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ランナー真美の願い(2)  作者: でこぽん
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5.白井玲子

 真美がニャヨ国立競技場から出ると、出口にはブラウンがいた。彼は、笑顔で真美を待っていた。


「決勝進出おめでとう」

 ブラウンは、一輪の赤い薔薇の花を、真美の胸ポケットに挿した。

 甘い香りがする。真美の好みの香りだ。


「ブラウン、応援しに来てくれたのね。ありがとう。私は、薔薇の花が大好きよ」

 真美がブラウンとハイタッチをした。


 真美は、本当は花より団子を好むのだが、ブラウンからの贈り物ならば、何でも嬉しかった。真美は、ブラウンに好意を抱いていた。


「もし良ければ、今からピアノ・リサイタルを聴きにいかないか。ウィーンから不思議なピアニストが来ているんだよ」

 真美は、ブラウンの誘いを断る理由が無かった。


「行く行く。私、ピアノ・リサイタル好きなのよ」

 先ほどまでとは打って変わって、真美は、大いにはしゃいだ。


 さっきまでは無口で物静かな真美だったが、ブラウンの前だと無邪気な真美だった。おそらく、ブラウンの人柄が真美を安心させるのだろう。


 真美とブラウンは、タクシーに乗り、ナイロビ大学の近くにあるケニア・ナショナル・シアターに向かった。ピアノ・リサイタルは、ここの中ホールで開催される。



 何気なく窓の外を見た真美は、街路樹の美しさに、思わず驚いてしまった。

「わー、凄い。薄紫の花が綺麗!」


「この木はジャガランダさ。乾期の終わりを告げる花だよ」

 

 沿道の街路樹には、ジャガランダの花が美しく咲き乱れていた。花の色は薄紫であり、満開の並木が見事だった。


 日本人が桜の花を愛するように、ケニアの人たちはジャガランダの花を愛する。元々は南米原産の木だが、この花は、乾期が終了した知らせを告げる花であり、そのために国民からも喜ばれているのだろう。

 薄紫の花が一斉に咲き誇る姿は、日本の桜と共通したものがあった。


 街路樹を見ながら真美は、久々に聴くピアノ演奏を楽しみにしていた。


 やがて、タクシーが目的地へ着いた。

 真美とブラウンは階段を上り、ケニア・ナショナル・シアターの中ホールへ行った。



 入口には、リサイタルのポスターが、大きく貼られていた。


 ピアニストは、セミロングの髪型をしている日本人の女性だ。常に落ち着いた表情をしており、切れ長の目が美しい。その名前は『白井玲子』と書かれていた。


 そのポスターを見て、真美は驚いた。なんと、白井玲子は真美の中学の頃の同級生だ。しかも、昨年、真美は、ロスアンゼルスで玲子が開催するピアノ・リサイタルを聴きに行ったことがある。


 真美は、中学二年の終了時まで、天才ピアニストの白井玲子と同じクラスだった。白井玲子は、その年の三月に、オーストリアのウィーンに留学した。そして、留学期間が過ぎても戻って来なかった。噂では、向こうの先生に大変気に入られて、卒業までウィーンで学ぶことになったとのことだ。


「玲子だ。また会うことができた」

 真美は喜び勇んで、客席には向かわず、いきなり楽屋に向かった。『関係者以外立ち入り禁止』と書かれていたが、真美は全く気にしない。


 控室にノックして、すかさず扉を開けた。


「玲子いる? 真美よ。篠原真美。友達の真美よ」


 そのとき控室では、白井玲子が鏡を見て心を落ち着かせていた。


「えっ? 真美? どうして?」

 白井玲子は、突然の真美の訪問に驚いた。


「私、ナイロビで開催されているアンダー20世界陸上競技に出場しているの。すぐ近くのホテルだよ」

 真美は、今日のピアニストが友達の玲子だったため、興奮している。


「真美、わざわざ来てくれてありがとう。今は準備で忙しいから、リサイタルが終わったらここに来て。一緒に食事しましょう」


「わかった。あとで必ず来るよ。玲子、頑張ってね」

 そう言って真美は、控室から出て行った。


 客席に行くと、小さな会場だが多くの観客が既にいた。


「真美、驚いたよ。君があの白井玲子と友達だったとは…」

 ブラウンは、白井玲子のファンのようだ。会場の客数から察すると、ナイロビには多くの白井玲子ファンがいるようだ。


「中学二年まで、玲子とは同じクラスだったのよ。そして去年は、ラスベガス・マラソン大会のとき、玲子に応援してもらったの。玲子には、いっぱい助けられたなぁ」


 真美は、中学二年のときの学園祭での玲子のピアノ演奏を思い出した。確かに彼女のピアノ演奏は、他のピアノ演奏者とは明らかに異なっていた。彼女のピアノ演奏には、何かしら、心がいざなわれるものがある。それは音色の美しさでもなく、旋律の激しさでもない。不思議な魅力だった。


「ところでブラウンは、何故、玲子のリサイタルを知ったの? それに、ナイロビに何故、こんなに玲子のリサイタルを聴きに来る人がいるの?」

 真美は、白井玲子がナイロビで人気がある理由を知りたかった。


「実は、このリサイタルは、コンサートの付けたしなんだよ」


「えっ? 意味が分からない」

 真美は不満顔だ。頬を丸く膨らませた。その表情が実に可愛いい。ブラウンは思わず人差し指を真美の膨らんだ頬に押し付け、頬笑んだ。


「実は二週間前、ウィーンから交響楽団がコンサートにやって来てね。その中に白井玲子もいたのさ」


「へー。そうなの。それで『付けたし』っていうのは?」


「コンサートの中で、白井玲子がソロで奏でるピアノ演奏があってね。それが観客に大変好評だったんだよ。だから、コンサートが終了した後で、スポンサーが白井玲子にピアノ・リサイタルを依頼したのさ」


