16、玄奘、女に声を掛けられる
「もし旅のお坊様」
読経を止めた玄奘が振り返った先に、女が一人立っている。香油でテラテラと光る長く白っぽい灰色の髪が頭の高い位置で結われ、その髪留めも黄色い貴石がふんだんに使われている。同じ色の貴石の装飾は耳や首回り、腕や足首にもあった。最近若い女達の間で流行っているという真っ赤な着物ドレスを着崩し、抜き襟と呼ぶのもどうかと首をかしげたくなるくらい襟を広げて肩を見せて胸元を大きく開き、白粉をはたきすぎている白い肌を見せつけて下品な色気を強調する。
女の腹元には黒い帯が総スパンコールで作られて、くびれを見せつけたいとキュウキュウにしぼられていた。腰から下のスカート部分はヒラヒラとレースが重なるが、それらは金魚の尾のように薄い生地で、膝上20センチの中央の部分に縦にスリットが大胆に入り、白い足が透けて見えるようなチラ見せを演出したのだろうが、ほぼ丸見えとなった形状であった。足下は玉砂利を歩くには、不向きな金色のハイヒールが見える。玄奘は一目見るなり、眉間に皺が寄ってしまった。
髪と同じ色の細い眉に黄色い瞳でまつげがビッシリな切れ長の目尻には朱が塗られている。高い鼻筋に薄い唇には血のような真っ赤な口紅が引かれ、うっすらと開く口から見える歯は鋭く尖っていた。人間の耳の辺りから、狐っぽい耳が生えていることから人外であるのは間違いないだろう。婀娜っぽさをこれでもかと見せつけたい心情を隠す様子もなく、女は妙に甘ったるい声色で玄奘に近づく。
「お坊様、私……」
「それ以上、近づかないでください」
玄奘は眉間に皺が寄ったまま険しい声音で女を牽制した。女はその場で立ち止まり、妖艶に笑う。
「まぁ、どうしてでしょう?それって、私が美しいからかしら?私が魅力的だからかしら?
フフフ、お坊様も男ですものね。こんなにいい女が現れたら心が騒ぐのも無理ないですわ」
顔に手をやり、身をくねらせて笑う女は人差し指を唇に当てる。
「私もね、噂に聞くお坊様が、こんな素敵な人間の男だったなんて驚いているの。顔も体も私の好みど真ん中なのよ!男はこうでなくっちゃねぇ」
「……」
「あら、眉間の皺が深くなっちゃった!ダメよ、男前がそんな顔しちゃ!……私ね、長いこと妾なんてやっているんだけど、いつまでたっても彼の本妻にしてくれないの。もう嫌になっちゃうわ!ひどいのよ、あの馬鹿牛!愛しているのはお前だが、お前はただの獣の化生だ。俺の本妻は仙女で、お前とは格が違うっていうのよ。仙女を本妻にしている化生は仲間内でも彼だけで、それが彼の化生の格を上げているっていうの。だから本妻とは別れられないっていうのよ。ホントひどいでしょう?」
両手を腰に当て頬を膨らませ、自分は怒っていますアピールをする女を凝視する玄奘。
「だ・か・ら!不老不死になってやろうって三蔵法師を求めてここに来たの!仙女よりも不老不死の女の方が格が上でしょ?でもあなたって、すっごく私好みなのよ!……ねぇ、お坊様、私とめくるめく肉欲の世界を味わいたくない?生きながらに極楽浄土に連れて行ってあげるわよ!……ねぇったら、何とか言ってよ!」
フゥと玄奘は短めに息を吸い込んだ。大丈夫、さっきまで現状は深く反省をしていたんだ。相手は女性だし、拳で語るようなことにはなるまい。言葉で説得も出来るはずだと玄奘は自分を信じ、口を開いた。
「頭に油がベッタリでハエがあちこちくっついて不潔だし、香水がきつすぎて鼻がまがってしまいそうに臭くて近寄ってほしくない!……のです。僧侶の身故、女人とのそういう行為はできないけれど、僧侶でなくともあなたの顔も体も私の好みでは全くないので、そういう誘いは二度としないでもらいたい!……と思っています」
女を乱暴に振り払うこともなく、言葉で説得出来たと内心では、私もやれば出来たと喜ぶ玄奘は気づかなかった。自分に自信のあった女が、羞恥と怒りで身を震わせていたことを……。そこへ止めを刺す、間延びした声が女に追い打ちをかけにきた。
「お師匠さまぁ~、いくら本当のことでもぉ~、直球過ぎますよぅ~?そういう時はぁ、ハエ取り紙よりぃ役に立つぅ、頭油ですねぇ!とか~、香水の本来の使い方を~無視した香害級のぉ芳香でぇ~、頭ズキズキしますねぇ!とか~、坊主でなくってもぉ~、あなただけはぁ、絶対無理ですねぇ!とか~、柔らかめにぃ~表現しなきゃいけませんよぉ~?」
「八戒の兄者。それはちっとも柔らかくなっていないように思うのだが、拙者の思い違いだろうか?」
玄奘と女の傍に歩み寄る猪八戒と沙悟浄。沙悟浄の小脇には芭蕉扇が抱えられていた。
自称フェミニスト八戒が毒舌なのは、彼がものすごく嗅覚に優れているからです。