2、沙胡蝶、流砂河で沙悟浄と会う
沙胡蝶が二人と別れ、港から川を遡るように旅を続けて二週間が過ぎようとしていたが、沙胡蝶は未だ流砂河に入ることが出来ずにいた。というのも沙胡蝶は川中を泳いで旅をしようと、何回も人目を確認してから川に入ろうとしていたのにも関わらず、いつもどこかから人がやってきて沙胡蝶が川に入るのを止められてしまったからだ。
いくら他の海の民とは違い、人の足を持って生まれてきたとはいえ、16年間海の底にいた沙胡蝶にとっては、陸を歩くよりも水中を泳ぐ方が慣れているし、断然早く目的地に行けるのだが、こうも引き止められてはやむを得ない。沙胡蝶は人間という生き物は本当に優しくて心配性で温かい心を持っている生き物なのだなと感心しながら、農道を行く牛車や乗り合い馬車に声をかけ乗せてもらい、陸路を東に向かって進んでいった。
父にお遣いを頼まれたものの、天界への行き方を知らなかった沙胡蝶に、物知りな海月族の長老は、大昔に海まで流された川妖怪の河童を保護したときに、流砂河の上流には天界でお役人をしていたという過去を持つ河童の大親分がいると聞いたことがあると話し出した。
河童は川に帰る際、恩返しと言っては何だが、もしも何らかの事情で足がある海の国の民が陸に上がる事になった時に困ったことがあれば、流沙河に棲む河童の大親分を頼れるように話しを通しておくと言っていたので、沙胡蝶が天界にお遣いに行くなら、その河童の大親分を頼ってみてはどうだろうかと教えてくれた。他に頼れる宛もなかった沙胡蝶は、その助言通りに流沙河の上流を目指すことにしたのだ。
どこからが流砂河の上流になるのかわからなかったが、人を喰う川の妖怪の話が、頻繁に行き交う人々の間で聞かれるようになったので、この辺りに河童の大親分はいるのだろうと沙胡蝶は当たりをつけたが、ふと自分の生まれを思い出し、不安になった。
河童の大親分は本当に人を食べてしまうのだろうか?ならば半分は人の身である自分はどうなのだろう?半分だけ食べられて、後の半分はお残しをされてしまうのかもしれない……と、今更ながらに少し不安に思うも、引き返すことも出来ないので、若干の不安はあるものの、そのまま旅を続けた。
沙胡蝶はお日様が照っている昼間だと、また人目について誰かに川中に入るのを止められるかもしれないと考え、日が落ちるのを待ってから夕闇に紛れて川辺に向かい、大声で叫んだ。
「あのう、すみません!海の国の者ですが、こちらに天界のお役所に勤めていた過去をお持ちの河童の大親分がいるとお伺いしたのですが、いらっしゃいますでしょうか?」
沙胡蝶は大声を上げた後、しばらく待ってみた。すると静かだった川面が、コポコポという音が聞こえてきて、川面に大小様々な泡が上がってきた。真っ暗な川からは水しぶきが上がり、ザバァァァァ!という派手な音が立ってきたので、沙胡蝶は川辺で正座し、もしも河童の大親分が自分を食べると言うのならば、父のお遣いを済ませてからにしてもらえるように頼もうと思いながら音と共に川から現れた存在に頭を下げた。
「海の国の民が本当に拙者を頼りに訪ねてくるなんて思わなかった。とりあえず面を上げて下され!」
腹の底から響くような大声の命じるまま、沙胡蝶はゆっくりと頭を上げて、目の前に立つ男を見る。沙胡蝶の目の前に立つ男は、今まで出会った、どの人間よりも大きな体を持つ人だった。沙胡蝶は男がどことなく冒険家のボスに風貌が似ていると思い、その親近感から恐怖が薄れたが、もしもここに人がいたのなら、その厳つい容貌を見て、恐怖に腰を抜かしていただろう。
極太の黒い眉毛に大きめの鼻と福耳。大きな目元は厳しい眼差しで瞳も黒い。鼻から下の口元は豊かな黒髭が覆っている。半月型の刃の着いた立派な棒をつかみ、首元には九つの黒い水晶で出来たスカルの首飾りをしている。沙胡蝶が旅で見かけた僧侶の衣服と同じものを纏っている。筋骨隆々の大男は沙胡蝶の頭を見て、目を丸くした後、棒を持っていない方の手で、自分の頭をペチンと叩いた。
「なんと!海の国の民の頭部は、拙者達河童と似ているのか?何だか他人とはとても思えないな」
