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ランナー真美の願い(2)  作者: でこぽん
7/10

7.マアンギの家、そして大会準備

 翌朝、ルーシーは、真美と一緒にナイロビ郊外にあるマアンギの家へ向かった。


 その途中で、真美はケーキを買った。マアンギと一緒に食べるはずだったケーキである。店の場所は、白井玲子のピアノ演奏のときにマアンギから教えてもらった。そのため、迷うこと無く買えた。


 ナイロビ郊外には、アフリカ最大の百万人規模のスラム街『キベラスラム』がある。そのキベラスラムの外れにマアンギの家があった。


 スラム街に入ると、都市とは違った空気の流れがある。どちらかというと、危険な匂いがする空気だった。


 木々の上には、たくさんのアフリカハゲコウがとまっていた。


 アフリカハゲコウは、体長が一メートル以上もある大型の鳥だ。白と黒のツートンカラーであり、喉に肌色の細長い袋が垂れ下がっている。くちばしの長さは、三十センチほどであり、肉切れをむしり取る強力な武器にもなる。

 元々は禿鷹と同じく、草原の掃除屋として、動物の死骸を食べていた。だが、自然の減少により、アフリカハゲコウは都市にも住むようになった。


 東京では、カラスがゴミ集積場を荒らす姿が目撃されるが、同様にナイロビでは、アフリカハゲコウがゴミ集積場で残飯を漁る。


 姿かたちの割には大人しい性格であり、よほどの危害を加えられない限りは、人を襲うことはない。



 アフリカハゲコウがとまっている木々を次々と通り過ぎ、二人はスラム街の道をつき進んだ。


 アメリカ人のルーシーは、危険な匂いに機敏だ。どんなに体を鍛えても、銃にはかなわない。そのことをルーシーは知っている。ルーシーは、だんだん不安になってきた。


「大丈夫かな。なんかヤバそうな雰囲気だけど…」


「大丈夫だよ。ルーシー。問題無い、問題無い」

 真美は、いつもと変わらず、明るいと言うよりも能天気な笑顔だ。治安が良い日本での暮らしに慣れている真美は、危険な匂いに全くうとかった。


「あった。ここだ」

 真美は、教えられた住所の場所に到着した。


「ごめんください」

 真美が戸口をノックした。


 すると、いきなり戸口が開き、お婆さんが現れた。


「誰だい」


 英語では無かった。スワヒリ語だった。だから、真美もルーシーも意味が分からない。


(マアンギが伝えたかったのは、このお婆さんだ…)

 真美は、その場で相手が分かった。


 真美とルーシーは、懸命に英語で、「私たちはマアンギの友達です」といったが、言葉が通じない。


 お互いに言葉が通じないのは、恐怖である。


 お婆さんにすれば、いきなり異国の二人が現れたため、恐怖を感じた。しかもルーシーは身長が百九十センチもある。いくらルーシーの心が清くても、初対面で言葉が通じなければ恐れるだろう。


 ルーシーはルーシーで、スラム街に入った途端に恐怖を感じていた。


 真美は、何食わぬ顔で、

「こりゃ失敗したなぁ。通訳を連れてくれば良かった」と、相変わらずの能天気だ。


 真美がケニア選手団からマアンギの住所を教えてもらった際、通訳の人が『必要であれば私も同行しますが…』と言ってくれた。そのとき真美は、いつものように何とかなると思い、断ったのだ。


 お婆さんが大声を上げたので、近所の男たちが集まった。屈強な黒人の男たちだった。男たちは口々に、真美とルーシーに対して何かを言っている。だが、もちろん言葉は通じない。


 ルーシーは、さらに恐怖を感じた。


「だから私たち、マアンギの友達ってば。お婆さんを励ますようマアンギに頼まれたのよ」

 真美は、日本語で話し出した。


 もちろん真美の説明は、誰にも理解できない。ルーシーですら理解できない。


 すると、遠くから、「あなたはもしかして、真美さん?」と、尋ねる声があった。

 声の方を見ると、中学生と思われる少年がいた。


「そう。私は真美。篠原真美。そしてこっちがルーシー。私たちマアンギと一緒に走った仲間よ。友達」

 思わず日本語と身振り手振りのボディランゲージをつかった。だが、それで肝心な部分は通じたようである。細かな部分は、ルーシーが英語で説明した。


 中学生の少年は、マアンギの弟だった。名前をエヒンバといった。エヒンバは英語が理解できた。


 エヒンバは、昨日のニュースを見て、タンクローリー車の運転手を救助した少女の名前を知っていた。そして、その少女の顔をどこかで見たような気がしていた。


(今、ようやくわかった。あの少女は表彰式のとき、マアンギ姉さんの右隣にいた人だ)

