違げーよ、オレ達が夫婦だからだよ。おっと、噂をすれば……わかった、一度戻るな」

リティルは耳を澄ませる素振りをすると、独り言を言った。

「ごめん、呼び出しだ。インジュ、ゾナに色々習え。こいつ、怖いけどな愛はあるから、心配するな。フロイン、何かあったら呼んでくれよ?またすぐ来るからな。ゾナ、ディコ、頼んだぜ?スフィア、ディン、またな!」

リティルは面々を一通り気遣うと、慌ただしく飛び去ってしまった。

「……今日も例に漏れず、忙しいではないか」

また来ると言っていたが、さてはて。いつも通りのドタバタで、リティルの楽園駐屯は、それほど警戒することもないのか?とゾナは淡く思った。

 ゾナはリティルを信頼していないわけでも、敵対したいわけでもない。その逆だった。リティルの助けになりたかった。リティルに言えないでいる事柄は、多忙な彼に衝撃を与えてしまうかもしれない。もう少し情報を集めてから、ただリティルを頼るのではなく、対等に話をしたいのだ。今のゾナは、二五〇年前では考えられない、迷いの中にあった。

「うん、リティル、あれでいて、いつもトンボ返りだよね。じゃあ、今日の授業は何かな?ボクも今日はまだ時間あるから、付き合うよ?」

ゾナは、三角帽子が風に飛ばされないように押さえながら、リティルの背をまぶしそうに見送っていた。

「それでは、スフィアがリンゴを収穫してくれたことだし、ジャムとジュースでも作るとしよう」

ジャムと聞いて、フロインがホンワカ微笑んだ。どうやら、甘いものが好きらしい。

「ジャムが食べたいと言っています。すぐ作れるものなんですか?」

同じ原初の風であるインジュは、フロインの言葉を聞くことができた。

「そんなに難しくないわ。ついでにパンも焼いて食べましょう?いいわよね?先生」

「ああ、もちろん構わないよ。来たまえ」

フロインはニコニコ笑いながら、ゾナの後をついて行った。そんな姿を見ながら、ディコは思わずインジュに聞いてしまった。

「ねえ、インジュ、お姉さんの精神年齢ってどれくらい?」

「フロインですか?そうですね……あんな姿ですけど、中身は鳥なので、まだ幼いと思いますよ?どうしてですか?」

「ううん、ちょっと気になっただけ。成長するのかな?」

「すると思いますよ?ゆっくりですけど。ディコ、どうしたんですか?」

インジュはディコが何を知りたいのかわからずに、首を傾げた。

「父上、まさか……」

フロインは神々しい容姿で、とても美しい。魔導以外にあまり興味を示さないエフラの民も、思わずフロインのことは目で追ってしまう。忘れていた恋愛感情を刺激する彼女の存在に、堅実に大賢者をこなす父も惑わされたのか?とディンは、父を突いてみた。

確かにフロインは、あの容姿に加えて、いい香りがする。フロインは、ゾナを気に入っているのかよくそばにいるが、先生はあの色香を前に、よく平気だなとディンは思っていた。

「え?違うよ?これでも、ニーナ一筋だよ?口説くの時間かかったけど……変な誤解すると、丸焼きにするよ?」

今、その最愛のニーナは不在だ。魔導狂いのエフラの民は婚期を逃しがちだ。ディコは、楽園の長である大賢者になった、百年とちょっと前に、ニーナにプロポーズした。けれどもニーナは、最初冗談だと思ったらしく、取り合ってくれなかった。

――わらわと結婚じゃと?ディコ、笑えぬ冗談じゃぞ?

ニーナは、ウルフ族だ。それゆえ、彼女はディコの相手に自分は相応しくないと思っていたようだった。けれどもディコに言わせれば、彼女ほど強い魔道士は、エフラの民の中でもそうそういない。そして、十才のころからの付き合いで、ずっと一緒に切磋琢磨してきて、今更他の誰を相手にできるというのか。ニーナの鈍さと、ディコの遠慮で、すれ違う二人を見かねたリティルが、間に入ってくれなければ、もしかすると、未だに追いかけっこしていたかもしれない。

――おーい、ニーナ、やっとディコ、結婚するらしいな?

――なんじゃ?ディコが、誰と婚姻を結ぶとな?

――ああ?知らねーのかよ?なんかな、やっと口説き落とせたとかで、大団円だってよ

それを聞いて、ニーナはディコのもとへ走った。幼なじみに等しい仲なのに、言ってくれないとは薄情だとニーナは拗ねたのだ。

その時ディコは、大賢者の館で講義の真っ最中だった。扉を開いて、ニーナは講堂に入ったはいいが、さすがに今この場で問い詰めることはできず、一番後ろの席に座った。そんなニーナに、ディコは気がつかなかった。

――ディコ!

――え?リティル?え?なんで今ここにいるの?

一陣の金色の光が渦巻いて、教鞭を執っていたディコの斜め上にリティルは遠慮なく姿を現した。突然の風の王の出現に、魔道士達は思わず歓声を上げて講堂は一時騒然とした。魔法は、精霊に呼びかけて発動する力だ。魔道士達にとって、精霊との遭遇は死ぬまでに体験したいことの一つだった。

ニヤリと笑って、ディコの頭二つ分くらい上から見下ろしてくるリティルは、講堂に集まった魔道士達に向かって声を張り上げた。

――おーい!誰か、大賢者の結婚相手、知ってるヤツいねーか?

――ちょっとリティル!いきなりなんなの?

ディコは慌ててリティルを引きずり下ろした。

――おまえ、結婚するんだろ?

――誰がそんなこと言ったの?

――プロポーズしたんだろ?

――したけど……

――誰に?

――そんなの、一人しかいないじゃないか!ニーナだよ!

あの時、わかっているのに言わせようとする、リティルの態度にイラッとして、公衆の面前であることを忘れて、叫んでしまった。

――そなた、本気じゃったのか!

リティルが現れたことで、ニーナは後ろの席から教壇のそばまで降りてきていた。

――え?うん

あの時のニーナの驚いた顔と、リティルのこの上なく楽しそうな笑顔、一生忘れないとディコは思った。

「兄さん、照れなくてもいいと思うわ。兄さんもおじさまを見習えばいいのよ」

スフィアは、シェラを好きなことを隠さない、リティルを引き合いに出した。そして、ゾナの後をウキウキした足取りついて行く、無垢な女神の背中を険しい瞳で見つめていた。


 スフィアは、十歳離れたディコとニーナの兄弟として育ったのだった。楽園のあるルセーユ島へディコが来たのは、闇の王との戦いの二年後、彼が十二才のときだったが、当時二歳だったスフィアには、生まれたときからいたようなものだった。

「あの、料理と魔法とどういう関係があるんですか?」

ついたところは、学び舎としても解放されている大賢者の館だった。

物々しく荘厳な、五十のアーチと木々の装飾が施された扉が、横に三つ並んでいる。その大きな門のような扉の一つを抜け、ゾナが向かったのは厨房だった。

ゾナは知的な所作で、帽子を取ると長い袋状になった袖を紐で括る。

「魔法は、力の性質を見極め、構築式を描く工程を経て初めて具現化する。そこへ、どんな発想を入れるかで、できが決まると言っても過言ではないのだよ」

「えっと、つまり?」

力の性質?構築式?インジュは、ゾナの言いたいことが一つもわからずに、首を傾げていた。そんなインジュの様子に、彼は本当に精霊なのか?と思ってしまうと同時に、リティルが預けてきた気持ちがわかった。彼は、この学び舎に飛び込んでくる、大半の人間の学生達と同じだ。魔法の才能はあるが、それがどうやってこの世に具現化しているのかまるでわかっていない。こんな状態では、個々の精霊が使う固有魔法の発言など、夢のまた夢だ。これは、鍛えがいのある生徒だなと、ゾナは心が躍るのを感じた。

「魔法の発動の仕方を、料理に置き換えているのです。食材を決めて、調理方法を考え、味付けしてできあがる。実際に目の前でその過程を体験できるので、魔法初心者にはわかりやすいのですよ」

ディンは、袋状になった長いローブの袖を紐で器用に括って、細い腕をあらわにした。

「精霊は発想力だけで魔法を使うから、ピンとこないかな?でもね、力の性質を見極めるのは大事だよ?あなたのお父さんは、それがずば抜けてるから、いろんな精霊の先生になれるんだよ」

ディコに、インファの話を出され、インジュはうつむいた。

インファのもとへは、風の王の協力者以外の精霊も多く訪れる。そのほとんどが、魔法のことを相談しているのだ。普通精霊は、自分の力以外のことは知らないのが当たり前だ。それなのに、インファはどんな精霊が来てもそれなりに相談に乗れてしまう。あまり複雑な相談は後日になるが、それでも納得のいく形にまで持っていってしまうのだ。

大賢者であるディコにすら一目置かれている父を、インジュは改めて遠い存在に感じていた。

出来損ないのボクとは違う。完成された芸術品のような父――

 ある朝、インファが鳥籠のある中庭に、朝日に向かって立っている姿を見たことがあった。彼の背にあるイヌワシの翼が、朝日に輝いていてその美しさに、インジュは瞳を奪われていた。

何をしているのかと鳥籠の影からジッと見ていると、父は槍を抜いた。そして振るい始めた。この中庭で、リティルとインファが模擬戦をしている場面を見たことがあったが、その時は空中戦だった。しかし今父は、翼を使わずに大地を踏みしめて舞うように槍を振るっていた。

踏みしめた芝生から夜露が弾け、それを槍が掬い上げて、朝日がキラキラと雫を輝かせていた。

命を奪う行為だというのに、その姿はとても綺麗で、まるで洗練された踊りを見ているような、そんな気分になった。インジュは、リティルとインファの模擬戦を見た時は、目眩を覚えてとても見ていられなかったが、今の父の槍捌きは見ていられた。それからインジュは、父の演武をこっそり見るようになった。本当は、父に近づきたい。けれども――

母セリアも、同じなのだろうか。早朝のインファの演武を、中庭の植え込みの影から覗いている姿を、よく見掛けていた。政略結婚でもなんでも、雷帝妃なのだから堂々と隣にいればいいと思うのだが、インジュは、セリアがインファのそばに寄り添う姿を見たことがなかった。インファと違い、セリアには想いがありそうなのに、なぜなのだろうかと、幼い時から疑問だったが聞くことはできなかった。

儚げで美しい母セリア――雷帝・インファの傍らに相応しい容姿の、宝石の精霊。

彼女はリティルを、リティル様と呼び慕っている。夫であるインファと笑っている姿は見たことがないが、セリアは、リティルとはよく話をして笑っていた。

男女という雰囲気は微塵も醸さず、リティルとセリアの間にあるのは、王と側近の信頼だった。きっと、原初の風がセリアを選ばなければ、インファと婚姻を結ぶことはなかったのだろうなと、インジュは思っていた。

 セリアは今、体調を崩して寝込んでいる。しばらく城から出ることを報告する為に、寝室に寄ってから楽園に来たが、熱があるらしく少し赤い顔をしていた。

――楽園に行くの?リティル様の命令?そうなのね。不安そうな顔しないで!リティル様が一緒なら大丈夫よ。インジュ、お父さんに挨拶してから行くのよ?

