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ランナー真美の願い(2)  作者: でこぽん
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2.打倒マアンギ

 二時間後、陸上部の朝練を終えた真美は、着替えを終えて教室にいた。


 今日の真美は機嫌が良い。今朝、ドラを飼うことができた。しかも、陸上部の井口コーチから「今日の放課後はグランドに行かなくて良い。その代り、ミーティングルームに来てくれ」と、言われたためである。


「井口コーチは、私の誕生日を覚えてくれていた。きっと猫ちゃんを助けたことで、私に幸運が訪れたみたい。おそらく、ミーティングルームで誕生ケーキを食べて、お祝い品をプレゼントしてくれるのね」


 井口コーチは四十台の年齢で、髪の毛が薄い。だが、真美は好きだった。父親のいない真美には、父親の代わりのような存在だった。


(贈り物は何かな。焼肉屋さんの食べ放題チケットかな。それとも、寿司屋さんの無料招待券かも…)

 真美は、誕生プレゼントを期待し、朝から妄想していた。もちろん授業はうわの空だ。



 篠原真美は、身長が百五十八センチ、体重は四十九キロ、スラリとした体格をしている。髪形はショートヘアであり、黒い大きな瞳が愛らしい。胸の大きさが控えめのため、たまにジャニーズの男の子に間違えられることもある。


 真美はいつも笑顔を絶やさない。いたって明るい性格だ。しかも人懐っこい。ただし、食いしん坊と能天気な点は否めない。

 しかし、彼女の最大の特技は中距離走だ。彼女は、昨年にロスアンゼルスで開催された『アンダー20世界陸上競技大会の女子三千メートル走』で、三位になった。もちろん、日本記録の保持者でもあり、国内では無敵だ。


 通常、陸上選手で実績を残すためには、地道な練習を絶え間なく続ける必要がある。

 真美は、器用な性格ではない。どちらかというと、不器用な方である。だが、彼女は、地道に、誰もが驚くほど地道に、練習を続けてきた。

 そんな彼女のひたむきな姿と明るい性格が、みんなの共感を呼び、彼女は、誰からも慕われていた。



 授業中、真美が放課後に貰えるであろう誕生ケーキのことを想像していると、突然、

「篠原、答えてくれ」と、英語の高杉先生が指名した。


「へっ?」


 真美の驚いたしぐさに気づいた先生が、

「彼らは、何を食べていたのか? 答えてくれ」と、再び尋ねた。


「ケーキを、お腹いっぱい食べていました」

 つい、うわの空で発言してしまった。


「しのはらー、『キリストの最後の晩餐』でケーキをお腹いっぱい食べていたなんて、どうしたら想像できるのだ?」

 高杉先生は、あきれ顔だ。


 クラスのみんなが一斉に笑いだした。


「あっ。ごめん。間違えちゃった。あははは」

 みんなの笑い声につられて、真美自身も、ゲラゲラ笑い出した。こんなとき真美は、恥ずかしい気持ちなど、これっぽっちも無い。まったく能天気な性格だった。


 真美の笑い声につられて、みんなが再び笑った。教室内に、大きな笑い声が響く。


「しのはらー。お前、『陸上競技だけをやっていれば高校を卒業できる』なんて考えていないよなー」

 あまりにも真美自身がゲラゲラ笑っているため、高杉先生は怒り顔に変わった。チョークを持つ手が、かすかにブルブル震えている。


「滅相もありません。英語は大切です。アメリカに行ったとき、英語の授業の大切さをしみじみ感じました。だから、さっきはごめんなさい」

 すかさず真美は、高杉先生の機嫌をとるべく、笑顔でペコリと頭を下げた。


 真美の無邪気な笑顔を見ると、高杉先生も、これ以上は叱れない。高杉先生の怒りのはけ口は、真美の隣の席の佐藤涼に移った。


「佐藤、教科書五十二ページのところを訳してくれ」


 突然指名され、佐藤涼は緊張した。しどろもどろに訳すると、高杉先生は、今まで抑えていた怒りを佐藤涼にぶつけた。佐藤にとっては、とんだ迷惑だ。


「また、高杉先生の怒りのはけ口が、俺のところに来たー」

 佐藤涼は、篠原真美の顔を恨めしそうに見た。


(涼、いつもごめんね)

 両手を合わせて、幼馴染の佐藤涼に目配せをし、再び真美は、放課後に食べるケーキのことを想像した。



 真美にとって待ち遠しい放課後が、ついに、やって来た。


 ミーティングルームは、陸上部の部室から少し離れた場所にある。椅子とテーブル、テレビ、ビデオが備え付けられている。男子部員と共同で使用する部屋だが、いつも綺麗だ。運動部特有の汗臭さは全く無い。


 真美は、ルンルン気分でミーティングルームに入った。

 ミーティングルームは綺麗に掃除されており、DVDがテーブルに置かれていた。


(私への誕生祝いのメッセージかな?)

