届いた手紙
麓の村へ薬を届けるために、久しぶりに山を下りた。
村までは徒歩で片道二時間。
使い古された、藤色の風呂敷に包まれた薬箱を背負い、ただひたすら山道を歩いた。
舗装されていない山道は、もうすぐ正午を迎える時刻でも、大きく育った木々で陰り薄暗い。
肩に食い込む薬箱は亡くなった祖母が愛用していた年代物で、一番開け閉めする引き出しの鍵が壊れかけているため、歩く振動でカチャカチャと鳴っていた。たいして大きくもない音ではあったが、山の中ではちょっとした音さえも大きく聞こえる。
研ぎ澄まされた耳は敏感に音を拾う。
一人だということは、その敏感さをより一層強めていた。
暖かくなり始めたと思ったら、また寒くなる。三寒四温が過ぎれば本格的な春がやってくる。梅の花が咲き、菜の花が咲き、桜が咲いたら、次は祖母の愛した藤の花が咲く。そして緑はより一層深まり、あっという間に夏の気配を感じ始めるのだ。
これからはどんどん忙しくなる。
土を耕し種をまき、育てながら山の恵みも収穫していく。
全ての季節は繋がって、無駄な行為など一つもない。
その季節に、その時にしなければならないことをただやるだけ。
けれど、適切なタイミングに物事を行うことは思ったより難しいものなのだ。
それは天候いうものを、人がどうすることは出来ないからだ。
すべてのことには天の采配というものがある。
人は、その采配によって動かされているに過ぎない。
麓の村が見えてきた。
人々の生活に欠かすことのできない川が、穏やかに流れている。
川沿いには終わりかけの菜の花をよそに、桜の蕾が膨らみ始め、枝の先が色づいている。
あと数日のうちに咲き始め、あっという間に見事な桜が川沿いを飾るだろう。
川を挟んで、一軒の平屋が見えてきた。目的地の家は目と鼻の先だ。
川に架かる古びた木製の赤橋はこの辺りでは唯一の橋で、渡ったすぐそばの家に住む一家がこの橋を管理していた。村人以外めったに人が通ることのない橋ではあったが、利用者は人ばかりではない。
家の玄関まで来ると、入り口は自動的に開かれた。
「こんにちは、まつりさん。」
出迎えてくれたのは、この家の一人娘、結。
「こんにちは、結。相変わらず、いい眼をしている。」
「この眼を気味悪く思わないのはまつりさんだけよ。」
そう言って結ははにかんだ笑みを見せた。
もうすぐ十六になる少女は、生まれつき視力がなかった。そのせいもあって、あまり外に出ることがなかった彼女の肌は、透き通るような白さが際立っている。
彼女が私が来たことを知る術は、視力が無い代わりに発達したその他の感覚からだった。
それは彼女以外には理解できないもので、彼女の親でさえ初めはその力を恐れていた。
「まつりさん、父さんからイリサさん宛の手紙を預かってるの。届いたのは二週間くらい前だそうなんだけど。」
そう言って手渡された手紙は達筆な字で、確かに祖母イリサの名前が書かれてあった。
飾り気のない白い封筒ではあったけれど、質の良い紙だという事が手にすればすぐにわかった。
差出人の名前は大沢敦。
この日受け取った一通の手紙は、少年を一人、私の元へ連れて来た。