母には、ハイと答えたが、インジュは、応接間で副官の仕事をしていたインファに近寄れずに、いってきますと言えないまま、リティルとフロインに連れられてここ、楽園へ来てしまった。

「おじさまは、発想力が優れてるわ」

スフィアは、リンゴの皮を剥き始めた。その様子を、フロインは興味深げに見つめていた。

「え?でも、リティルは魔法は苦手だって言ってますよ?」

インジュも見よう見真似で剥き始めるが、まるで上手くいかなかった。

「そう?あんなに綺麗な魔法を使うのに、おじさままだ苦手意識あるのね」

幼い頃から、スフィアはリティルの使う、誰も傷つけない魔法を見せてもらってきた。

金色の鳥達を空に放ったり、雨粒を羽根に変えて降らせたり、雲を花の形にしたり。挙げればきりがないくらい見せてもらった。あんなに風の魔法で何でも作り出してしまうリティルが、魔法に苦手意識があるなんて彼のつぶやきを聞かなかったら、きっと気がつけなかった。

「昔からずっとだよね。ノインが不思議がってたよ」

風の王の力を手に入れた頃のリティルは、記憶を失うほどのある出来事から、魔法を無意識に拒絶していた。なくした記憶を取り戻し、魔法を扱えるようになったが、魔法とは無縁の時期が長かった為か、はたまた魔法の使い方を教えてくれた、先代の風の王・インの存在が大きかった為か、リティルは未だに魔法に苦手意識があった。

「ノインとやらには、記憶がないのかね?」

インの縁と聞いて、ゾナはノインに対しても敵対意識があるようだった。インとゾナは、二五〇年前、リティルを中心に共闘関係にあったが、二人の間にあったわだかまりは解けることはなかった。当時、二人の再会の場に居合わせたニーナが、戦いになるのではないかと心配になったほど、二人の間には火花が見えるようだったらしい。

「インの知識と技を持つって言ってたかな?リティルに関しての記憶は、知っているけど自分にはないって。ゾナ、やっぱり気になるんだね?彼はちょくちょく来るから、会ってみればいいのに」

姿はインだけど、中身は違う人だよ?とディコは言った。しかしゾナは、会うこと自体を渋った。

 そんなゾナの様子に、インジュはか遠慮なく疑問をぶつけていた。

「あの、ゾナはノインが苦手なんですか?」

ノインは、引き籠もりのインジュを尋ねて、よく鳥籠に来てくれた。ノインのする話はたわいなく、おそらくインジュとフロインが楽園にお忍びで行っていることを知っていたのだろう。楽園の話がほとんどだった。楽園に定期的に行っているはずなのに、ゾナとは顔を合わせていないとは、いったい、どんな手を使っているのだろうか。

そういえば、ノインの話の中の楽園は、夜を思わせる言葉が多く、夜に尋ねていたのかもしれない。そんな徹底して?リティルも、楽園にノインを関わらせないようにしている節があった。それは、ゾナが原因なのだろうか。でも、なぜ?インジュは素直に、疑問符を浮かべていた。

「君は下手だな。ゆっくり、丁寧にやりたまえ。……大昔に縁があるのだよ。ノインにではないがね」

ノインと名乗っているということは、インではないのだと察することができるが、それでも、あのインの生まれ変わりだと聞いてしまっては、ゾナの心は彼を拒絶してしまう。

リティルの慕う、インという精霊のことをゾナはゾナを作った魔道士の記憶で知っている。彼のしたこと、ゾナを作った魔道士の感じた感情――それらが未だにゾナの心を支配していた。

「人に歴史ありだね。あれから、二五〇年か、変わらないモノなんて、ないよね」

二五〇年前、十才だったディコはもういない。風の王を継ぐ前の、ウルフ族だったリティルがもう、どこにもいないように。

もう、リティルと一緒に山野を駆け回れない。リティルは、オオタカの翼で、ディコの手の届かない高くへ飛んで行ってしまうから。

未だに夢に見る。リティルと、このルセーユ島の隣にある、本土・ブルークレー島を旅する夢――十才だったディコが、手放したくなかった現実。風の王となり、イシュラースへ行ってしまうリティルを、当時のディコは必死に見送った。

家族も仲間もすべて失ってしまったディコを捕まえて、一緒に暮らして守ってくれたリティルから、離れなければならなかったディコを案じ、ゾナはそれから二年間一緒にいてくれた。風の王を鍛えるという存在理由を終えたゾナは、その身を封じ眠ることを、ディコの心の整理がつくまでと、二年も待ってくれたのだった。

あれから二五〇年。当時の魔法の師匠は、再び目覚めてここにいた。

「精霊は、変わる種族ではないですよ?」

「そう思っている君は、まだまだ未熟なようだね。父上と上手くいっていないのかね?」

インジュの剥いた歪なリンゴを見つめながら、ゾナが鋭い視線を向けた。

「ええ?いえ……そんなことは……」

図星を突かれ、インジュは慌てた。

「心が乱れまくりだね」

ゾナの手から、インジュの剥いたリンゴを取り上げたディコは、くるくるとその歪な様を観察した。不慣れとは違う心の乱れが、クッキリと刻まれていた。

「これは、初めてで上手くできないだけです」

「インファ様は、あんなに優しいのにどうして?あたしには両親がいたことないもの、羨ましいわ」

スフィアはフッとため息をついた。彼女の前には、乱れなく剥かれたリンゴが並んでいた。

インジュは、新しいリンゴを手に取り、慣れない手つきで剥き始めた。

「父はボクに期待しているんです。でも、ボクには応えられないです。あのリティルと一緒に飛ぶなんて、ボクには無理です」

原初の風の半分から具現化したフロインは、リティルの相棒として共に問題なく飛べる。だから、父はボクにもその力があると過信しているのだと、インジュは思っている。そして、いつまでたっても、精霊自身を表す固有魔法を発現できないことに、怒っているとインジュは思っていた。

「ほう、烈風鳥王と飛べとはね。無理ではないと、オレも思うがね」

ゾナの見たところ、インジュには強大な力がある。行使できる力の多さが見えるゾナには、リティルに劣らない容量の霊力が見えていた。いや、容量だけなら、リティル以上かもしれない。これは、期待されても仕方ないのでは?とゾナには思えた。

インファは、さほど優れた精霊ではない。頭がよく努力家だが、それだけではカバーしきれないことを、よくわかっていた。わかってしまうからこその苦悩を、ゾナは感じていた。

「インジュ、始める前から諦めるのは、いけないと思いますよ?あなたは、ほら、リンゴの皮むきを誰に教えられなくても、始めることができたではありませんか」

「え?リンゴの皮むきと、リティルと飛ぶことは、同じですか?ボクには、そうは思えません……」

ディンが優しく励ましてくれたが、それすらも落ち込んだインジュには、受け取りがたかった。インファに認められたいと思う心と、力を行使することを恐れる心がせめぎ合う。

「大小あるが、新しいことに挑戦するという意味では、同じではないかね?」

「そうだね、挑戦しすぎて、妙なことに巻き込まれてる人も、ここにいるけどね!」

ディコは、ディンをジロリと睨んだ。父の視線を受け、ディンは苦笑しながらすみませんと謝った。

「ディンは何をしたんですか?リティルが、訳ありだって言ってましたけど」

リティルが話している言葉を聞いて、インジュはディンを注意深く観察してみたが、確かに、前とは違う何かを感じる気がした。

「ばれてはいないんだ」

「ばれていたら、リティルのことだ、矢面に立ってしまいかねないのでね。口外できないのだよ」

「リティルなら、何だってできるのにですか?」

「オレが目覚めたのには意味がある。これは、リティルには背負わせたくはないのだよ。そして君は、リティルを何者だと思っているのかね?」

ゾナの静かな怒りに、インジュは思わず、リンゴを落としてしまった。それをスフィアが拾って、渡してやる。

「先生、おじさまにも問題あると思うわ。身の丈に合わないことにも、すぐに首を突っ込むって、インファ様が嘆いてたもの。オレはもう、一緒に飛べないのにって」

スフィアから見れば、インファは十分強い。それなのに、なぜ最近になって自信をなくしてしまったのか、スフィアにはわからなかった。最近――それは、十五年かもっと前くらいからだったろうか。

「息子にまで心配をかけているのかね?一緒に飛べないとは、また……。リティルはインファのフォローをきちんとしていないのかね?」

ゾナが目覚めたのは、二十年ほど前だ。その当時はまだ、インファはリティルと飛んでいたと記憶している。王と副官という揺るぎない信頼も感じていた。インファとリティルが共に楽園に来たのは、再会した当時の数回だけで、今では一緒にいる姿を見ていないなとゾナは記憶を呼び起こしていた。

あの結束の固い親子に、何かあったのだろうか?そう案じたとき、ニヤニヤしているディコと目が合った。

「あ、風の城の内情のこと、気になった?気になったよね?行ってくれば?」

「断る」

「インファは多分、待っててもこないよ?この件は、リティルが引き継いじゃったみたいだからね」

「本当は、父と一緒に来るはずだったんです。けれども……リティルが……」

「配慮したと。あなた、本当にインファ様と上手くいってないのね?何がいけないの?魔法も申し分ないし、剣も槍も扱えて、最高じゃない」

「……優秀すぎるのも欠点か。インジュ、父の戦い方を見たことはあるのかね?」

「いいえ。ボクはとても一緒には……」

「前から思ってたけど、あなた、なんでそんなに自信ないの?武器は使える?どんな魔法使うの?」

インジュは答えられずにうつむいてしまった。スフィアがインジュに会ったのは、フロインに連れられてきた、八年前だ。リティルやインファには及ばないが、そこそこ長い付き合いだと思う。だのに、スフィアはインジュが魔法を使っているところを見たことがなかった。

 インジュの様子を見ながら、根が深そうだなとディコは思った。インとリティル、リティルとインファの親子は、堅い信頼関係で結ばれていた。しかし、インファとインジュにはそれがないようだ。大丈夫なのかな?とディコは不安に思った。リティルがフォローするつもりのようだが、やはりインファのほうがいいのでは?と思ったのだ。

リティルが戻ったら、もう少し話を聞いてみようと軽く思いながら、ディコは作業に戻ったのだった。


 リティルは、双子の風鳥島の本土・ブルークレー島にある、神樹の森へたどり着いていた。不可侵と言われる静寂の森。獣、鳥、虫さえもいない時の止まったかのような森だ。

独特な力に満ちているため、グロウタースの民の民には不評だが、精霊であるリティルには、この無色透明な力は心地いい。

「ナーガニア、風の城の応接間につないでくれ!」

リティルの声に反応して、悠久の大樹からブワリと波動のような力が広がった。

『婿殿、わたしを頼らずとも、帰るだけならば風の鏡で事足りるでしょうに』

神樹の中から現れたのは、シェラとは真逆の白く輝く髪の女だった。頭には大きな鹿の角が生えていた。リティルの妻であるシェラは、この大樹の花の精霊だ。彼女が生み出したわけではないが、精霊的母親として認識されていた。

風の鏡とは、風の城にゲートを開く手鏡のことだ。ナーガニアが作ってくれたもので、帰りに神樹を経由しなくてもいいようになった。それは戦う風の精霊にとって、生存率をあげることにもつながり、とてもありがたい贈り物だ。

「ハハ、そう言うなよ。おまえ最近、鏡に話しかけても出てこねーだろ?おまえにも、たまには会いてーんだよ。ただ、通り過ぎてるだけだけどな」

風の城には、千里の鏡と呼ばれる、どこへでも繋がる鏡があった。その鏡を通じて、ナーガニアと話をしてゲートを開いてもらっていたのだが、最近は話しかけても答えてくれなくなってしまった。鏡が機能していないのではなく、彼女が無視しているのだ。

「……相変わらずタラシですね。もう、お行きなさい。リティル」

ナーガニアは複雑そうな顔をして、けれども諦めたように微笑んでくれた。

「タラシ?オレは誰も誑してねーよ。じゃあな!ナーガニア、いつもありがとな!」

リティルは笑うと、ナーガニアの開いてくれたゲートに飛び込んでいった。

「そういうところが、タラシだというのですよ」

ナーガニアは困ったような呆れたような顔で、それでも柔らかく微笑んだ。いつも慌ただしい男だが、気にかけてくれる。風の王たちに対してしてしまったことを知っただろうに、それでも笑ってくれるリティルを、ナーガニアも大事に思っていた。

ナーガニアは、不意に小さく咳き込みながら、スウッと神樹の中へ帰って行った。

 次元の大樹の精霊であるナーガニアの開くゲートは、ピンポイントだ。

花の姫であるシェラの、次元のゲートの力は限定的で、こんな風の城の応接間に開くことはできない。自分のそばに呼び寄せることはできるが、別の場所に開く場合は、その周辺が関の山だった。

