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ランナー真美の願い(2)  作者: でこぽん
9/10

9.銀行、そして空港へ

 真美を胴上げしているとき、井口コーチは、あることに気づいた。


 真美の笑顔が、ほんの少しだが、いつもと違っていた。うまく説明できないが、何処かが違う。それは、雨の日も風の日も真美のそばにいた井口コーチだからこそ、感じることができた。


(篠原は怪我をしているようだ)

 井口コーチは気づいた。だから胴上げが終わり、ケニア選手団の人たちやナイロビ石油化学会社の人たち、マアンギのクラスメートたちと別れると、すかさず、

「篠原、今すぐ医務室に行こう。俺がおんぶする。早く乗れ!」と、叫んだ。


 すると真美が、「やっぱり、ばれたか」と、小さく呟き、井口コーチの背に体を預けた。


 さらに、井口コーチは言った。

「ルーシーさん、マイアさん、すまないが一緒に来てほしい」


「真美、怪我しているの?」


「少しね。でも、大したことないよ」

 真美はいつもの能天気な調子だが、井口コーチは、大した怪我だと確信している。


 ブラウンやエヒンバ、それにお婆さんも心配して医務室まで一緒に来た。


 医務室に着くと、井口コーチは真美を治療用ベッドにうつ伏せに寝かせ、いきなりランニングシャツを肩甲骨辺りまでめくり上げた。


 普通だったら完全にセクハラ行為だ。思わずブラウンは、両手で両目を覆った。

 だが、井口コーチはセクハラ行為をしていない。そのことは、真美の背中が証明していた。


 なんと、真美の背中の中心部に直径十センチほどのどす黒い塊があった。そして、背骨に沿って擦り傷があり、血が流れている。

 特に中心部の黒い塊は、相当な痛みを伴っているはずだ。


「背骨に沿った擦り傷は今日できたものじゃが、背中の中心部の黒い塊は、今日できたものではないな。全く無茶をしおって。一生走れなくなるかもしれなかったぞ」

 医務室の医師が言った。


 真美の背中のどす黒い塊を見て、マイアは思い出した。三日前、武装集団の男から腹を蹴られたとき、マイアはテーブルの角にぶつかると覚悟した。だが、いつの間にか真美が後ろでクッションとなって、テーブルの角にぶつかることはなかった。ぶつかったのは真美だ。ちょうど黒い塊があるところが、ぶつかった箇所だった。


「これは…、三日前に空港で、私を庇ったときにできた傷だよね」

 マイアは、いたたまれない気持ちでいっぱいだ。


「マイアのせいじゃないよ」

 真美は、それだけ言った。


 医師が、背中のどす黒い部分にメスを当てた。『ブシュッ』と音がして、大量のどす黒い血が飛び散った。真美は、背中を内出血していた。しかも、一部が化膿していた。


「こんな体で…、よくも走れたものだ。歩くのも大変だったはずなのに…」

 そう言いながら医師は、真美の背中を抑え、内出血している血と膿を全て外に出した。さすがの真美も、今度ばかりは痛みをこらえきれず、「ぐっ」と唸り、枕をしっかり掴んでいる。


 この様子を見て、ルーシーは茫然とした。


 真美は三日前から怪我をしていた。怪我しているにもかかわらず、二日前は、アンダー20世界陸上競技大会三千メートル決勝に出場し、優勝した。そして今日は、マラソンを完走し一位になった。いずれのときも、辞退してもおかしくないほどの痛みが伴ったはずだ。


