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第二話 崩壊均衡

 本棚に目を向け、『解読書』を探し始めてから五分ほどが経過した。


「なんというか、拍子抜けするくらいあっさりと見つかりましたね……」


 呆れを交えて嘆息したぼくの手の中にあるのは、まごうことなき『風の解読書』。

 ぼくがここにやってくる前から『風の書』を探していたイリスは「あはは……」と漏らし、


「わ、私もあなたがやってくるちょっとだけ前に、探し始めたばかりだったものだから……」


「どこまでが真実かはわかりませんが、まあ、そういうことにしておきましょう」


「む、なんか引っかかる言い方。……でも、そうね。早いところ外に出ないといけないものね、私の場合は」


 ぼくのほうへと、そのなめらかな手を差しだしてくるイリス。

 『風の書』を渡すときに、その指が一瞬だけ手に触れてしまい、思わずぼくは赤面してしまう。

 しかし、彼女のほうは微塵も意識なんてしていないらしく、


「どうしたの?」


 などと不思議そうに顔を覗き込んできた。


「いえ、どうもしていません。あと、顔が近いです……!」


「もう、またそれ? 本当に細かいことを気にするわね、レオは」


「細かくないです。これは普通の反応です」


「そう? ルアルドは気になんてしてなかったけど……」


「ルアルド?」


 首を傾げるぼくに、彼女は少しだけ嬉しそうな笑みをみせる。


「ええ、フルネームはルアルド・デベロップ。私の……『たったひとりの仲間』」


 感慨深げに紡がれた『たったひとりの』という言葉に、少しだけ胸がざわついた。

 同性だろうか、それとも異性なのだろうか。

 そんなことを、どうしても考えてしまう。


「もっとも、もう二度と会うことは叶わないのだけれどね……。――さあ、行きましょう」


 少しだけ寂しげにつぶやかれ、安堵とも嫉妬ともつかない感情がぼくの中に駆け巡る。

 直感が……告げていた。

 いま彼女が口にしたことは、すべて真実で。

 ルアルドという名の人物は、男性で。

 そして、彼女はその男性に恋心を抱いているのだ、と。


 ぼくの直感は昔からよく当たるものだから、気の迷いと切って捨てることもできやしない。

 まったく、我ながら困ったものだ。

 そんなことを考えながら、イリスに促されるままに歩を進め、階段を上る。

 そして気づけば、ぼくが最初に『異質な魔力』を感じた場所まで戻ってきていた。


 そうだ。

 この『異質な魔力』。

 魔力に似て非なる、この『力』の痕跡を追っていって、ぼくは彼女と出会ったのだ。

 ならば、この『力』の持ち主は――


「さて、じゃあそろそろ、もうひとつの目的のほうを果たすとしましょうか」


 ぼくのそんな思考をさえぎって。

 イリスは、指で魔道学会本部の中庭のほうを指し示し。

 ぼくへと挑戦的な視線を向けてきた。


「やはり、諦めてはいませんでしたか……」


「当然よ。多少、手荒な手段に訴える必要が出てくるかもしれないから、あちらのほうに場所を移しましょう?」


「ぼくとりあうつもりでいるのですか? それは……無謀というものですよ」


「あら、人間ひとを見た目だけで判断するものじゃないわ。いまは抑えているけれど、私の内にある『力』に気づけていないあなたではないでしょう?」


「それは……」


 確かに、詳細が不明なままの『力』と戦りあうのは危険が伴う。

 だが、どう注意深く観察してみても、イリスはどこにも武器を隠し持っていない。

 ということは、得意とするのは魔術のほうか。

 そちらでは、間違いなくぼくのほうが遅れをとるだろう。

 それになにより、ぼくは彼女に本気で剣を振るえるだろうか?

 この精神状態で、ためらいなくイリスを斬り伏せられるだろうか……?


