令嬢の膝枕
<獣>は<フェンリル1号>と草地を並走している。
同時に、俺の体にその炎をまとう体をこすりつけてきていた。
地味にひりひりして痛い。これもしかしてダメージ受けてないか。
「ヴォルクさんの<魅了>が効いてるみたいですね」
「そう、みたいだな」
俺は手で<獣>を押し返そうと試みる。
とても無理そうだった。
「この、離れろ!」
俺が命じると、素直に<獣>はこちらと距離を置いた。
甘えるような鳴き声もあったが、とてもそんなかわいい見た目ではない。
「なん、てこと……」
エリスが、間抜けに口を開いて驚いていた。
「父が手懐けられたのも、<獣>がまだ小さい頃から調教していたからです。それも、ティムルの秘法を使ってのこと。ヴォルク様は、こんなにたやすく……」
単純に一時的に魅了状態にさせているだけなんだが。
いやでも、時間経過で解除される状態異常でもないから、一時的、でもないか。
解呪するか、俺が死にでもしない限り、この状態は解除されない。
そのように考えられる。
さっきから、<獣>の甘い鳴き声がうっとうしかった。
どこぞに行け、と命令しかけ、思いなおした。
できるだけ、利用をしておきたい。
「<ジェフォーダンの獣>よ。三つ、命令がある」
<獣>が短く鳴き声を上げる。
了解した、ということだと受け取った。
「一つ、人間を傷つけず、守ること。
二つ、この地域の魔物を引き続き駆逐し続けること。
三つ、もうジャン・ジェフォーダンの言うことは、聞くな。以上だ」
<獣>が先ほどと同じように鳴く。
「それじゃさっそく、行って来い」
<獣>は元気よく鳴くと、引き返して、ジェフォーダンの街のほうに戻っていった。
「……わかってるんだろうか」
「大丈夫です。多少、頭の足りない子ですが、大事なところはわかる子ですよ」
エリスは、<獣>のことを理解している口振りだ。
そういえば、リオンたちが<獣>から助かったのも、エリスのおかげだ。
洞窟の出口を兵士に命じて開けさせたのが彼女だし、彼女が立ちはだかったおかげで、積極的には彼女を傷つけようとしなかった<獣>が追ってこなかったのだ。
ジャンは娘であるエリスに、<獣>の手綱を継がせようとしていたためだ。
もっとも今回の例を見れば、ジャンの命令によってなら、傷つけもするし追いかけもするようだが。
「そうか。ともかく、何事もなくてよかった、エリス」
俺は安堵感から、自然と微笑が浮かんでくる。
エリスはばっと顔を背け、ハンドルに額を預けるような体勢になる。
「……え、エリーと、そう呼びなさいと、申し付けましたわ」
「そうだったな。エリー」
「……はぃ」
エリーは喉から絞り出すような声で返事をしてきた。
「ヴォルクさん、私も無事ですよ」
「余計なことしてくれたやつにかける言葉なんかねえよ」
「何ですかそれ! ヴォルクさんが起こした騒ぎにも対応して車で準備してましたし! 私だって知ってればスパナを投げつけたりしませんでしたよ!」
「お前、俺だけ見捨てればいいみたいなこと言ったよな」
セレスは凛とした顔つきになり、言った。
「見解の相違があります。ヴォルクさんには尊い犠牲になっていただいて、かわいい私が助かる、自己犠牲の素晴らしい道です」
「だからそんなことを言うやつはかわいくないし、自己犠牲は犠牲になる当人が尊んでいるべきなんだよ」
俺は荷台を移動し、セレスの前にしゃがみこむ。
それから、彼女の頭に手を置き、揺さぶった。
「あわわわわわっ」
ここで新たな発見があった。
セレスの頭を揺らせば体も揺れ、胸も揺れるのだ。
すげえ光景。
「――いつまでやるんですかもう!」
セレスに、揺らしていた手を振り払われる。
俺も少し調子に乗りすぎた。
だが、セレスへの罰をこれで済ませるつもりもない。
「セレス。エリーと運転変わって、領地の境界の川まで行くんだ。それまでがんばれ」
