序章 二五〇年後
ワイルドウインド四作目。やっと投稿できます。
それでは、楽しんでいただけたなら、幸いです。
大賢者・ディコは、リンゴの木の下で、両手を空へ向けると大きく伸びをした。
空はどこまでも高く、どこまでも澄んでいた。
平均身長二メートルの大柄な体格で、一対の太短い角を持つ、魔導に精通した賢者の民と名高い、エフラの民。五〇〇年ほどの時を生きる、長命な種族でもあった。
ここは、エフラの民の住まう、通称・楽園と呼ばれている郷だった。
ディコは、優しげな茶色の瞳で、空を眺めていた。今日はこの空から、大事な友人が尋ねてくることになっていた。
「ディコ、君の息子を見なかったかい?」
リンゴの木の下で、待ち人を捜して空を見ていたディコは、不意に声をかけられて振り向いた。そこには、おとぎ話に出てくる魔法使いのような、つばの広い三角帽子をかぶった三十代くらいの男性がいた。魔道士の郷であっても珍しい出で立ちの背の低い──エフラの民にしては背の低い、整った顔立ちの男だった。
「その辺にいなかったかな?ごめん、見てないよ、ゾナ」
ゾナと呼ばれた知的な所作の男は、紫色の瞳をディコの見ていた空に向けた。
「待ち人は来そうかい?」
「うん、たぶん。あなたの待ち人は、今日一緒かな?」
ディコは、優しい瞳で、意味ありげに微笑んだ。その笑顔を受けて、ゾナは嫌そうに眉根を潜めた。
「君は、時を重ねて意地悪になったではないかね?」
「あなたは、長い間眠って少し変わったね。あ、来たよ!」
そう言って、ディコは嬉しそうに日の光の中へ出て、眩しそうに空を見上げながら手を振った。
「ディコ!悪い!待たせたか?」
「ううん。時間通りだよ!リティル!」
空から舞い降りてきたのは、金色のオオタカの翼を生やした小柄な青年だった。童顔で、あんなに明るく笑うと、さらに磨きがかかってしまう。
スタッと軽く大地に降り立つと、左耳に飾られた、フクロウの羽のピアスが揺れた。半端に長い金色の髪を、無造作に束ねるその髪型も、二五〇年前と変わらない。
「一人?」
「いいや、フロイン!インジュ!」
バサッと大きな影がディコの視界を遮った。金色のオウギワシの翼を背負った、見目麗しい男女がリティルを追って舞い降りた。
「またお邪魔します、ディコ」
インジュは、硬質で真面目な光を湛えた瞳で、きちんと大賢者に一礼した。フロインは、無言で、優しい金色の瞳に微笑みを浮かべていた。
「二日ぶりくらいかな?いらっしゃい、インジュ、フロイン」
「なんだよ、おまえら、また無断で来てたのか?しょうがねーな」
そう言いながら、きっとリティルは、フロインがインジュを連れ出していることを、知っているのだろうなと、ディコは思った。
「ねえ、ゾナ、あなたも!」
ディコは遮っていた大きな体を斜にして、背に隠れていたゾナの姿を、昼間の輝きに包まれた鳥達にさらした。
「ゾナ?おまえもいたのかよ?どうして黙ってるんだよ?」
白々しいと、ゾナはリティルの言葉に一瞬瞳を見開いたが、穏やかにどこか嬉しそうに息を吐いた。そんなゾナに、リティルは太陽のような明るい笑顔を向けた。
二五〇年前と変わらない信頼を感じて、ゾナは無意識に彼の真っ直ぐな笑顔から、視線を逸らしてしまった。
「騒がしいのは好まないのでね。ごきげんよう、フロイン嬢、インジュ」
「こ、こんにちは」
インジュは緊張気味に、頭を下げた。相変わらずフロインは無言のまま、ニッコリ微笑んだ。ゾナは、そんなフロインを眩しげに瞳を細めてみつめていた。ディコはそんなゾナの様子を、不安そうに見守っていた。
「それで?今日は何を企んでいるのかね?風の王」
ゾナは、知的な瞳をリティルにやっと戻した。その視線を受けて、リティルは困ったような小さなため息をついた。
「人聞きの悪いこというんじゃねーよ。ちょっと、顔見に来ただけだろ?」
「リティル、オレに隠し事とは、つれないではないか」
ゾナはその紫色の瞳に、鋭い光を宿らせて微笑んだ。真面目なところは、二五〇年前とちっとも変わらないなと、リティルは少しくらい、仕事を忘れさせてくれてもいいのになと、厳しい恩師に苦笑した。
「スフィアと、ディン。どこにいる?」
リティルは金色から微笑みを消した。その瞳には、二五〇年前と同じ、燃えるように立ち上る金色の光が宿り続けていた。そんなリティルに、ゾナは満足そうな笑みを浮かべて、小さく頷いた。
この童顔で華奢にすら見える小柄な男は、侮れない力を秘めた、風の精霊を統べる王だ。
世界を守り、見守る、すべての命を慈しむ刃。
それが、彼──風の王・リティルだ。
ゾナは、かつての教え子を頼もしく思いながら、フッと少し陰りを含んだ笑みを浮かべた。
「案内しよう。ついてきたまえ、風の王」
そう言って、迷いのない足取りで先導するゾナの背中を見ながら、ディコは思った。
さっき、君の息子を見なかったか?と聞いたのにと。
素直じゃないなと、ディコは苦笑しながら、ゾナと並んで歩くリティルの後ろ姿を、彼に付き従う二人の見目麗しい精霊の肩越しに見ていた。