 エヒンバがお婆さんに説明を始めた。


「お婆さん、この二人はマアンギ姉さんの友達だよ。はるばる外国から来てくれたんだよ」


 すると、お婆さんはエヒンバの説明を聞き、ようやく安心した。顔が穏やかになった。さっきまでの険しい顔が嘘のようだ。


「お嬢さんたち、マアンギのためにわざわざ訪ねてきてくれて、ありがとう」

 もちろんお婆さんの言葉は、真美たちには通じない。だが、お婆さんの顔が笑顔になったので、真美たちも安心した。


 集まった男たちも、事情が分かったため、安心して去って行った。彼らは一見怖そうな男たちだ。だが、お婆さんを心配して駈けつけてきた。彼らは、優しい心の持ち主だった。


 言葉が通じると通じないとでは、こんなに違いがあることを、真美は改めて知った。



 お婆さんとエヒンバは、真美とルーシーを家に迎え入れた。


 家と言っても極めて狭い。四人が横になれば、もう空きのスペースが見当たらないほどの小さな小屋である。無理もない。スラム街なのだ。ナイロビだけで約百万人の人が、このような家に住んでいる。


 ルーシーは戸惑いながら座ったが、真美は何食わぬ顔で「どっこらしょ」と言って座った。ルーシーの家は富裕層だ。おそらく、このような家に来たことは、今まで一度もないのだろう。それに対して真美は、全く気にならないようだ。


「私は、ケニアに着いてからマアンギの死を知りました。これは、お土産に買ってきた日本人形です」


 可愛い少女の人形だった。和服を着て日本髪を結っていた。


 真美が日本人形を手渡すと、エヒンバがお婆さんに説明した。お婆さんは頷いて、日本人形をマアンギの霊前に置いた。


 小さな仏壇のようなもので、マアンギの遺影が飾ってあった。


「マアンギ姉さんは、真美さんやルーシーさんと走るのを、楽しみにしていました」

 そう言いながらエヒンバが、昨年開催されたアンダー20世界陸上競技の表彰式の写真を見せた。表彰台の中央にマアンギがいて、左にルーシー、そして右に真美がいる写真だ。


 お婆さんはその写真を見て、まさにマアンギの両脇にいる二人が目の前にいることに感動した。


「あなたたちが家に訪ねてくれて、マアンギも喜んでいるよ」

 お婆さんは優しそうな眼をしている。まるで、真美やルーシーを自分の孫のような目で見ていた。


 言葉は通じなくとも、真美には、お婆さんの気持ちがわかった。


 更に真美は、ケーキをお婆さんに渡した。このケーキは、途中の店で買ったものだ。


「マアンギと一緒にケーキを食べる約束をしていたの。これは、みんなで食べてください」

 真美が説明すると、エヒンバがケーキを切り、一つはマアンギの遺影へ、それ以外はみんなに分けた。


 甘いはずのケーキなのに、なぜか真美には、しょっぱく感じる。気がつくと、いつの間にか両頬に涙の跡があった。


 マアンギの遺影に向かい、真美が挨拶した。


「マアンギ、約束通りアンダー20世界陸上競技大会で、私は優勝したよ。でも、本当は、あなたと走りたかった。マアンギ、あなたは、ずるいよ。私に勝ったまま、いなくなるなんて。おかげで私は、永遠にあなたに勝てない」

 真美の頬を涙が流れ落ちた。


 お婆さんには日本語は分からない。だが、真美がマアンギを大切に思っていたことを、お婆さんは理解した。言葉はいらない。外国の友達が、わざわざスラム街にある家を訪ねてきて、お土産も持ってきてくれた。これだけでも十分な誠意が感じられる。


