Composer
譜面を眺めながら、辻は深く息を吸い、それを吐き出した。
「駄目だな。いまいち足りない」
楽器の配置、音の強弱、リズムとテンポ。
素人が聞いても何も感じないが、玄人には欠けている部分がレリーフのように浮き出て見えた。
新曲を作らねばならないというのに、いくら考えても自分の考える「ある一点」までたどり着けず、その一歩手前を右往左往する。
だが、その「一点」がいったい何なのか、それは自分でもわからない。
「風間くん、私の曲には何が足りていないかな」
弟子に意見を聞く師匠というのも情けないものだが、行き詰った時には誰かしらからの意見が特効薬になったりする。
風間は文庫本を閉じた。
「そうですね……ちょっと、曲の感じが古くないですか」
「それは問題じゃないんだ、狙ってんだから。“古来の美”だよ風間君」
辻秀紀の作りだす曲は、いつも古い時代ならば喝采を浴びるような曲ばかりだった。だが、今の時代にははやりそうもない。
それこそもの好きが買う程度だった。
ひょんなことから、そのもの好きの一人に有名なコメンテーターがいて、雑誌に取り上げられた。そのまま上昇気流に乗ったはいいが、後はグライダーと同じだった。
飛べるように作っていないのだから、風を受けていないとそのまま落ちるだけ。当然、近ごろは人気も無くなってきた。
そのことを辻本人よりも、弟子の風間の方が心配していた。
「先生、好きな曲を作るのもいいですけど、もっと商業的なことを考えて売れる曲を作る方がいいんじゃないですか?」
耳にタコ、という顔をした。
「風間君はいつもそう言うなあ。じゃあ聞くけど、僕が一週間後に死ぬとするだろう、その直前に私は君に言われた通り「売れる曲」を作るんだ。一番嫌いな、「最近のはやり」ってやつをね。
そして私が死ぬと、その曲が遺作になるわけだろう?」
「まあ、そうですね」
「どうだい、好きでもない曲が「辻秀紀、最後の曲」と言われて、それより書きたかったけど書けなかった私の曲は、スポットライトどころか舞台裏にすら存在しない。どうだい、それは」
風間は「ご自慢の屁理屈を」と目を細め、黒いワイシャツを着た後姿に鼻息をつく。
要するに「好きでもない曲なんて書けるかよ」ということだ。
辻はもはや、自分の余生を楽しむような気分でいるのだろう。
「そんなに余生を楽しみたいなら、いっそ隠居されてはどうです」
風間がそう言うと、辻は白いあご髭を生やした顔をくるり向けた。
「馬鹿言うんじゃないよ。私の作品が聞いてもらえないじゃないか」
「そう言うと思ってました」
このやり取りは、八か月前に辻が還暦を迎えてから、毎日のように繰り返されている。
しかし辻は書くことをやめない。
「私はね、曲を作りたいからこうしてペンを持ったんだ。私から曲作りを取り除けば、残るのはセミの抜け殻みたいなものだよ」
「先生。僕、先生のそういう話大好きですけど、〆切が近づいてるんでしょう。僕と話している場合じゃないですよ」
「ああ。……今日という水曜日は忙しいねぇ。孫のヴァイオリンも見てやりたいし、〆切も近づいている」
人間、生きていて一番かわいいのは孫だ。辻はそう語る。
風間は「志保ちゃんは僕が見ときますから、とにかく先生は曲をおつくりになってください」とコーヒーを淹れ始める。思えば弟子入りした最初の仕事も、三歳になる孫をおもちゃのヴァイオリンで遊んでやることと、コーヒーを淹れることだった。
白いマグカップを手渡すと、辻は譜面から目をそらさずにカップを手に取り、半分ほど一気に飲んでしまった。
「ん。珈琲はね、風間君。ブラックに角砂糖を一と三分の二入れるのが一番いいんだよ」
「はい。僕がコーヒーを淹れる、そのつど聞いてます」
「ところで風間君。私の曲は、“古来の美”を意識したい。それは変わらない。
だがどうもねえ、それだけじゃダメな気がするんだ」
辻はさらにコーヒーに口をつけ、とうとう飲み干した。そしてそれをデスクにトントンと叩きつける。
おかわりの合図だ。
風間は「へえ、そうですか」とマグカップを手に取り、再度コーヒーを注ぐ。
「つまり心機一転で、はやりの曲を作られるということですか?」
「いいや違う。……やっぱり、古来の美を語るには、まず古来の美を知らなければならないだろうね」
「……旅行に行ってる時間はないですよ」