「おーい!どうした?」

リティルが応接間に飛び降りると、ソファーに座ってたインファとシェラが、立ち上がって迎えてくれた。

「お久~!」

「ナシャ?なんだ、客っておまえなのかよ?いきなり呼びつけるからてっきり、ルディルかと思ってたよ」

暗い緑色の髪の、十歳くらいの少年が両手を振っていた。額にねじれた太短い角があり、尻には白い馬の尾が生えていた。

風の城を拠点に、方々へ旅している毒の精霊・ナシャ・ユニコーンだ。

「父さん、今、イシュラースに妙な病が流行っているようですよ?」

「はあ?病気?精霊って病気になるのかよ?」

「オイラも、聞いたことないよ」

ナシャはシェラの焼いたクッキーを頬張りながら、答えた。

「なんだよそれ?」

「霊力の変調が体に影響を及ぼして、風邪くらいは引きますけどね。どうも、そうではないらしいです」

「そういや、セリアは大丈夫か?」

「今朝は少し熱がありましたね。今は眠っていますよ」

インファは事もなげに言ったが、内心かなり心配しているだろう。来客の手前平然と見せているだけだ。

「後で奥さん診てあげるよ。インファ兄の奥さん、古参の精霊だよね?」

「ん?関係あるのかよ?」

「大ありなんだ。この病気にかかるの、古参の精霊だけなんだ」

「ナシャ、おまえは?」

「オイラ?オイラは古参とまでいかないから大丈夫。この城で関係あるのは、えっと、ケルディアスとセリアだけかな?ケルゥ無事?」

再生の精霊・ケルディアス。破壊の精霊・カルシエーナ共に、風の城に居候している精霊だ。昨日顔を見たときは、変調は感じなかったなと、リティルは彼の姿を思い浮かべた。

「あいつはピンピンしてたけどな、かかるとどうなるんだよ?」

「まずね、風邪みたいな症状が出るんだ。そこから熱が出て、一日の大半眠るようになっちゃうんだ。症状としては今はこれくらいかな?でも、治った精霊がいないから、まだまだ何か出るかも」

ナシャの向かいに腰を下ろしたリティルに、シェラが紅茶を差し出した。

「ルディルとハルも心配だな。ナーガニアは大丈夫そうだったけどな。セクルースより、ルキルースの方が深刻じゃねーか?あっちの最上級ほとんど古参だろ?」

精霊の世界・イシュラース。この世界は、太陽王夫妻の支配する昼の国・セクルースと、幻夢帝の支配する夜の国・ルキルースに分かれている。双方の国の行き来は、扉と呼ばれる特殊な入り口を通らなければいけない。セクルースの精霊には、扉を開く能力はないが、ルキルースの精霊にはその能力が備わり、自由に行き来ができた。しかし、ルキルースの精霊は、リティルの協力精霊以外は滅多に自国から出ることはない。

「うん。幻夢帝が調べてるけど、原因不明でお手上げって言ってた。ねえ、インファ兄、もしセリアがその病だったら、経過観察してもいい?実験……じゃなかった、診察とかさせてもらえると、助かるんだけど」

「オレの妃で、実験はしないでください。ですが、あなたの腕は知っていますから、お任せしますよ」

しっかり釘を刺され、ナシャはペロッと舌を出して笑った。

 じゃあ早速と言って、ナシャはインファと一緒に部屋を出て行った。

それを見送りながら、リティルは険しい顔で腕を組んだ。

「何事もないといいけれど……」

リティルの隣に、シェラが腰を下ろし、心配そうに二人が行った城の奥へと続く扉を見つめた。

「ああ。セクルースがやられると、グロウタースに影響がいくからな。レイシとインリーは太陽の城か?」

リティルの娘のインリーと、養子の次男・レイシ。太陽光の力を使うレイシは、太陽の城に住まう、夕暮れの王・ルディルと夜明けの女王・レシェラことハルのもとで修行中だ。応接間にいないところを見ると、レイシは付き添いのインリーと共に、今日も太陽の城に行っているのだろう。

「ええ。行くの?」

「ルディルに限ってとは思うけどな。顔見に行ってくるよ。まったく、グロウタースも不穏だっていうのにな」

「スフィアの中の闇の王に、動きがあったの?」

シェラの雰囲気が途端に緊張した。スフィアは、シェラにとっても他人ではない。

リティルと共に討った、闇の王の中からリティルが助け出した赤子だ。リティルの守る彼女は、シェラにとっても大切な娘だった。

「……いや、ただその存在感が増してきてるんだ。スフィア本人はわかってねーみたいだけどな。フロインは、どうしてグロウタースに行かされたのか、わかってるけどな、インジュは……オレ、間違っちまったかな?」

「いいえ。インファも承知の上だわ。見守りましょう?」

そっと気遣うようにシェラは、リティルの太ももに触れた。そんな妻に小さく笑いかけて、リティルはそっとキスをした。

「シェラ、オレ、しばらく行方がつかめねーと思うけど、ごめんな」

リティルはシェラを抱きしめたまま、会話を続けた。

「ゲートで繋がっているのだから、大丈夫。太陽の城からすぐ楽園へ行くの?」

シェラはリティルの腕の強さを感じながら、そっと頬に頬を寄せた。

「ああ、インジュが心配だしな。ケルゥとカルシエーナにナシャの話、伝えてやってくれ。あと、ノインが戻ってきたら教えてくれ。一旦戻るから」

体を離し、シェラはリティルの金色の瞳を見返した。真っ直ぐに見つめ返す彼に瞳は、少し疲れて見えた。けれども、引き留められないシェラは、せめてふわりと微笑んだ。

「わかったわ。いってらっしゃい、リティル」

何も言わず、微笑みをくれるシェラにリティルは感謝しつつ、名残惜しそうに彼女の頬に触れた。触れられたシェラは、リティルを捕まえるように両手を首に伸ばす。

「ああ、行ってくるな」

再び二人は、深く口づけた。


 雷帝夫妻の寝室は、森の夜を思わせる、深い藍色に統一されていた。

尖頭窓の上部には、水晶の結晶のような装飾が施されている。金糸の星の刺繍がちりばめられたカーテンは開かれていて、部屋は明るいが、中央の壁際にある、四方に柱のある大きなベッドにはレースのカーテンが引かれていた。

そのダブルベッドには、ピンク色の髪の女性が眠っていた。インファの妻のセリアだ。セリアは扉の開く気配で目を覚ました。手をレースのカーテンにかざし魔法で開く。左右で違う、青と緑の瞳を扉に向けると、インファが入ってくるところだった。夫の姿を見て、セリアはホッとしたように微笑んだ。

「起きていたんですか?体を起こさなくていいですよ。そのまま寝ていてください」

インファはやんわりと、体を起こしそうになったセリアを押しとどめた。こちらを案じる優しさを感じて、セリアは嬉しそうに顔をほころばせた。

「今、目が覚めたのよ。……ナシャ?いつ帰ってきたの?」

「ついさっきだよ。セリアが風邪だって聞いたから、診に来たんだ。触るよ?」

ナシャは遠慮なくベッドによじ登ると、セリアの額に触れた。ヒンヤリとした手に触れられて、セリアは心地よさを感じた。

「探らせてもらうよ?」

「いいわよ」

ナシャはセリアの頭に片手を置いて、緑色の瞳を閉じた。セリアの霊力が、乱れて熱を帯びていた。そして、何か不規則な鼓動のようなモノを感じる。他の古参の精霊達と同じだ。残念ながら、セリアもあの病に冒されていた。

「セリア、薬作りたいから、しばらくオイラの診察受けてくれる?」

「もちろん、いいわよ。もういい加減辛いの。ナシャ、治して!」

「絶対治すからね。じゃあインファ兄、オイラ、アトリエにいるから何かあったら教えてね」

「ええ、わかりました。よろしくお願いします」

ナシャは深刻な顔一つ見せずに、ニッコリ笑うと部屋を早々に出て行った。そんなナシャを見送りながら、インファは険しい瞳をしていた。そんなインファの手を、セリアは握った。熱い手に触れられて、インファはハッと我に返るとセリアを見下ろした。

「わたし、悪いの?」

セリアは体を起こすと、インファを見上げていた。熱が高いのだろう、いつもは意志の強そうな光を宿したその瞳が、どこかボンヤリとしていた。

「そんなことは……」

熱い手……セリアはこんな高い熱があり、心細かったろうに、仕事に支障をきたしてはいけないと、見舞うインファを部屋から追い出し続けていた。シェラが治癒の力を使ってくれていたが、シェラさえもセリアは遠ざけた。看病はもっぱら、食堂担当の召使い精霊である金色のシラサギが行っていた。

「嘘が下手ね。そう、あなたがそんな顔するくらいなのね。ちょっと!わたしに触って大丈夫なの?」

セリアは突然抱きしめられて、慌ててインファを引き離そうとした。けれども、ベッドに押し倒されて引き離せないどころか、不意に顔を上げたインファに強引に唇を奪われていた。

「ちょっ――あ、インファ!ね――ねえってば!」

「少し黙ってくれませんか?」

射貫くような瞳で、こんな至近距離で見つめられ、セリアは口をつぐまされていた。それから再び口づけが降る。セリアはもう、抵抗しなかった。熱があるせいだろうか。いつでも冷静なインファに、余裕なく求められているように感じるのは。

「うつらない?」

セリアは僅かに息を上げながら、気遣わしげにインファを窺っていた。そしてさりげなく逃げようとするセリアを、インファは押し止めながら冗談めかして言った。

「うつしてくださいよ」

「やだ、やめてよ。本当にもお!」

セリアは困った顔で笑いながら、今日は視線を逸らさずに見返してくれた。インファは、ナシャから聞いた病のことを、包み隠さず伝えた。セリアはそうなの……と小さくため息をついた。

「わたし、そのうち眠りから覚めなくなっちゃうのね?ルキルースの精霊が、不甲斐ないわ!」

心配かけまいと強がるセリアがいじらしくて、何もできない自分が不甲斐なくて、インファはセリアの頬を撫でた。

「セリア……もう少しだけ、こうしていていいですか?」

抱きしめて、セリアの肩に顔を埋めている夫の頭を、セリアは撫でた。

「いいわよ、いくらでも。フフ、あなたに捕まった頃、こんなことされたら冷静じゃいられなかったのに、今じゃずいぶん慣れちゃったわ」

慣れた?本当に?と言いたげに、不満げに、インファは顔を上げた。インファのこんな顔、見られるのはわたしだけかな?と思って、セリアは思わず笑ってしまった。

「今も、散々逃げてますよ?」

困った人ですねと、インファはセリアの隣に身を横たえて、優しく抱き寄せた。

「だって、インファは綺麗なんだもの!それに……わたし……」

「オレには超回復能力がありますから、少しくらい生命力を吸い取られても大丈夫ですよ?まだ、気にしているんですか?」

「そんなこと言って!最初、倒れたじゃないの!」

身を起こそうとしたセリアを強く抱きしめて押し止め、インファはよしよしとセリアの頭を撫でた。何日かぶりの抱擁で、セリアはすぐに大人しくなって、インファの胸にすり寄ってきてくれた。

 二人きりなら、比較的平気なのに、なぜこの人はオレを避けるのだろう?とインファは未だに疑問だった。なぜだと問うても、セリアはインファが綺麗すぎるからいけない!と変なことしか言わない。インファは、セリアが逃げるときは追わず、落ち着いて戻ってくるまで待つことにしていた。それで構わなかった。

セリアの心はインファにあって、例え隣にいなくても、笑っているセリアを見守っていられるならそれでよかった。女嫌いで通っていたインファということもあり、内情を知らない精霊達から政略結婚だと言われていても、構わなかった。今こうして、セリアが腕の中にいてくれるのだから。

「さすがに、未知でしたからね。オレにも余裕はありませんでしたよ」

セリアが原初の風の母に選ばれ、照れ屋な彼女にインファはゆっくり歩み寄るつもりが、そうも言っていられなくなってしまった。リティルはそのことに責任を感じてくれていたが、インファとセリアはさほど抵抗を感じていなかった。

ただ、初夜のとき、セリアはもの凄く緊張してくれて、その緊張がインファにも伝染して、あげく、セリアの隠された固有魔法で、本人も自覚のなかった、生命奪取が発動してしまい、霊力と生命力を同時に奪われたインファは、一瞬意識を失ってしまった。そのことがトラウマになってしまったのか、セリアはますます遠慮するようになってしまった。

「変な能力持っててごめんなさい」

「オレの生命力、役に立っているでしょう?大丈夫です。生命力が足りなければ、霊力を変換すればいいですし、その逆もできます。吸い取られる事がわかっているんですから、問題ありませんよ」