「いえ、海の国の民は髪がとても豊かで、この頭部を持つ者は私一人です」
大男の頭頂部は沙胡蝶と同じO字型だった。違いと言えば、沙胡蝶の頭頂部は真珠のような白い光沢があり、O字に剥げている部分が大男よりもはるかに大きいのに比べ、大男の頭頂部は青磁器のような色合いで、O字に剥げている部分は食事をするときの取り分け皿位の大きさしかなかったことだった。
「いつぞやは拙者の子分が海の国の民の世話になった。恩には恩を返すが当然のこと。遠い所をよく来てくれた。さぁ、立って下さい。とりあえずは我が家に案内し、そこであなたの話を伺うことにしましょう」
同じ頭部を持つ者同士だと知り、親しみを持ったようで大男は警戒を解いただけでなく、にこやかに笑って沙胡蝶を家に入れると言ってくれた。沙胡蝶は初対面で有無を言わさず丸呑みされなくて良かったと密かに安堵しつつ、何事も最初の挨拶が大事だと、海の魔女に常日頃から教わっていたことを思い出したので、立ち上がった後、もう一度深く頭を下げて礼を言い、自己紹介をした。
「ありがとうございます。私は海の王の末子で、名を沙胡蝶と申します」
「おおっ!これは何という偶然だろうか!?拙者は沙悟浄と言う名なのだ!沙悟浄と沙胡蝶。頭部といい、名前といい、これほど共通する者に会ったのは生まれて初めてだ!ますますあなたが他人とは思えなくなってきた!」
沙胡蝶は鞄から野菜や果物を取り出して、沙悟浄に手渡そうと差し出した。
「これ、お土産です。わずかばかりですが、どうぞお受け取り下さい。何がお好きなのかわからなかったので、旅の間に食べて美味しかった物を買ってまいりました。沙悟浄様のお口に合うといいのですが」
そう言って申し訳無さそうな顔をして土産を差し出す沙胡蝶に沙悟浄は目をパチパチとしたたかせた。妖怪は見た目と中身の年齢が違うことがほとんどだ。だから突然現れた海の国の民を名乗る、小さな子ども姿の沙胡蝶が本当に小さな子どもだとは、通常時ならば思わなかっただろう。
だがしかし……と沙悟浄は沙胡蝶を凝視した後、鼻をひくつかせてみる。沙胡蝶の妖気は極々微量にしか感じられないのだ。そう例えるなら……小さじ二分の一くらいしかない微かな妖気しかない。それに不思議なことに沙胡蝶の匂いが……旅している間についた埃の匂いしか感じられなかった。
このことからわかるのは、沙胡蝶は妖怪としては最低ランクに所属する最弱な妖怪だということだ。妖力が低い者は变化が出来ないというのは妖怪の世界では常識なので、多分沙胡蝶は見た目通りの姿の妖怪で、見た目通りの年齢に相違ないに違いないと沙悟浄は思った。
生き物なのに匂いがしないのは面妖だが、沙悟浄は海の国の民に実際に会ったことがないゆえ、それが海の国の民特有の特徴かもしれないとも思い直した。そんなことよりも他に注目すべき点は沙胡蝶の身なりの粗末さや海の国の王の子だと言うのに供もつけられていないところだ。もしかしなくても沙胡蝶は、その妖力の低さゆえ、王の子でありながらも冷遇されているのではないかと容易に窺えた。
それなのにこの小さな海の国の王の子は、この子なりに精一杯の礼を尽くそうと自分で土産を用意したのだろうことが推察出来たので、沙悟浄はその気持が嬉しいと大きな目を細め、大げさに喜んでみせた。
「これはこれは、ご丁寧に!おぉ、人参に胡瓜にホウレン草に桃まで!皆、拙者の大好物だ!好物まで似ているとは、きっとあなたと私は前世で縁のある者同士だったのかもしれませんな!今日はこれで馳走を作りましょうぞ!ささ、川底にどうぞ!」
沙悟浄が喜んで見せると沙胡蝶はホッとした表情になった後、笑顔になったので、沙悟浄は何と可愛らしい子どもだろうかとさらに笑みを深くさせて、川辺の砂利に足を取られないようにと手を差し出した。小さな沙胡蝶の手が何の躊躇いもないまま、乗せられたのを嬉しく思いつつ、沙悟浄は我が家のある流砂河へと足を進めていった。
沙悟浄に手を引かれた沙胡蝶が流砂河の中に一歩足を踏み入れたとき、突然、威勢の良い青年の声が暗闇に響き渡った。
「待て待て待て!子どもを川に引きづり込もうったぁ、ふてぇ妖怪だぁ!この斉天大聖位孫悟空様が相手してやるぞ!!」