 真美は、いつも前向き思考である。明るい未来しか考えていない。本当に能天気な女の子なのだ。


 すると、そこへ荷物を抱えて、井口コーチがやって来た。他には誰もいない。


(あれ? みんなでお祝いをしないのかな? それとも、井口コーチと二人っきりなの?)

 目をきょろきょろして、真美が不思議がっていると、井口コーチが尋ねた。


「篠原、そわそわしているが、どうした?」


 井口コーチが、荷物を無造作にテーブルに置いた。誕生ケーキにしては乱暴な置き方だ。


「あー。いや、ケーキを食べるのに、二人っきりなのかなぁと思って」


「ケーキ? 何のことだ?」


「えーっ。その荷物は私の誕生祝いではないの?」


「そうか、篠原の誕生日は今日だったのか。それはおめでとう」


「それだけ?」

 真美は、大きな黒い瞳をさらに大きく開いて、キョトンとしている。


「それだけとは?」


「誕生ケーキや贈り物は、無いの?」


「無い」

 井口コーチは、きっぱりといった。


「そんなぁ…」

 期待していた分だけ真美は、落ち込んだ。肩がガクンと下がり、心なしか涙目になった。


「篠原は、誕生プレゼントを、なにかもらったのか?」


「友達からアジの干物を四枚だけ…」

 真美が小さな声で答えた。


「それはよかったじゃないか」


「良くない。全然ロマンが無い」

 真美は、椅子に座ったまま足をバタバタさせた。


 真美のそんな抗議にもお構いなしに、井口コーチは、説明を始めた。

「それよりも、昨年のアンダー20世界陸上競技大会での、篠原の走りとマアンギの走りを解析したので、今から、そのDVDを再生する。よく見るように」

 そう言いながら井口コーチは、テーブルの上にあるDVDを、DVDプレイヤーに挿入した。


 昨年、真美は、アメリカのロスアンゼルスで開かれたアンダー20世界陸上競技大会で、マアンギと女子三千メートル走を走り、マアンギに惨敗したのだった。


「大学時代の俺の知り合いに、解析を頼んだ。きっと、篠原の役に立つぞ」


 映像がモニターに映し出されると、画面の左側には、昨年三位になった真美の走る姿が映った。画面の右側には、一位になったケニア代表マアンギの走る姿が映った。


 不思議なことに、マアンギの走る姿が映し出されると、さっきまでケーキのことで頭が一杯だった真美が、真剣な表情になった。おそらく、真美の闘争本能に火がついたのだろう。昨年のアンダー20世界陸上競技大会では、真美はマアンギに敗れ、思いっきり涙を流したことがある。真美は、そのときの悔しさを、忘れていなかった。


「知ってのとおり、篠原の身長は百五十八センチ。マアンギは百五十六センチで、篠原の方が2センチ高い。しかも、走行中の頭の高さは、このように、篠原が百四十から百四十五センチ、マアンギは百三十五から百三十八センチとなっている」


 井口コーチの説明を裏付けるかのように、画面上に、真美の頭の高さとマアンギの頭の高さを表した横線が、赤色で表示された。画面を見ると、明らかに、マアンギの方が低い姿勢で走っていることがわかる。


「これから言えることは二つ。ひとつは、マアンギの方が篠原よりも体を前に傾けながら走っている。さらに、走行中の上下の揺れも、マアンギの方が少ない」


 井口コーチが説明すると、それをさらに裏付けるかのように、真美とマアンギの走行中の体の傾きを表した角度が、黄色い線で画面に表示された。二つの角度の頂点を重ねると、マアンギの方が、真美よりも体を前方に傾けていることが、明らかに判る。