「だから今日のリサイタルがあるのね」


「うん。白井玲子のピアノ演奏には不思議な魅力があるんだよ。なんと説明すればいいか……」

 ブラウンは説明に困っているようだ。


 すると、真美がブラウンの言葉を補うように、

「玲子のピアノの旋律は、観客をいろんな世界へ誘うわ。世界旅行はもちろんのこと、宇宙旅行や神々の世界、さらには、時空を越えた世界へと導くの。観客は、会場に居ながらにして、いろんな世界を旅することができるのよ」


「へー。凄いね。僕の言いたかったことを的確に言ってくれた」

 ブラウンは、真美の説明に感心した。


「玲子が留学する直前にピアノ演奏を聴いたとき、私の友達が言ったのを思い出しちゃった。だから、これは、私の言葉じゃないの。あははは」

 頭をかきながら真美が笑った。


 やがて、玲子のリサイタルが始まった。


 リサイタル会場での白井玲子の服装は、常に白いブラウスを身に着け、黒いロングスカートを穿いている。


 最初の曲は、グノーの『アヴェ・マリア』だった。この曲は、バッハの平均律第一番ハ長調を伴奏にして、グノーがメロディを作曲した。神秘的な曲であり、ピアノのソロだけでなく、バイオリンのソロとしても有名だ。


「アヴェ・マリアか…」


 真美は思わず苦笑いした。実は、真美が中学のとき、この曲の思い出があった。



 中学二年の学園祭で、白井玲子が『アヴェ・マリア』のピアノ演奏をすることになった。


 そのとき委員だった真美は、黒板に『阿部真理亜』と記述した。真美は、『長崎県の平戸に住む阿部真理亜さんがおめでたになったのを祝った歌』だと勘違いしていたようだ。


 同じクラスだった牧野が「なぜ、長崎県の平戸なのか?」と尋ねたとき、真美は「だって、長崎のカステラの宣伝で、この曲が歌われていたから…」と、真剣に答えた。


 当然、クラスのみんなが爆笑した。


 すると、クラス担任の先生が、

「篠原さん、『アヴェ』はラテン語で『こんにちは』や『おめでとう』という意味です。これは聖母マリアの懐妊を祝した曲です。おめでたと懐妊は同じ意味だから、そこは当たっていましたね。惜しかったです」と、フォローしてくれた。



 真美は、そのときのことを思い出し、苦笑いしたのだった。



 会場が静かになり、玲子のピアノ演奏が始まる。


 玲子のピアノの旋律が、観客の頭に響き渡る。優しさに満ちた響きだった。

 すると、不思議なことに、観客は皆、映画を見ているような気分になる。そして、観客の心が、神々の世界へ誘われてしまう。魂が誘われると言った方がふさわしいかもしれない。まるで、集団催眠術をかけられているかのように、全員が同じ光景を見ていた。


 ほとんどの観客は、いつの間にか目を閉じていた。彼らは目を閉じながら、光り輝く楽園を見ていた。天国へと旅をしていた。神々が住む美しい宮殿や、綺麗な花が咲いている美しい草原を見ていた。


 観客は、神々の世界への旅を満喫し、心が洗われるような幸福を感じていた。真美も、皆と同じく、天国を旅していた。美しい花園が現れ、安らぎの音色が聞こえている。


「天国とは、こういうところなのね」

 真美は、思わずつぶやいた。


 すると、花園の向こうからマアンギが現れた。


「えっ、マアンギ?」

 真美は驚いた。


「真美、予選突破おめでとう」

 マアンギが駈けてきて、笑顔で迎えてくれた。マアンギの使う言葉はスワヒリ語なので、真美には通じないはずである。だが、マアンギの声が真美の心に直接響いた。マアンギの言葉が理解できた。


「マアンギ、会いたかった。私の走りを見てくれたの?」


「うん。私の走りを真似たのね。しかも、私の走法よりも、さらに前傾姿勢よ。よく頑張ったわね」


「だってマアンギに負けないようにするには、もっと速くならなきゃと思い、走り方を改良したの。体が覚えるまで大変だったんだから」

 真美は照れながら説明した。


「真美なら優勝できるわ」


「本当? 嬉しいなぁ。ありがとう」

 真美は、マアンギから優勝の太鼓判を押されたことが、嬉しかった。でも、それよりも、マアンギが自分の努力を分かってくれたことが、もっと嬉しかった。


「ところで、さっきはマイアを叱ってくれてありがとう。おかげで、彼女にも目標が見つかったみたい」


「えっ。何のこと?」

 突然マイアの話になったため、真美は驚いた。しかも、マアンギは、マイアと親しいようだ。


「私が病気になってから、マイアは目標を失っていたのよ。でも、もう大丈夫。マイアは立ち直るわ。真美を目標に練習に励む。真面目に練習するマイアは、やがて真美の記録を破るわ」


「えっ。それじゃあ私は、超強力な敵を目覚めさせたの?」


「そうなるわね。本気になったマイアは怖いわよ」

 マアンギは、無邪気な笑顔で真美を脅かした。だが、真美も、内心ではライバルができたのが嬉しかった。


 マアンギが真美に『優勝してください』と手紙に書いた真の理由は、マイアに立ち直ってもらうためだった。マアンギは、マイアのために手紙を書いたのかもしれない。


「真美、お願いがあるの」


「なあに?」


「決勝戦が終わったら、私の家を訪れてほしい。私のお婆さんに『元気を出してね』と言ってほしいの。私のお婆さんは、私が死んでからずっと、ふさぎ込んでいる…。毎朝のジョギングも、しなくなったし…」