「真美、あなたは凄い。弱音を吐かず、言い訳もせず、最後まで走り抜いた」

 ルーシーは、真美の底知れない実力を思い知った。


 マイアが何気なく真美の背中を見ていると、真美の腰付近に、直径十センチほどのピンク色の痣があった。しかも、痣の形が星のようだった。

「真美、この腰のあたりにあるピンク色の痣は?」


「ああ、これは七歳のときに事故にあってね。そのときにできた痣だよ」


 この痣が空港でできたものでないことがわかり、マイアは胸を撫で下ろした。


「星の形になっている。綺麗な痣ね」

 マイアが何気なく呟いた。


 実は、真美自身も、どうして星形の痣ができたのかが、わからなかった。七歳の頃に事故に遭い、病院へ運ばれた後、いつの間にか、痣ができていた。


 結局、真美は医務室に二十分いた。治療は十分で済んだが、うつぶせのまま十分は動かないようにとの、医師からの指示があったためだ。


 真美が起き上がると、井口コーチが叱った。

「篠原、何故、正直に俺に怪我のことを報告してくれなかったのだ。ドクターが言うように、手遅れになったら一生走れなくなったのだぞ!」


「ごめんなさい…。大会で走れるなら、一生走れなくなっても良いと思っていた」


「バカヤロー!」

 間髪を入れずに、井口コーチが再び叱った。


「おまえはそれで良いかもしれないが、仮に篠原が怪我のせいで一生走れなくなったら、マイアさんは責任を感じ、彼女も陸上競技をやめただろう。そしてマイアさんは、一生自分を責め続けて生きることになる。お前はマイアさんに、そんな人生を送らせたかったのか」


 確かに、井口コーチの言うとおりだった。真美はそこまで考えていなかった。

 仮に真美が怪我で走れなくなったら、マイアは確実に責任を感じただろう。今の真美には、その様子が想像できた。

 それに、誰だって自分を責め続けながら生きていくのはつらい。そんな思いを、真美はマイアにさせようとしていた。


 思わず真美は、マイアを見た。

 マイアは、眼にうっすらと、涙をためていた。


「ごめん、マイア」真美は素直に謝った。


「怪我が大事に至らなくて良かった」

 マイアは真美を抱きしめた。



 治療後、再び真美は井口コーチからおんぶしてもらい、医務室から出た。

 右足はまだ痛むが、背中の傷は、痛みが治まった。真美は、かなり元気を取り戻した。


 だが、この段階で無理をすると、選手生命に支障が出るかもしれない。だから井口コーチは、飛行機に乗るまで、真美をおんぶすることにした。



「真美、怪我をしているところすまないけど、銀行へ行くので、付き合ってちょうだい」

 医務室の出口で、ルーシーが真美に頼んだ。


 井口コーチが理由を聞いたところ、真美が行かないと、寄付金の手続きができないとのことだった。


 ルーシーは今の真美の容体を察し、

「タクシーで行くので歩かなくて済むし、お昼ご飯をご馳走するわ。何でも真美の好きなものを注文して良いから」

 と、真美の欲望を掻き立てた。


 歩く必要が無く、しかも食べ物がもらえるのであれば、真美は何処にでも行く。真美だけでなく、マイアをはじめとして、エヒンバとその婆さん、それにブラウンと井口コーチにもルーシーが昼食をご馳走するとのことだ。


 タクシー二台で分乗し、ルーシーが予約した店に向かった。



 ルーシーの予約した店は、高級感こそ無いが、おしゃれで清潔感があった。比較的手ごろな値段で料理が注文できる。


「ルーシー、本当に何でも注文していいの?」


「ええ。好きなものをどれでも注文していいわよ」

 ルーシーは上機嫌である。


 真美は、ここぞとばかりに、手当たり次第に注文し、たらふく食べた。もちろん普通の女の子の食べる量を、はるかに超えていた。おそらく、マラソン大会で消耗した体力を回復させるべく、体が欲していたのだろう。しかも、医務室で多量の血を出血したため、血や筋肉をつくろうと、大量に食べた。