「篠原、マアンギに勝ちたいか?」


「勝ちたい」

 いつのまにか、真美は、闘志をむき出しにしている。真美は、ランナーの顔になった。


「そうか。それでは、今日からお前の走り方を、変える必要がある。マアンギよりも、さらに前傾姿勢で走るのだ。それに、走行中の上下の揺れも、小さくする必要がある。足を上下に上げ下げするのではなく、前後に大きくスライドさせるのだ」


「井口コーチ、わかった。私は、今から頑張る」


「それでは、早速着替えて、グランドに来てくれ」


 やはり今日も、篠原真美は、夜遅くまで練習をすることになった。真美が貰った誕生日プレゼントは、今のところ、牧野がくれたアジの干物だけである。この様子では、真美にロマンは訪れないようだ。



 時間を止める能力を持っている篠原真美だが、陸上競技のとき、真美は、その能力を一切使わない。使わない理由は単純だ。

『ズルして勝っても何も得るものが無い』

 一生懸命努力することに意義があると、真美は感じている。そしてそれは、今は亡き真美の父親の教えでもあった。



 真美が練習着に着替えてグランドに来ると、井口コーチは四本の支柱を繋ぎ合わせたオブジェを用意していた。


 スチール製であり、支柱の高さは一メートル八十センチだ。支柱と支柱との間は、幅が一メートル、奥行きは5メートルある。幅の中間点には、奥行きに沿って一メートル間隔で、鈴が垂れ下がっていた。


 オブジェは、トラックの直線部分に設置された。


「篠原、トラックを走る際は、このオブジェの中を必ず通るように。鈴は一メートル三十五センチの高さに調整している。この鈴に当たらないように、前傾姿勢で走るようにしろ」


「わかった。やってみる」

 真美は、早速走った。だが、いつも走行するときよりも、さらに五センチから十センチ、頭の高さを下げて走行することとなる。バランスがとりづらい。バランスをとるために、いつもよりも速度が遅くなった。


 一周目、オブジェを通るとき、「チリン、チリン」と鈴が鳴った。真美の前傾姿勢が不足しているため、頭が鈴に当たった音だった。


「まだ傾きが足りない」

 井口コーチの指示に従い、真美は今までよりも体を傾けた。


 二周目、オブジェを通ったとき、鈴の音は鳴らなかった。だが、井口コーチは不満顔だ。真美には、井口コーチが不満な理由も、わかっていた。


「篠原、頭だけを下げようとするな。体全体を前に傾けるのだ。そうしないと、スピードはアップしない」

 真美は、井口コーチの指示内容をイメージし、体を傾けた。


 三周目、オブジェを真美が通ると、またしても「チリン、チリン」となった。やはり、真美の体の傾きが不足していた。頭では理解しているが、それを体に覚え込ませるには、反復練習をするしかない。


 その日、真美は、四百メートルトラックを二十周した。


 後半になるにつれ、前傾姿勢が保ちづらくなる。無理もない。慣れない姿勢だ。しかも、前傾姿勢を保つには、ある程度のスピードが必要となる。へとへとになった体では、スピードアップが難しい。

 つまり、疲れてくると、前傾姿勢が保ちづらくなる。


「篠原、この練習を、これから毎日やるぞ。お前が泣いても、俺は続けるからな。覚悟しろ」


「井口コーチ。わかった。私は泣くかもしれないし、ときどき練習が嫌だと感じるかもしれない。だが、マアンギに勝つためなら、どんな努力だってするよ」


 真美は、何としても、マアンギに勝ちたかった。というよりも、前回のマアンギとの勝負を後悔していた。前回の勝負の際、真美は途中から勝つのを諦めたのだった。勝負に負けたことよりも、勝つのを諦めたことが悔しかった。諦めた結果、努力を怠った自分が、許せなかった。


(もう後悔したくない)

 真美は、その思いでいっぱいだった。


(お父さん、天国から見ていてね。私は頑張る)

 真美は、亡き父に誓った。



 次の日、井口コーチは、四本の支柱を繋ぎ合わせたオブジェを、もう一つ用意した。これで、オブジェは2つになる。井口コーチは、真美が帰った後に、自分でつくっていたようだ。真美も大変な努力家だが、井口コーチも大変な努力家だった。