 亡くなった後もマアンギは、お婆さんのことを心配しているようだ。真美には、マアンギがお婆さんを愛していることが、良くわかった。


「わかった。必ずマアンギの家に行くよ。マアンギのお婆さんに、マアンギの気持ちを伝える」


「ありがとう」

 真美が約束してくれたことが、マアンギには嬉しかった。


(これで心残りが無くなった)

 マアンギは安心した。


「ところで真美の走法だけど、足首に負担がかかるので、毎日足首を入念にマッサージしてね。そうしないと、すぐに故障しちゃう」

 確かに、マアンギの言うとおりだった。真美の走法は著しく真美を速くしたが、その分、体への負担も大きくなった。特に体を前に傾けるため、それを支える足首の負担が最も大きかった。


 真美も、それは気にかけていた。だが、能天気な真美は、入念なマッサージなど面倒なので、今までしていなかった。だが、『このままでは確実に足首を故障する』と忠告されると、いかに能天気な少女でも心配になる。


「ありがとう。今日からは毎日、足首を入念にマッサージするよ」

 真美はマアンギに感謝し、一緒に食べるはずだったケーキの話をした。楽しい時間だった。真美の心が安らいだ。


 だが、しばらくすると、マアンギが寂しそうな顔をして、

「真美、そろそろ曲が終わるわ」

 と言うと、だんだん彼女の姿が薄れてきた。天国の光景も、少しずつ薄れだした。


「いつかまた会いましょう。さようなら」


「待って。まだ行かないで。マアンギ…」

 真美の願いが空しく響くなか、やがて、マアンギの姿が完全に見えなくなった。真美の視界が完全に真っ白になったとき、真美は、目を開いた。


 気がつくと、白井玲子のピアノ演奏が、終わりを告げていた。

 いつの間にか真美の両頬には、涙がにじんでいた。


「マアンギ…」

 真美は、小さな声でつぶやいた。


 その後、偶然に隣の人の頬を見ると、隣の人も、頬に涙の跡があった。思わず振り向くと、観客の多くの人たちが涙を流していた。


 不思議なリサイタルだった。



 リサイタル終了後、真美はブラウンを連れて、白井玲子と一緒に食事をした。


「真美、その人は誰?」

 白井玲子は、真美の隣にいる若い男性が気になる様子だ。


「ブラウンよ。ナイロビで知り合った私の友達。彼から今日のリサイタルに誘われたの」


「初めまして、玲子さん、ブラウンです。あなたの大ファンです」

 ブラウンは緊張した様子だ。思わず両耳が赤くなっていた。彼は緊張すると、耳が赤くなるようだ。


「私のファンの方ですか。お会いできて嬉しいです」

 玲子がブラウンと握手をすると、ブラウンは、耳だけでなく頬も赤くなった。


「真美は、誰とでもすぐに仲良くなれるのね。うらやましい」


「いやあ、ナイロビで道に迷ったときに、ブラウンから助けてもらったの。食事もおごってもらったし…」

 真美は、照れながら頭をかいている。


「僕は一年前にラスベガスにいたので、ラスベガス・マラソン大会で真美の顔を知っていたしね」

 ブラウンが言うと、

「私もラスベガス・マラソン大会に参加した真美の走りを見たわ。すごく感動した」

 と、玲子がいった。


「あのときはキーボードを演奏して応援してくれたよね。すごく嬉しかったし、玲子の演奏で元気をもらえたよ。ありがとう」


 実は玲子は真美がラスベガス・マラソンで走っているとき、音楽隊の一員としてランナーの応援をしていた。


「あのときはびっくりしたわ。音楽隊で演奏していたら、いきなりモニターに真美の姿が映るんだもの。しかも、真美が苦しそうな表情で走っていた」

 玲子は、身振り手振りを使い、そのときの興奮した様子を説明した。


「あのときは、いろんな人から助けてもらって完走できた。とても一人の力では完走できなかったよ」

 真美は謙虚にあのときのことを感謝した。


「確かに、あのときは多くの人が真美を応援していた。それだけ真美は、みんなから慕われていたんだよ」

 ブラウンが何気なく真美を褒め称えた。



 やがて、食事が運ばれてきて、三人は食事をしながら、玲子のピアノ・リサイタルでの話を始めた。


「玲子さん。大変すばらしい曲でしたよ。僕はずっと感動していました」


 ブラウンは、玲子のピアノ演奏をベタ褒めだ。玲子のファンだから、なおさらだろう。

 それに対して真美は、神妙な顔をしている。


「玲子、ありがとう」

 真美が姿勢を正して感謝した。いつもは見ない真美の表情だった。


「真美、いきなりどうしたの?」

 神妙な顔をした真美の姿を、あまり玲子は見たことが無い。玲子にとって真美は、太陽のように、いつも明るく元気な印象だった。


「玲子のおかげで、マアンギに会えた。陸上競技の友達…」


「そう…。その人…、亡くなったのね…」

 玲子にも、真美の言いたいことが、なんとなくわかったようだ。


 だが、玲子の返事に、今度は真美が驚いた。

「なぜ…、なぜ、マアンギが亡くなったとわかったの?」

 真美もブラウンも驚いている。だが、玲子は冷静だ。


「真美と同じようなことを、いろんな人から言われたの。私のアヴェ・マリアの演奏を聴くと、亡くなった友人や親、子供たちに会えるみたい。なぜ会えるのか、私にも分からない…」


 驚嘆すべき説明だった。真美とブラウンは、口を開けたまま、何と言って良いかわからない。


 玲子が続けて説明する。

「だけど、みんなが私の演奏に感謝してくれた。不思議な理由だけど、みんなから感謝されるのは嬉しいわ」


「そ、そうだね。玲子のピアノは、みんなを幸福にする演奏だよ」


「ぼ、僕も、そう思う。だから玲子さんのピアノ・リサイタルには、リピート客が多い。僕なんて今日で三回目だよ。玲子さんのピアノ演奏を聴くと、なぜか、幸せな気分になれる」