「えー、私の魔素じゃ、一晩かかりかねませんよ」
「がんばれ、根性だ。俺は疲れたから、荷台で休んでる」
俺は箱が積まれた荷台の上で、横になる。
起きているより楽だが、ごつごつしていて、休みづらい。
ふっと、光の加減で、顔が月光から遮られたのに気づく。
目を開ければ、エリーがこちらの顔を覗きこんでいた。
「あの、私が、枕の代わりをいたしましょうか。とても、寝苦しそうなので」
俺は、少しだけ葛藤した。
そんなことをしてもらってもいいものか。
寝づらいのは事実だし、エリーのほうから申し出たことだ。
断るのも角が立つ。
何のことはない、膝枕というやつを体験したいだけにせよ、だ。
「ありがとう。頼む」
「はい」
さすがに箱の上で正座はさせられず、足を座席のほうに投げ出す形で、エリーには座ってもらった。
その太ももに、俺は頭を預ける。
相変わらず首から下は非常に寝づらいが、首から上は極上だ。
やわらかく、暖かく、ほっとする。
俺は息をつき、体の力が緩んでいくのを感じた。
体が回復していくような気がする。もしかして膝枕には回復効果でもあるのかもしれない。
エリーの手が、前髪や額に触れてきた。
陰気な髪型のヴォルクである、うっとうしそうだと思われたのかもしれない。
美女に触れられてこられるというのは、悪くない。
ごまかしを消せば、非常に好ましい。
俺はこのままリラックスして、眠ってしまいたかった。
「……っ!」
エリーが、俺の顔の上で息を呑む気配が伝わってきた。
何かやってしまったかと思うが、膝枕にはあらがえず、問い質す気力もわかない。
「ヴォルクさん。あの、私も膝枕しましょうか。してあげますよ。私にさせるべきです」
何事かと思う。
たぶん、運転を逃れたいだけだろう、と察しがついた。
「黙れ。お前は運転してろ。川が見えたら起こしてくれ」
「むー」
セレスは不満げで、続いて、意味のわからぬことを言う。
「エリーさん。メルカトールまでですからね」
「……はい?」
「だってそうでしょう。メルカトールに送り届けたなら、それまででしょう?」
「そう、なのですか、ヴォルク様」
セレスとエリーのやり取りを把握できかねた。
エリーがメルカトールに行き、そこで薬師をやるなり薬術の研究をやるなりする。
だから、メルカトールまで、というのは当たり前だ。
エリーはそこに何の疑問を持っているというのだろう。
「そうじゃないのか? メルカトールまで行ったなら、そこでエリーは暮らすんだろ。それがお前の望みだったはずだ。俺とセレスは、少なくとも飛空船に戻らなくちゃならなくなるから、そこでお別れだ」
「ですよねー。エリーさん、メルカトールまで、仲良くしましょう」
「ヴォルク様の意地悪」
俺は、頬をつねられた。
夢見心地が、一瞬で現実に引き戻される。
「私は、あなたに何の恩返しもできませんの?」
「別に。俺が勝手にやったことで、やりたいからやったまでだ。特に恩返しが欲しいとかじゃない」
「ずるい、です」
恩の着せっぱなしは、恩の押し売りにも似ている。
どちらにせよ、恩を受けた側にもやもやを残す。
「じゃあこの膝枕でいいさ。それで終わり」
「もっと何か、ありませんの? 何なりと言ってください」
「そう言われてもなあ。何か助けが必要になったら、言うさ」
たぶんそういう時は来ないと思いながら、俺は適当なことを口にする。
「はい。きっと、お待ちしています」
俺はゆったり走る車の上で、エリーの膝枕に頭を預けてまどろむ。
ともかくこれで、寄り道は終わりだ。
メルカトールに今度こそ、立ち寄る。
研究員の協力を仰ぐのにも。
飛空船に再び戻るのにも。
眠ってしまった仲間たちを元に戻すのにも。
いろいろ、やることはあるだろう。
けれど今は、草の匂いとやわらかな風を感じて、安らかに眠りたい。