 しばしの間をおいて、ぼくは話題をすり替えることを選択した。

 断じて『逃避とうひ』のみを目的とした行為ではない。

 事実、彼女の行動には、少しばかりの疑問を覚えているのだ。


「その前に、ひとつよろしいでしょうか?」


「ええ、かまわないわよ。でも、中庭のほうに移動しながら、にしましょう?」


 ぼくとは違って、イリスは急いでいる。

 魔族に見つかることが目的であるぼくと、一刻も早く逃走しなければならない彼女は違うのだ。

 だというのに、なぜ彼女はここまで余裕たっぷりに落ち着き払っていられるのだろうか。

 しかし、それは些細な疑問だ。訊くべきことは他にある。


「貴女はあそこから『風の解読書』を持ちだしました。それはフロート公国にとっては大きな損失になるでしょう。しかし貴女にとっては、それだけでは足りないはずです。『聖本』を完全に解読するためには、他の五つの『解読書』も手に入れなければならないのですから。

 なのに貴女は、なぜかもう一冊の『解読書』――『水の書』を持ち出すことはしなかった。……なぜです? これでは『聖本』の完全解読ができません。『解読書』は『聖本』の解読を目的としない者にとっては無用の長物ちょうぶつ

 貴女の行動は矛盾しています。『解読書』がこの建物にあると知って忍び込んできた以上、貴女には『水の書』を放置する理由など存在しないはず」


 むろん、ただフロート公国の王に損失を与えたいだけだった、という可能性は依然いぜんとして残るのだが。

 中庭へと歩を進めながら、彼女は「存在しないはず、と言われてもねえ……」と肩をすくめた。


「言ったでしょう? 私は『風の書』を『ある人物』に渡さないといけないんだって」


「ある人物、とは?」


「それを言うことに意味があるとは思えないけど……。『セレナ』っていうエルフよ。彼女に渡して、スペリオル・シティまで持っていってもらう必要があるの。要するに、私が『風の書』を必要としてるわけじゃないのよ、私はただの運び屋ってわけ」


「それを命じたのは?」


「これは私の独断でやっていることだから、そういう人物はいないわね。それに六つの『解読書』が揃ってしまうのは、あまり歓迎できることではないのよ。だって、人間が扱うべきではない魔術や、人間がるべきではない事柄がたくさん載っているのだもの。

 いま存在する三国さんごくのどこで揃おうとも、絶対に国家間のパワー・バランスが崩れ、面白くないことが起きるわ」


「つまりは、戦争が起こると?」


「戦争で済めばいいほうね。最悪、世界が滅んでしまうかも。だって、『聖本』には『魔王を完全な形で復活させる方法』まで載っているのだから。人間は、魔術を使うのと同じ感覚で魔王の召喚を行いかねないのよね……」


「そんな人間ばかりとは限りませんよ」


「それはそうなんだけどね。でも、魔族にそそのかされて魔王の復活を実行に移した人間が、現実にいるものだから……」


「それは……」


 確かにそんな一件があったな、とぼくは口ごもってしまう。

 そんなぼくを見て、イリスは「それに、ね」と重ねてきた。


「『聖本』から完全な知識を得るべきでないのは、人間だけに限ったことじゃないの。神族も魔族も、わたしたちも、みんな同じ」


「……いま、なぜ自分をさりげなく『人間』の枠から外したのですか? 貴女もぼくと同じ人間でしょう?」


「いいえ、私は人間じゃないわ。あなたたちが『最高神』としている聖蒼の王ラズライトスペリオルよりも、さらに上位に位置する存在――『神格』を得た『天上てんじょう存在』だから」


「『神格』を得た、『天上存在』……?」


「ええ。界王ワイズマンの本体や、『闇を抱く存在ダークマター』と同じく、ね。さて、もう疑問はないかしら? なければ本題に戻りたいのだけれど」


 気づけば、ぼくたちの足はとうに歩みを止め。

 ひらけた中庭の中心で向かい合っていた。

 交差する、イリスの赤い瞳と、ぼくの青い瞳。

 あるいはそれは、第三者からしてみれば『見つめあっている』ともとれるのだろうか。

 けれど、ぼくたちの間には甘い言葉などひとつもなく。


「交換条件を提示したいと思うのよ、私としては。『神』とは見守り、与えるもの。少なくとも、奪い取るようなやり方は私の趣味じゃないから」


「そういえば、先ほど確かに『交渉』と口にしていましたね、貴女は」


 腰の斬魔輝神剣シャイニング・ブレードに手をかけながら一歩後退するぼくに、イリスは「うんうん」と満足げにうなずいて。


「その剣はね、あらゆる魔をつ、特殊な神剣しんけん。この世界の時間でいうところの『およそ十七年前』に、『エリュシオン』から召喚という形で持ち去られた、この物質界にるべきではない伝説級の魔道武器スペリオルなの。

