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29、八戒の魅了の魔眼

 一陣の風が(おさ)まると、流砂河はいつものように静かになった。どこか遠くで(さえず)る野鳥の鳴き声と川のせせらぎの音しか聞こえなくなった。


 風が収まった後にある変化が起きた。それまで口汚い痴話喧嘩をしていた玉面公主と牛魔王が猪八戒の顔を見た途端に口をつぐみ、その場でヘナヘナと腰砕けになって座り込んだのだ。二人の目は揃って潤み、全身を紅潮させて、(とろ)けそうな表情で八戒から少しも目をそらさない。玄奘と沙悟浄は何があったのかと首をかしげ、風のせいではっきり見えるようになった八戒の顔をよく見てみた。


 八戒の素顔は、優しげな印象を持たせる容貌をしていた。茶色の濃い眉にクリクリした茶色の目は大きくも小さくもない。ただ不思議なことに、その茶色の目だが、よく見ると目の中心にピンク色のハート模様が浮かんでいて虹彩で見え隠れしていた。八戒は豚の化生だが、高い鼻や薄い唇はちゃんと人間のものだった。唯一の豚の化生らしさが伺えたのは、二つに折れてピコピコ動く、大きめな耳だけだった


 八戒は一つため息をついた後に、自分の鼻と口を手ぬぐいで覆い隠し、牛魔王の手足を後ろでそれぞれ縛り上げ、猿轡も噛ませ、同じように玉面公主も縛り上げた。二人は八戒が自分達を縛り上げても何の抵抗も示さず、されるがままだった。呆然として、それを眺めているだけだった玄奘と沙悟浄が我に返り、慌てて八戒に尋ねた。


「八戒、これは何が起こったのですか?」

「八戒の兄者。拙者も何が何だかわからないのですが?」


 玉面公主を触った手を執拗(しつよう)に流砂河で洗ってきた八戒は、手ぬぐいを外しながら少し驚いた表情で言った。


「お師匠様はぁ~、当然()()だとぉ~思ってたけどぉ~、悟浄もぉ~、()()だったんならぁ、最初からこうすればよかったねぇ」

「?どういう意味でしょうか?」


 鼻を手ぬぐいで覆ったことで匂いが軽減されたことで機嫌が戻った八戒の話によると、自分は前世の天界の役人だったときから、()()()()()()()()限定で効力を発する魅了の魔眼の持ち主だということだった。この魔眼は、しっかりした身持ちの者や常識的なまっとうな恋愛観の持ち主なら効力は発揮されないが、相手が(ただ)れた恋愛観を持っている者ほど、その効力が長く強く効くという厄介なもので、自分は()()のせいで、天界を追い出されたのだと八戒はいい、来世でも魔眼の力が宿ったままだったから、常日頃から目を隠すことにしていると語り終えた。


「ずっとお寺にいたお師匠様ならぁ、()()だとわかってたんだけどぉ~、沙悟浄はわからなかったからなぁ。おじさんに一瞬でもぉ、言い寄られるのは嫌だなぁ~って思ってたんだけど、取り越し苦労だったねぇ〜」

「……」


 別段、特別に隠していたわけでは全然ないし、知られたところで全く困らない事実の露見(ろけん)なのだが、何とはなしに皆それぞれに視線をそらせてしまうのは、男という(せい)の哀しい「(さが)」故なのだろうか……?気まずい雰囲気を打破(だは)しようと玄奘が口を開こうとしたとき、救世主が現れた。海まで行っていた孫悟空の分身だ。本人によく似た姿だが舌足らずだった。


「沙胡蝶。手掛かり。歓楽街。先。行く」


 分身は伝言を伝え終わると、姿が煙のように消えていった。男達は無言になった。悟空の分身から片言の伝言を聞いた男達の行動は早かった。


「沙悟浄、荷物になるが、そこの二人背負ってくれ!」

「はい、八戒の兄者!」

「八戒、私も荷物になるが背負ってくれるか?」


「もちろん!いくら人間離れしてるっていっても、本気の化生の走りにはお師匠さんはついていけませんからね!」


 沙悟浄は自分の負担にならないように牛魔王と玉面公主を担ぎ上げ、猪八戒は人の身である玄奘に負担がかからないようにと気をつけて担いだ。


「沙胡蝶さんが悪者に貞操を貪られた挙げ句、臓器が売られる前に助けに行きましょう!」

「あの子がメレンゲのお風呂に入れられた後に塩こしょうを揉み込まれて、小麦粉を振られて油鍋に投入されないうちに早く助けましょう!」

「沙胡蝶殿の真珠色のハゲが見世物にされて、最優秀品質の最優秀O字ハゲの部で金賞をとって、ハゲの王子様とならないうちに早く助けに行きましょう!」


 悟空の分身が言っていた片言から彼らはそんな妄想をしてしまい、これは早く助けねばと焦燥感に駆られながら歓楽街を目指して走っていった。


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