 四百メートルトラックの直線部分2箇所に、オブジェが設置された。

「これで二百メートル毎に、走法の確認ができる。篠原、頑張れよ。二人でマアンギに勝とう!」


 真美は、井口コーチの協力に感謝し、走り始めた。一周目の最初、オブジェを通るとき、鈴は鳴らなかった。だが半周を過ぎたところで設置されたオブジェを通ると、鈴が「チリン」と鳴った。


「前傾姿勢が不足している」

 井口コーチが言うよりも早く、真美自身が気づき、体を前に傾けた。


 二周目、鈴は鳴らなかった。だが、井口コートは不満顔だ。

「篠原、スピードが落ちている。鈴が鳴らないように、気を配りながら走っているだろう。だが、スピードが落ちては、意味が無い」


 井口コーチの言い分は、もっともだった。早く走るために、前傾姿勢を身につけようとしているのである。スピードが落ちたら、意味をなさない。そのことは、真美も十分理解していた。


 だが、頭で考えた走法を体で表現するのは、そんなに容易ではない。ましてや、体に走法を覚え込ませるのは、一朝一夕ではできない。


 真美は、懸命に走った。前傾姿勢を保ち続けながら、疲れ果てるまで走り続けた。

 この日も真美は、二十周走った。


 鈴の音は、昨日よりも鳴らなくなったが、昨日よりもスピードが落ちた。それは、真美が手を抜いたためでは無い。真美は、懸命に走った。頑張って走った。だが、慣れない姿勢の為にバランスを取るのが難しく、結果として、スピードが落ちたのである。


 井口コーチも、そのことは理解していた。もともと井口コーチは、真美が努力を怠る少女ではないことを、知っていた。


(あいつは能天気な奴だが、努力家だし、決して泣き言を言わない)

 井口コーチは、いつも真美を信頼している。



 次の日も、さらに次の日も、真美は、前傾姿勢で走る練習をした。井口コーチが作成したオブジェは、いつの間にか4つになっていた。四百メートルトラックの二か所の直線部分の最初と最後に、それぞれ設置された。これで、真美の走行姿勢のチェックが、百メートル毎にできることになる。



 やがて、前傾姿勢の練習を始めて三ヶ月経とうとしていた。


 真美は、前傾姿勢での走法を、何とかものにした。すると、当然のように、タイムが大幅に向上した。去年のマアンギのタイムと、ほぼ同じになったのだ。

 あと三ヶ月で、今年度のアンダー20世界陸上競技選手権大会が、ケニアで開催される。ここで真美はマアンギと勝負できる。


 真美は、宣戦布告のつもりで、ケニアのマアンギに手紙を書いた。



 拝啓

 マアンギ様

 私は篠原真美。昨年のアンダー20世界陸上競技、女子三千メートル走で三位でした。

 私のことを覚えていますか?

 私は、あなたに勝つために、毎日努力しています。

 まもなく、今年度のアンダー20世界陸上競技選手権大会が、あなたの母国ケニアで開催されます。

 そこで私は、再び女子三千メートル走で、あなたに挑みます。

 今度は、負けません。

 お互いに、ベストを尽くしましょう。

 敬具



 ケニアの言語は四十から五十ほどあり、公用語は英語であるが、国語はスワヒリ語だ。


 真美の書いた日本語の文章は、辞書を片手に懸命に英語で書き直した後、井口コーチにチェックしてもらった。井口コーチは、若い頃は世界中で活躍していた陸上競技の選手であり、英語が達者だった。