 いまは、使い手があなただからいい。でもね、常に心清き人がその剣のにない手になってくれるわけじゃない。だからその剣は、いまのうちに回収しておく必要があるのよ」


 一息にそこまで口にしてから、彼女はピッと人差し指を立ててみせる。


「そこで、私から提案。その剣を返してもらう代わりに、『この物質界にあっても、まあギリギリ大丈夫かな』ってレベルの剣をあなたにあげるわ。もちろん、並の剣じゃない。もっとも有効となるのは竜に対してだけど、魔族にも充分に効果のある魔剣よ。めい斬竜剣ざんりゅうけん


「……なるほど、悪い話ではないと思います。しかし、この剣は魔族に対する手段であると同時に、『エリュシオン』へと辿りつくために必要と思われるもの。やはり、ぼくの一存で手放すわけには――」


「ええ、そう言うと思ったわ。それに、いくら強力な魔剣であっても、斬魔輝神剣に比べればランクが落ちるというのも、また事実。

 だからね、出血大サービス。今回は斬竜剣の他に、ちょっとした特殊能力もプレゼントするわ。それはね、『アーカーシャー』へのアクセス権限。まあ、非常に限定的なものにはなるけれどね」


「『アーカーシャー』?」


「別名、『創造主の頭脳』。過去、現在、未来、その『すべての事柄』が記録されているモノのことよ。今回与えようって能力は『限定的なもの』だから、そこまで多くの事柄を引き出せるようにはなれないんだけど、とりあえず私とはいつでもコンタクトがとれるようになるから」


 それはつまり、斬魔輝神剣を返却しても、『神』と名乗るこの少女との縁が切れずに済むということだ。

 そしてそれは、『エリュシオン』へと繋がる道が閉ざされないことを意味する。

 ぼくは、この剣のみに頼って魔族と戦ってきたわけではない。

 それに、斬竜剣というものにも少なからず興味はある。

 で、ある以上……。


「あら? どうやら乗り気になってくれたようね?」


「まあ、少しばかり丸め込まれた感はありますけどね」


 言葉と共に漏れるのは、苦笑。

 それに安堵の表情を浮かべた彼女は、数歩、ぼくのほうへと歩み寄ってくる。


「じゃあ、ちょっと目をつむってもらえるかしら? 『アーカーシャーの管理者』のひとり――エリスフェールへの橋渡しをさせてもらうから」


「それは、ぼくにアクセス権限とやらを与えるためであって、他意はないんですよね?」


「当たり前でしょう? ほら、早く」


「……わかりました」


 目を閉じると、自分の胸の鼓動が感じられた。

 平常時よりも、明らかに速い。

 普段に比べてさらに研ぎ澄まされてしまった感覚が、イリスの顔がすぐ近くにあるのだと伝えてくる。

 お互いの息すらかかりそうなほど、近い距離。


 鼓動はさらに速まる。

 そして、それをたしなめるかのように、彼女の人差し指が額に触れた。

 少し、ひんやりとした感触。

 けれど、温もりを感じられる、その指先。

 人間のものとまるで変わらない、その温度。


 どのくらいの時間、そうしていたのだろうか。

 不意に少女の、


「――アクセス」


 というつぶやきが、耳に届いた。

 瞼の裏側に、まばゆく輝くなにかが映る。

 それは、星々を連想させるような光の粒だった。

 宙に浮かぶ、数え切れないほどの光の粒。

 無数にまたたくそれらは、やがてひとつの形を成し、ぼくの心を……魂を引き寄せる。

 触れれば、その光の粒が記録している事柄ものが手に入るのだと、ぼくを誘う。

 それに、思わず手を伸ばそうとし――


「はい、完了。これであなたは、自分が深く関わっている記録に限り、『アーカーシャー』から、それを読み取ることができるようになったわ」


 イリスの声で、現実に引き戻された。

 そして目を開けたぼくに、息もつかせぬ勢いで説明を浴びせてくる。


「たとえば、私がどこかであなたのことを考えたとする。それをあなたは『アーカーシャー』にアクセスすることで知ることができるの。私があなたに対してどんなことを思っていたのか、過去にさかのぼって余すところなく、ね。