 エヒンバや婆さんも、最初は遠慮がちだったが、真美の食べっぷりに刺激され、最後はお腹が膨れるほど食べた。


「嬉しい。美味しいものをこんなに沢山食べたのは、久しぶりだわ」

 エヒンバのお婆さんが幸せそうにつぶやいた。スラム街に住んでいるエヒンバのお婆さんにとって、今日食べた料理は、ご馳走に違いない。


 マイアや井口コーチは、真美の食べる量に圧倒されつつも、普段よりも多めの量を、しっかりと食べているようだ。


 真美は、ルーシーが皆に食事をおごる理由が分からなかった。



 食事が終了した後は、店から十メートルほど離れた銀行へ行く約束である。

 皆でぞろぞろと、近くの銀行まで歩いて行った。

 もちろん真美は、背中の傷と右足がまだ治っていないため、井口コーチがおんぶした。


 真美は井口コーチを信用していた。恥ずかしさなど無かった。この二人には強い絆があった。


 やがて、みんなはナイロビ銀行に着いた。

 銀行内は空調が整っており、日本の銀行と同じような雰囲気だった。珍しい観葉植物もあるので、結構くつろげる。

 ルーシーが手続きしている間、真美は椅子に座り、写真集を見ながらくつろいだ。


 ルーシーは、エヒンバと話し合い、何かの手続きをしているようだ。井口コーチが聞いたところ、送金手続きをするとのことである。


 しばらくすると、ルーシーがやってきた。

「真美、ここにサインして頂戴」


 突然のことなので、真美は意味が分からない。


「えっ。私のサインが必要なの?」

 真美が尋ねた。


「うん。真美は今回、チャリティ枠で参加したでしょう? 集まった寄付金を骨髄バンクに送金するためには、真美のサインが必要なのよ」

 ルーシーとエヒンバが、二人して説明してくれた。


「そうか。私の代わりに手続きをしてくれたのね。ありがとう」

 そう言って真美は、快くサインをした。


 これで、送金手続きが完了した。


「真美、ありがとう」

 エヒンバとお婆さんが、真美に感謝した。


「いやあ、そんなに『大したこと』は、していないよ」


 言葉とは裏腹に、真美は内心、寄付金を集めるために『大したことをした』と思っている。それを裏付けるかのように、腰に手を当て、胸を張っている。真美は、すぐに有頂天になる性格だった。


「それにしても、篠原は偉いな。ナイロビ・マラソン大会の優勝賞金を全て、骨髄バンクに寄付するなんて。俺には真似できないよ」

 井口コーチが、ポツリとつぶやいた。


「僕もそう思います。真美は偉い。まるで女神のようだ」

 ブラウンも真美を褒めた。


「真美、あなたはここでも、みんなの道しるべとなる素晴らしい行いをしてくれたわ」

 マイアが言った。マイアは、真美を大変尊敬しているようだ。うっとりとした目で真美を見つめている。


「へっ?」

 真美には皆が言った意味が、まったく理解できない。真美は、丸い瞳をクルクル回して考えた。だが、やはりわからない。


「ルーシー、ルーシー。優勝賞金とか井口コーチが言っていたけど…」

 ルーシーの袖を掴みながら、真美が尋ねた。


「ああ。真美の優勝賞金額のおよそ百五十万円と、寄付金のおよそ五十万円を、さっき骨髄バンクに送金したわよ」

 ルーシーが、さらりと説明した。


「えっ…」

 驚きのあまり、真美は五秒間、固まった。


「今朝、『チャリティ枠での出場だから、たとえ優勝しても優勝賞金は貰えない』と、言ったよね」

 真美は丸い目をさらに大きくした。


「ごめん。私の勘違いだったみたい」

 これもルーシーは、さらりと流した。


「でも、今朝、真美が『優勝賞金はいらない』と言ってくれたし、大会事務局との賞金の受取りも、私とエヒンバに任せてくれたので、エヒンバと一緒に事務局の人と話し、そう決めたの。真美は本当に偉いわ」

 ルーシーは、真美がお金を欲しているとは全く思っていない。


「真美さん、本当にありがとう。おかげで骨髄バンクも、多くのドナー登録者に対応できるだけの予算が確保できたよ」

 エヒンバも、真美を尊敬の眼差しで見つめている。

 すかさず婆さんが、

「真美は、『骨髄バンクにドナー登録を』と呼びかけるだけでなく、その資金を提供することまで考えていたのだね。本当にあなたは賢いよ」と、瞳を潤ませながら感謝した。


 余談だが、実際、骨髄バンクへのドナー登録者が増えれば増えるほど、骨髄バンクの財政が厳しくなる。なぜならば、ドナー登録や成分調査、個体情報の維持管理には、それなりの費用がかかる。しかし、それに対する収入が無いためである。これは一種のパラドックスだ。