 しかも、遺影の前で涙を流している真美の姿を見て、お婆さんは思わず真美を抱きしめた。


 お婆さんから抱きしめられたとき、真美は、まるでマアンギから抱きしめられたように感じた。


「信じられないかもしれないけど、私は、三日前にマアンギから、お婆さんを励ますよう頼まれたの。お婆さんは、マアンギが亡くなってから毎日ふさぎ込んでいる。毎朝のジョギングも、マアンギが亡くなって以降やっていない。マアンギは、お婆さんを心配して、私に頼んだの」


 真美のポツリポツリと語る言葉に、ルーシーとエヒンバが驚いた。エヒンバは、お婆さんが毎朝のジョギングをやらなくなったことを知っていた。だが、それを真美が知っていることに不思議な思いを感じていた。


 すかさずエヒンバが、お婆さんに通訳した。

 それを聞いたお婆さんも、驚いているようだ。


「お婆さん、元気出してね。いつもマアンギは、お婆さんの傍にいます」

 真美がいった。もちろん真美の言葉は伝わらない。だが、気持ちはしっかり伝わった。


 お婆さんには、まるでマアンギが「元気を出してね」と言っているように聞こえた。


「マアンギ、ありがとう。元気出すよ。明日から私は、毎朝ジョギングする」

 お婆さんの頬を涙が流れ落ちた。


 マアンギに走る喜びを教えたのは、お婆さんだった。幼くして両親を亡くしたマアンギは、小さい頃からお婆さんと一緒に毎朝走っていた。マアンギにとってお婆さんは、最も大切な人だった。


 ルーシーも、マアンギの遺影に向かって挨拶した。


「マアンギ、真美は明日『骨髄バンクにドナー登録を』と呼びかけながらナイロビ・マラソンを走るつもりよ。でも骨髄バンクの連絡先が分からない。もし知っていたら教えてちょうだい。そうすれば、真美は走ることができる」


 すると、エヒンバがルーシーの言葉を聞きつけ、

「僕、骨髄バンクの連絡先を知っている」と、直ちに連絡先を教えてくれた。


 なんという幸運だろうか。ルーシーはその場で骨髄バンクに電話した。



「だから明日、ナイロビ・マラソンで、『骨髄バンクにドナー登録を』と書いたメッセージを身に着けて走りたいのです。マラソン大会事務局に提出するために、推薦のサインをいただきたいのです」

 ルーシーが電話で説明したが、なかなか通じない。


 エヒンバが電話を代わり、スワヒリ語で、

「さっき電話で話していた人はルーシー。昨日行われたアンダー20世界陸上競技の女子三千メートルで二位になった人です。そしてチャリティ部門で登録したい人は、アンダー20世界陸上競技の女子三千メートルで一位になった人、篠原真美です。それに彼女は、昨日、意識不明のタンクローリー車の運転手を救助して、大事故を未然に防いでくれました。きっと真美が走れば、ドナー登録の数が増えるはずです。マアンギ姉さんのような不幸な人を無くすためにも、真美に推薦サインをください」

 と、懸命に説明した。


 エヒンバの熱意が伝わった。エヒンバのおかげで、骨髄バンク代表者の推薦サインをとりつけることができた。どうしようかと昨日は悩んでいたが、こんなに簡単にできるとは、真美もルーシーも、思ってもみなかった。まるで、マアンギが応援しているようだ。


 エヒンバは電話を切ると早速、

「真美さん、ルーシーさん、今から骨髄バンクに行こう。推薦サインを受け取りにね!」

 と、二人を骨髄バンクセンターへ案内した。


 

 骨髄バンクセンターは、スラム街からわりと近くにある。

 またしても、エヒンバの説明により、代表者の推薦サインを難なくもらうことができた。後は、この推薦サインをナイロビ・マラソン大会事務局へ持っていき、真美の登録を完了させる必要がある。


 エヒンバは骨髄バンクを後にすると、直ちにルーシーと真美を、ナイロビ・マラソン大会事務局へと案内した。


「エヒンバ、ナイロビ・マラソン大会事務局の場所を知っているの?」


「うん。マアンギ姉さんが招待選手として走るはずだったからね。僕は事務局の人たちも知っている」

 そう言いながらエヒンバは、グングンと歩いて行く。エヒンバが案内してくれるので、真美たちは迷うことなく、大会事務局へ着いた。



 マラソン大会事務局へ着くと、係の人への説明もエヒンバがしてくれた。


 真美には、エヒンバの姿がマアンギに見えた。

 まるで、マアンギが真美のために、一生懸命手伝っているような気がしてならない。

 真美は、それだけで涙がでそうになった。


「マアンギ。明日、私たちは頑張るからね」

 真美は誓った。


 エヒンバのおかげで、真美は晴れてナイロビ・マラソン大会への出場資格を獲得できた。

 これは、まさしく奇跡だった。普通は、大会前日に申し込んでも、認められるわけが無い。


(マアンギの神秘的な力で、参加が可能になった)