 マアンギの住所がわからないので、ケニアの陸上競技連盟へ送ることにした。本人へ届くかどうかは微妙だったが、届くことを信じて、真美は手紙を送った。


 手紙を送って一ヶ月後、マアンギからの手紙が、真美のもとへ届いた。


「私の手紙が届いた。私の思いが伝わった」

 喜びながら真美は、手紙の封を開けた。


 手紙は英語で記載されていたが、真美は、辞書を片手に懸命に翻訳した。



 拝啓

 篠原真美様

 マアンギです。

 手紙ありがとう。

 真美のことは覚えていますよ。ロスアンゼルスの人から『ジャパニーズ・キューティ・ガール』と呼ばれていましたよね。

 あなたの大きな瞳と無邪気な笑顔、それに、勝負への迫力は、忘れられません。

 ロスアンゼルスでは、あなたとは二言三言しか、会話をしていませんが、私は、あなたを友達だと思っています。

 私も、あなたと競争するのを、楽しみにしています。

 私は、あれから更に、タイムを縮めましたよ。

 真美が去年の私を目標にしているならば、今年の私に勝つことはできません。

 私も頑張りますので、真美も、さらに頑張ってください。


 真美、日本にいる私の友達へ、

 私たちは、走り続けている間は、たとえどんなに離れていても、毎年会うことができます。

 それって素敵なことですよね。

 今度競技した後は、真美と一緒にケーキを食べたい。ケニアの美味しい店を、あなたに紹介したい。

 また会いましょう。

 敬具



「あー、大変。もっと練習しなきゃ、マアンギには勝てない」

 手紙を読み終えた真美は、さらに闘志がわいた。それと共に、アフリカの友達マアンギと一緒にケーキを食べるのを、楽しみにした。


 不思議なものである。

 真美も、マアンギと二言三言しか話していない。だが、真美も、マアンギのことを友達だと感じていた。

 一緒に、同じトラックで七周半競争した。ただ、それだけの関係だった。だが、敵と言うよりも、お互いに高め合う仲間だった。お互いに、理解し合うのに必要なものは、話し合った言葉の数では無い。


 あれだけのスピードで走るためには、どれほどの努力が必要かを、お互いに知っていた。自分自身が、何度も逃げ出したくなった練習である。苦しい練習に何度泣いたか、わからない。


 みんな、同じ思いをしてきたはずだ。だからこそ…、だからこそ、通じ合うものがあった。走るだけで、お互いが理解しあえた。

 アンダー20世界陸上競技大会は、その努力をまっとうした者だけが、参加できる競技だった。



 その日から真美は、井口コーチと共に、さらに前傾姿勢を鋭くするため、練習した。


 三ヶ月間かけて走るフォームを改造し、やっと慣れたと思った矢先だった。それなのに、また走るフォームを改造する。これは、並々ならぬ努力が必要だった。



 オブジェの中に垂れ下がっている鈴が二センチ低くなり、一メートル三十三センチの高さに調整された。

 たった二センチの違いであるが、その二センチを克服するのは、予想以上に大変だった。


 真美が最初に走ると、当然のように鈴が鳴った。


「篠原、体をもっと前傾にしろ」

 真美は、井口コーチの指示に従った。体をさらに前傾にし、スピードを落とさないように走った。


 鈴は鳴らなくなった。だが、慣れない姿勢でスピードを出して走るため、数周走ると、再び鈴が鳴りだした。しかも、極端な前傾姿勢のため、スタミナの消耗が激しい。真美は疲れきっていた。


 その日はそれ以降、鈴が鳴り続けた。


 真美は、決して怠けていない。懸命に頑張っている。だが、極端な前傾姿勢を保ち続けるには、それなりのスピードが必要である。それなりのスピードを保ち続けるには、相当の体力が必要だった。


 余談だが、漫画や映画などで必殺技をあっという間に習得するヒーローがいる。だが、現実に新しい技を短期間で習得できるわけは無い。何度も何度も反復練習をし、その技を体に覚え込ませる必要があるし、その技を使いこなすには、それなりの体力をつける必要もある。


 誰でも一朝一夕に強くはならない。相当な期間の訓練と地道な努力が必要だ。



 夕方になって、井口コーチが真美にいった。


「篠原、このままでは慣れない姿勢のため、タイムが落ちる。インターハイは一ヶ月後だ。優勝しなければ、アンダー20世界陸上競技大会に参加することもできない」

 井口コーチの言うことは、尤もだった。


「篠原、元の姿勢で走るか? そうすれば、インターハイで優勝できる」


 井口コーチは、真美のために、あえて苦渋の提案をした。だが、真美の答えも、井口コーチは予想できていた。


 真美は、深く深呼吸した後、

「井口コーチ、せっかくの提案だけど、私は嫌だ。私はマアンギに勝ちたい」

 と、真美は、マアンギに勝つことしか頭にない。


「どうしてだ。インターハイで優勝できなければ、マアンギとの勝負もできないのだぞ」


 井口コーチは、熱心にうったえた。


「私は、『選択に迷ったときは困難な方を選べ』と、父から教えられてきた。そして、それを実践してきた。確かに、元の姿勢のままだと、インターハイで優勝できる。でも、それだけだ。マアンギには勝てない。それだと、私の目標が達成できないし、後悔が残る。私は、もう後悔したくない」