 真美やブラウンは、戸惑いながらも玲子に合槌をうった。だが、真美たちの意見は、嘘偽りのない正直な感想だった。


「ところで玲子、ナイロビには、いつまでいるの?」


「今日のリサイタルが最後よ。明日の昼、ウィーンに戻る。だから今日は真美が来てくれたので、とても嬉しかったわ」


「そうか。それじゃあ、明後日にある私の決勝戦には、応援に行けないんだね」


「ごめんね。でも、真美なら大丈夫よ。優勝できる」


「ありがとう。マアンギからも、同じことを言われた」

 そう言った後、

「明日、玲子を見送りに空港へ行くよ」

 と、思い切っていった。


 真美は、もっと玲子と同じ時間を過ごしたかった。玲子がウィーンにいるため、もう二度と会うことができないかもしれない。そう思うと、少しでも長く、玲子と一緒にいたかった。


「ありがとう。とっても嬉しい。それじゃあ、見送りをお願いします」

 玲子がぺこりと頭を下げた。


 長い間、玲子は日本を離れており、日本の友達と疎遠だった。しかも、玲子は元々、友達が多くない。だから、真美がナイロビで楽屋まで来てくれたことや、見送りまでしてくれると言ったことが、深く胸にしみた。玲子にとって真美は、やはり太陽だった。


「ところで、ナイロビ・マラソン大会には出場しないの? ラスベガス・マラソン大会のときみたいに、何か願いを込めて出場すれば良いと思うけど…」


 真美は一年前のラスベガス・マラソン大会のときに、『児童養護施設に寄付金を』と書かれたランニングウェアを身に着けて走った。そのときの真美の走りに感動した人たちから寄付金が集まり、ダウンタウンにある児童養護施設は、赤字から脱却することができた。玲子はそのことを知っていた。


「僕もそう思う。ナイロビ・マラソン大会は、四日後に行われる。決勝戦で優勝できたら、もしかして招待選手として参加できるかもしれない。それに、真美の走りは、みんなに希望を与えるよ」

 ブラウンも、玲子と同じ考えのようだ。


 このとき初めて真美は、四日後にナイロビ・マラソン大会があることを知った。


「ナイロビ・マラソン大会があるなんて、初めて知ったよ。でも、まだ決勝戦も終わっていない。だから、ナイロビ・マラソン大会のことは、今は考えられない。ごめんね」

 そう言ったものの、真美はこのとき、ナイロビ・マラソン大会に興味をもった。



 やがて、玲子やブラウンとの食事も終え、明日の待ち合わせ時間を決めると、真美はホテルに戻った。


(玲子も頑張っている。私も頑張らなきゃ)

 お風呂に入ると、マアンギから言われたように、真美は足首のマッサージを丹念にした。



 不思議な縁だった。

 今日、確かに真美は、マアンギと話ができた。だが、それは、玲子のピアノ演奏を聴いたからこそ、できたのである。


 それでは玲子のピアノ演奏を聴くことができたのは、ブラウンから誘われたためである。ブラウンと知り合わなければ、ナイロビで真美は、玲子と会うことができなかったはずだ。


 さらに、ブラウンと友達になれたのは、ナイロビで真美が道に迷ったためである。野良猫が真美の魚を盗らなければ、真美は道に迷うことも無かった。


 まるで、神様が真美のために、いろんな縁を取り持ってくれているようだ。真美は、神様に感謝した。


 だが、縁はこれで終わりでは無いだろう。


 真美は、何故だかわからないが、この縁が続いていくことを確信している。それは、漠然とした勘だった。決して人に説明することができない、第六感のようなものだった。


(神様は、ナイロビで私に、何を期待しているのだろう? )


