ホオズキ
紅色レンガの道の先にある、小さくも大きくもない花屋。異国船の汽笛が店内へ届く。
店主の茂永は、飲み仲間の堺の隣で新聞紙を広げており、部屋にはかすかにヤニのにおいが染み付いている。
茂永は新聞を畳むと、窓辺からぼんやりと黒船を見つめる友人へ声をかけた。
「最近、悩みがあるんだ。悩みというか、どうにも不可思議なことがある」
「……呑気なお前が悩みなんて、明日は雪かい」
「我慢しすぎてて腹の膨れる思いなんだ」
堺は「言ってみなよ」とでこぼことしたテーブルの上へ置かれたグラスの中の水に口をつけた。
「近頃、毎日のようにうちの花を買っていく人がいるんだ。女の人でね」
堺は「結構なことじゃないか」と笑うが、どうやらそうでもないらしい。
その客が別段、いて困るような客でもなく、かといって会うのが気まずいような間柄でもない。ただ、気になるのはその買っていく品なのだ。
彼女が買っていくのは毎日同じ。ホオズキだった。
「毎日のように、朝からホオズキを買っていくんだ。不思議なことだろう」
「ホオズキねぇ、懐かしいなぁ。……中に入ってる朱色の実がきれいで、子供のころは木箱にいれて集めてたんだ」
「ぼかぁホオズキ鳴らしをしていたね。誰が一番大きな音が出るのか、競いあったものさ」
しばしの過去の余韻の後、茂永が思い出したように首を振る。
「でも、彼女は子供じゃない。千恵子さんと言ってね、髪の長い女性なんだ」
名前を聞いて、堺はふと眉と眉の間にしわを作る。彼の言う千恵子という名前に、よからぬ心当たりが浮かび上がったからだ。
「そりゃあ、「おらんだ千恵子」じゃないかい? 左目の下に、ほくろがあったろう」
「そうだが、そんな二つ名は初めて聞くなあ。彼女はオランダ人て顔じゃないよ」
堺は、彼女のあだ名の由来はそれじゃないと首を横に振る。
千恵子本人ではなく、千恵子の夫がオランダ人だったのだ。
二年前に出会った二人は、家族の反対を押し切って結ばれた。その際、オランダ人の妻という面妖な彼女につけられたのが「おらんだ千恵子」というあだ名である。
堺によってつけられた煙草の火は、彼の口元で淡く明滅した。堺は続ける。
「だが、不幸なことに舶来の旦那は、千恵子を置いて国に帰っちまったのさ。向こうのお国の事情らしい」
「へえ。そりゃあ可哀想だね」
「可哀想なんてもんじゃないさ。千恵子は周りからの冷笑の眼を、旦那への愛でうまくかわしてきたんだ。唯一の壁は、今じゃ水平線のその彼方。そりゃあ生きる気力もなくなるさ。
何度か話したことのあった俺だが、今では彼女の顔を見るのは、沼の底をのぞくような気分さ」
茂永は口をへの字に曲げて、後味の悪さを噛みしめる。
が、そこでふと思い出した。
「わかった気がするよ、彼女がこの春先、どうしてあんなにもホオズキを買いに来てたのか」
堺は目を丸くして、期待のまなざしとともに「へぇ」とこぼす。
「なんだい、夫がホオズキみたいに朱色の頬でもしてたかな」
「花言葉だよ、花言葉」
ホオズキの花言葉の一つに「心の平安」というものがある。
千恵子は夫が祖国へ帰ってしまった心に、以前のように木漏れ日の射す水面のような静けさを求めているのだ。そして、春になった今、彼女は毎日のようにここへきて、自分に言い聞かせるようにホオズキを買っていくのだろう。
夫が帰ってくると信じているのか、はたまたそれを乗り越えるべく、自分へのエールのつもりなのか。
茂永がすべてを言い終えると、堺は感服したように口の端を右上へ上げた。
「見事だよ。君は本でも書くべきだね」
「いいから、そろそろ出かける時間だ。機関車に乗り遅れるよ」
堺は灰皿へ煙草の先を落とす。
二人はいそいそとコートを羽織ると、花の揺れる部屋を後にした。
二人は自分たちの出した結論に満足していることだろう。
だが、二人は無知すぎたのだ。
千恵子の腹の中には、夫がオランダへ行ってしまう少し前から、一つの命があった。その命には自分の血と、信頼していた自分を裏切った憎き舶来人の血が通っている。
そして、ホオズキの実には毒があり、食べるとその命の芽を摘んでしまう。
彼らは何も知らなかった。しかし、彼らが子供のことに気づいたところで、何が変わるのだろうか。いいや、何も変えることはできない。
先月まで何十本もあったホオズキの苗はすべてなくなり、その場には「うりきれ」の文字が潮風に揺れるばかりであった。
すべて、一人の女性が苗を大事そうに抱え込み、笑みを浮かべて持ち去ってしまった。