戦いに明け暮れる風の城の精霊達は、とてもタフで魔法に関してかなり器用だ。特に、リティル、インファ、ノインの風三人は、超回復能力をもっと活かせないかと研究していた。生命力と霊力の変換は、その過程でできるようになったと、インファはそう言っていた。今では、リティルとノインも力の変換をやってのける。

「それ、普通できないわよ?レイシが呆れてたでしょう?だからなのかしらね。インジュが、あなたに近寄れないのは」

風の城において、風三人の強さは別格だ。それぞれ特色を生かして、難題を解決してしまう。記憶力と解析能力の長けたインファは、何人もの精霊が関わらなければならない大規模な作戦のときは、情報の集まる中心にいることが多く、インジュは父がリティルを差し置いて城を動かしているのだと、大それた勘違いをしていた。セリアはそれを聞いて、訂正して叱ったが、リティルは優しくて、笑ってその通りだと言ってしまったから、インジュは未だに真に受けていることだろう。本当に、なんて愚かな息子なのだろう!とセリアは、リティルに申し訳なかった。

「インジュには、厳しく接してしまいましたからね。それよりセリア、由々しき事態ですよ?」

インファは腕の中のセリアを見下ろした。

「え?何?インファ、もしかして本当は体調悪いの?」

この病うつるの?とセリアは青ざめた。この人は、自分が辛いのに、オレのことを案じてくれるんだなと、インファは愛しく思って、セリアの頭に頬を寄せた。

「朝の鍛錬、観客がいないので身が入りません」

「えっ……!インファ、わたしが見てるの、気がついてたの?」

邪魔しないように、こっそりしていたつもりだった。それ以前に、セリアには絶対隠密という気配を消す固有魔法がある。それなのに、なぜバレたのだろうか。

「あなたの視線は、熱視線ですからね」

あんなに見つめられたら気がつくと、インファはからかうように笑った。

「イ、インファ……そ、それ、二人分だからよ!インジュもすごく熱心に見てたわよ!」

インジュと聞いて、インファはえ?と驚いた。あら?気がついてなかったの?とセリアは僅かな隙間から夫の顔を見上げた。

「インジュは、あなたのことが嫌いなわけじゃないのよ?自分に自信がないから、近寄れないだけなのよ。インファ、あの子のこと誤解しないで見ててあげて。それから……わたしのこと、ちゃんと目覚めさせてね」

インファなら、この呪いのような病を癒す方法を見つけてくれる。信じられるが、こんなに抱きしめて想ってくれるインファから、離れなければならないことが、セリアには心配だった。インファは淡泊に見えて、熱血なリティルに似ている。病を癒す為、インジュのこと、すべてに全力投球して、ソファーで寝ている姿が目に浮かんだ。無理をして、体を壊さないでよ?とセリアは祈った。

「わかりました。任せてください。セリア……今はこれだけしかできませんが、オレの霊力持っていてください」

「え?まっ――もお!わたしは寝ちゃうんだから、霊力いるのはあなたの方でしょう!」

キスで霊力を受け渡されて、セリアは抗議したが、頼れる夫はただ笑うだけだった。

「セリア、眠るまでそばにいますから。もう休んでください」

眠ると聞いて、セリアは不安そうな顔をした。このまま目覚めない可能性もあるのだということが、頭をよぎったのだろう。

「大丈夫です。すぐに病を治す方法を見つけますから。それまで、おやすみなさい。セリア」

暖かく笑ってくれるインファの顔を見ながら、セリアは、眠るのが嫌だなと思った。けれども、彼に頭を撫でられていると、安心して、睡魔が襲ってきた。

「インファ……大好きよ」

「知っていますよ。オレの愛する人。心配しないでください」

セリアは幸せそうに微笑むと、スウッと眠りに落ちていった。


 白亜の太陽の城は、暖かい日の光に満たされて、とても心地よい空気に包まれていた。

応接間にいた茶色の髪の、平凡な体型の青年が、ふと何かに気がついて振り向いた。鋭い紫色の双眸で、彼の背にはガラスのような透明感のある空色の翼があった。

「どうしたの?レイシ」

ソファーでコーヒーを飲んでいた、長い黒髪を三つ編みにした、レイシと同じくらいの年の女の子が顔を上げた。左右で違う色の瞳をしていて、金色と紅茶色をしていた。

「誰かがここへ向かってる気がする。方角からいって風の城からかな?」

「レイシのレーダー、だんだん感度よくなってるね。どこまでわかるようになるのかな?」

レイシは、昔から気配に敏感だった。精霊として覚醒して、ルディルの元で修行を積むようになると、ただ敏感だっただけの感覚が研ぎ澄まされ、レーダーのような役割をするようになってきた。ルディルは、レイシの固有魔法が発現しかかっていると言っていた。レイシはそれをモノにしようと、暇なときは神経を外に向けて探っている。

「さあ?でも、もっと感度上がったらかなり役に立つよね?」

「うん!隠れてる魔物の場所とか、力の属性とかまでわかったら、凄いよね」

「狭い範囲なら、数くらい把握できるかな?力の属性か……あと何がわかったら、嬉しい?」

レイシは正面に座るインリーに向かい、僅かに身を乗り出した。レイシの言葉を受けて、インリーはうーんと天井を見上げて考え込んだ。そして、ふと、クールな補佐官の姿が脳裏に過った。

「ええと……数と居場所がわかるだけでも、かなり狩りが楽になると思うよ?レイシ、欲張りすぎちゃダメだよ?ノインがね、とりあえず一個に絞って精度を上げろって」

「それは……そうなんだけど……これくらいのこと、風三人ならできるよね?」

風三人――リティル、インファ、ノインの三人だ。レイシが追いついて並びたい、風の城の中核を担う風達だった。

「レイシ、焦りは禁物だよ?確かにお父さん達にもレーダーっぽいことはできるけど、風が届く範囲だけだもん。障害物とか関係なくわかるレイシのレーダーは、それより優秀だよ?」

だから、凄いんだよ!と励ましてくれるインリーに、レイシはその冷たい瞳に和んだ笑みを浮かべた。そして、ありがとうと言った。礼を言われ、インリーは嬉しそうに柔らかく微笑んだ。その笑顔を見ていると、無駄に癒されるなぁとレイシは、焦りにギスギスしだした心がほぐれるのを感じた。

 そんなとき、廊下へ続く扉の前に気配を感じた。ああ、この気配は……とレイシは扉を見ずに探った。誰なのかを把握し、今日は随分待たされたけれども、何かあったのかな?と思った。

「おう、悪いな。レシェラが倒れててな」

オレンジ色の伸ばしたい放題の髪の、豪快な美丈夫が応接間にやっと姿を現した。彼は夕暮れの王・ルディル。セクルースを支える王の片割れだ。風に縁があり、その背には色こそオレンジ色だがリティルと同じオオタカの翼があった。

彼には妻があり、夜明けの女王・レシェラと共に昼間の世界を支えていた。

「ハル、大丈夫?風邪?」

レシェラは風の城の皆には、ハルの愛称で呼ばれていた。ハルは明るく快活な太陽のような女性だ。彼女が寝込んでいるから、今日は静かなのかとレイシは思った。そして、彼女を案じるインリーと同じように、レイシも大丈夫かな?と心配した。

「何なんだろうな?なあ、インリーしばらくここに居ねぇ?」

ルディルはこんなことは初めてだと、珍しく困ったように笑った。いつも豪快な彼が元気がない?レイシは、何か不穏なモノを感じてジッとルディルの様子を探っていた。

「ルディル、本当にハルがいないと、なんにもできないんだね?お父さんがいいって言ったらね。うちもね、セリアが倒れてるの」

「なんだと?そりゃあ、インファの奴気が気じゃねぇな」

「うつるといけないからって、セリアに寝室から閉め出されて大変なんだ。師匠は?追い出されてない?」

レイシがそう言いながらソファーを立ち、さりげなくルディルに近づくと、いきなり両肩を捕まれた。これにはさすがに驚いて、レイシは目を丸くした。

「レイシ!おまえもしばらくここに居ろ!」

「あ、師匠も?父さんの許可が下りたらね。あれ?父さんが来る」

ふーんと微笑んだレイシの瞳が、ふと虚空に向いた。レイシは、風の城から誰かがここへ向かっていることは感じていたが、それは父だったのだとやっとわかった。

「よお!元気か?ルディル!」

応接間の扉が開いて、リティルが入ってきた。

「リティル、珍しいな。何があった?」

突然の風の王の訪問に、夕暮れの王の瞳が険しくなった。それを見て、リティルも笑顔を収めた。

「ああ、話が早くて助かるぜ。実はな――」

リティルはナシャがもたらしたことを、ルディルに話した。

「そいつは……リティル、レイシとインリーをこのまま派遣しろ。レシェラはアウトだ。たぶん、このオレもな」

リティルの瞳が、心配そうに見開かれた。それを見て、ルディルはこの小さな友人のことを案じずにはいられなかった。

「隠してもしょうがねえ。オレも、しばらく前から咳が止まらん。そのうち、レシェラみてぇに倒れるんだろうよ。まあ、死んだ奴がいねぇのが救いだな」

「ルディル……」

「そんな顔するな。おまえ、何年風の王やってんだ!このオレが居ないときも、立派にやってたんだろう?今回は、おまえに助力してやれそうにねぇが、大丈夫だろう?なあ、そう言ってくれ、リティル」

ルディルは初代風の王だ。二十年ほど前、リティルに幽閉先から助け出され、レイシの産みの親だった太陽王から力を奪い、現在夕暮れの王としてセクルースを支えている。

ルディルは、幽閉先からずっと二代目から十五代目のリティルまで、風の王を見守ってきた。その中でもリティルは、一番華奢で、一番見た目年齢が若い。

ルディルは人間で言えば、三十五才の容姿で、リティルを除く歴代の王たちの中で一番若かったのは、十四代目風の王・インだった。そのインでさえ、二十八だった。十五代目のリティルは、彼よりも十も若いのだ。ルディルからすれば、身長がかなり低いこともあるが、リティルは子供のようで放っておけなかった。

「ああ、オレがなんとかしてやるさ!ただ、うちの主力が総力をあげられねーんだよ」

「あ?何か他にもあるのか?」

相変わらず世界は風に優しくないなと、ルディルは太い腕を組んだ。

「グロウタースに、そのうち大型の魔物が出るかもしれねーんだ。そいつは、オレの因縁の相手なんだよ。そっちも監視しなくちゃならねーからな、インファが動けねーのは痛いぜ」

「インファの奴、動けねぇくらいやられてるのか?淡泊そうに見えるのは、見かけだけだったか」

照れ屋のセリアが逃げ回っていても、インファは気にした様子もなく平然としている。オレがレシェラに同じ事をやられたら、魔物百匹相手に、八つ当たりしたくなるとルディルは思った。

「おまえらが暑苦しすぎるんだよ!インジュとセリアのダブルパンチだ。城に置いておくしかねーよ」

リティルは大きく盛大にため息をつくと、一人がけのソファーに遠慮なく座った。その向かいの二人がけのソファーに、ルディルも腰を下ろす。そして、おまえら?オレ達より、風の王夫妻のが真夏じゃねえ?とからかおうとしたとき、不意に咳き込んでしまった。

「お、おい、大丈夫かよ?」

腰を浮かせたリティルを手で制し、ルディルはゆっくりと息をした。自信家のルディルは、普段弱みを見せることはない。その彼が、苦しそうに顔を歪める姿は、リティルの不安を煽るには十分だった。

「あ、ああ、まだな。それにしてもなぁ、インジュか……原初の風がすまねぇな。しっかし、なんだってあんな、生っちょろい奴が生まれたんだ?なあ、兄弟どう思う?」

ルディルは、原初の風の元の持ち主だ。

昼間の国の支配者の証を手に入れるため、やむなく最後に残っていた風の精霊である証をリティルに託したのだった。しかし、原初の風の力は大きすぎてリティルの手に余り、やむなく、四分の一をレイシに、四分の一をセリアに託した。あの時は、リティルを殺してしまったと、ルディルは呆然となったが、すでに意志に目覚めていた原初の風のおかげで、リティルは命を救われ、今や烈風鳥王だ。

