3、沙胡蝶、初めて人が争うのを見る
威勢のよい声はすれど、夕闇に隠れて声の主の様相はわからない。沙胡蝶は怖くなって、沙悟浄とつないでいる手に力が入ってしまった。
「あっ!すみません!つい力が入ってしまいました。手は痛くなかったですか?」
「うむ、大丈夫。痛くもかゆくもないから、ご安心してくだされ。沙胡蝶殿はあの声が怖いのですかな?」
「はい、怖くて、つい力が入ってしまったのです。それで沙悟浄様の手を痛くしてしまいました。ごめんなさい」
申し訳無さそうに沙胡蝶は謝るが、子どもの手の力など大男の沙悟浄にとっては何の痛手にもならない。沙悟浄は隣にいる小さな沙胡蝶の頭を手をつないでいない方の手で優しく撫でてから自分の大きな体で、声の主から沙胡蝶の姿を隠した。
「拙者がいるから大丈夫ですぞ、沙胡蝶殿。拙者の後ろにいて下され!」
突然の来訪者は、どうやら複数いたようだ。
「悟空よ、ここは私にまかせなさい!こう見えて私は少々、拳法を嗜んでいるんですよ!」
凜々しい青年の声が聞こえる。
「坊さんだっていうのに何だってそう血の気が多いんですかぁ?お師匠様ぁ~、河童相手に川では不利ですよぉ~!ここはぁ~、悟空の兄貴にまかせてぇ~!」
間延びした、もう一人の青年らしき声も聞こえる。
「おうよ!竜王の奴だって俺にはかなわなかったんだぞ!やい、人喰い河童め!観念して子どもを離せ!」
またさっきの威勢の良い青年の声が聞こえる。来訪者は3人だけのようだ。沙胡蝶は自分の大叔父様の名が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろうと思い直した。沙悟浄は半月型の刃がついた棒の武器を構えて声を張り上げた。
「この流砂河の沙悟浄を、人喰い妖怪と言うとはなんたる不敬!返り討ちにしてくれるわ!」
沙悟浄は沙胡蝶を後ろに下がらせてから、威勢の良い声の主に向かって走って行った。沙胡蝶は突然のことに頭が追いつかない。夕闇が深くなり、金属がぶつかる音や互いを罵り合う声が飛び交っているが、姿がまるで見えないので何が起こっているのかが沙胡蝶にはわからなかった。
もしかしなくても、これは俗に言う戦っているという状況なのだろうか?と沙胡蝶は考える。陸の者はよく争うと噂を聞いたことがあるから気をつけなさいと亀族から別れ際に注意は受けていたが、今までの旅で出会った陸の者は皆、温厚で荒ぶった者は一人もいなかったから、その噂は間違っていると沙胡蝶は思っていたが、噂は本当のことだったのだろうか?海の国の後宮の外れにある離宮で暮らしていた沙胡蝶は、人が争うのを見たことは今まで一度もなかった。初めてのことに沙胡蝶の体に震えが走る。
何だかよくわからなくが人が争うのは怖い!と思った沙胡蝶は涙を零し体中が震えてきて立っていられなくなり、足に力が入らなくなり、川の中に崩折れそうになったが、それを既で誰かに受け止められた。
「おい、大丈夫か?」
その者は力を無くして崩折れていく沙胡蝶を受け止めただけでなく、そのまま沙胡蝶を横抱きにして抱き上げて、心配そうに声を掛けてきた。どうやら声からして、先程の威勢の良い声の主だと思われた。
その声の主は青年の姿をしていた。短い金色がかった茶色の髪に金で出来た輪をつけていて、瞳の色も茶色に金色が混じっている。やや太目の眉毛に大きなつり目で、人よりも大きな耳を持っていた。鼻はやや低く、小さめだが形よく、唇は少し厚めで、背は沙胡蝶よりも20センチは高いだろうか?細身だが筋肉質だ。外見はガキ大将がそのまま成長したという風貌だが、ユラリと揺れる茶色の細い尻尾があることから人間ではないことがわかる。。青年が纏っていたのは紅い旅装束だったが、それが実によく似合っていた。
「今、八戒とお師匠さんがノリノリで戦ってくれてるから、その間に助けに来たんだ!しっかりつかまっていろ!」
沙胡蝶は今まで男の人に横抱きにされたことなんて一度もなかったから大いに狼狽えた。でも青年の言葉から、どうやら沙悟浄が今、見知らぬ者達と争っているのは沙胡蝶が沙悟浄に襲われていると勘違いされているからだとわかったので狼狽えている場合ではないと思い、勇気を振り絞ることにした。
「あ、あの!!誤解なんです!沙悟浄様は私を食べようなんてしていないのです!だから戦うのを止めて下さい!人が争うのは怖いです!」
「はぁぁ!?」
沙胡蝶の言葉に青年は目を丸くした。涙が止まらない沙胡蝶は袖で顔をグシグシとこすりながらも、どうか戦うのを止めて下さいと必死に言った。
「そんなに怖いのか?」
「うぅ……グスッ。うっ……はい、人が争うのを見たのは初めてですが、とても怖いものなんですね」
誰かが戦っているのを見るのは、これが初めてだと沙胡蝶が言うと、青年は片眉を上げて驚きの表情を見せた。
「う~、泣くな泣くな!俺は今まで泣いた事なんてないぞ!」
「ご、ごめんなさい~!でも止まらないのです。……うっ、うっ、うわぁ〜ん!」
沙胡蝶は泣くなと言われたので、何とか泣き止もうと頑張ってみたのだが、どうやっても涙が止まらないし、嗚咽もひどくなってしまい、ついには大声を上げて泣き出してしまった。