 真美は考えた。何度も何度も考えた。そして、ようやく真美は、なんとなく、その答えが分かったような気がした。


 今夜もナイロビの空には、星の海が輝いていた。まるで、真美の輝かしい未来を祝福するかのように、静かに煌めいていた。




 翌日、真美は玲子の見送りのために、空港へ行った。


 待ち合わせ場所に着くと、既に玲子がいた。

「わざわざ見送りに来てくれて、ありがとう」


「玲子とは滅多に会えないから、会えるうちに会っておかないとね。それに、昨日のお礼も兼ねているし」


 確かに真美は、めったに玲子と会えないだろう。玲子はウィーンで暮らしている。いつ日本に戻って来るかも分からない。


 玲子のピアノの演奏力が認められれば認められるほど、玲子はウィーンにいるだろう。運が悪ければ、真美は玲子に二度と会えないかもしれない。


 まだ出発まで時間があるため、真美と玲子は、ラウンジで雑談していた。


 すると、玲子の後ろのテーブルにマイアがいた。全くの偶然だった。

 マイアは、幸せそうな顔をしていた。昨日、ニャヨ国立競技場で見たときの顔とは、全然違う。穏やかな顔だった。


「あっ、マイア。どうしてここへ?」


 突然に真美から声をかけられたため、マイアは驚いた。しかも、真美の表情は、昨日マイアを叱ったときとは全く違う。真美の表情は、優しさで溢れていた。


 真美の表情にマイアも安心し、思わず返事をした。

「私は父の到着を待っているの。父は単身赴任でドバイに行っていて、半年ぶりに帰ってくるのよ」


 マイアのテーブルには、マイアの母親と兄弟がいた。家族は、みんな嬉しそうな顔をしている。無理もない。半年ぶりに父親に会えるのだ。

 知らず知らずのうちに、マイアの家族は頬を緩めていた。みんな父に会うのを、楽しみにしているのだろう。


「お父さんに会うのか。それは楽しみだね」

 真美は、優しい笑顔をマイアに向けた。


「ところで真美は、どうしてここへ?」


「友達の見送りよ」

 すると隣の席にいた玲子が、

「初めまして、白井玲子です」

 と、挨拶した。


 思わぬ玲子の挨拶に、マイアは驚いた。白井玲子といえば、今、ナイロビで有名なピアニストだ。思わず興奮した。

「えっ。ピアニストの白井玲子さん? 私、あなたの大ファンです」

 と、マイアが玲子に敬語を使った。マイアだけでなく、マイアの兄弟たちも、玲子のファンらしい。


「真美、玲子さんと一緒にこちらのテーブルに来ない? どうせ出発まで時間があるでしょう?」

 マイアの誘いで、真美と玲子は席を移動した。


 すぐさまマイアたちは玲子にいろいろと質問をした。その質問一つ一つに対して、玲子は丁寧に答える。まるで玲子の性格をそのまま表現しているようだ。


 かたや真美は、誰にでも人見知りしない。マイアの家族たちと、すぐに打ち解けて話し出した。


 マイアの兄弟は、最初は玲子と多く話していたが、いつの間にか真美と話す方が多くなった。マイアの母親も、真美のことを気に入った様子である。まるで、真美もマイアの家族のようだ。そして、いつの間にか真美は、五歳になるマイアの幼い妹を抱っこしている。幼い妹も、真美のことが好きなようだ。真美の膝の上から降りようとしない。


(真美には、かなわないな…)

 玲子は、真美の性格が、うらやましかった。


 まもなく、ドバイからの飛行機が到着する。


 マイアたちが席を立とうとしたとき、

 突然、

「このラウンジは俺たちが占領した。みんな動くな!」

 と、大声が鳴り響いた。


 周りを見ると、ラウンジへの出入口は、いつの間にか銃を持った男たちで塞がれている。

 ラウンジが占領されたのだ。ラウンジは騒然となった。一部の女性客が悲鳴を上げた。


「静かにしろ! 声を出すと殺すぞ!」


 武装集団の一人が凄むと、悲鳴を上げていた女性客は声を止め、口をパクパクさせた。おそらく、恐怖に怯えているのだろう。


 真美がラウンジを見渡すと、武装集団は全員で十人いた。


(十人か…。三人ならば時間を止めて銃を奪えるけど…、困ったな)

 真美が時間を止めていられるのは、呼吸を止めている間だけである。

 一呼吸で周りにいる十人の銃を奪うことは出来ない。うまくいって三人、せいぜい四人が限度だった。


 武装した男たちの一人に、眼鏡をかけた男がいる。その眼鏡の男が、複数のカバンから部品を取り出し、ロケットランチャーを組み立て始めた。


 やがて、十人が持っているカバンの中の部品を組み合わせることで、ロケットランチャーが完成した。


「これで、ドバイから来る要人の乗った飛行機を落とす」

 そう言って眼鏡の男は、ラウンジの窓を無理やり開け、まもなく空港へ着陸する飛行機に狙いを定めた。


(ドバイから来る飛行機!)

 マイアは、眼鏡の男の言葉を聞き、最悪の出来事を想像した。


「だめー。撃たないで」

 思わずマイアは駆け出し、眼鏡の男の腕を押さえようとした。


 だが、男は手慣れたもので、マイアの腹を蹴った。


「やばい」

 真美は直ちに時間を止めた。辺りが静寂になり、周りの景色が灰色に変化する。


 真美は、眼鏡の男が持っているロケットランチャーの向きを右へずらした。その後、マイアの後ろに回り込むと、息を吐き出した。

 準備も無く時間を止めたため、真美が息を止めていられる時間は短かった。


 辺りの静寂が無くなり、周りの景色がカラーに戻る。

 時間が動き出した。


 蹴られたマイアは、後ろに飛ばされた。だが、後ろには、いつの間にかクッション代わりとして、真美がいた。


 真美は、マイアを受け止めたが、衝撃で近くのテーブルに背中があたり、床に倒れた。だが、マイアは、真美がクッションになってくれたため、腹を蹴られた痛みだけである。


 真美がぶつかったテーブルが倒れた。テーブルに乗っていたグラスが床に落ち、粉々に割れた。


 しかし、真美の肝心の目的は、達せられた。真美がロケットランチャーの向きをずらしたため、発射されたロケット弾は飛行機には当たらずに、滑走路の隅に着弾した。


 爆発音が鳴り響き、滑走路の隅が粉々に壊れた。その後すぐに、空港内に非常警報が鳴り響いた。


「このやろう。ロケット弾は一発しか無いのに…」

 眼鏡の男は、計画をマイアに邪魔されたため、怒りで震えている。実際は、真美が時間を止めてロケットランチャーの向きを変えたのだが、それには気づいていない。


 すかさず拳銃を取り出し、マイアに狙いを定めた。


(マイアが危ない)

 次の瞬間、真美が驚くべき速さで眼鏡の男に迫り、手刀で拳銃を叩き落とした。


 真美にすれば、不本意な行為だった。本当は時間を止めたかったのだが、背中をテーブルにぶつけたため、呼吸が荒くなり、時間を止めることができなかった。


 落ちた拳銃を真美が拾おうとしたとき、別の武装した男が、後ろから真美の頬を力一杯殴った。


「ぐはっ」

 口から血を吹き出し、真美は横に転がった。


 真美を殴った男が拳銃を拾い、マイアに照準を定める。


「お前は、俺たちの計画を台無しにした。死んで償ってもらうぞ」

 男が引き金を引こうとしたまさにそのとき、真美は素早くマイアの前に立ち、両手を広げた。


 男がマイアを撃とうとすれば、真美に当たることになる。


 真美は呼吸が荒い。呼吸が荒いと時間が止められない。だが、それでも真美は、マイアを守ろうとした。たとえ自分が犠牲になろうとも、真美は、マイアを守るつもりである。


(家族の目の前でマイアを死なす訳にはいかない)