 骨髄バンクの将来を考えるのであれば、ドナー登録者の増加だけでなく、財政の安定も考慮に入れる必要がある。



 みんなから『偉い。ありがとう。女神のようだ。みんなの道しるべとなる行いだ』と感謝され、尊敬されているのに、いまさら『優勝賞金を返してくれ』とは、とても言いだせる雰囲気では無い。しかも、真美自身のサインのもとに、既に送金が完了している。取り消しなどできる訳がない。


「き…、き、気にすること無いよ。わ…、私は、と…、当然のことを、したまでよ。あはははははははは」

 真美は、空しく空笑いをした。真美の声が、少し上ずっていた。真美の目が泳いでいた。


「ところで、ルーシーの賞金はどうしたの?」

 すかさずルーシーの袖をつまみながら、真美が尋ねた。


「あら、いやだ。さっき皆でお昼食べたじゃない。それで全部使ったわよ。うふふふふ」

 ルーシーが笑顔で答えた。ぎこちない笑顔だった。


 どう考えても、さっき食べた昼食の料金で、賞金を全て使ったとは思えない。だが、賞金額も不明だし、タクシー代や昼食代もわからない。だから、誰も追及できない。ましてや皆は、ルーシーにごちそうしてもらったのだ。追求できる雰囲気では無かった。


 結構ルーシーは、しっかりしていた。おそらく、前回のラスベガス・マラソン大会で優勝賞金を逃したため、知恵がついたのだろう。

 この一年間で、ルーシーは嘘をつくのが上手になったようだ。



 銀行での手続きも終わり、真美たちが帰ろうとしたところ、銀行の出入口に自動小銃を持った男たち三人が、突然現れた。

 三人が持っている銃の名前は、AR15、アメリカ軍も採用している小口径自動小銃だ。もちろん戦闘用であり、連続で発射でき、殺傷力が高い。


 三人は、長身の男とヘルメットを被った体格の良い男、それに太った男である。いずれも茶褐色を下地にした迷彩戦闘服を着ていた。

 そのうちの一人が、頭上に向けて銃を撃った。


 轟音がフロアーに鳴り響く。


「みんな、動くな! 俺たちは銀行強盗だ」

 ヘルメットを被ったボスらしき男が叫んだ。


 銀行にいる人たち全てが驚き、恐怖に陥った。


「静かにしろ。騒ぐ奴は撃つぞ」

 ヘルメットを被ったボスの一声で、全員が声を潜めた。銀行内の様子が明らかに変わってしまった。


 やがて、銀行強盗たちは、銀行従業員や客を一ヵ所に集めた。従業員が十五名ほどであり、一般客は真美たちを含めて三十名ほどだ。


 そのとき真美は、井口コーチにおんぶされていたため、銀行強盗からは格好の『弱い人質』として目をつけられた。お決まりのように真美は、犯人グループの目の前に来るように言いつけられた。


「やれやれ、また人質になっちゃった」

 真美は浮かない顔である。


 実は、一年前のラスベガス・マラソン大会の後も足が動かなかったため、日本へ帰る飛行機の中で、ハイジャックから人質とされた経験がある。そのときは、ハイジャックから男の子と間違われ、真美が憤慨した嫌な思い出があった。