そのすぐ後、リティルの中に原初の風を残したまま、フロインが守護鳥として具現化した。フロインの本体である原初の風はリティルの中にあるため、彼女は肉体を壊されても、リティルが生きている限り何度でも蘇ることができる、不死身の精霊だ。そんな生まれ方、ありえない。よほど、原初の風はリティルを護りたいのだなと、元の持ち主としては妬ける。

 会話の邪魔をしないようにと、控えていた風の王の子供達は、会話に加わってきた。

「オレから言わせると、昔のオレを見てるみたいで嫌いだ」

レイシは、フンッと鋭い瞳でそう言い切った。

「言うねえ、インリーは?」

「インジュは多分、戦闘系じゃないの。癒やし系なんだと思うの。お兄ちゃんがもの凄いでしょう?それで、本来の力を発現しにくいんじゃないかな?フロインはバリバリ戦闘系だから、もしそうならバランスいいよね」

インリーは、大体リティルの見立て通りの回答をした。

「オレ、癒やし系じゃねーからな……何をどう教えればいいんだかなあ」

治癒系とか回復系とか普通言わないか?と思ってしまったルディルは、リティルが癒やし系と言う言葉を使ったことで、何やら笑いがこみ上げてきた。これはもう、リティルで遊ばなくては気が済まない。

「何言ってんだ。おまえは、どう見たって癒やし系だろう?」

「ああ?オレのどこをどう見て癒やし系なんだよ?」

どうやら、真面目に悩んでいたリティルは気がつかなかったようだ。怪訝そうな瞳を向けてくる。そこへ、すかさずレイシとインリーが乗っかってきた。

「父さんは癒やし系でしょ」

「うんうん」

「あのなあ、おまえら、真面目な話してるんだぜ?」

何の冗談を言われているのか気がついたリティルは、笑いをこらえる皆の顔をジロリと睨んだ。すかさずルディルは手を伸ばすとリティルの頭を、大きな手で正面からポンポンッと叩いた。ルディルは二メートルはないにしても、一五〇センチしかないリティルとでは、大人と子供ほどの外見の違いがあった。

「ガハハハ!なんか元気出たわ!冗談はさておき、インジュは相当ヤバイ仕上がりみてぇだな」

「ああ、最上級であれだからな。インファがヤキモキするのわかるぜ。レイシはどうなんだ?原初の風の力、使えたりするのかよ?」

「オレ?うーん、オレのは借り物だから、あんまり触りたくないなぁ。でも、レーダーみたいな魔法が発現しそうなんだ。原初の風の力かな?」

「レーダー?それ、たぶん、おまえ自身の力だぜ?おまえ、昔っから敏感だったからな。どれくらいわかるんだ?」

リティルの瞳が、興味深そうに輝いた。興味持ってくれるんだと思うと、レイシは顔には出さないが嬉しかった。

「狭い範囲なら、どこに何がいるかわかるよ。まだ、わかるだけだけどね。ねえ、父さん、相手の状態とか力の種類とか、わかるようにならないかな?」

「そこまでわかったらすげーな。けど、片鱗は発現してるじゃねーか」

「え?ホント?」

「ああ、オレが来るってわかったんだろ?おまえが見てるのは、霊力なんじゃねーか?霊力も魔力も、人それぞれだからな、感度が上がれば魔物のそれも、わかるようになるかもな」

「うわ……オレ、俄然やる気出たよ。父さん、兄貴そんなに凹んでるの?修行の仕方、聞いちゃダメかな?」

「今日はやめとけ。寝室に近づくな。むしろ、帰ってくるな」

おそらく、インファがセリアのそばにいられるのは今夜だけだ。明日からインファは、病の治療方法を躍起になって探すだろう。だから、明日までの限られた時間を、雷帝夫婦に与えたかった。リティルは、誰になんと言われていようと、二人が愛し合っていることを、知っているのだから。

「へえ」

「何々?お兄ちゃんどうしたの?大丈夫?」

何かを察したレイシとまるでわかっていないインリーを見て、ルディルは楽しそうに豪快に笑った。そして、再び咳き込んだ。インリーが気休めでもと、背もたれの向こう側からルディルの背に癒やしをかけてくれる。

「インジュの奴は、グロウタースのかつてのオレの仲間に預けてきてるんだ。オレ、しばらくイシュラースにいねーと思ってくれよ。何かあったらインリー、シェラ経由で頼むな」

「了解でっす!ねえ、お兄ちゃん本当に大丈夫?」

ルディルの咳でうやむやになったかと思われたが、インリーは何も察することができないまま蒸し返した。それを聞いて、レイシはフウとため息をついた。

「インリー、例えばさ、インリーが誰かと魂分け合って、それで、二人で部屋にいるとき誰かに覗かれたい?」

「え?わたしが?誰かと?」

レイシは頷いた。

「わたし、レイシの隣にいられなくなるの?」

ん?なんでその方向に行くの?とレイシは思わず首を傾げた。

「インリー、そうじゃ――」

「嫌!」

「え?」

「そんなの、嫌だよ!」

インリーの左右で違う色の瞳が、壊れそうな危うさを見せた。それを見たレイシは、いけない!と咄嗟に思った。彼女を守らなければと思ってしまった。

「インリー、オレとさ、始まる気ある?」

インリーがオレの隣に居続ける為には、どうすれば?そう考えて、レイシは咄嗟にそう言ってしまった。インリーは意味がわからない様子で、キョトンと見返してきた。自分の口から出た言葉が信じられなくて、表情は取り繕ったが答えられないレイシから、インリーの視線が肩越しに振り向いていたルディルに向く。

「始まるって何?」

「あ?始まるって言ったらなぁ、付き合えってことだろう?ようは、あれだ!レイシとイチャイチャしたいかってことじゃねぇ?」

視線を受けたルディルは、サラリと教えてやった。それでいいんだよな?とレイシを見やると、自分で言ったことだというのに、少し動揺しているようにルディルの目には見えた。

「え?レイシと、イチャイチャ?え?えええ?」

インリーは見る間に顔が真っ赤になった。無理もない。インリーの望みは、レイシの隣にいたいだけで、それ以上でも以下でもないのだから。

「父さん、口説いていいよね?」

いいって、今は言って!とそう目で訴えられ、リティルは口調はいつも通りだが、危機迫るレイシに気圧された。しかし、リティルはいいとは言えなかった。レイシが本心から口説きたいと言っていないことが、わかったからだ。

「レイシおまえ、いいのかよ?」

「え?うん。父さんが許可してくれるなら」

この言葉には、嘘はなさそうだったが、レイシの本心はリティルには見えなかった。レイシは、嘘をつくのが上手いのだ。リティルにはもう、レイシの本心を見抜くことはできなかった。

レイシが、産みの親と対峙してしまったあの時から。レイシを守れなかったあの時、リティルは、レイシの父親である資格を失ったと思っていた。

「おまえらがいいなら止めねーよ。血のつながりねーしな。ただし、早まるなよ?ないとは思うけどな」

――父さん、オレ、インリーのこと妹だって思ったことないよ?

いつかそう言ったレイシの声が蘇った。

自身に流れる血を呪い、風の王の血がよかったと泣いたレイシは、インリーとある一定の距離を保とうとするようになった。それで守ろうとしているものは、多分、インリーなのだ。しかしインリーには、それがわからない。もう、今までのような、力のないレイシを守る為にそばにいるという大義名分はなくなっている。しかし、それもわからずに、無邪気に今まで通り隣にいられると思っていた。皆が、そんな二人の姿にどう思うのかも、わからずに。

カルシエーナが思わず、魂分け合ってないけど夫婦だと言ってしまったように、その姿を、誰も兄妹とは見ていない。そのことを、レイシが嫌がっているようにリティルには見えた。

それなのに、口説いていいか?とは、レイシは大丈夫なのか?とリティルは心配になった。

 レイシが、変わってしまう前なら、リティルは息子がいつか、インリーがほしいと言ったら許すつもりだった。だが、今のレイシは?頑なにレイシを手放そうとしないインリーを思い、自分の本心に蓋をしているとしたら?風の城に、リティルの息子として未だそばにいてくれているレイシは、自分を犠牲に――

「了解、父さん。それで、今から太陽の城勤務でいいの?」

レイシの温度をなくした冷たく鋭い瞳。本当は、”リティル”を父とはもう呼びたくないのではないかと、思ってしまったりする。本当は、レイシを解き放った方がいいのかもしれない。リティルは自分の思いに蓋をして、レイシの瞳を見返して答えた。

「ああ、よろしくな。おい!インリー、しっかりしろよな?」

「うっは、はい!」

空想の世界から引き戻されたインリーは、かろうじて返事をした。そんなインリーをレイシは、意識してる意識してると、鋭い瞳に意地悪な笑みを浮かべて笑っていた。

「マジか。リティル、いいのか?」

三人のやりとりを傍観していたルディルは、リティルが許したことを驚いていた。ルディル自身も、二人を兄妹だと思ったことはない。むしろ、夫婦だと錯覚することの方が多かったが、リティルは二人の父親だ。リティルだけは、二人を兄妹と見ていると、根拠はないがそう思っていた。

「血も存在も繋がってねーんだ。二人がいいなら、何も言わねーよ。それよりルディル、何かあったら遠慮なく言ってくれよな?」

イシュラースすべてを飲み込む事態に発展している、今回の病騒ぎ。リティル達、風の城の住人の大半が、条件から外れていることは救いだ。

当然の様に案じてくれるリティルに感謝しつつ、ルディルは強がりの笑みを浮かべた。

「今のところは心配するな。病が進行しても、寝る時間が長くなるだけなんだろう?他に害がねぇなら、それでいい」

「無理するなよ?古参の精霊があとどれくらいいるのか、オレ、把握してねーんだよ。この城の図書室にあるか?」

風の城にはなかったような気がするからと、リティルは言った。

「だったら、歴史の保管所のほうが正確だ。ユグラんとこ行け。あいつは二代目だろ?病気の心配ねぇし何なら呼びつけてやれ」

ユグラは風の王と同じ、四大元素と呼ばれる、自然を構成する、基本的な力の一端を担う王の一人だ。大地の王を務めている、十二歳くらいの少女の姿をした精霊だった。

しかし、最上級精霊の風の王とは違い、上級精霊だ。他の水と炎の王たちも上級精霊だった。他に、炎の王・エセルトと、水の王・メリシーヌが王を務めている。

「……待てよ、ってことは、エセルトとメリシーヌは、病気になる可能性があるのか?」

「あ?あいつらも古参か。まあ、死なねぇなら業務が滞ることはねぇ。リティル、情報だけ流してやっとけ。ああ、しかし、ルキが古参じゃねぇのが不幸中の幸いだな」

夜の国の支配者、幻夢帝・ルキ。ひょんなことから縁があり、リティルとはかなり仲のいい精霊だ。黒猫が化けたかのような、十二才くらいの容姿の少年だ。

あの姿の割に、抜け目なく精神年齢が高い。何とか、風の城と連携してくれよ?とルディルは祈った。

「ああ。けどな、あいつのところのほうが大変だぜ?頼れる奴らみんな古参だからな。ルキ一人でてんてこ舞いだ。大丈夫かって聞いたら、みんなが寝てるのはいつものことだから、大丈夫って言うんだよな」