 父親を交通事故で無くした真美は、家族が目の前で死んでいくことの辛さを知っていた。

 それに、ロケットランチャーの向きを変えたのは、マイアでは無く真美だ。武装集団の恨みを買うべき相手は、本来は真美である。だからこそ真美は、身を挺してマイアを守っている。


 真美の口からは、まだ血が吹き出ている。おそらく、頬を殴られた際に、口の中をかなり切ったようだ。それに、テーブルにぶつかった時の衝撃で、背中も痛む。それでも真美は、マイアを守ろうとした。


「おい、友達の弾除けになるつもりか。それならば、お前から先に死ね」

 そう言って、男が引き金を引こうとしたとき、

 今度はマイアの母が真美の前に立った。


「娘の友達を死なせる訳にはいかない」

 マイアの母がつぶやいた。


「おばさん…、どうして?」

 真美には、マイアの母の行動が信じられなかった。


 マイアの母は、真美のために死のうとしていた。というよりも、身を挺してマイアを守ろうとしている真美を救いたかった。ただそれだけだった。救う方法が、他に考えられなかった。


 男は、マイアの母が突然現れたため、引き金を引くのをためらった。


 すると、その間にマイアの兄弟が、母や真美を庇うように前に立った。その中には、さっきまで真美が抱っこしていた幼い少女もいる。


 その少女は、恐怖のために両膝を震わせながらも、真美を守るように両手を横に広げ、「撃っちゃダメ」と叫んだ。そして、大声で泣き出した。だが、涙を拭うようなことはしない。両手は相変わらず横に広げたままだ。真美や母親を守ろうとしている。



 男は、引き金を引くのを完全にためらった。


(この家族は全員が、自分を犠牲にしてでも周りを守る覚悟だ)

 男はそう判断した。


 元々武装集団は、国家に恨みを持つ者たちの集まりであるが、彼らなりの正義の思想は持ち合わせている。いたいけな幼い子供を目の前で殺す行為は、正義の思想に反する行為だった。


 だから、男は言った。


「おばさんよ。あんたの勇気に免じて、娘たちは許してやる。早く向こうへ行け」


「えっ」思わずマイアの母が言った。


 男は苛立った声で、

「俺の気が変わらないうちに、早くみんなを連れて向こうへ行けと言っているんだ!」と、怒鳴り散らした。


 男は、真美たちを許したようだ。


 信じられなかった。それは、真美とマイアの家族の、愛と勇気がもたらした奇跡だった。その奇跡のおかげで、マイアは命が助かったのだ。


 すかさず眼鏡の男が尋ねた。

「おい、ロケットランチャーの発射を妨害した娘は殺さないのか?」


 すると男は、マイアの幼い妹を指さして、

「こんな幼い子供を目の前で殺したら、俺たちの組織に今後加わる者はいなくなる。それよりも、早く逃げるのが先だ」

 男はそう言った後、

「だが、今後、俺たちの妨害をした奴は、たとえ子供であろうとも殺す」と、人質に向かって大声で叫んだ」



 真美たちが人質の集まっている場所に戻ると、真美はマイアの幼い妹を力いっぱい抱きしめた。

「ありがとう。おかげで助かった」

 それは真実だった。あのときの真美は口の中が血だらけで、時間を止めることができなかった。死を覚悟していた。


 真美の首を包むように、今度はマイアが真美を抱きしめて、「ありがとう」と言った。

 三人は無言で、しばらく抱き合ったままだった。


 その様子を見守りながら、玲子が濡れたハンカチで真美の頬を拭いた。白いハンカチがみるみる赤く染まった。



 武装集団の男たちは、ラウンジから出ようとした。だが、既にラウンジの外は、大勢の警官に囲まれている。


「予定では、ロケット弾を発射して直ぐに逃げるつもりだったのだが…」

 武装集団の計画は、完全に崩れた。しかたなく、彼らは、籠城を覚悟した。想定外だった。


 警察も、人質が多いために、うかつに踏み込めない。人質の安全が最優先だ。


 緊張した時間が続いた。武装集団の男たちも、人質のみんなも、不安で一杯だった。

 時間が重苦しく感じられた。


 そのとき、白井玲子がラウンジの隅にあるピアノに気づいた。黒い光沢のあるグランドピアノだった。


「あのー。ピアノを演奏したいのですが、良いでしょうか?」

 玲子は、近くにいる茶髪の武装している男に、ピアノ演奏の許可を求めた。


「何故、演奏するのだ」

 茶髪の男が尋ねた。男の名前はウフルといった。


「だって、皆が怯えています。特に小さい子供たちは、泣きたいのに泣くこともできない。だから、ピアノの演奏で皆に安心を与えたいのです。私はピアニストですから」


 ライフルや拳銃を恐れることなく、玲子は毅然とした態度で意見した。玲子は、皆に安心を与えたかった。みんなの恐怖を取り除きたかった。


 だが、許可を求めた相手がまずかった。茶髪の男ウフルは、ピアニストが大嫌いだった。ピアノそのものを憎んでいた。


「ピアニストだと? それじゃあ、俺が今から演奏する曲を、お前も演奏しろ。俺よりも下手だったら、お前を殺す。だが、俺よりも上手だったら、お前の好きな曲を弾かせる。それでもいいか?」