「誰がそんなこと言ったんだ。……そうだなぁ、誰かいないか、こう「ルネッサンス」という感じの人は」
当然、風間はいるわけないでしょうと声を荒げた。
辻は珍しく行き詰ったらしく、白髪を掻きむしる。いままで己の道をただ歩いて来たのだ、今さら方向転換などしたくない。いや、できない。
「風間君。そろそろ私も引退かもしれないよ」
突然の師の弱音に、風間はコーヒーを少し吹きだした。
「待ってくださいよ、そうすると先生の作品を心待ちにしているファンはどうなるんです、僕が先生に弟子入りしたのは、先生が「死ぬ時は完成したばかりの譜面を手に取って死にたい」とおっしゃられていたから、その言葉に感銘を受けからなんです。弱音はよしてください」
「年をとると、弱音もこぼれるんだよ。……そうだなァ、新しい夢でも追いかけてみようかなぁ」
必死にそれは制止したい風間だったが、師はたび重なる作曲で行き詰っているから、頭の回路がショートを起こしているのだと考え、話を聞くことにした。
師の愚痴やらこぼれ話やらを聞いてリラックスさせるのも、弟子の務めだ。
「先生の夢といいますと、まだ挑戦したことのない楽器の演奏者ですか?」
辻は「いいや」と首を横に振る。この世のたいていの楽器は全てマスターしたのだと彼は言う。
ただ一つマスターしていない楽器と言えば、声がしわがれてしまった自分自身だ、と続けざまに言った。
「風間君、私は年をとったろう」
背もたれによりかかって虚空に置くようにそう言った辻は、風間の反応をちらりうかがった。
風間はつまらない世辞を言う柄ではない。
今回も「そうかもしれませんね」と笑った。辻は少し、安堵の表情を見せた。
「年をとるということは、私は未来に進んだということだ。当然、私が君ぐらいのころに比べて、音楽の世界は変わった。
だからね、ダンサーになってみたいんだよ」
「ダンサーですか」
白初の老人がスパンコールなどを着て舞う姿など想像しがたかったが、風間は「この人ならあるいは」と考えていた。
辻は楽器の演奏のために体力をつけているし、老人にしてはまだまだ若々しい。
もしかすると本当に『辻秀紀、作曲家の次はダンサー』といった紙面を見る日が来るような気がした。
しかし、風間はそれを振り払った。
「さ、先生。そろそろ書いてください」
「なんだい風間君、私の夢の話はお終いか」
「夢の話はいつでもできますけど、〆切はいつでもというわけにはいきませんからね。行き詰ったのなら、路線変更してみるのも手ですよ?」
しかしやはり辻は微妙な顔をした。このあたりだけ微妙に頑固者だから風間は苦労するのだ。
「しかしねえ、今のコンクリートジャングルより、昔の里山を好む人がいるように、私も新しいものより、古いものに美学を感じているんだよ」
「それはそうですけど。でもいいですよ、僕は先生の書きたい曲を書いてくれればそれでいいですし、先生の書いた曲の良いところだけ盗んじゃいますから」
「おいおい」
少々の談笑の間があり、少しの沈黙が狭い部屋を包んだ。
と、その時だった。
「……そうだな、良いところだけ盗めばいいんだ」
辻は誰に言うでもなくそういった。
「先生、盗作はよくありませんよ」
「そうじゃないんだよ風間君。私はさっき、ダンサーになってみたいと言ったね」
風間は「ええ」とうなずく。
「私は古いものが大好きだ。だが、ああいった発言があったように、私の感覚はすでに新たな時代を生きている。コレがどういうことだかわかるかね。
古いものにしがみついていれば、ずんずん進む時代に引っ張られて、引きちぎられてしまう。
確かに古いものは良い物だ。だが、それだけでは「新たな時代の感覚たち」を響かせることはできないんだ。
なにも、全部真新しいものに変えなくたっていい、それを融合させればいいのさ。
私と言う老いぼれに、古い感覚と新しい感覚が混ざり合っているようにね」
「先生はうらやましいですね、いくつになっても何かを学ばれる」
「当然さ。新たな感覚を手に入れなければ良い曲は書けない。その新たな感覚で、古い曲を作ればいいだけのことだったんだ」
風間がにやけ顔を浮かべてどっしりと山のように大きく見える背中を見守る中、辻は五線譜の上に音符を紡いだ。
コーヒーの匂いは、開けた窓からの秋風と混ざり合い、ほのかな香りを部屋にもたらした。