勝利する者
ダニー・ツェネゲド。
自分よりも大きな体の男が、みっちり体を鍛え上げて目の前に立った時。
かつて、こう思ったものだ。
ああ、勝てない。
感じるパワーが違う。
不意打ちを食らわせたところで、自分のやわな体を省みる。
相手を怒らせて自分がもらうダメージに尻込みする。
せいぜい敵対しないよう気を遣って、すれ違うのみだ。
今、それよりも、ずっと恐ろしい筋肉の怪物が立っている。
俺とて、もはややわな体もしていないし、怪物のほうが物量がずっとある。
だが、怪物を屠ってきた男だ。
おそらく、その体一つで。
それに直感的に、わかった。
<神の恵み(ギフテッド)>。
間違いなくこいつは、持っている。
初手は一つ。ゲーム時代最も広汎に効いたスキルを発動する。
「<甘き死よ来れ>」
毒状態にするスキルは、袖から毒ガスが噴射される形で発動。
間違いなくダニーに当たる。
ガスが晴れた時、ダニーの顔色は土気色になっていた。
スキルは、効いた。
だが、恐ろしさはまったく減衰しない。
「初手は、譲った」
ダニーが、一歩踏み出す。
「次はこちらの番だ」
俺はダニーの紳士協定などに構わない。
向こうが勝手に決めたことだ。こちらに守る道理もない。
が、俺が何かしようがしまいが、結果は同じだ。
こちらが何かをする前に、ダニーの突進が、攻撃が、到達した。
「<輝かしき哉我が胸筋>」
ポーズを取りながらの体当たり。
ただそれだけのものが、俺を鉄格子のところまで吹き飛ばした。
鉄格子に背中から叩きつけられ、肺から空気が絞り出される。
「立つがいい、ヴォルク。そんなものではないだろう」
俺は跪いた体勢から立ち上がる。咳き込んで呼吸を整えてから、ダニーに向き合った。
ターン制でもやるつもりか。
興味はない、スキルを連発するだけだ。
「地獄よりの鎖、青い鳥篭、茨の森、暴食の王、一刻一病」
鎖が、鳥篭が、茨が、虫が、病が、ダニーを襲う。
四つ目までが透明な膜に防がれ、有効だったのは一刻一病のみのようだった。
やはり、彼自身が状態異常に耐性を持っている。
何かしらの<神の恵み(ギフテッド)>の効用だろう。
それでも、一刻一病は効いた。毒状態が加わり、体力減少は加速したはず。
ダニーの顔色がさらに悪くなり、青へと変化する。
けれど、彼の威圧感に、何ら減じるところはなかった。
「卑怯、とはいわんよ。だがね。毒だの呪いだのを使うモンスターも、私は屠ってきた」
彼はただ、仁王立ちになる。
「<愛しき筋肉よ今は休め>」
緑の細かい光が彼の体を包んだかと思えば、肌の色はすっかり褐色を取り戻していた。
つやつやと、オイルで輝いている。
状態異常耐性に加え、治療まで備えていた。
冗談は、やめてほしいもんだ。
「さて次だ」
俺はダニーの攻撃が来る前に、スキルを重ねる。
「一刻一病、<甘き死より来れ>!」
先ほどは効いたスキル。
けれど、一向にダニーの見た目に変化はなかった。
「<嗚呼麗しの上腕三頭筋>」
ポージングしながらの体当たりが迫ってきているとわかっても、間に合わない。
敏捷性や反応速度が、足りていない。
鉄格子とダニーに挟まれるような形で、ダメージを受ける。
ただポージングが違うだけの同じ体当たりなのに、ポーズによって受けるダメージが違う。
とことん、ふざけてやがる。
衝突の瞬間、ダニーが呟くのが聞こえた。
「呪術でなく、肉体で向かってきたまえ」
また跪く俺に対し、ダニーは距離を取った。
「さあ、次だ」
余裕。
そうなのだろうし、余裕であるのは間違っていない。
俺はもう一度、スキルを試しに行く。外れた、という可能性もある。
「一刻一――グッ」
スキルを発動しかけ、右腕がけいれんした。
「――魔素切れ」
ダニーが、親切にも解答をくれる。
「当然だな。ここでは十倍、魔素を消耗する。今までのように呪術は使えまい。使えたところで、意味はないがな。さあ!」
ダニーが己の胸筋を叩き、高らかに声を上げる。
「頼るべきはもはや己が肉体のみ! 今こそ本当の裏コロシアムを始めよう!」
観客席からは、ダニー・コールが始まった。
彼を称える声のついでに、俺への檄も飛んできている。
やるしか、ないのだ。
俺は気合の声を上げながら、ダニーの鳩尾を殴りに行く。
ゴブリンを遠く壁まで蹴り飛ばすだけの筋力はある。ならば、意味はあるはずだ。
ダニーは避けず、俺の渾身のストレートが、決まる。
意味はあっても、辛うじて、というものだったが。
「うむ、よし。けれどいま少し、筋肉が足りぬ、鍛錬が足りぬ」
ダニーは背中を丸めたくらいで、呼吸が乱れもしない。後ずさりもしない。
「私の番だ。<力強きは正に我也>」
数秒、記憶が飛んだ。
ただの体当たりだったと思うが、気づけば俺は、地面に横になっていた。
背中に痛みがあるし、おそらく壁にでもぶつかった後、地面に落ちたのだろう。
はは。
なんだこれ。
勝てる気が、まったくしない。
「さあ、きみの番だ」
律儀に、ダニーはターン制でも守るつもりらしい。
王者の風格。王者の余裕。王者の器。
強い人間に、なりたかった。
けれどなれなかった。
そこまでのこと。
もう、どうでもいい、か?