 ウフルは、玲子を脅すようにいった。


「はい、構いません」

 間髪を入れずに玲子が返事した。


「玲子、そんな挑戦を受けちゃだめだ。どんな曲かもわからないのに」

 真美が玲子にうったえた。真美は玲子を心配している。


「真美、私はピアニストよ。私を信じて」

 そのときの玲子の口調には、力強さがあった。


 そのとき真美は、玲子の心の強さを感じた。ピアニストとしての玲子の強さを知った。



「よし。それじゃあ、勝負を始める」

 そう言うとウフルは、ピアノの前に座り、リストのラ・カンパネラを演奏した。


 この曲は和音の幅が大きく、指が長くないと上手く弾けない。もともと作曲家であるリストは、指が人よりも長かった。そのリストが自分で弾く為に、自分の指の長さに合わせて作った曲、それがラ・カンパネラである。


 ウフルは、長い指を駆使し、ものの見事にラ・カンパネラを演奏している。力強い迫力だった。

 ラウンジにいたみんなは、ウフルの演奏力に驚いた。


(なぜ、こんな上手な演奏をする男が、武装集団にいるのだろうか?)

 皆が一様に疑問を感じた。


 ウフルの迫力ある演奏が終わった。


「さあ、次はお前だ。その短い指で弾けなかったとき、約束通り、お前の命は無いぞ」

 ウフルは玲子を脅した。



 ウフルは、かつてピアニストを目指していた。みんなからピアノの天才だと、もてはやされていた。彼は昔、ピアノをこよなく愛していた。だが、彼の奏でるピアノ演奏は、いつも入賞できなかった。


 入賞できなかった理由を、ウフルは民族差別だと思った。


 ケニアにはおよそ42の民族がいる。しかし、上位10の民族が、ケニアの人口の9割を占めている。ウフルの属する民族は少数民族だった。少数民族への差別により入賞できないのだと、ウフルは判断した。だから、いつまでも入賞できない現実を、ウフルは恨んだ。そして彼は、民族差別をする世の中を恨んだ。


 やがてウフルは、ピアニストそのものを憎むようになった。



「わかりました。ウフルさん。リストのラ・カンパネラを、あなたより上手く演奏します」

 そう言って玲子は、ピアノの前に座った。


 玲子が精神を集中し、演奏を始めた。

 驚くべき速さで、指が鍵盤上を動いた。しかも、先ほどのウフルの演奏は力強さが特徴だったが、玲子の演奏は優しさに溢れていた。しかも、高音部が澄みきった音色だ。


 聴く者が皆、安心し陶酔する、安らぎの音楽である。


 玲子の演奏を聴くと、先ほどのウフルの演奏は、力強さだけが売りで、高音部が甲高い耳障りな音のように思えて仕方がない。


「そ…そんな…馬鹿な…。どうして短い指で、この曲が演奏できるのか…」

 ウフルが驚いた。


 やがて、玲子が演奏を終了した。

 その直後、ラウンジ内の人たちから大きな拍手が鳴り響いた。驚くべきことに、武装集団の男たちの多くも、玲子の演奏に拍手している。それだけ玲子の演奏は、素晴らしかった。


「ウフルー!、お前の負けだ!」

 拍手をしながら、武装集団の数人がウフルに向かって叫んだ。


 負けであることは、ウフル自身が誰よりもわかっていた。悔しかった。大きな口を叩いた自分自身が情けなかった。だが、それ以上に、ウフルには向上心があった。


「俺の負けだ。だが、短い指で、どうしてこの曲が弾けるのか。教えてくれ」

 ウフルは、自分の負けを素直に認めた。そして、玲子の演奏に興味をもった。


 すると玲子は、右手で前髪を払い、ピアノ教師みたいに説明を始めた。

「この曲を弾きこなすには、技術として三つ必要です。それさえマスターすれば、指が短くても弾きこなすことができます」


「三つとは?」

 ウフルは、玲子の言葉を聞き洩らさないように耳を集中した。


「一つ目は、鍵盤の位置を体で把握する。目で追いかけてはいけません。二つ目は、右手でリズムを正しく刻む。通常の曲は左手でリズムを刻みますが、この曲は右手でもリズムを刻みます。そうしないと高音部が、ただの甲高い音に聴こえるのです。三つ目は、手の動きを最小にする。音階の差が激しいからといって、無駄に手を動かしても優しい曲は生まれません」


 ウフルは、玲子の説明に納得した。だが、疑問は残った。


「確かに、その三つの技術は大切だと分かった。だが、この音階の幅をどうやって短い指で弾いたのか?」


「左手のリズムの流れで弾いたのです。一拍目、最初の指を子指で弾いて、その勢いで手首を使うのです」

 そう言いながら玲子は、弾き方を実演して見せた。まるで魔法でも見るように、玲子の指が鍵盤上を滑ってゆく。


「試してみますか?」

 玲子の勧めに従い、ウフルは素早くピアノの前に座り、玲子の指導どおりに指を動かした。


「こうか?」


「まだ、リズムに乗っていません。指の使い方を同じにすれば良いという訳ではないのです」


 ウフルは、玲子の教えに素直に従い、何度も練習した。すると、ウフルの演奏も、次第に滑らかになった。


「技術を習得したみたいですね」

 玲子がウフルに笑顔を向けた。


「これでウフルさんは、もっと音階の差がある曲の演奏も、できるようになります」


 玲子が太鼓判を押したため、思わずウフルが喜んだ。


「そうか。俺は、もっといろんな曲が演奏できるようになるのか」


「はい。しかし、ウフルさん。技術よりも、もっと大切なことがあるのです」

 まるで、音楽の先生が弟子に指導しているような話し方だった。玲子の言葉にウフルは驚いた。


「技術よりも大切なもの? それは何だ?」


「それは、相手へ伝えようとする想いです。それが最も大切です。私は、ラウンジの皆さんに安らぎを与えたいと願って演奏しました。ウフルさん、先ほどあなたは、どんな想いで演奏されましたか?」