「そりゃ、おまえには頼れねぇからなぁ。ノインでも送っとけ」

リティルもルディルと同意見だった。ルキは、セクルースのため、風の城も事態の収拾に動かなければならないことを、わかっていて強がっているのだ。

「やっぱりそう思うか?ノインまだ、狩りから戻ってねーからな。帰ってきたら話す算段にはなってるんだ。いったい、何が起こってるんだろうな?」

リティルは険しい顔で押し黙った。そんなリティルを頼もしく思いながら、ルディルはまた不意に咳き込んでしまった。

「ごめん、長居しすぎたな。どうしても、おまえ相手だと頼っちまうんだよな」

リティルは耐えきれなくなって、ルディルの隣に移動すると彼の背を擦ってやった。体が熱い。かなり熱があることがリティルにはわかった。しかし、気がつかないフリをする。

「そりゃ、伝説の初代風の王だからな!気にするな、リティル。オレはおまえを、友人だと思ってるぞ?遠慮なく頼れ」

「ああ、オレもそう思ってるよ。ありがとなルディル。オレ、もう行くよ」

「ああ、頼むぞ?烈風鳥王」

リティルとルディルは、互いの手の平を打ち、そして別れた。帰り際、リティルはインリーの頭をポンポンと叩き、レイシには頼んだぜ?と声をかけていった。

 リティルを見送り、ルディルは気が抜けたように、ズルリとソファーに身を深く沈めた。その息が荒く、熱を帯びていた。

「ルディル!熱上がってるの隠してるんだから」

インリーがソファーの背を飛び越えて、隣に座ると気休めでもと治癒魔法をかけてくれた。

「あいつの肩には、世界が乗っかっちまってる。このオレが、これ以上負担になってたまるか!」

「はいはい、わかったから。立てる?寝室まで肩貸すよ」

レイシはそれほど背が低くはないが、やはり大男といっても過言ではないルディル相手では、小さく華奢に見えてしまう。

「大丈夫だよ。あんたのそばには、オレが居るんだからさ」

「言うねえ。頼もしくなりやがって、このひよっこが」

「アハハ。あんたに鍛えてもらったんだからさ、期待してよね?師匠」

「そんなこたぁ、わざわざ、言わなくてもわかってるだろう?」

「うん、そうだね」

レイシは笑いながら、噛み締めるようにそう言った。

 ルディルへ弟子入りを希望したのは、レイシ本人だった。彼は初代風の王だ。混血精霊は、否応なく狩りの対象だ。ルディルも混血精霊を狩ってきただろうに、彼はレイシを受け入れて、太陽光の使い方を一緒に考えて鍛えてくれた。

ルディルは豪快でずぼらで、そんな彼の妻であるハルは寛大だった。風の城で召使いの鳥達と共に家事をやっていたレイシは、見かねて二人の世話を焼いて回った。

――お、頼りになるねぇ。さすが、リティルの息子だな

何気なく言ったのだろう。だが、そんな些細なことでも、嬉しかった。混血精霊のオレでも、何かの役に立つのだということが、レイシの自信になった。

リティルの、帰り際の心配してくれる瞳。それでも頼むと言ってくれた。

ずっと庇護して、今でも守ってくれているリティルに、報いるチャンスだった。ここで、使えることを示せば、リティルの失ってしまった信頼を取り戻せる。レイシは、道を踏み外してしまったことで、リティルを裏切ってしまったと悔やんでいた。失った信頼は、自分で取り戻す。そう心に決めて、ルディルのもとへ通っていた。

もう一度、リティルに息子として受け入れてもらう為に、リティルと、インファから離れる選択をしたのだから。


 リティルが楽園へ引き返した頃には、夜になっていた。薄らと、まだ太陽の赤い光が空に残っている。

大賢者の館の、あの三連の大きな扉の一つを開けようとしたとき、シェラから連絡が届いた。ノインが帰ってきたと。そして、楽園に行くと言って出かけたことを聞いた。

リティルは扉を開くと、足早に館の奥を目指した。学び舎の奥には、魔道を極めし者の称号である、賢者だけが入ることを許されたエリアがある。

その中に、重要な客人の滞在する区画があった。

 エフラの民に合わされた設計の天井は高く、廊下も広い。中庭を囲む尖頭アーチの続く列柱廊、アーチの柱には狼の彫刻が施され、厳かな雰囲気を醸し出している。六分割された曲面天井から、星形の魔法のランプが吊され魔法の光が灯されていた。

リティルは、薬草の生える中庭へ入ると、薬草の花壇に囲まれた、大きなランタンのような東屋に向かった。壁が蔓草の細工で網のようになっていた。

 リティルは、東屋の内側の壁にグルリと取り付けられた、腰掛けるための出っ張りに腰掛けて待っていると、聞き慣れた羽ばたきがして、金色の翼が舞い降りてきた。スラリと背の高い、短い金色の髪の男。あの額から鼻の上までを隠す仮面がミステリアスな、風の騎士・ノインだった。

「わざわざ悪いな、ノイン」

リティルは、頼れるクールで大人な補佐官の姿に、ホッと心が安堵するのを感じた。

「問題ない。シェラから話は聞いたが、何やら不穏だな」

「そうなんだよ。ルディルとハルも同じ病気だった」

リティルはそう言って俯いた。そんなリティルに、ノインは水晶球を差し出した。

「シェラからだ。小さなゲートで会話ができるそうだ」

ノインは水晶球を渡し、リティルの隣に腰を下ろした。

『父さん、無事にノインと合流できたようですね?』

金色に淡く水晶球が輝き、ボンヤリとインファの姿が浮かんだ。

「インファ、ケルゥはどうだ?」

『症状は出ていません。今後どうなるかわかりませんが、純血二世というのも、関係あるのかもしれませんね』

再生の精霊・ケルディアスは、インファやインリーと同じ、精霊を両親に持つ純血二世だ。古参と呼べるほど太古から生きているが、狐につままれたような顔をして、何もないと言っていたらしい。彼と対の力である破壊の精霊・カルシエーナとは、恋仲だった。

「そうか。ケルゥにはカルシエーナがついてるからな、お守りはあいつに任せようぜ。インファ、おまえは大丈夫か?」

今夜くらい、セリアのそばにいたって罰は当たらない。会話に入ってこないが、シェラが当然応接間にいてくれるのだから。風の王妃であるシェラもまた、王の代理をそつなくこなしてくれる。

『オレですか?……セリアが昏睡に入りました。ナシャがついてくれているので、大丈夫です』

「インファ……おま――」

『風の王、変な命令は下さないでくださいよ?例えば、妃のそばにいろとか、いりませんから。セリアにはすべて話しましたし、しばしの別れも済ませました』

苦笑交じりに、リティルはインファに先手を打たれていた。隣でノインも、小さく笑っていた。そんな二人の様子に、心配ぐらいしたっていいだろ?とリティルは頭を掻いた。

「わかった。インファ、ユグラに頼んで古参の精霊がどれくらいいるのか、調べてくれ。それから、そのすべてに、知らせてやってくれ。おまえは城で、引き続き王の代理を務めてくれよ。ノインには、ルキルースに行ってもらうからな」

「了解した。ルキには追い返されそうだが、なんとか居残ってみよう」

ノインはすでに想定していただろう。普段の彼なら、シェラの報告を聞いてすぐ、リティルに一報を入れ、そくルキルースへ行っている。ここへ来てくれたのは、リティルを心配してくれたからだ。

「悪いな。そうしてやってくれよ」

『オレ達から見れば、父さんの方が心配ですよ?セクルースは、必要ならオレが飛びますから、父さんは楽園に専念してください』

「そうしろ、リティル。城にはシェラもいる。ケルゥは、症状もないのに軟禁される玉ではない。魔物討伐は、破壊と再生にやらせておけばいい」

リティルは疲れた瞳で、ノインを見上げた。

「ありがとな、二人とも。でもな、隠し事するなよ?」

それを聞いて、インファとノインは同時に笑い出した。

『しませんよ。仕事のことで、オレ達が王に隠し事したことありましたか?』

「ただの一度もないな。リティル、大丈夫だ」

『そうですよ。心配いりません。オレ達よりむしろ、風の王、あなたのほうが隠すじゃないですか?ダメですよ?もっと、副官と補佐官を信頼してください』

「信頼してるよ!どうしようもねーくらい、依存してるしな。悪い。ちょっと、いっぱいいっぱいなんだ」

リティルは膝に肘をつくと、片手で顔を覆った。そんなリティルの背に、ノインが手を置いてくれる。彼の大きな手から伝わってくる体温に、一人ではないんだと思えてやっと安心できた。

『父さん、厳しいならインジュを城に戻しください。闇の王は、フロインが片づけるでしょう?今の父さんでは、ゾナにガードされているディンには近づけませんよ?』

「おまえ、ホントに優秀だな。実はあいつらがオレに隠れて何をしようとしてるのか、全部わかってるんじゃねーのか?」

『どうでしょうか?ちなみに、ディコもこちらの味方ではありませんよ?』

「へ?ホントかよ?」

リティルはあまりの衝撃に、水晶球を取り落としそうになった。ディコはもう、立派に大人だ。しかも父親にまでなっている。もう、小さかったディコではないのに、リティルはずっとそこから心が止まっていることに、やっと気がついた。ディコにはもう、リティルの知らない時間の方が長く流れている。

もう、絶対の信頼を置いてくれていたディコはいないのだと、かつての相棒と道が離れてしまった現実を見た。

『ニーナには会えていませんから、どちらなのかわかりません。確証のないことは言えませんから、これくらいで許してください』

ニッコリ笑う副官の顔を見ながら、リティルは絶句して二の句が継げなかった。

『とりあえず、大まかな方針は以上ですね。明日の朝、ユグラと話しますから、今日はこれで失礼します』

水晶球から金色の光が消え失せた。

 あたりは濃い闇に包まれた。するとすぐに、東屋の天井にあった星の形のランプが灯った。どうやら、明るさに反応するらしい。

「リティル、今日はもう休め」

立ち上がりこちらを見下ろすノインを、リティルは見上げた。そのすがるような瞳に、ノインは怯んだ。そんなに、ルディルのことで打ちのめされているのか?と、心配になった。

夕暮れの王・ルディル。最強と謳われた初代風の王で、現在太陽と昼を支配する王だ。

申し分ない力を持ち、豪快な男。二十年ほど前、リティルが幽閉先から助け出し、元太陽を統べていた精霊王を討ち転成した異色の精霊。リティルが精神的に頼っている精霊だ。

その彼が病に倒れた。彼だけではない。風の城に協力してくれている精霊達が、次々に倒れている。風の城は徐々に、孤立無援になりつつあった。

世界が重く、リティルの小さな肩にのしかかる状態に、ノインは主君を案じていた。

 リティルが、疲れて力なく、やっと口を開いた。

「ノイン……レイシがな、インリーを口説いてもいいかって言うんだよ」

は?誰が誰を口説く?ノインは、唖然と瞳を見開いたかと思うと、いきなり盛大に吹き出した。そして、声を殺して笑い出した。ついには、立っていられずに、頽れてしまった。

「うん……おまえの反応に救われるぜ。レイシに気圧されて、思わず……許可、しちまったよ……」

きょ、許可した?もう、笑いが止まらない。

「リ、リティル、オレを――殺す気か?」

「死んでねーで、オレの愚痴聞いてくれよ!おまえしかいねーんだよ!インファやシェラにはとても言えねーよ」

そんなたわいないことを真剣に愚痴るリティルに、ノインは取り越し苦労だったか?とホッとした。

「ククク……それは、そうだな。それで?レイシは今更どうした?」

ノインは立ち上がると東屋の入り口によりかかって、腕を組んだ。夜風が心地よく、薬草の独特の香りを乗せて吹き抜ける。

「今更か。そうだよな、今更なんだよ。レイシもインリーもオレの子だけど、あの二人を兄妹だと思うヤツは誰もいねーからな。ただ、レイシが力を手に入れて、二人の関係は変わっちまった。レイシはそれをちゃんと理解してる。問題なのは、インリーだ」

二人は昔から、夫婦と取られる方が多かった。魂分け合ってないと言うと、驚かれる。単に仲がいいとは違う絆を、皆感じるらしかった。

リティルは別に、反対しているわけではない。むしろ、そのうち本当に夫婦になると思っていた。そのときが来ただけだった。

だが……レイシの心がわからない。リティルは、二人が今のまま結ばれたとしても、祝福してやれる自信がなかった。

「ああ、もうレイシにインリーの守りは必要ないからな。むしろ、インリーがレイシに守られる側になってしまったな」

ルディルに弟子入りして、レイシはメキメキと力をあげた。超回復能力もなく、人間のようにか弱い肉体はそのままだが、申し分なく魔物狩りに出られるまでになっていた。ノインもインファも、レイシと組むと楽だと言って、連れて行きたがった。レイシはえー?また?と言いながら、まんざらでもない様子で兄たちと組んでいる。

楽しそうな今のレイシを見ていると、よかったなと思う。だが、レイシを縛り付けているのでは?とも思えて、リティルはレイシの父親として自信がなかった。

「ホントに口説くつもりなのか?あいつは……」

レイシの、オレに今は合わせて!と言いたげだった瞳が気になって、仕方がない。確かにインリーの様子がおかしかったが、なぜレイシは、いきなりあんなことを言い出したのだろうか。レイシ以外の誰かとと例えをいわれ、インリーはそれを嫌がった。あの時、リティルからは、ルディルの巨体の真後ろにいたインリーの表情は見えなかった。しかし、レイシの表情は見えていた。一瞬、レイシが焦ったような気がした。そしてあの発言だ。何かがあったのか?リティルにはわからなかった。