 もちろん、これだと『いつでもコンタクトがとれる』っていうことにはならないから、あなたが私のことを必要としたとき、私は必ずあなたに意識を向けるようにするわ。

 そうそう、記録を引き出すために関わった相手がこの世界に存在しているのなら、どこにいるのかだって瞬時に特定することができるからね。上手く活用できれば、こっちもなかなかに有用かも」


「つまり、相手の知識や思考、現在地に至るまでを芋づる式に、しかも自在に知ることができるってわけですか?」


「ええ。あなたと深い関わりがあるのならば」


 なんだか、思わぬ拾い物をした気分だった。

 頭には、釣り合っていないのでは、なんて思考さえ浮かんできてしまう。

 そう、釣り合わない。

 『物質界に在るべきではない』剣であっても、斬魔輝神剣とこの『能力』とでは、釣り合いが取れていないと思うのだ。

 この『能力』が、『ちょっとした特殊能力』などと称されていたものだから、なおのこと。

 あるいは、ぼくが引き出せずにいただけで、本当はとんでもない『力』が斬魔輝神剣には隠されていたのかもしれないけれど。


 でも、少しばかりの期待があった。

 相手がぼくだったから、『アーカーシャーへのアクセス権限』などという特別なものを与えてくれたのでは、という淡い期待が。

 だから、ぼくは問う。

 少しばかりの期待の感情を込めて。


「あの、二つほど質問させていただいてよろしいでしょうか?」


 ぼくが考えごとをしている間に彼女は、一体どこから取り出したのだろう、緑色の刀身を持つ一振りの剣を手にしていた。


「なにかしら? もう疑問に思うことはないと思う……あ、この剣はね、『エリュシオン』にある『保管庫』から取り出したのよ? 私の手から離れたらすぐに消えちゃうとか、そういうことは絶対にないから安心して」


「そういう心配はしていません。この短い時間の中でも、貴女の人柄はよくわかりましたから。ぼくが訊きたいことというのはですね、なぜ、ぼくにここまでしてくれるのか、というものです。貴女が神だということを頭から信じるにしても、やはりこの交渉はぼくに利がありすぎると思いましたので」


「ああ、そのこと。それはあなたが『均衡者バランサー』だからよ。斬魔輝神剣を正しく用い、いままでこの世界の平和を守るべく尽力してくれていたから。だからこその出血大サービス。そもそも『均衡者』が担い手になっていなかったら、この剣、召喚されたと同時に回収するつもりでいたのよ?」


「なるほど、だから回収されずに済んでいたわけなのですか……」


 どうやら、ぼく個人に対してなんらかの感情を覚えてくれていたとか、そういうことはまったくないようだった。

 その事実には少し落ち込んだが、会ったばかりの相手に過剰な期待をし過ぎただけだと思いなおす。

 ぼくの落胆に気づいているのか、いないのか、彼女は機嫌よさげにうなずいてみせた。


「そういうことね。……それで、もうひとつの訊きたいことはなにかしら? 二つあるって言ってたけど」


「ええ、なぜいまになってこの剣を回収しにきたのか、と問うつもりでいたのですけどね、手間が省けました。幸か不幸か、もうひとつ尋ねておきたいこともできてしまいましたし」


「それは、どちらかというと幸いね。よかったじゃない、『二つ』って前置きしておいて」


「そうなんでしょうかね……。それで、改めて二つ目の質問なのですが、いま言っていた『均衡者』とはなんなのでしょうか? ぼくの姉あたりなら、あるいは知っているのかもしれませんが、あいにくと耳にする機会がなかったもので……」