 真美はそう感じた。



   *****



 真美たちがナイロビ・マラソン大会事務局から去った後、キリマニ地区にあるマイアの自宅に電話がかかった。

 マイアが電話にでると、ナイロビ・マラソン大会事務局に務めるルルからだった。ルルはマイアと同じ年齢で、大の仲良しだった。


「マイア、日本人の篠原真美って子を知っているよね」

 いきなり真美の名前が出たので、マイアはびっくりした。


「知っているけど、ルル、どうしたの?」


「実は…」

 ルルは、真美が『骨髄バンクにドナー登録を』と書いたメッセージをつけて、ナイロビ・マラソン大会へ出場することを教えた。しかも、その目的が、マアンギと同じような不幸な子を減らすためであることも説明した。


 マイアは、ルルの知らせを聞き、驚いた。


 真美がマアンギのために走る…

 言いようのない想いが、マイアの心に沁み入った。


「ところでマイア、あなたはどうするの?」

 ルルからの質問だった。


 マイアが答えを出せずにしばらく考えていると、

「マイア、あなたも篠原真美さんの応援をしてくれると、私は嬉しい…。マイアにしかできないことがあると思う」

 そう言ってルルは、電話を切った。


 切れたままの電話機を持って、マイアは、しばらく考えた。


(真美を助けたい。マアンギのために頑張る真美を助けなければ…。でも、どうやって助ければいいの? 私一人が頑張っても、力にはなれない)