「父親として複雑か?」

「ん?よくわからねーな。けど、レイシは本当にいいのかよ?あいつ、未だに自分の生まれを呪って、オレ達風に遠慮してるからな」

「止めるのか?」

「いや?たぶん、レイシとインリーの運命は、あの時から繋がってるからな。……あいつらがまだ子供の頃な、レイシが行方不明になったことがあったんだ」

リティルはぽつりとぽつりと昔話を始めた。


 それはまだ、インリーも未熟な頃で、インファは辛うじて大人の仲間入りをした頃だった。

「お父さん!レイシが、いなくなっちゃった!」

そう言って、当時十五才くらいにまで、外見の育っていたインリーが、泣きながら応接間に戻ってきた。当時二人は風の城から出ることは禁じられていた。城の内部にいるはずだが、風を使っても行方が掴めなかった。

「外部から侵入された形跡はありませんし、出た形跡もありません。レイシは、城のどこかに必ずいます」

風に呼びかけ、インファがすぐさま調べてくれたが、風の城は主が十五人も変わった城だ。リティルでさえ、把握していない隠し部屋などがある、迷路のような城だった。どこからか、そんな部屋に入り込んだとなると、捜すのは容易ではなかった。未熟な上に、霊力に目覚めていないレイシは、自分で身を守る術を持っていなかった。あの頃は、リティルとシェラしか知らなかったが、レイシは太陽の力を持つ混血精霊だ。自分で体の維持に必要な霊力すら作り出せないレイシは、日の光に当たらなければ衰弱して死んでしまう。もしも、日の光の届かない場所にいたとしたら……リティルとシェラは慌てた。両親の慌てぶりに、インリーはレイシを見失った自分のせいだと青ざめた。幼いながら、インリーはレイシを守ることが仕事だと思っていたのだから。

「大丈夫ですよ。城のどこかにはいるんです。レイシは必ず見つけ出しますから」

そう言って優しく兄が慰めてくれたが、インリーは思い詰めていた。

「インファ!この城で、風の届かねー場所がどれくらいあるか調べてくれ!オレは今わかってる場所に行ってくる!」

レイシを案ずるあまり、責任を感じているインリーに気を配ってやれなかった。

リティルはシェラと手分けして、歴代王がプライベートで使っていた部屋を、シラミ潰す為に飛んだ。リティルとシェラの寝室もそうだが、プライベートの部屋には自身にだけ従う風が守っていて、他の者の風――例えばインファには二人の寝室の内部は探れないようになっている。それが、主が亡くなったあとも特殊な結界のようになって、存在してしまっていた。一つずつ解いてもいいのだが、何となく触れがたくてリティルはそのままにしていた。それが裏目に出てしまった!とリティルは自分を責めていた。

「インリー、ここにいてください。レイシが戻ってくるかもしれませんから」

インファもそう言って、インリーのそばを離れてしまった。一人、広い応接間に残されたインリーは、気ばかり焦って倒れそうなほどだったが、誰も助けてくれる者はいなかった。

「レイシ……どこにいるの?レイシ……!」

泣いても何もならないことは、子供ながらにわかっていた。しかし、泣くしかなかった。

――インリー……

レイシの声が聞こえた気がした。とても弱々しくて、おぼろげだったが確かにレイシの声だった。

「レイシ?レイシ!どこ?どこにいるの!」

小さな声で、近くから聞こえてくる感じではなかった。風が伝えてくれているのか、それとも何か別の方法で、レイシ自身が声を届けているのか、未熟なインリーにはわからなかった。

――インリー……

レイシが、助けを求めていると感じた。助けなければと思った。

「待ってて!わたし、レイシの所に行くよ!そこで、待ってて!」

叫んだインリーの目の前に、ゲートが開いた。インリーは躊躇いなく、突如開いたゲートに何の疑いも持たずに飛び込んでいた。

ゲートは、神樹の精霊と花の姫にしか、操ることにできない力であることを、未熟なインリーはわかっていなかった。

 ゲートを抜けた先は、崩れた天井から淡い日の光が差し込む地下室だった。ワインセラーのようで、埃をかぶったワインのボトルがそのまま残されていた。

「レイシ!」

天井から三メートルはあるだろうか。当時まだ九才だったレイシは、崩れたワインの樽の上に倒れていた。インリーが駆け寄ると、レイシは生きてはいたが気を失って、怪我もしているようだった。子供だったが、治癒の力に目覚めていたインリーは、今動かさない方がいいことを感じた。だが、自分の治癒の力では癒しきれないことも感じ取っていた。

「どうしよう……ここ、どこ?」

ここへ導いてくれたゲートはすでに閉じてしまっていた。インリーのできる皆を呼ぶ方法は……これしかない!

インリーは歌い始めた。まだまだ練習不足で、拙い歌声だった。天井の穴からか細く彷徨い出た歌声を、レイシを捜していた風が拾った。

「インリーの歌?」

城内を捜索していたリティルは、その声を聞いた。すぐさま風に呼びかけると、歌声は応接間からではないことがわかった。リティルは風に案内を頼み、飛んだ。

風は中庭へ導いた。中庭は、リティルが作った場所だった。元々は大広間で、その奥には大食堂があった。そのすべてを潰して、中庭と温室に作り替えたのだった。

歌声は中庭の端から聞こえてきていた。

「インリー!どこだ!」

「お父さん!ここ、ここだよ!」

「うわ!おまえ、どっから出てくるんだよ!」

草の茂った地面から、インリーが顔を覗かせた。そんなところから出てくると思っていなかったリティルは、大いに驚いた。そして、なぜ風が見つけられなかったのかを知った。地下だった為に、風が入り込めなかったのだ。

「この下、部屋になってるの!」

インリーは地面に消えた。リティルは慌てて駆け寄ると、その場所を覗き込んだ。確かに中は部屋だった。リティルは小さな穴を抜けられず、どこかに出入り口はないかと、中へ風を放った。

「父さん!こっちです」

駆けつけたインファが、リティルの風が吹き上がった場所をいち早く見つけ、その場所を探ってくれた。生い茂った草の下に、鉄の扉があり、それを開けると、地下へ続くレンガ造りの階段があった。二人で駆け下りると、ワインを収めたレンガの棚が出迎えた。古そうだが、風の守りが未だ機能しているようで、ワインはまだ生きていそうだった。

崩れたワインの樽の上に、インリーが待っていた。そこへ飛んだリティルは、倒れているレイシの状態を確かめて険しい顔をした。

「シェラ、こっちだ!」

後れて入り口に到着したシェラに、リティルは叫んだ。レイシは、全身を強く打っていて危険な状態だった。あと少し見つけるのが遅かったら、おそらくシェラの力でも助けられなかっただろう。拙いが、インリーの歌が瀕死のレイシを、死から遠ざけてくれたのだ。インリーの歌う風の奏でる歌には、天寿以外の死を遠ざける力があるのだ。インリーは、歌でもレイシが死なないように守ったのだった。

「あのとき、インリーは、レイシのところへゲートを開いたんだ。インリーにはその自覚がなくてな、シェラにどんな力なのか、あいつが寝てるときに探ってもらったんだ。どんなゲートの力だったと思う?」

リティルは、ノインを見上げた。そのリティルの顔は笑いを堪えるようだった。

「レイシのそばにゲートを開くだけの、魔法だったんだよ」

インファは、では、固有魔法名は”レイシの隣”ですねと言って笑っていた。インリーの固有魔法・レイシの隣は、あれ以来一度も発現していない。おそらく、インリー本人も忘れていることだろう。

「それは、筋金入りだな。インリーはそんな幼い頃からレイシが好きだったのか?」

「たぶん今でも自覚ねーんじゃねーか?だからな、レイシがその気にならなけりゃ、進まねー関係なんだよ。あの時な、レイシが口説いていいかって聞いてきたとき、インリーがちょっとな……それで、仕方なくそんなこと言い出したような気がして、許可してよかったのかどうなのか、わからねーんだよ」

「レイシは本心を隠すことが上手いからな。だが、大事にしていると思うが、な」

「まあな。レイシがインリーを好きならいいんだ。インリーの為に、心を偽ってるんじゃねーならな」

混血精霊として覚醒したレイシは、自分自身を穢れた存在だと思い込んで、インリーを遠ざけようとした。しかし、インリーの拒絶にあい、レイシは離れることを躊躇った。

インリーを兄妹だと思ったことはないと言ったり、離れようとしたり、レイシはインリーを本当に大事にしてくれていた。しかし、インリーはレイシのそんな優しさに気がついていない。子供なのだ。レイシが隣にいることが当たり前で、レイシが一人前になってしまった今、それが当たり前ではなくなったことにすら気がついていない。

兄妹でないと言うのなら、レイシはいったいなんなのか、インリーはその答えを迫られていることに気がついていない。レイシが何も言わずに、隣に置いておいてくれているだけなのだということに、そろそろ気がつかなければならないところに来ていた。

レイシがインリーを思って、風の城を出る前に捕まえなければ、インリーはレイシの隣という居場所を失う。

「見守るより他ないが、状況から見て、レイシが本当に口説くことはないだろう」

「そう思うか?だよなーレイシだからなー。あいつにまた、背負わせちまったかな?」

「なるようになる」

「だよな。なるようになるよな。なあ、ノイン、オレ、まだレイシの父親か?」

「何を言っている?誰がどう見ても、おまえはレイシに父親として慕われている」

リティルは力なく笑って、ありがとうと言った。しかしリティルは、ノインにそう言い切られても、信じることができなかった。レイシの鋭く冷たい瞳が、暗闇の中にいたリティル自身の少年時代と重なって、息子が未だ闇の中にいるのではないかと思えてしまう。

「ノイン、おまえって恋愛話にも乗ってくるけど、どうなんだ?」

「うん?さて、どうなのだろうな」

問われたノインは、困ったように首を傾げた。

 ノインは風の城の女性陣とも、恋愛話で盛り上がれる。話題はオールマイティだ。

ノインは城にいるときは、ほとんど応接間にいる。そのせいか、城の内情にはインファ以上に詳しいかもしれない。

「まあ、わからねーよな、こればっかりは。オレも、シェラに出会うまで興味なかったからな。なあ、そう言えば、スフィアと会ってるんだってな」

「報告していなかったが、その通りだ。おまえの助けたあの娘、気になってな」

それだけではない。闇の王を生んだのは、生んでしまったのはインの失態だ。インの代わりにインのすべてを受け継ぎ、リティルを守ると誓ったノインは、スフィアのことも捨ておけなかった。

