傘は無くとも雨は止む
雨とは往々にして、人の心を曇らせるものである。濡れたくないが故のむず痒さから始まり、それはイラつきへと変わる。しかもそれは人為的なものでないので、地域にもよるがたいていの人類には平等に降りかかってしまう。
だが、むしろ雨がすきという人間もいる。しかしそれは、彼らがあるものを持っていることを前提とした話だろう。
傘である。
「……お前も持ってねえのかよ、おい」
「今日、午後から降るなんて言ってたっけ?」
土日に昼飯を食いに出かけた後、どうしようもなくなった二人。岡田の島橋は顔を見合わせてため息をつく。
「そういうところだぜ島橋、ちゃんと持って来いよ」
「……別に持ってきてもお前は入れてやんねえよ」
「でた、そういウ人」
「ぶっ殺すぞ」
帰り際に降ってきたので店の前で立ち往生。このまま止むまで待つわけにも行かず、二人がだんだんと不機嫌になっていくのが周囲からでも分かる。
どうしようもなく思った島橋はパーカーのフードをかぶって岡田に言う。
「よし、もう濡れるの覚悟で走って帰ろうぜ」
「ふざけんなよ、この服買ったばっかだから濡れんの嫌なんだよ。お前だってその上着濡れるのやだろ」
「あー……まあなぁ……」
二人揃って立ち往生。しかし、ふと隣を見れば営業中のコンビニがあった。まさに地獄に仏、雨天にコンビニ。あそこでビニール傘を買えば、二人平和に帰れるというもの。
「おい島橋、あそこのコンビニで傘買ってこようぜ。幾らある?」
「えーっと、七十円。正確には七十三円」
島橋の頭を叩く岡田。しかしそういう自分も、財布を覗けば二十円。岡田の頭を叩く島橋。
「そもそもお前と飯食ったらすぐ帰るつもりだったからなァ……。ちょっとしか持って来てねえよ」
「二人揃って百円にも満たないことってあるんだな。すげえな」
こんな状況、後の笑い話にでもなるだろうが、大切なのは今現在。二人が頭を抱えていると、そこに救世主が現れた。
「……岡田と島橋。なにしてんの」
突如雨の中から聞こえた声に前を向くと、傘を持ったジャージ姿の男が立っている。
二人の幼馴染、丁辺助だ。
「おお、辺助!! 丁度いいところ来たな、さすが辺助!!」
「なんだよ「さすが辺助」って。でも本当にグッドタイミングだよ」
辺助は首をかしげると傘をたたみ、二人の隣に立った。やはり幼馴染なだけあって、話の一つでも聞いてやるつもりらしい。
「いやあ実は俺も岡田も傘忘れてさ。そんで金もないの。悪いんだけど辺助、隣のコンビニで傘二本買ってきてくれよ、金は今度返すから」
「あー、俺も金ない。煙草買おうと思ったら近所の自販機売り切れだったから遠出しただけ。小銭しかないよ」
「お前もかよ……何でお前だけ傘持ってんだよ!!」
「曇ってたら念のため傘くらい持ってるのが常識だろ」
正論。雨の日に立ち往生するしかない二人にはぐうの音も出ない言葉であり、また二人に青筋の立つ言葉でもあった。
岡田は悪巧みをする時の笑い顔を浮かべると、辺助の肩をがっちりと掴む。
「……そうだ辺助、お前この前金貸したよな。金はいいから、その傘よこせや」
「え、マジで。辺助、お前岡田に金借りてんの?」
辺助は傘についた水滴を振るいながら首を縦に振る。
「うん。三百円」
「うっわぁ、相変わらずみみっちぃ……」
「な。コレが千円とかならいいけど、三百円くらいでそんなこと言わないよな。まあ別にいくら借りてても貸さないけど」
「うるせえバーカ!! ほらさっさとよこせよ!!」
岡田が勢いよく伸ばす手を辺助はひょいとかわす。
「無理、煙草が濡れる。お気に入りの銘柄だし普通に吸いたい」
そういって辺助は「BASE HUMAN」のロゴの入ったケースをちらつかせる。さっそく一本つまみ出すと、銀メッキのはがれたジッポライターを取り出して火をつけた。
そもそも煙草をもとから吸わない島橋ならまだしも、禁煙中の岡田の隣で吸ったのがまずかった。
「お前学生のときからずっとそんな感じな。……おい岡田、諦めて濡れて帰ろうぜ」
「嫌だよ」
岡田は意地でも辺助一人を置いてここを動く気は無いらしく、また濡れるとしても辺助を道連れにするつもりだ。
島橋はこうなるとてこでも動かないことを知っていたので、声にならない怒り声をあげて頭を掻きむしる。
「っあああッ じゃあもう俺だけで帰るぞ!? ……辺助、俺とお前家近いからさ、近くまで傘に入れてってくれよ」
そのまま帰ろうとする島橋。
が、しかし。
「は、いやだよ。男同士で相合傘とか気持ち悪い」
「……は?」
「嫌だっつったんだよ。気持ち悪い」
辺助の一言が何かしらの地雷を踏みぬき、島橋の怒りが突如爆発した。それは岡田以上である。