「聞いたことがないのは当たり前よ。この『物質界』に住まう者で、この単語を知ってる者なんて、せいぜい『本質の柱』に辿りついた『真理体得者』くらいのものだもの」


「では、貴女はなぜそれを知っているのですか?」


「言ったでしょう? 私は『神格』を得た『天上存在』だって。俗にいう『神さま』ってやつね。

 ああ、といってもイコールで『本質の柱』に辿りついた者ってわけじゃないのよ? あれは『創造主の精神』。残念ながら、私では近づくことしかできなかった。ルアルドは、なにか勘違いしていたようだったけどね……」


 ――ルアルド。

 その名が彼女の口から出るたびに、ぼくの胸はざわついてしまう。

 それは、嫉妬の感情からくるものなのだろうか。

 それとも、彼女が寂しそうに笑うことに起因きいんしているのだろうか。

 微笑をそのままに、金色の乙女は続ける。


「ごめんなさい、余計なことだったわね。それで、『均衡者』というのは――」


 しかし、彼女の言葉は途中で止まった。

 どうしたのだろう、と疑問に思い。

 その理由を、ぼくは一瞬遅れて理解する。


 ――殺気だ。

 ぼくたちに向けられている、濃密のうみつこのうえない殺気。

 息が詰まるような……否、常人であれば失神しているであろう、死の気配。

 気づけば、ぼくの額にも汗が浮かんでいた。


 ……ありえない。

 じりじりと後退しながら、そう思う。

 ぼくは仮にも皇帝騎士団インペリアル・ナイツの一員なのだ。

 並の魔族であれば逆に圧倒することができ、高位の魔族とも互角に渡りあった経験がある。

 そのぼくを退がらせるほどの殺気を放てる存在なんて、片手の指で数えられる程度しかいないはず。


 で、あれば。

 相手は人間ではありえない。

 この殺気は、人間に放てるものではない。放てていいものでもない。

 おそらく相手は、高位魔族よりもさらに上位の存在。

 漆黒の王ブラック・スターの配下である四体の魔王――『魔王の翼デビル・ウイング』のいずれかか、あるいは……。


「――さすがは天上存在。この程度の魔気まきでは震えもせぬか」


 そんな言葉と共に。

 ぼくを後退させた存在は、静かに中庭へとおりてきた。

 歳の頃は三十代半ばといったところだろうか。

 腰まで届く髪は銀色。

 ぼくと同じく青い瞳は、冷酷さを感じさせる一方で、どこかえと澄んでおり。

 堕ちたる者の証ともいえる黒い鎧を着込んでいてもなお、誇り高い騎士の姿を幻視げんしさせた。


 彼の手に握られているものは、なにもない。

 それはつまり、無意識のうちに腰の剣――斬魔輝神剣へと手を伸ばしたぼくとは違い。

 その両の瞳だけで、あるいは彼という存在がそこに在るという事実だけで、あれほどの殺気を放ったということ。


 なんという力量の差か。

 これが魔族の――否、広義こうぎに『魔王』と称される存在の持つ圧力なのか。

 奴の正体は……特定できない。

 ぼくの知識にある限り、広義の意味で『魔王』と呼ばれている存在は、漆黒の王を除いて、全部で五体。

 すなわち、『魔王の翼』と称される四体と、それを束ねる漆黒の戦士カオス・ナイト――デューク・ストライドという名の魔族。


「――天上存在よ、ひとつ問おう。その『風の書』、大人しく私に渡す気はないか?」


 男の声が夜の大気を震わせる。

 問いかけられたのはイリス。

 そうだ、人並み外れた力を持っているぼくですら震えを抑えるのに必死になっているほどなんだ。

 彼女のほうだって、よほど――


「あら、意外。選択肢を与えてくれるとは思わなかったわ」


 イリスは、震えていなかった。

 必死に抑え込んでいるようにも感じられない。

 先ほどまでと変わらない自然な動作で、ぽいっと斬竜剣を放り捨てる。


「でも、ごめんなさい。この書を渡すという選択肢はね、私の中には初めから存在してないの」


 地に落ちる前に溶け消える斬竜剣。

 それを目で追うこともせず、両者は問答を続けていく。


「そうか。ならば力ずくで、ということになるが……文句はないな?」


「もちろん。そちらこそ、二対一だからといって慢心しないようにね?」


「なるほど、言われてみれば数の利はそちらにあったな。もっとも、その男が戦力になるかは怪しいが」