「あのー…」

 なんとなく真美は、目の前の銀行強盗のボスに尋ねた。


「なんだ?」

 銀行強盗のボスは、支店長に金を要求していたが、真美が話しかけたので、真美の方を振り向いた。


「私は、女の子に見えるよね?」


 銀行強盗にとっては、予想外の質問だった。銀行強盗のボスが一瞬、言葉に詰まった。

「あー? お前、空気が読めないのか? 今、お前は人質だぞ。そんなくだらない質問するな」


「くだらなくない。これは、私にとって大切なことよ」

 すぐさま真美が言い返した。


 しばし、銀行強盗のボスは、あきれ返った。


「おい。誰か、このバカを黙らせろ」

 すると、部下の長身の男が、真美に銃口を突き付けた。

「こっちに来い」


 真美が足を引きずりながら長身の男のところに行くと、突然ブラウンが、長身の男と真美の間に立ち塞がった。

 ブラウンの足が、ガクガクと震えている。ブラウンは恐怖と戦っていた。それでも精一杯の勇気を出して、


「真美を撃たないでくれ。撃つなら僕を先に撃て!」と、ブラウンは両手を広げた。

 ブラウンは、真美への弾除けとなるつもりだ。日頃は虫も殺さないような大人しいブラウンが、ここまで大声を出すのを、真美は初めて見た。


「ブラウン…、あなた…」

 真美は、このときのブラウンを頼もしく感じた。


 だが、すかさず長身の男が、銃床でブラウンの腹をドスンと突いた。

 あまりの苦しさのために、ブラウンは跪き、腹を押さえる。そして、うずくまり、体を震わせた。


「ブラウン、大丈夫?」

 真美が心配してブラウンに駆け寄ったとき、長身の男は、改めて銃口を真美に向けた。


「お前、女装が趣味なのか? でも、あまり上手ではないな。胸も小さいし」

 真美への禁断の言葉を、長身の男がいった。『胸が小さい』は、真美に対し、決して言ってはいけない言葉である。

 その一言で真美が切れた。真美の目が三角眼になった。ついさっきまではブラウンの心配をしていたが、もはや、ブラウンのことは考えていない。単純に怒りだけがあった。


「胸が小さいだと?…」

 すかさず真美が「フリーズ」とつぶやき、時間を止めた。周りの景色が灰色になり、辺りが静寂になる。


 真美は長身の男の銃を奪い取り、その銃をブラウンに渡した。さらにボスの男から銃を奪い、支店長に渡す。そして、太った男からも銃を奪い、井口コーチに渡した。

 その後、真美は息を吐きながら長身の男の懐に入り、背負い投げをした。


 真美が息を吐くと時間が動き出す。周りの景色がカラーに戻り、辺りから静寂さが無くなった。

 真美は男を豪快に投げ飛ばした後、間髪を入れずに腕の関節を固めた。俗にいう腕ひしぎ逆十字である。


「私は女だー」

 そう言いながら、長身の男の腕を締め上げた。


「ぎゃあああああ」

 長身の男は、苦痛に耐えきれずに叫んだ。


 その叫び声に銀行強盗のボスが振り返り、銃を撃とうとしたが、持っていたはずの自動小銃が無い。人差し指だけが空しく動いた。


「あれっ?」

 銀行強盗のボスは、何も掴んでいない両手を見て、呆然としている。すると、銀行強盗のボスの肩に、トントン、と合図があった。


 振り向くと、なんと、銀行の支店長が自動小銃を、ボスの顔の前に突きつけている。


「ち、ちょっと待ってくれ…」

 銀行強盗のボスは、両手を上げて観念した。


 太った銀行強盗も長身の男の叫び声に気づき、銃を向けて助けようとしたが、これも、手元にあったはずの銃が無い。

 ブラウンと井口コーチは、いきなり手元に自動小銃を持っていたため驚いた。


 すかさずルーシーが、肥った男に挑みかかり、豪快に投げ飛ばした。

 太った男は背中をしたたかに打ち、なかなか起き上がれない。


 その間に警備員がやってきて、銀行強盗の二人を取り押さえた。もう一人は真美が取り押さえている。


 もっとも悲惨なのは、長身の銀行強盗だ。


「私は女よ。謝りなさい」

 真美は、長身の男が謝るまで固めた腕を放そうとはしない。


「はい。ごめんなさい。あなたは綺麗な女性です」

 長身の銀行強盗が痛みをこらえながら謝ったが、「言葉に心がこもっていない」と、真美は許してくれない。


 腕が折れそうな状況で、痛みに耐えながら心を込めて謝れるはずがない。ましてや男はスワヒリ語を日常使用しており、慣れない英語で心を込めて話せるはずもない。長身の男は、涙をにじませながら、うめき声をあげた。


