8、女、三蔵法師を攫う。
この回は、沙胡蝶が気を失っているので、誘拐犯の女性目線です。
ここらにあるいくつかの洞窟の中で一番広い我が家である洞窟内で、私は鳥の羽根が沢山着いた団扇を持って、クルリ、クルリと回りながら踊る。こんなに気持ちが浮かれた事なんて、ここ数年なかったことだ。喜びの舞を踊ってしまうくらい私は機嫌が良かった。
洞窟内は灯籠が沢山あり、洞窟内とは思えないほど明るく、そして湿気なども感じられることはない。夫が私をここに迎え入れるときに、そのことを自慢していたことをぼんやりと思い出す。あの時は幸せだった。中に置いてある調度類も上品で品の良い物が、これまた上等なペルシャ絨毯の上に並べられていた。赤くて丸いテーブルの上に酒瓶が何本も呑み散らかられ、屑入れに入りきらないほどのチリ紙さえ散乱していなければ、そこは完璧な部屋といえたろう。
「ついに三蔵法師を手に入れてやったわ!これであの女に勝てるわ!あいつにも一泡吹かせてやれる!」
団扇を持たない方の手は、フルフルと震えて握り拳に力が入る。この家にあいつが帰ってこなくなってどれくらい立つのか、もう日数を数えるのも腹立たしく、馬鹿らしくて止めてしまった。夫が愛人の家に入り浸るのを泣いて怒鳴り込むのも悔しくて出来ない。どうして男というのは、そんなに若いのがいいんだろうか?ケバケバしい化粧がいいのだろうか?上げ底パットとコルセットで誤魔化された我が儘ボディというのがいいのだろうか?見え見えの媚びる口調がいいのだろうか?サ行でしか返事しないあの女のどこがいいのだろうか?
「さすがです、牛魔王様!」
「知らなかったです~、物知りなんですね、牛魔王様!」
「すごいです!牛魔王様」
「センスありますね、牛魔王様!」
「そうだったんですか~、牛魔王様!さすがです!」
これのループで夫はあの女に骨抜きにされてしまった。この洞窟の家に私一人をほったらかして、二人は新婚夫婦さながらのいちゃつきぶりだと噂を聞いたときの私の怒りと来たら!奥歯に力が入りすぎて一本、歯が折れてしまった。このやり切れない怒りを持てあましている私の耳に、ある噂話が聞こえてきた。
人間の僧侶が釈迦如来から三蔵の経典を賜るために天竺を目指す旅に出たらしい。斉天大聖と自らを名乗り、かつては天界と戦った仙術の天才で岩猿の化生である孫悟空と、元天界の役人をしていた川妖怪の沙悟浄と豚の化生の猪八戒が供になり、僧侶を守っているらしい。僧侶は素晴らしい徳を持ち、その血肉を喰らった者は不老不死を手にすることが出来るという……。
眉唾物の噂話だと鼻で笑ってやったが、あの女が夫にそれをおねだりしたなら話は別だ。あの女になんて渡してなるものか!結婚する前に仙術を少々私も嗜んでいたから、それを用いて国中から情報を集めてやることにした。大小様々な噂や事件から、興味を引かれた噂話が三つあった。山から流れてきた噂話が一つ。海の方から流れてきた噂話が二つ。
一つ目は山からで、敵討ちの話だった。どこかの片田舎で領主の振りをしていた盗賊団のボスが、殺した領主の残した行方不明だった息子に敵討ちされた話。息子が生まれたばかりの頃、領主の家に盗賊団が乗り込み領主は殺され、領主の妻は盗賊団のボスにその体を奪われた。
息子まで命を奪われることを恐れた妻は息子を盥に入れ、川に浮かべ流したらしい。どこかの寺で拾われ、僧侶として育てられた息子は自身の出生に興味を持ち、旅をするうちに領主のいた里にたどり着き、そこで偶然自身の母と再会した。親子だとわかったのは、母親が赤子を川に逃がすときに息子の足の指に、わざと傷を作っていたものが見つかったからだったという。すべての悪巧みを知った彼は寺で体を鍛える修行を好んでいたことが幸いし、たった一人で盗賊団を再起不能になるまで痛めつけ、捕縛したという。
二つ目の噂は、海賊を更生させた小さな修士の話。今まで人々を苦しめていた海賊達が港にやってきたが、港で悪さをするどころか、キチンと代金を払い、白い子供用の旅装束と旅行鞄を購入したという。それらを小さな修士に身につけさせると何も悪さをすることもなく、修士を船から下ろし、そのまま出航してしまったらしい。買い物に来られた店主達はあっけに取られたが、彼らの買い物中の会話から、どうも小さな修士に諭され、悪事から手を引くことにしたということがわかったらしい。
三つ目も港での噂で、また小さい修士の話だった。身分違いの恋に悩む青年の命を助け、代官の後を継ぐことが決まり、不安を抱える娘を支えるようにと二人の縁を取り持ったという噂だ。
三つの噂話を比較してみる。三つとも美談であることは間違いないが、山からの噂は血生臭すぎる。坊主という者がそんなに血生臭くていいのだろうか?海の噂の修士というのは、異国での僧侶と同じ意味だと私は知っていた。海からの噂の方が、いかにも釈迦如来好みの人物に思えた。
そこで港から流砂河を遡るようにして旅をする小さな修士の足取りを追った。情報を集めるにつれ、その人物がとても若く、美しい姿をしている僧侶であることがわかった。それだけではない。
人を疑うことを知らないお人好しであることがわかった。その純粋さに気圧され、人買いに彼を売ろうとした農夫や、乗合馬車と評して奴隷市場に連れて行こうとした人買いや、宿泊費を求め、働こうとした彼を騙そうと賭場を食堂と偽り、紹介した賭場師や、彼をカモにしようとした賭場にいた男達や軒先を借りようとお願いに来た彼を手込めにしようとした貸し馬屋の主人や庄屋の息子が、皆……。
そう、皆が小さな修士と言葉を交わすうちに己を恥じ、己の行為を悔い改めていったという、奇跡のような所業を見せつけられ、私は自分の推測が正しかったことを確信した。さすが釈迦如来が認めた人間だと納得できた。これこそ釈迦如来が大事にしている三蔵の経典を賜るに相応しい僧侶だ。彼こそ三蔵法師に、ほぼ間違いないだろう。
でも、疑問もあった。何故彼は一人なのだろう?噂では力ある妖怪達に守られているはずなのに、旅の噂では一人旅だという。その疑問も、ここ流砂河ですっきり解消された。きっと何らかの事情で彼らは離れていただけで、ここが待ち合わせ場所だったのだろう。
聞いていた人数より、一人多いがそんなことどうでもよい。4人の男達が一人の小さな修士を守るようにして、たき火を囲んでいるではないか!
私は彼らの目を盗み、仙術を使い、ここに三蔵法師を攫ってきた。彼の血肉を喰らえば、私は不老不死になる!あの女の欲するものを私が手にいれるのだ!……なのに私は躊躇している。だって攫ってきて背もたれのあるソファに横たえさせた体が、あまりにも幼かったものだから……。
釈迦如来が認めた僧はまだ子どもにしか見えなかった。私は彼の口に猿轡を噛ませていた。万が一にも人たらしの彼に諭されてしまわないように……と。
しかし私はそれだけでは不十分だったことを知った。意識を戻した三蔵法師と視線が交わったとき、私は彼に目隠しをすることを怠ったことを悔やんだ。怒りも恐れも不安も表すことなく、見つめられるというのは、何故こんなにも心が揺さぶられるのだろうか?その無垢なる光を放つ瞳から私は目が離せなくなってしまった。