「あら、そうかろんじるものじゃないわよ。こういうタイプの人間はね、窮地きゅうちおちいると化けるものなんだから」


「……ほう。外見で騙し、利を得るはこちらの常道じょうどう。それは汝らにも当てはまるというのか」


「失礼ね。レオはともかく、私は見た目どおりのか弱い女の子よ?」


「確かに、私の魔気を受けても平然としていられるくらいには、か弱いようだな。――さて」


 これ以上続けても無意味と感じたのか、はたまた、いまのやりとりはただの余興のようなものだったとでもいうのか。

 こちらに背を向け、男は天を掴もうとするかのように右手を伸ばした。

 弱まる圧力。

 ぼくは弾かれたようにイリスのほうへと駆け寄り、問う。


「大丈夫ですか!? いまのうちに――」


 逃げる算段を整えましょう、と言う前に。

 彼女の指先が口許に当てられ、ぼくは思わず言葉を呑み込んでしまった。


「な、なにを……!?」


「言っておくけど、私に逃げる気はないわよ? あと、やせ我慢もしていない。大丈夫、勝機は充分にあるから」


 ぼくを、あるいは自分自身を勇気づけるように、ぱちりとウインク。

 それから彼女は真顔に戻って、男の正体を告げてきた。


「彼はね、漆黒の戦士デューク・ストライド。現時点においての、魔族のトップね。魔族に堕ちる前は、気高く誇り高い騎士だったわ」


「……道理で、敵う気がしないはずです。あれには――いえ、漆黒の戦士ではなくとも、『魔王』のいずれかと戦うときには、決して単独では挑まないようにと、姉上に強く言われてましたので」


「あら、そうだったの。よかったじゃない、今回は私がいて。もっとも、あちらも戦力を増やすつもりでいるようだけれど」


「『魔王の翼』をすべて呼ばれたら、ぼくたちに勝ち目はありませんよ? 情けないとは思いますが、それだけは断言できます」


「大丈夫、私にも断言できることがあるわ。デュークはね、かつて高潔で誇り高い騎士だった。そして、その『本質』は、堕ちてもそうそう変わりはしないものなのよ」


「それは、つまり……?」


「部下を呼ぶとしても、それは一体のみに留めてくれるということ。二対二で公平に戦いましょうってね」


「魔族相手にそんな理屈がとおるとは、とても――」


「まあ、実際に戦ってみればわかるわよ。……と、そうそう、斬魔輝神剣のことなんだけど、この戦いが終わるまでは持ち出しを『正式に許可』してあげるわ。

 これで性能をフルに使えるようになったはず。あとはあなたさえその気になれば、『魔王の翼』の一体くらいはなんとかなるわよ。デュークのほうは私が引き受けるから」


 やはり斬魔輝神剣には、秘められている『力』があったようだ。

 それについて尋ねると、打てば響くように答えが返ってくる。


「一言で言うなら、階層世界への干渉能力。別の階層に刀身を移動させ、瞬時にこちらへと戻す能力ね。……まあ、習うより慣れろっていう言葉もあることだし、実戦で試してみたほうがわかりやすいと思うわ。たぶん、現象としてはあなたも知っているものでしょうから。主に、高位の魔族が使う戦法として、ね」


「なんとも不安の残る言葉ですね……」


「大丈夫。魔族と何度も戦ってきたらしいあなたなら、本当にすぐ慣れることができるわよ。私が保証する。――さあ、あちらの体勢もそろそろ整いそうよ。気合い入れて」


「了解です。……本音を言えば、体勢が整う前に仕掛けたかったですけど」


「――ほう? 仮にも騎士を名乗る者が騙し討ちを画策かくさくするか? であれば、騎士の質もずいぶんと落ちたものだ」


 声を投げかけてきたのは、言うまでもなく漆黒の戦士デューク・ストライド。

 彼は肩越しにこちらを向き、あざけるような笑みを浮かべていた。

 カチンときて、ぼくは思わず言い返す。……彼の持つ圧力が、自分に微塵も向けられていないことに、気づくことなく。


「黙れ。魔族である貴様が騎士道を語るな。空間を渡り、知覚もできないうちに心臓をえぐり取る。それが貴様等の基本戦術だろう」


しかり。それが魔族の――否、階層世界を行き来できる存在ものの基本戦術だ。それは人間が手足を用いて戦うのとなんら変わらん。私たちを卑怯とそしるのならば、汝も手足を使うことなく戦ってみるがいい」