 真美は、去年の後悔を繰り返したくなかった。


「このままだと、タイムが落ちて、インターハイの優勝すら危ういぞ」


「だったら、練習量を二倍にする。そうすれば、インターハイまでに間に合わせることが、できるかもしれない」

 井口コーチの予想したとおり、真美は、自分の信念を変えなかった。


「井口コーチ、お願いします。朝晩の練習に付き合ってください」

 真美が珍しく敬語を使い、井口コーチに頭を下げた。自由奔放、天衣無縫の真美が、自分から頭を下げるのは、珍しいことだった。それだけ真美は、マアンギに勝ちたかった。それ以上に、真美は、後悔したくなかった。自分自身に負けたくなかった。


「篠原、わかった。一緒にマアンギに勝とう。俺は、今まで以上に、お前に厳しくする。たとえお前が泣いても、俺は、お前をしごきまくるぞ!」


「井口コーチ、ありがとう」

 真美は感謝しながらも、これからの厳しい練習を覚悟した。



 インターハイまで、あと一ヶ月となっていた。


 真美と井口コーチの練習は、翌日からは早朝も行うようになった。


 昼休み、真美は必ず昼寝した。

「寝るのも大切な練習だ」

 井口コーチの教えだった。


 雨の日も風の日も、真美は練習し、井口コーチが常につきあった。



 そんなときに県大会が始まった。


 真美は昨年、インターハイで優勝しているため、地元の新聞記者は、真美の走りに注目した。


 真美は、慣れない姿勢で走ったため、去年よりもタイムを落としていた。それでも真美は、なんとか県大会を優勝し、インターハイへ出場することができた。


 新聞記者が、去年よりもタイムが落ちた理由を真美に尋ねた。だが、真美は、何も答えない。



 やがて、インターハイが開催された。


『篠原真美はスランプらしい』

 そんな噂が広まった。県大会での真美のタイムが、去年よりも悪かったためだ。

 その噂が飛び交うなかで、インターハイ女子三千メートル走の予選が始まった。


 スタートの号砲と同時に、篠原真美がダッシュする。信じられないスピードだ。体を極端に傾けた前傾姿勢だった。


「なんだ、あの走法は…」

 選手や大会関係者が驚いた。観客席のみんなも、唖然としている。


「あの子、まるで百メートル走を走っているみたい」


「あんな姿勢で、三千メートルも走るつもりか? あの子、馬鹿じゃないの。あんな姿勢で、最後まで走れっこないよ」

 周りの誰もが、真美の前傾姿勢に、冷ややかな目を向けた。


 三千メートル走は、四百メートルトラックを七周半走る。真美は、五周半を回ったところで、二位以下を回周遅れにしていた。だが、そこから、真美は遅れだした。

 あっという間に、差が縮まってゆく。まだ前傾姿勢に慣れていないためだろうか。ラスト一周となったとき、二位の選手が真美に追いついた。


 真美は、相当疲れていた。だが、真美は、最後の気力を振り絞り、スピードを上げて二位の選手を抜かせない。


(篠原は、まだ体力が残っているのか?)

 真美の隣を走る大木真理子選手が驚いた。


 大木真理子がラストスパートし、全力で走った。だが、真美も頑張っている。まだ、大木真理子を抜かせない。


 二人は、同時にゴールに駆け込んだ。しかし、タッチの差で真美が一位だった。


「ふー。何とか決勝にいくことができたぁ。あと一つ勝てば、マアンギと戦える」

 相変わらず真美は、マアンギを目標としていた。今日のインターハイ予選は、真美にとっては練習の一部でしかなかった。


 そんな真美の表情やしぐさを見て、予選二位の大木真理子は、噂が間違いであることを確信した。

(間違いない。篠原はスランプではない。著しく速くなる走法を、習得している最中だ)

 そして、彼女は恐れた。

(この走法を篠原がマスターしたら、誰が勝てるのだろうか? いや、おそらく、誰も勝てないだろう)


 だが、大木真理子の恐れとは裏腹に、マスコミや大会関係者は、真美の走りのデタラメさを非難した。しかし、真美は、そんな非難を一切気にしない。真美は、マアンギしか見ていなかった。