「お前そのくらい貸せよ!! いや、貸さなくてもいいから一発殴らせろ、なあ!!?」
「お、落ち着け島橋。辺助はそういう奴だろ」
「うん。俺、そういう奴だから諦めて」
「腹立つこいつ!!!」
辺助は再び傘を差すと、二人より一歩前に出て振り返る。
「じゃあ、俺帰んね」
「……え!?」
辺助はジャージから携帯灰皿を取り出し、煙草の灰を落として息を吐く。煙草の煙か、あたりの気温か、息は白かった。
「うん。別にお前らと話すために来たわけじゃねえし。帰って仕事してえし」
「……お前仕事何してんだよ」
「……なんか、ホワイトハウスの奴」
「百パー嘘じゃねえか」
そのまま帰ろうとする辺助の肩を、珍しく岡田と立場が逆転している島橋の手ががっしりと掴む。
「待てよ……勝ち逃げなんてさせねえぞ……?」
「……いや、別に俺お前らに勝ってねえよ」
「賭けにしようぜ!! じゃんけんだ!! 勝った奴が傘を持って帰る!!」
辺助は当然「やだ」と返事を返して帰ろうとするが、辺助に先ほどイラついた岡田もそれに賛同したのか二人で辺助を引きずり込んだ。
「おら、ジャンケンだ」
岡田は言いだしっぺの島橋より乗り気になったようで、妙に力んでいる。
「っしゃやるぞぉ……! 悪いがお前ら、この勝負俺の勝ちだぜ。俺はじゃんけんに関しては負けたことねえからな……!! お前らなんかにあいこはねえ、一発で勝負を決めてやるぜ!!」
岡田の声で三人は同時に右手を振り上げ、そしておろす。
ぐー。ちょき。ちょき。
「はーっはっは!! 見ろ、俺はじゃんけんに関しては負けねえんだよ!!」
「……流れ的にお前、絶対負けなきゃ駄目だろ。な、辺助」
「うん」
しかし勝負は勝負。岡田は傘を辺助の手から奪い取り、それを差して先ほど辺助がいた場所に一歩出た。島橋は笑って岡田に手をあげる。
「よし岡田、じゃあ俺も入れてくれよ。さっさと帰ろうぜ」
「は、なんで? 勝ったの俺だろ?」
「……え、バカかお前!!?」
島橋の言葉に混乱したように戸惑う岡田。島橋は岡田を再び揉め事の中枢に引きずり込むと、胸倉を掴みあげた。
「今は、お前と俺で結託して、辺助をこらしめる流れだろ!!?」
「……あ、そっか。というわけで島橋、帰ろうぜ」
「おせえよ!! ……辺助、こいつ、こういうところ酷いよな」
「酷い。自己中心的だな」
岡田は二人の言葉でさらにイラついたのか二人に強引に傘を差し出した。
「そこまでいうことねえだろ!! じゃあもうこの傘で二人揃って仲良く帰れよ!!」
岡田はそういって島橋と辺助に傘を押し付けたが、二人は揃っていやな顔をする。
「は、俺は相合傘とか嫌だっつってんだろ」
「俺だってコイツと帰りたくねえよ!!」
どこに行っても行く先は泥。さらに雨のせいで湿気が多い空間に隔離されたストレスが三人を逆なでし、とうとう全員の何かしらのスイッチが入ってしまった。
「あーはいはい、じゃあもうこうしようぜ!! 今から殴り合って最後まで立ってた奴が傘を持って帰るデスマッチ!!」
「一番意味わかんねえよ!!」
「もういいからさっさと返せよ。俺仕事あんだよ」
傘を差そうとする辺助から、島橋が傘を奪い取る。
「どうせ嘘だろうが!! そもそもてめえの性格がひん曲がってんのがすべての元凶なんだよ!!」
「は、お前に「性格がひん曲がってる」とか言われたくねえんだけど。な、岡田」
「それはそうだな」
「デスマッチ始めんぞこらァ!!」
もめにもめあう三人。しかし、その三人がとうとう本当にデスマッチを始めようとしたとき、妙にあたりが明るくなった。
見れば雨粒は止み、かすかではあるが雲の隙間から日光が照っている。
雨が止んだと分かると、三人は妙な脱力感と同時にやり場のない怒りに包まれた。
「……チッ 時間の無駄だった」
「あ? なんだよ辺助その言い方は」
「もうお前の誘いとか乗ってやらねえからな!!」
辺助は「俺だって」と舌打ちすると、突如ジャージの中から聞こえた通知音に反応して携帯電話を取り出し、その画面を見てまた舌打ちした。
「……おい、お前ら家帰ったら金あんだよな。……来週、俺んち来いよ」
辺助に背中を向けて帰ろうとした二人は、けんか腰に振り向く。
「はあ? お前よくそれ言えたな? もうお前とは遊びになんか行かねえんだよ!! な、島橋」
「おう、一人で行けば!?」
今にも帰ろうとする二人に、辺助は自分の携帯の画面を見せ付けた。
それを見て二人は目を丸くする。
「……なんか、この前の仕事先のお礼でハワイ旅行だってよ。俺と岡田と島橋で来いって、来る?」
青空も見え出した空に、多少キレ気味で「行くよ」と二人の声が響いた。