「篠原、その辺で勘弁してやれ」

 井口コーチがいうと、「ちぇっ、仕方ないなぁ」と、腕ひしぎ逆十字を解除した。


 結局、長身の男は一分近くも真美から腕ひしぎ逆十字を固められた後、警備員に取り押さえられた。


 怒りが収まると、真美はブラウンのもとへ駆けつけた。

「ブラウン、さっきは私を守ってくれてありがとう」


「でも、銃床で突かれて、君を守れなかった」

 ブラウンは、申し訳なさそうな顔をしている。


「そんなこと無い。銃に立ち向かい、ブラウンは私を守ってくれた。誰よりも勇気があったよ」

 真美の言葉に、ブラウンは自信を持った。


「僕は、いつでも真美を守ってみせるよ」


「ありがとう」

 そう言って真美は、ブラウンの頬にキスをした。


 思わぬ真美の攻撃に、ブラウンの顔が真っ赤になった。当分ブラウンは、顔を洗わないだろう。


 真美は、ブラウンの強さを知った。強さは腕力だけではない。心の強さもある。ブラウンは心が強かった。

 男ならば誰でも、引いてはいけないときがある。たとえ殴られようが傷つこうが、大切なものを守らなければならないときがある。ブラウンは、そのときを知っていた。


(自分がどんなに弱かろうが、そのとき周りに守ってくれる者がいなければ、自分が守るしかない)

 ブラウンは、常にそう思っていた。



 銀行での事件は、ブラウンと井口コーチ、それに銀行の支店長が瞬時に犯人の銃を奪ったこととして処理された。

 ブラウンが『銃床で腹を突かれたときに、無意識のうちに銃を奪ったのかもしれない』と言ったことが決め手となったのだ。


 防犯カメラにも犯人たちの姿が全て背を向けた姿勢でしか映っておらず、真美が時間を止めて銃を奪ったとは、誰も気づいていない。


 その結果、犯人逮捕の協力者として、真美とルーシー、それにブラウンと井口コーチが、銀行から謝礼を受け取ることになった。


(謝礼か。きっと銀行だから、金一封が貰えるはず…)

 再び真美の心の内に潜む金銭欲が目を覚ました。そして、金一封をもらった後の使い道をあれこれ想像し、真美はニタッと笑った。


 真美たち四人は、支店長室に案内された。

 しかし、支店長室で貰ったのは、象さんの形をした貯金箱と銀行の名前入りのタオルの二つだけだった。


「えっ。これだけ?」

 真美はがっかりしたが、ルーシーやブラウン、それに井口コーチは、がっかりしていない。どちらかと言えば、記念品が貰えたことに喜んでいる。


「これで私も、真美と同じものを部屋に飾ることができるわ」

 ルーシーは、象さんの貯金箱をとても気に入った様子だ。


「ルーシーがあんなに喜んでいるのなら、まあいいかぁ」

 真美も、象さんの貯金箱を見ながら頬笑んだ。



 後談だが、翌日の新聞には、ナイロビ・マラソン大会で優勝した真美と準優勝のルーシーとが、写真付きで掲載された。その写真は、腕ひしぎ逆十字で犯人を締め上げている真美の姿と、豪快にボディスラムで犯人を投げ飛ばすルーシーの姿だった。