 二日後、決勝の日が来た。


 日差しが穏やかだ。心地よい風が真美の頬を撫でる。


「今日は良いタイムが出せそうだ」

 真美は、体中から、力がみなぎるのを感じた。


「マアンギ、もうすぐ会えるよ」

 真美は、小さな声でつぶやいた。



 やがて、スタートを告げる号砲が鳴る。

 真美は、またもや極端な前傾姿勢で、トップに躍り出た。グングンと真美は、他の選手を引き離す。


 解説者は、一昨日と同じように、真美の走法に批判的だった。


「あんな走り方じゃ、最後まで持ちませんよ。今に見ていてください。五周半を回ったところで、必ずスタミナが切れます」

 解説者は、自信たっぷりだった。なぜならば、解説者は一昨日の真美の走りを見ていた。そのときは、五周半を過ぎたところで、真美がペースを落とした。今日も同様にペースを落とす、と解説者は信じていた。


 五周半を過ぎた。だが、真美は、スタミナを切らさない。二位以下の選手たちを回周遅れにした。


 二位以下は、全て決勝に残った選手である。当然、それなりの実力があるはずだ。真美は、それらの優れた選手たちを、回周遅れにしている。

 信じられない光景だった。真美は、一昨日よりも、明らかに速く走っていた。今日が決勝なので、明日は走る必要が無い。そのため、蓄えた力を全て使っていた。


 解説者が動揺した。

「こんなデタラメな…、こんなことが、あるはずない。これは、何かの間違いだ」

 解説者は、支離滅裂なことを言った。


 だが、現実に真美は、トップを走っている。それも、極端な前傾姿勢を保ちながら、著しく速い速度で駈けていた。


「まるで、疾風が駆け抜けるようだ」

 観客の誰かが言った。


 ついに真美は、二位以下の選手たちを回周遅れにしたまま、一位でゴールした。


 ゴール後、真美は、力を出し切ったために倒れ込んだ。なかなか真美は起き上がらない。だが、意識はしっかりしていた。


 新聞記者が、予選のときよりもタイムが上がった訳を、倒れたままの真美に尋ねると、

「国内の予選は今日が最後だったから、全力で走ることができた。これでマアンギと戦える」

 と、真美にとってインターハイの決勝は、あくまでも、マアンギと戦うための予選だった。


 続いて新聞記者が、二位の大木真理子に話を聞いたところ、

「私は三千メートル走を、これで止やめます。私は、自分の実力の無さを、つくづく思い知りました。篠原さんのような才能のある人が相手だと、勝てる気が全くしません」

 と、淡々(たんたん)と語り、競技場を去ろうとした。


 すると、それを聞いた真美が、突然起き上がった。


「大木さん。私が勝ったのは、才能じゃない。誰よりも練習したからだよ。私は、練習量では誰にも負けない自信がある。誰にでも胸を張って言える」とうったえ、さらに、

「大木さん、あなたも、私に負けないほど練習すれば、きっと私より速くなる」と、大木真理子を励ました。


 大木真理子が真美の靴を見ると、かなりすり減っていてボロボロだった。先月見たときとは、かなり違っていた。おそらく、想像できないほどの激しい練習を繰り返してきたことが、真美の靴を見ただけでも分かる。

 大木真理子は、このとき、自分の未熟さを改めて知った。才能のせいにして逃げようとした自分を知った。


「大木さん、人間の限界って何処だかわかる?」

 真美の突然の質問に、大木真理子は驚いた。

「わからない…」


「それはね、『もうだめた』と諦めたときが、人間の限界なの。だから、諦めなければ限界は無い。先人たちがコツコツと諦めないで、一歩ずつ頑張ったからこそ、今の科学技術があるし、民主主義社会がある。今の近代社会は、人類が諦めないでコツコツと努力した成果だよ」

 真美は、大木真理を励ますようにいった。


 確かに、乾電池ひとつにしても、エジソンが数百回の失敗にもめげず、地道に改良を積み重ねて発明したものである。他の発明品だってそうだ。一度も失敗をせずに発明した物など、一つも無い。


「篠原さん、ありがとう。私は、今後も三千メートルを走る。来年は負けない。少なくとも、練習量は負けない。きっと勝つ」

 大木真理子は、涙を流していた。

 この悔しさの涙は、彼女を強くするだろう。



 それからまもなく、今年度のアンダー20世界陸上競技大会が、ケニアで開催されようとしていた。

真美のひたむきに練習する姿はどうでしたか?


次は真美がケニアに行きます。どんな出会いがあるのでしょうか…

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