 インには見えなかった、闇の王の核。すべてを腐敗させる力の塊の、中心にいた赤子。

当時生まれたての赤子だった彼女に、風の王の左の片翼、死の翼・インスレイズが融合して生まれたのが闇の王だ。

インは、インスレイズを取り戻す為に、闇の王となってしまったインスレイズと戦ったが、破れ、彼の鳥を暴走させない為に右腕として悪の側に立った。

 ノインは、インを父親として今でも慕っているリティルに、視線を合わせた。リティルは知っているのだろうか。この双子の風鳥に伝わっていた、おとぎ話の中のインの姿を。

風の王だったインが、死にたいと願った、その過去を。

「おまえ、惚れられるなよ?」

「そんな都合のいい話があるものか。見た目年齢もかなり違う」

スフィアとノインでは、親子だ。そうは思っているが、精霊とグロウタースの民では、何が起こるかわからない。

リティルの憂いはわからないでもないが、少し見当がずれているなとノインは思った。スフィアを案ずるあまり、楽園の全体が見えていないように思われた。

「オレはおじさまで、インファはインファ様だ。それでおまえは、ノインなんだよ。この手のことは、怖えーんだよ。これまで、大きな事件はずっとそれ絡みだったからな」

「なるほど。だがおそらく、スフィアの相手はオレではない」

「ならいいんだ」

「フロインとインジュ、おまえの目を盗んで楽園に出入りしていたこと、知っているな?」

「ああ、小鳥の監視はつけてたぜ?」

ザワザワと風が薬草の花々を揺らした。リティルは風に乱れた半端な長さの顔の横の髪を、無意識に掻き上げた。

 やはり、気がついていないようだなと、ノインは思った。ならば、少し釘を刺しておくかと、軽い気持ちでノインは口を開いた。

「気になるのは、ゾナだ。ゾナはフロインを見ている。そしてフロインは、ゾナに懐いている」

リティルは、ザワッと心が拒絶を示すのを感じた。

「おいおい……やめてくれ……やめてくれよ!」

リティルは東屋から足早に出ると、空に向かって叫んだ。

「フロイン!来い!」

キラキラと類い希なる金色の光が現れ、その光を纏う風が一瞬渦巻いた。輝きと風が去ると、空中に神々しい女神が現れてリティルの前に舞い降りた。

「フロイン、鷲の姿に化身してろ。それから、ゾナに近づくな!」

フロインはキョトンとした顔をしたが、うなずきその姿を、雄々しいオウギワシへと変えた。そして、リティルの肩に寄り添うように留まった。

「リティル、想いは、芽生えたら止まることはない」

こんなに拒絶するか?と、ノインは内心驚いていた。リティルはゾナを慕っていると思っていたのに、これは……ノインは、リティルの心を見透かせなかった。

「わかってる。けど!フロインはダメだ!ダメなんだ!」

フロインの預け先は決めてある。この至高の宝石の力を得るに相応しいのは、彼しかいないと思っている。フロインと彼の心を無視して勝手に決めていること故に、リティルは提案できないでいるだけだった。

リティルはオウギワシを見上げた。フロインは澄んだ瞳で、リティルを見下ろしていた。

「そう言えば、ノイン、おまえゾナと会ったことねーんだろ?どうして知ってるんだよ?」

ああ、それはとノインは言いかけたが、気配に気がついてその身をオオタカへと変えた。その体は金色をしていなかった。

 そして、リティルに腕を貸すように促すと、その腕に留まった。

「誰かと思えば、リティルではないか。いつ戻ったのかね?」

姿を現したのは、ゾナだった。紫色の瞳が友好的に微笑んだ。

「ああ、今だよ。フロイン、インジュについてろ」

肩に留まっていたオウギワシは、リティルの顔に愛しそうにすり寄ると、その体を煌めく金色の風に変えて消え去った。フロインと入れ替わるように、オオタカに化身したノインが肩に留まった。

「その鷹は?」

「ああ、偵察してもらってたんだよ。おまえこそ、こんな夜にどうしたんだよ?」

「フロインが急に飛んだのでね、何かあったのかと思ったのだよ」

「一緒にいたのか?」

『リティル、落ち着け』

ザワリとリティルの気配が殺気立つのを感じて、ノインが冷静な声をかけた。その声で、かろうじてリティルは踏みとどまった。

ノインは、伝えてはいけないことだったかもしれないなと、失敗したことを悟った。しかし、一度口から出たことはなかったことにはならない。さて、どうしたものか。ノインは二人を見守った。

「ディコと共にインジュに手ほどきをね。インジュが食い下がってきてね、こんな時間になってしまったのだよ。それに、指導しろと言ったのは、君ではないかね?」

「ああ、悪かった」

「何かあったのかね?」

ゾナの訝しがる視線を受けて、リティルは自分が追い詰められていることに気がついた。フロインをと思ってしまったら、冷静ではいられなくなってしまった。ゾナがフロインをそういう目で見るはずがないことを、知っているはずなのに、それすらわからなくなってしまった。

魔道書であるゾナには、恋愛感情がないのだ。リティルはそれを知っていた。しかし、再会したゾナが、記憶の中のゾナと異なるようで、リティルは違和感を感じていた。かつての仲間に対する不信。自覚なく、しかしリティルはそれを持ってしまっていた。

 リティルはすがるような瞳で、肩に留まるノインを見上げた。

彼とゾナが、相性の悪い相手だということはわかっていた。だからこそ、ノインを楽園へ来させないようにしていたのに、今、ここで二人を引き合わせることになるなんてと、リティルは己の弱さに、今逃げる狡さに愕然としたが、どうしようもなかった。

「ノイン、ごめん。助けてくれ」

こんな精神状態で、ゾナとはとても対峙できなかった。このままゾナを前にしていたら、黒かった少年時代のように、ヒドイ言葉で彼を傷つけてしまいそうだった。そんなことはしたくない。再開したゾナとは、対等でいたかった。おまえと肩を並べられるようになったんだぞ?と、胸をはりたかったのに、こんな――

命を受けて、ノインはその姿をゾナの前に初めて現した。短い髪の仮面の精霊。彼の姿を見たリティルがホッとするのを、ゾナは見た。そして、リティルが不意に瞳を閉じてその体が傾いだ。

 ノインは、気を失って倒れるリティルを受け止めると、小柄な王を抱き上げた。

その動作があまりに自然で、二人に確かな信頼を感じたゾナは、心がざわめくのを感じた。

ゾナは、リティルを守り、風の王として鍛える為に生み出された魔道書だ。それなのに、今、リティルのそばに立ち、当たり前のように守っているノインという精霊。あの、極悪非道だったインの生まれ変わりである彼が、リティルの隣に立ち、オレはなぜリティルの隣に立てないのだろうかと、憎しみにも似た感情が湧き上がってきた。

一緒に風の城に来ないか?と言ってくれたリティルを裏切り、ここに立つことを自ら選んだというのに、ゾナは、存在を捨ててでもリティルのそばにいることを選べたインに、嫉妬してた。

「了解した。任せておけ、我が主君」

ノインは囁くように言うと、ゾナに視線を合わせた。

「我が名はノイン。雷帝・インファの守護精霊にして、風の王・リティルの補佐官だ。君は、魔書・ゾナデアンだな?」

リティルやインファほどの暖かさはないが、冷たくない眼差しだった。そして、口元には、薄らと笑みが浮かんでいる。ゾナの知る、インとは雰囲気からまるで違っていた。ゾナの知るインは、冷たい眼差しで、無表情だったのだから。

「我が主君が失礼した。働き詰めな上に心労がたたってしまった。明日にはケロッとしている。今は許せ」

「心労?リティルは今だ、そんな環境にいるのかね?」

ゾナから、殺気のような怒気のような気が放たれた。ノインはそれを、受け止めて受け流す。やはり未だに、インとは相性が悪いのだなと、ノインは思った。

ゾナデアン――十四代目風の王・インの記憶にある。彼を作った魔道士のことをノインは知っていた。彼と戦ったインは、かなり追い詰められそして殺された。その戦いは、インの望んだもので、望んだ結果だった。ノインは、その結末を記憶として持っていた。

そして、ゾナが向ける、憎しみの感情の理由も知っていた。だが、未だ初代・ディコの意識に囚われているのだなと、ノインはゾナを憂いた。そして、オレは恵まれていたのだなと、改めて思った。

 ゾナを作った魔道士の意識が、彼の意識だ。それは、インの生まれ変わりであるノインにも、ある意味共通していたが、決定的に違うことがあった。

ノインは、ベースとなったインと、それを受け入れたリティルによって、別の人格を認められたのだ。故に、ノインはインの記憶に引きずられることはない。ノインはインの願いと己の心を合わせ、騎士として今リティルのそばに立っていた。一度はインに乗っ取られてもいいと思ったが、リティルはそれをよしとしなかった。ノインは、ノインでいることを望まれて、今生きていた。

「そうだな。風の王は多忙だ。そして、リティルは優しすぎる。だから我らがいる。リティルを苦しめるな。リティルは君を、信じている!」

ノインは視線だけで風を操ると、ゾナにぶつけた。ノインの風の鋭さに、ゾナは片膝をついていた。

ゾナはリティルのかつての恩師だ。それをわかっているノインは、だからこそゾナの今の態度を捨て置くことができなかった。彼の態度は矛盾している。リティルが心労で倒れたと聞いて憤るくせに、ディンのことで重大なことを隠している。ノインもインファも見守ってきた。彼とディコが、リティルに打ち明けることを今まで待ってきた。その余裕が、今までは確かにあったからだ。しかし、その余裕は徐々になくなってきていた。

二五〇年という時が、ゾナの大事なモノを変えてしまったとしても、現在風の王の騎士であるノインにとってリティルは一番大切だった。

怒りが湧いた。インからリティルを託され、守り鍛えた過去を、リティルに過去のことなのだと突きつけようとする態度が、許せなくなったしまった。

一方的だとわかっている。ゾナにはゾナの事情があり、倒れたリティルを案じる心も確かにある。けれども、それを汲んでやれない。助けを求めてきたリティルの様子に、冷静ではいられなかった。

リティルが、信頼していたはずのゾナに不信感を持っていたことを、ノインは見抜けなかった。心のどこかで、会ったこともないゾナを、ノインも信じていたのかもしれない。フロインのことを、言うべきではなかったと、ノインは後悔していた。

「リティルは守りたいだけだ。スフィアも、ディンも。不可能だとしても、傷ついても、リティルは抗い続ける。その想いは筋金入りだ。君は風の王・リティルを侮っている。オレの心が通じるならば、リティルを信じてやれ。オレはリティル自身の命により、そばにいられない。だが、おまえ達が敵だとわかったときには再び舞い降りる!心得ておけ!」

ドッとノインから金色の風が放たれた。異変に気がついたディコが、慌てて駆けつけてきた。その後ろにはインジュとスフィア、ディンもいた。フロインは、荒れ狂う風をモノともせずにスウッとノインに近づき、人の形に戻った。フロインはノインに寄り添い、その肩に手を置いた。ノインは下から見つめてくるフロインをチラリと見やると、風を収めた。

「ノイン、ゾナ、これはどういうこと?」

ディコが咎めるような口調で問うた。

「騒がせてしまったこと、許せ。オレはもう、帰還する。リティルを頼めるか?大賢者」

ノインは何事もなかったかのように穏やかに、腕の中のリティルを見せた。

「リティル、どうしたの?ゾナ?」

ディコは、気を失っているリティルを見て動揺した。ノインのそばにいるフロインの様子も、こちらを威嚇するようで、ゾナが何かをしてしまったのかと疑ってもしかたのない状況だった。

「リティルはたんに、寝ているだけだ。世界のために、一日中飛び回っていた。オレとインファと話して、気が抜けたのだろう。最近、どこでも寝てしまう」

寝落ちたリティルを回収するのも、城の住人の仕事だと、ノインは通常業務のような言い方をした。嘘ではないが、風の鏡を得ている今、リティルが城にたどり着けないほど疲弊することは、珍しいことだった。

「そんな、忙しいんだ……」

「今も昔も風は多忙だ。リティルは手を抜かず、辛抱強いから余計に。一つ忠告しておこう。フロインの一番はリティルだ。二番はオレ。三番はインファだ。この順番は変わることはない。フロイン、リティルの命を忘れるな。リティルを裏切ることはオレが許さない」

ノインにそう言われ、コクリと頷いたフロインは、その姿をオウギワシへと変えた。

「そんなに忙しいのに、リティルは、ここにいていいの?あなたは――」

リティルのそばにいなくていいの?

リティルは本当に、寝ているだけなのだろうか。ピクリとも動かないが、本当に目を覚ますのだろうか。ディコは、闇の王を討伐した後、一年間眠り続けたあの日のリティルを、思い出していた。インとノインが、違う存在だということはわかっている。しかし、背格好の同じノインを、どうしてもインと重ねてしまう。彼が仮面をつけている理由を、言われなくてもわかっていたというのに。

でも、いいの?こんなリティルを置いて、あなたは行ってしまっていいの?とディコはどうしても言えなかった。それほど、ノインの瞳がリティルを信じていたからだ。あの日のインと同じように。

「帰らずともいい采配をした。王の時間は貴重だ。無駄にしないことを願う」

ノインはディコに、眠っているリティルを託した。

「インジュ、リティルを見ていろ。そして決めろ。己自身の姿を。心配するな、リティルは 君のことも導いてくれる。かつて、オレを導いてくれたように。さらばだ」

ノインはリティルと同じ、オオタカの翼を広げると、空へ舞い上がっていった。

インジュはその背を見つめ、自信なさげに瞳を伏せた。


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