「――何をしている、ヴォルク」
鋭く淡々とした女の声が、俺の意識を呼び起こした。
マイク越しに聞こえてくるのは、シノンの声だった。
ブースに残っていたマイクを使って、呼びかけているのだろう。
「そんな柄じゃないだろうに。頭を使って戦いたまえ。そして勝つんだ。……きみもそこで縮こまってないで、声援の一つでも届けてやったらどうだ?」
後半は、俺に向けられたものではない。
マイク越しに物音が聞こえ、喋る人物が替わったようだった。
「……ヴォルクさん」
セレスナート・メロー。
俺がこうなる原因を作ってくれたやつだ。
俺が、助けたいと、思ったやつだ。
「ほんとに、申し訳なくて。さっさとリタイアしてください、なんて思っちゃって」
マジに降参するぞおい。
ダニーなら降参も受け入れてくれるだろうしな。
「すいません、見てられなくて。ただ、こうなるもんだったんですよ。向こう見ずの気持ち先行ですからね。どっかで、似たようなことをきっとしてました。だから、ヴォルクさん――」
涙混じりになっていくセレスの声を、聞いていられなくなった。
「ふざっけんな!」
俺は力の限り叫び、マイク音声を遮った。
セレスが、遠くブース席で、驚いたように首をすくめるのが見えた。
「ったく、あのあほは、どこまであほなんだ……」
俺はうっとうしい前髪をかき上げ、舌打ちする。
それから、ダニーを見据えた。
「待っててくれてどうもな、ダニー。腹は、決まったよ」
「ああ。いい顔だ。それに、遠目だが、かわいい子のようじゃないか。きみが負けても、悪くならないよう私が便宜を計ろう」
「どうせオーナーにろくに逆らえないんだろ? なら、期待しないさ」
ダニーは白い歯をにっと輝かせて、笑う。
「そうか。ならば、勝たねばな」
「そのつもりだ」
俺はダニーに向かって、手をかざす。
思い浮かべるスキルは、一刻一病よりも魔素消費は少ない。
行けるはずだ。行かなくてはならない。
「<赤鼠の行進>」
俺の影から、何十匹という赤い鼠が走り出てくる。
スキル発動までは成功。
後は、ダニーに有効かどうか。
透明な膜にかき消されることなく、鼠たちはダニーに肉薄する。
ダニーが拳は肘、足で鼠を何匹か潰す。
しかし、ダニーの皮膚が赤く染まっていくことは、避けられなかった。
疫病ステータス。
効果は、全能力値の減少。
「むう……だがこれさえ乗り切れば」
もう俺には後がない。
ダニーにぼこぼこにされて負けるだけだ。
ダニーが、鼠を潰すことをやめ、例の仁王立ちのポーズに入ろうとする。
「今はやす――めっ!?」
「さ、せ、るか!」
俺はダニーに向かって、跳び膝蹴りを彼の顎に入れる。
クリティカル、のはずだ。
ダニーは大きく後ろにのけぞり、ポーズを取れない。
それよりも、俺の物理攻撃が有効になったことが重要だ。
力任せに、彼を殴り続ける。
とかく、必死だった。
殴っている最中、ダニーがこちらに手を伸ばしてくることもあったが、簡単に払いのけられた。
最後は腹への一撃で、ダニーの体は後ろに倒れる。
俺は肩で息をする。肉体の疲労というより、精神的なほうが激しい。
じっとしているだけで、体が冷えて行くのがわかる。
それだけ、体が熱を持っていたのだ。冷えていくほどに頭も冴えていき、コロシアムが、静まり返っていたのがまもなくしてわかった。
倒れた司会の男の代わりに、シノンが宣言する。
「――勝者、呪術師ヴォルク」