 マイアは悩んだ。


 そのとき、

「マイア、今から食事に行くよ」


 振り向くと、母がいた。今日は家族みんなで、半年ぶりに外食をすることになっていた。


「お母さん、ごめん…。私は行けない…。私は、今から真美を応援したい…」


「どうしたの?」マイアの母が尋ねた。

 いつの間にか、マイアの父や兄弟たちも、集まってきた。


「実は…」

 マイアは家族に説明した。


 マイアの説明が終わると、マイアの父が、

「わかった。私たち家族も、真美を応援しよう。みんなで今から『骨髄バンクにドナー登録を』と書いたメッセージをつくろう」

 そう言った後、マイアに向かって、

「メッセージ作りは私たち家族に任せて、マイアは、マイアにしかできないことをやりなさい」と、告げた。


 マイアの父は、家族から真美のことを聞かされていた。いつか真美に恩返しがしたいと思っていた。


「真美の願いは、私たち家族の願いよ」

 マイアの母も言った。

 マイアの兄弟たちも、「真美のために頑張るぞー」といった。


「お父さん、お母さん、ありがとう。みんな、ありがとう」

 そう言って、マイアは家を出た。



 マイアが向かった先は、アンダー20ケニア代表選手団の合宿所だった。

 今日は解団式が行われていた。

 マイアは半年ぶりに家族と食事をする予定だったので、解団式への欠席届を出していた。


 ケニアでは、十八歳からお酒の購入や飲酒が認められている。

 参加者の多くは、お酒を飲みながら、陽気に雑談していた。


 そこへ、マイアが現れた。


 マイアは深く深呼吸をし、覚悟を決めた。


 いきなり壇上へ上り、マイクを持ち、

「皆さん、すみません。三分だけ私の話を聞いてください」

 そう言った後、ナイロビ・マラソン大会へ真美が『骨髄バンクにドナー登録を』というメッセージをつけて走る話をし、

 頭を深く下げて、

「マアンギのために走る真美に協力してください」と、皆の協力をお願いした。


 今までお酒を飲んでいたみんなは、しばらく無言だった。



   *****



 その日の夜、真美の滞在するホテルに、マイアがやって来た。マイアは、わりと大きな荷物を抱えていた。


「こんな時間にどうしたの?」

 突然のマイアの訪問に、真美は驚いた。


 そんな真美の質問に、マイアは答えることなく、

「真美。明日のナイロビ・マラソン大会に出場するのよね?」と、いきなり尋ねた。


「どうしてそれを知っているの?」

 真美は、日本選手団の誰にも、ナイロビ・マラソン大会に出場することを告げていない。マイアが知っていることが不思議だった。


「ナイロビ・マラソン大会事務局の人から聞いたわ。『骨髄バンクにドナー登録を』と書いたメッセージを胸に付けて走るのよね」


「うん…。そうだけど」


「そのメッセージはできたの?」


 まだ真美は、メッセージの準備をしていなかった。いざとなればラスベガス・マラソン大会のときのように、マジックでユニフォームに直接書こうと思っていた。真美は面倒なことが嫌いな性格である。


「ごめん。まだメッセージはできていない」

 頭をかきながら真美が答えると、

「それじゃあ、このメッセージを使ってほしい」

 そう言ってマイアは、手荷物からメッセージが書かれている布を一枚取り出し、真美に渡した。


 だが、メッセージはスワヒリ語で書かれており、真美には読めない。


「これは?…」


「これは『骨髄バンクにドナー登録を』とスワヒリ語で書いてある。真美のことをアンダー20ケニア代表選手団の人たちに話したところ、皆も賛同してくれた。それからこのメッセージを私の家族で作ったの。三十名のケニア代表の選手団も、明日これを付けて走ることになったのよ」


 信じられない展開だった。真美は、自分の耳を疑った。


「えっ。本当にみんなが、メッセージを付けて走ってくれるの?」


「うん。本当よ」


「マイア、ありがとう!」

 真美は、思いっきりマイアに抱きついた。


 いきなり抱きつかれたマイアは戸惑ったが、

「真美、私たちの方こそ感謝しているわ。ありがとう」と、マイアも真美を抱きしめ、

「真美が行動しなかったら、私たち何もしなかった。それだと、マアンギが悲しむわ。亡くなったマアンギを悲しませないためにも、明日、私たちは心を一つにして走りましょう」


「うん。そうね!」

 真美は喜んだ。明日みんなでマアンギのために走ることを想像し、胸が熱くなった。


「ところでマイア、お願いがある」


「どうしたの?」


「メッセージの布をもう一枚ほしい。アメリカ代表ルーシーの分よ。ルーシーも明日走るの」


「お安いご用よ」

 そう言ってマイアは、もう一枚メッセージの布を真美に渡した。


「マアンギの高校のクラス委員にも、真美のことを話したわ。すると、クラスみんなで応援してくれるそうよ。おそらく、明日になれば、もっと多くの人が、このメッセージの布をつけて走るかもしれない」

 そう言い残して、マイアは帰っていった。


 真美は、ケニアに来てから人の心の温かさを何度も感じた。明日が待ち遠しかった。


(マアンギ。私たちは、明日走るよ。みんなの心を一つにして走る。応援してね)

 真美は、心の中でマアンギに話しかけた。



 マイアが去ってすぐ、まるで入れ替わるように、今度は老齢の男性が、通訳と一緒に真美の部屋を訪れた。


「どちら様でしょうか?」


「私はナイロビ石油化学会社社長のエリウドです」

 ナイロビ石油化学会社は、昨日、真美が救助したタンクローリー車の運転手が務めている会社だった。


「真美さん、あなたのおかげで、うちの社員の命が助かりました。そして大事故に至らずに済みました」

 エリウドは、真美に深く感謝した。


「いえ、当然のことをしたまでです。私は父を交通事故で亡くしたものだから、見過ごせなくて…」

 真美は先ほどマイアからもらったメッセージの布を握りしめたまま、照れながら頭をかいた。


 そのとき、メッセージの布に書かれている文字がエリウドの目にとまった。


「その布に書かれているメッセージは?…」


 それからエリウドは、しばらく真美と話し合い、やがて去って行った。


 エリウドが去った後、真美は信じられない思いで胸がいっぱいだ。


 なんとエリウドは、マイアの家族がつくったメッセージの布を見て、真美から話を聞くと、

『わが社は明日、真美さんを応援します。わが社の陸上部部員四十人も、そのメッセージをつけて明日走るでしょう。仲間を救ってくれた真美さんに協力するはずです』と、言ったのだ。