 玲子の言葉は静かな口調だった。だが、その言葉は、ウフルの胸を痛く突き刺した。


「俺は…、ただ単に、腕自慢を披露したいために演奏した…。そんな目的では…、ラウンジのみんなが感動するはずがない。当り前だ…。なぜ、そんなことにも…気づかなかったのか…。俺の負けだ。完全な負けだ」


 ウフルは愕然とした。そして、深く反省した。


(今まで俺は、民族差別のために入賞できないと思っていた。だが、この少女の演奏を聴くと、俺が入賞できなかった理由が理解できる。自分の思い上がりが良くわかった。長い指に頼りすぎて練習をおろそかにしていたし、相手へ伝えようとする想いも、いい加減だった)


 ウフルの玲子を見る目が、尊敬の眼差しに変わった。


「それじゃあ約束どおり、今からピアノを演奏します。曲はシューマンのトロイメライです。ウフルさんも聴いてください」

 そう言うと玲子は、鍵盤の前で、しばらく集中した。


(トロイメライのような簡単な曲で、何故、あんなに集中する必要があるのだろうか?)

 ウフルは不思議に思った。玲子の顔色を見ると、玲子は全神経を指先に集中しているようだ。


 やがて、玲子が演奏を始めた。


 優しく温かいピアノの調べがラウンジに広がっていく。


 人質の人たちも、玲子の演奏を聴くと、思わず心を和ませた。

 いや、心を和ませたのは人質だけではなかった。武装集団の男たちも、玲子のピアノ演奏を聴くと、全ての者が心を和ませた。


 さっきまでウフルは、トロイメライを簡単な曲だと馬鹿にしていた。だが、実際に玲子のピアノ演奏を聴くと、こんなにもトロイメライが皆の心を和ませることに気づいた。


『あなたは、どんな想いをこめて演奏するのですか?』


 ついさっき玲子から教わったことを、ウフルは思い出した。


(俺はどうしようもない馬鹿だ。ついさっき教わったことすら忘れていた。簡単な曲だと馬鹿にしていた。こんなことでは、人を感動させることなどできない。入賞できるはずもない)


 ウフルは、いつの間にか、目から涙が落ちていた。この涙は、自分への戒めの涙であると共に、感動の涙だった。十年近く忘れていたピアノ曲での涙だった。


(そうだ。昔は俺も、ピアノの演奏で涙を流したことがある。あの頃は、入賞など関係なく、俺のピアノ演奏で皆を笑顔にしたかった。ただそれだけだった)


 ウフルは、涙が溢れて止まらなかった。跪き、泣き崩れていた。いつのまにか、手から銃が離れていた。


 他の武装集団の男たちも、いつのまにか涙を流していた。純粋だった子供の頃の情景を、思い出していた。


(あの頃はオヤジがいて、お袋がいて、貧しいけど幸せだった)

 彼らも、自然と銃を床に置いていた。


 その様子は、ラウンジの外側にいる警察も見ることができた。


 警察が静かにラウンジに入った。だが、武装集団は、ピアノの演奏に集中している。警察は、静かに行動し、武装集団の男たちを逮捕した。

 不思議なことに、彼らは誰一人抵抗しなかった。大人しく手錠を受けていた。


 玲子は、まだ集中してピアノを演奏している。


 全ての武装集団の男たちが逮捕された後、玲子がピアノ演奏を終えた。


 手錠をかけられたウフルが、玲子に尋ねた。

「俺、またピアノを弾けるかな?」


「あなたがピアノを愛しているのなら、ピアノは、いつでもあなたに力を与えてくれるわ」

 玲子が答えると、ウフルは安心した顔をした。笑顔だった。


「俺、出所したら、必ずお前のピアノ演奏を聴きに行く。名前を教えてくれ」


「玲子よ。白井玲子。ウフルさん、私はウィーンで待っているわ」


「玲子。白井玲子。あなたは俺の先生だ。たとえあなたが嫌がろうとも、俺はあなたに弟子入りする。俺は今日のことを忘れない。絶対に忘れない。ピアノの素晴らしさを教えてくれて、ありがとう」

 ウフルは、玲子に向かい、お辞儀をした。まるで生徒が先生に対してお辞儀するように、丁寧なお辞儀だった。


 やがて、武装集団たちは、警察に連行されて行った。


「玲子には、かなわないなぁ…」

 ラウンジの隅にいた真美が、ポツリとつぶやいた。



 しばらくして、マイアの父親がマイアたちと顔を合わせた。


「お父さん」

 マイアの家族は大喜びである。互いに抱き合い、無事を確かめ合っていた。



「真美、そろそろ私も、出発の時間だから」

 ケニアのナイロビからオーストリアのウィーンへの直行便は無い。カタールのドーハーで乗り継ぎをすることとなる。


「玲子、元気でね。また会おう」

 真美が大きく手を振った。


「真美、いつかウィーンにも来てね」

 玲子も大きく手を振った。


 やがて、玲子の後ろ姿が出国審査場へ入って行き、見えなくなった。


「ほんと玲子には、かなわない。十人もの武装集団を、ピアノ演奏だけで全員改心させちゃうなんて」

 真美は笑顔で再び呟いた。



 やがて、ドーハーへ向かう飛行機が、大空へ飛び立った。


 白井玲子のピアノ演奏は、時として奇跡を起こす。その奇跡は、常に人々を幸福へ導くものだった。

今回は白井玲子が起こす奇跡がメインでした。


次は決勝戦です。

今度は真美が活躍します。

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