 ナイロビ・マラソン大会を見ていない人たちの多くは、その写真を見た瞬間、思わずこの二人を格闘家だと勘違いしたそうだ。



「さて、篠原、そろそろ俺たちは空港へ行くぞ。お前の荷物は既に佐々木かおりが運んでくれている」

 井口コーチがいった。


 真美は、ルーシー、マイア、ブラウン、エヒンバ、お婆さんに、別れを告げた。


「真美、アサンテサーナ(ありがとう) クワヘリ(さようなら)」

 エヒンバやお婆さんがいった。


「真美、また来年会いましょう」

 マイアとルーシーが手を振った。


「真美、僕はいずれ日本に行く。そのときにまた会おう」

 ブラウンも笑顔で手を振った。


「みんな、ありがとう。さようなら」

 真美は、タクシーの窓から皆に手を振った。みんなの姿が見えなくなるまで、真美は何度も手を振った。

 すると、いつのまにか、真美の頬に涙が流れていた。

「あれ?」

 頬を触って真美は、涙を流していることに初めて気づいた。


 不思議な感覚だった。

 短い期間だったが、素晴らしい人たちと出会えた。素晴らしい思い出がつくれた。この涙は、その感動の涙だった。



 ジョモ・ケニヤッタ国際空港に到着すると、アンダー20世界陸上競技の日本選手団のみんなが、真美に拍手をした。


「真美、ナイロビ・マラソン大会をラウンジのテレビで見ていたわ。とても感動した」

 佐々木かおりがいった。


「かおり先輩、ありがとう」

 真美は照れていた。


「ところで、真美に会いたいって方がさっきから向こうの特別ラウンジで待っているわ。行ってあげて」


「誰?」


「真美が救助したタンクローリーの運転手、ムワイさんと、その家族の方よ。どうしても真美にお礼がしたいって、入院中にもかかわらず、来られたの」


「えっ、あのときの人」

 真美は井口コーチに負ぶわれたまま、急いて特別ラウンジに行った。


 特別ラウンジは、ナイロビ石油化学会社のエリウド社長が貸切っているようだ。受付の人は真美の顔を見ると、直ぐに中へ案内してくれた。


 中に入ると、車椅子に乗った男性がいた。あのとき真美が救助した男性だ。

 男性は真美の顔を見ると、思わず涙を流した。


「ムワイです。真美さん、ありがとうございます。真美さんのおかげで、私は生きています」


 真美は井口コーチの背から降ろしてもらうと、

「良かったね。本当に良かった」

 真美は、車椅子越しに、ムワイを抱きしめた。


「主人を助けてくださり、ありがとうございます」

 ムワイの奥さんも、真美に感謝した。


 真美は立ち上がり、ムワイの奥さんに抱きついた。


「私は、父を交通事故で三年前に亡くしました。だから、家族の方には、同じ思いをさせたくなかった」

 涙を流しながら、真美がいった。


 通訳を介して真美の言葉を理解したムワイの奥さんは、その内容に驚いた。そして、真美を力いっぱい抱きしめた。

「ありがとう。本当にありがとう。おかげで、悲しい思いをしなくて済みました…」


 ムワイの家族全員が真美のもとへ集まり、真美に感謝した。


 すると、真美は思い出したように、

「そこにいる井口コーチが、ムワイさんの心臓マッサージをしたの。心臓が動くようになったのは、井口コーチが頑張ったからです」

 と、ムワイを助けたのは真美一人じゃないことを説明した。


 いきなり注目の的になった井口コーチは、顔を真っ赤にし、恥ずかしそうな様子だった。

 ムワイとその家族は、井口コーチにも丁寧にお礼を言った。


 やがて、ムワイとその家族は、真美と井口コーチにお礼の品を渡し、去って行った。



 真美たちがラウンジに戻ると、選手団の男たちの多くが真美のもとに集まり、話しかけてきた。大会も終了したため、選手たちも緊張がとれ、笑顔が可愛い真美と話したいようだ。


 しかし、まもなく、ラウンジのテレビでニュースが始まった。すぐにナイロビ銀行の事件が読み上げられ、真美が犯人を腕ひしぎ逆十字で締め上げている姿が映った。しかも、真美が凄い形相で「私は女だー」と叫び、犯人は痛そうにうめき声をあげている。


 すると、選手団の男たちは、少しずつ後ずさりし、いつのまにか真美から離れていた。まるで、凶暴な雌豹を安全な場所から眺めるように、真美を見つめていた。

 だが、真美は、その様子に全然気づかない。相変わらず笑顔で、佐々木かおりたちと陽気に話している。



 まもなく、飛行機が出発する。ナイロビから日本へは直行便がないため、ドバイ経由で乗り継ぎをして帰ることになる。


(マアンギ、私は日本へ帰る。お婆さんは元気になったよ。そして、ありがとう。いつかまた、夢で会おうね)

 真美は、心の中でマアンギに別れを告げた。



 やがて、真美たちを乗せた飛行機は、ナイロビを飛び立った。

 青空に一筋の飛行機雲を残し、飛行機はケニアを去っていく。


 ケニアで出会った素晴らしい人たちを、ケニアでの素晴らしい思い出を、真美は一生忘れないだろう。

真美がケニアを去りましたね。


でも、真美がつくった奇跡はまだまだ続きます。

次回は感動のフィナーレです。

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