 真美の願いは、今や真美だけの願いではなくなった。ルーシーやエヒンバ、そしてマイアやマイアの家族と、アンダー20ケニア代表選手団、それに、マアンギのクラスメートの願いに成長した。そして更に、ナイロビ石油化学会社の人たちが、真美の応援をしてくれる。


 明日になれば、もっともっと成長するだろう。


 それは、骨髄バンクのドナー登録に協力してくれる人が増えることを意味していた。



 夜遅く、真美は、佐々木かおりの部屋を訪れた。


「真美、どうしたの?」

 ノックの音に気づいた佐々木かおりが、真美の顔つきやしぐさを見て、心配した。


「かおり先輩、お願いがある」

 真美は神妙な顔をしている。


「とにかく、中に入って」

 促されるままに、真美は佐々木かおりの部屋に入った。


「ホットミルクティ飲むでしょう?」


「うん」


 佐々木かおりがミルクティを真美に渡した。

 湯気がゆらゆらと上ってゆく。時計の音がチクタクと、聞こえる。

 二人とも無言だった。


 真美は、フーフーと熱を冷ましながら黙々とミルクティを飲んでいる。

 佐々木かおりは、真美のその顔を見ただけで、事情を察した。


「わかったわ。ナイロビ・マラソン大会に出場するのね。明日、私たち日本選手団はケニア国立公園に行き、その後、空港に行く予定よ。だけど、真美は、マラソン大会に出場して空港で私たちと待ち合わせするのよね?」

 佐々木かおりは、真美のことが良くわかっていた。普段から真美と一緒にいるので、顔色やしぐさの違いで、すぐに分かったのだろう。しかも彼女には、真美の頼みまでも予想がついていた。


「かおり先輩、実はそうなの。私、ルーシーやアンダー20のケニア代表の人たちと一緒に走るんだよ」

 真美は、胸のつかえがとれたように、楽になった。


「真美の考えなんて、すぐにわかるわ。それで、スーツケースを預かってほしいのよね」


「うん。そうなの。お願いしてもいい?」


「いいわよ。それで今度は、どんな願いを書いて走るの?」


 すると、真美は恥ずかしそうに、さっきマイアからもらったメッセージを、佐々木かおりに見せた。


「読めない。何て書いてあるの?」


「これは『骨髄バンクにドナー登録を』とスワヒリ語で書いてある」


「そう。良いメッセージね。マアンギのために走るのね」


「うん。マイアをはじめとしたアンダー20ケニア代表選手団の人たちも、このメッセージを付けて走る。アメリカ代表のルーシーも。それに、ナイロビ石油化学会社の陸上部員もこのメッセージをつけて走ってくれることになった…」


「真美、あなたは偉いわ。あなたを取り巻く絆が、どんどん大きくなっている」


 確かに、佐々木かおりの言うとおりだった。

 いつの間にか、真美の周りに人が集まる。みんなが真美に協力する。真美にとって、言葉の壁など全く問題としない。真美の行動で、みんなが真美の願いを知り、その願いが皆の願いへと変わっていく。


「真美、頑張ってね」


「うん。かおり先輩、頑張る。ありがとう」


「でも、空港には遅れずに来るのよ」

 佐々木かおりは、真美に釘を刺した。


 真美は去年、ラスベガス・マラソン大会に出場したとき、飛行機の出発時間ぎりぎりに空港へ到着し、井口コーチに迷惑をかけたことがあった。


「今度は、飛行機の出発時間までには余裕があるから、大丈夫だよ」

 真美が余裕で答えた。


 だが、佐々木かおりは信じない。


(真美のことだ。きっと遅れる。必ず遅れる。私は、真美の性格をよく知っている。だから、遅れないように確実に手を打つ必要がある)

 佐々木かおりは、自分の考えに確信を持っていた。『真美が遅れる方に百万円賭けても良い』とさえ思っていた。



 その後、真美が佐々木かおりの部屋から出て行った後、かおりは、密かに井口コーチの部屋へ行った。


 今夜も、ナイロビの空には、満天の星がきらめいていた。


「真美の願いが叶いますように」

 井口コーチの部屋から戻ってきた佐々木かおりは、静かに祈りながら眠りについた。

ナイロビ・マラソン大会に出場できるようになって良かったですね。


次はいよいよナイロビ・マラソン大会です。

真美の執念の走りに刮目願います。


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