 クッと笑い、彼はこちらに向きなおる。

 その右手には、夜空の色を凝縮したかのような闇色の剣が握られていた。


「そも、汝の持つ剣とて、私たちと同じく、空間を超えて斬りつける能力を持つものだろう? 私たちが卑怯と謗られるのであれば、汝もまた卑怯者だ」


 なにを、と再び口を開こうとしたところで、男の発した圧力に押し潰されそうになる。

 そして、見た。

 緑髪の女性が、デュークの隣に現れるのを。


「――遅いぞ、シルフェス」


「申し訳ありません。とはいえ、これには事情が……いえ、なにを口にしようと言い訳にしかなりませんわね。それで私はこのたび、なにをすればよろしいのでしょうか?」


「そこの天上存在から『風の書』を奪い取る。お前は傍らにいる少年の相手をしてやれ」


「よもや、数合わせのためだけに呼ばれたのですか? この大事なときに……」


「そう言うな。『水の書』はすでに私が手中に納めた。あとは――」


「なんですって!?」


 驚愕の声をあげたのはイリスだった。


「しまった……。レオがさっき言ってたとおり、『水の書』も押さえておくべきだったようね。まあ、過ぎたことを悔やんでも仕方ないわ。レオ、あの私たちと色々な意味で対極な髪色の魔族を倒して、なんとか『水の書』を取り戻しましょう!」


「色々な意味で、とは?」


「ほら、私たちは金髪で、デュークは銀髪じゃない。見事に対極。あ、でもプラチナ・ブロンドって言い直せば、少しはマシかしら?」


「なにげに余裕たっぷりですよね、イリスって……」


「……あのね、私は思うのよ。神であれ人間であれ、余裕を失ったらおしまいだって。……まあ、我ながら少々おちゃらけすぎたとも思うけれど」


「……ともあれ、ぼくはシルフェス――『魔王の翼』の一翼いちよくである魔風王ダーク・ウインドの相手をする。イリスはデュークを撃退する。これでいいですか?」


「ええ。お互い、死なない程度に頑張りましょう」


 まったくだった。

 これは遊びではない。

 命をして行う、『戦い』なのだ。


「じゃあ、さっそく結界を……って、もう張られてる? 人払いのためと、間違っても周囲には被害が及ばないようにするため、その両方の効果を持つものが?

 ……なるほどね、思ってた以上に紳士しんしじゃない、デューク。本当、惜しい人間が堕ちてしまったものね」


 心の底から残念そうにイリスはつぶやき。

 ぼくから距離を大きくとって、デュークと丸腰のまま対峙する。


 そして、ぼくもまた。

 彼女の安否あんぴを完全に頭の中から追い出して。

 思考回路を、戦闘用のそれに作り変えた。


 心の奥深くで鳴り響く、カチリとスイッチの入る音。

 排除すべきは、空間を渡って目の前に現れた緑髪の女性。

 歳の頃は二十代後半といったところだろう。

 彼女が身につけているのは、僧侶が愛用していそうな緑色のローブ。

 風もないのに、そのすそは静かに揺れている。


 『魔王の翼』の一翼、魔風王シルフェス。

 姉上から、決して単独では戦うなと言われている『魔王』の一体。

 ぼくは、そんな存在と。

 勇気を振り絞り、真正面から激突した――。

ようやく次回から戦闘開始です。

今日、書いててちょっと詰まったので、このあとの展開を上手く書けるかがちょっと心配ではあるのですが、時間がかかってもなんとかお届けしたいところ。

楽しんでいただけているのなら幸いです。

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