不思議な人
前作「美しい人」の続編です。前作より長めなのでご注意を。
その言葉が耳を通り抜け、脳に達し理解が生じるまでの時間がどれほど長かったことか。だが、理解することを拒絶したのは私の心。警鐘を無理やりねじ伏せ、私は再度問いかけるという愚かなまねをしてしまった。
「今、何と言った?」
五十年近く、玉座に座っているのはだてではない。表情はおそらく変わっていないだろうが心はいまだに悲鳴を上げていた。このような動揺を抑えるのはいつ以来だろう。妃が死んだ時も、自らの死を目の前にした瞬間でさえもここまでの衝撃はなかったような気がする。
私は玉座に座る王――つまり私のことだ――をひたすら見つめる一人の青年を改めて見つめた。月のない朔夜のような漆黒の髪にその色にわずかに色を足した濃い茶色の瞳を持つ青年。臣下の礼をとることもなく立ち尽くす彼は私からその力強い視線を外そうとしない。その視線に、私は一人の女性を思い出さずにはいられなかった。
閃光のように私の前に現れ、消えていった一人の女を。
果たして女と同じ瞳をわずかにすがめて、青年は再び口を開いた。
「彼女はなくなりました。もう、ずっと前に」
今度こそ、突き抜けることなく、私の中に言葉がとどまったことを感じた。続いて全身に感じたのは虚脱感。身につけている王の服が一気に重くなったような気がした。彼女はもう、いないのだ。どこにも。最後まで私に何も与えずただ奪っていったあの女が。私の唯一が。
「オウカ……………………」
それは、私を長い間支えてきた小さな光が失われた瞬間でもあった。
彼女は不思議な人だった。
誰もが目を向けざるを得ない力量を持ちながら、自分は無能だと自嘲し、多くの人間が彼女に惹かれてもどこまでも無頓着。女性とはか弱くて、守らねばならない存在だと教えられてきたというのに、この形成されたイメージを根本からたたき壊した張本人。
「女が弱い?これを見てもまだそういうの?」
獣のような獰猛な笑みを浮かべて彼女はその手に持つ片刃の剣を私に向けた。
「貴方が知っている女が弱そうに見えるのはね、強くなる機会を与えられなかったから。もしくは、それを見せることができなかったから。よしんば少しでも強さや賢さを見せたらそれだけで男はその女を否定する。男より優れた一面を見せただけで貶しめる。それなら女は弱いように擬態するしかない」
本当に、と女は続けながら刃を鞘に仕舞った。
「男は弱いわね。女を貶しめない限り、強さを誇示できないだなんて」
彼女の足元には複数の死体が転がっていた。戦を憂いた兵士たちが彼女こそが元凶だと思い込み、彼女を殺めようと打ちかかっていった結果だった。
「では、女は強いといいたいのか?」
ふと向けた視線の先にいるのは自分もよく知る騎士の一人だった。彼は故郷の家族を思う優しい男で、彼女こそが災厄の元凶だと激しく憎んでいた。家族の元に帰ることを心から望んでいたはずなのに、今では首と胴体が分かたれ、むき出しの地肌の上に転がっている。
「女にも弱い人間はいるわ。だけど」
わずかに強い光を宿す目をすがめる。まるで、猛禽類が獲物を見定めた時のような狩人のまなざし。
「男だとか女だとか関係ない。ただ、強き者と弱きものがいるだけ」
もう、誰ひとり彼女を小娘と侮る事はないだろう。ここにいる誰よりも鮮やかに敵をほふった彼女。この世界を動かすと言われる組織、「残月」の頭領オウカと初めて出会った15歳の戦場だった。
「残月」がいつからこの世界に存在しているのかはわからない。確かに言えるのはかの組織が影日向に歴史に干渉し、今にいたるということだけだった。そもそも、何を目的として結成されたのかもわからない。彼らの行動に一貫性が存在しないのだ。
主に彼らの行動は頭領の意向によって決まる。頭領が白を黒と言えば、何が何でも黒にしてしまう。手段を選ばず。頭領に対する絶対的な忠誠だけが彼らの指針と言えるだろう。
この頭領も、いつでも存在するわけはなく、だいたい数十年おきに頭領の誕生が各国に知らされ、数年後にその引退の知らせが届く。そういったことを代々繰り返していた。もちろん、どうやって頭領を選考するのか、引退したのち、彼らはどうなるのかそう言ったことも機密事項である。男だけでなく、女が頭領を務めることも数は少ないがないこともない。
「バカバカしい」
豪奢を追求し続けた結果の一つ、金細工のつぼを見下ろして彼女は嗤った。
「こんなものにどうして群がるのやら」
心底理解できないと肩をすくめる。歴代の王たちが収集した多くの工芸品・美術品。一つ一つが売れば小さな屋敷一つが立つほどの価値を持つ。それらが積み上げられた宝物庫に入った時から彼女は軽蔑を隠そうともしなかった。
「興味ないのか」
私にとっては物心ついた時からこれらはそばにあったのでそこまで意識したことはない。だが、彼女はこれ見よがしにため息をつくと呆れのまなざしを向けてきた。
「縁のないものだからね」
その言葉に私は首をかしげた。仮にも残月の頭領である彼女が縁がない生活をしていたということになる。どれだけ質素な暮しをしていたというのか。疑問をそのまま口にすると彼女は嫌そうな顔をして右目をピクリとしかめた。失敗をした時などに右目が動く癖があると気付いたのはつい最近のことだ。
「一般庶民よりは恵まれていた方だろうけど、こういったものは置く人はほとんどいなかった」
それより、と彼女は改めて部屋を見渡して話を切り替えた。
「この後はどうする」
世界で一、二を争う王国の城。王が亡くなったのち、明確な後継者が指名されていなかったために起きた争い。どこかで聞いたことがある話だ。不運にもその後継者候補の中に名を連ねていたために暗殺の魔の手が伸び、だけでなく戦場の前線に取り残されてしまった。
死を覚悟したまさにその時、私の前に現れたのが彼女こと残月の頭領オウカだった。彼女はわずか数十名のみの兵を連れて現れ、土壇場で私の命を救いだした。生き残るためにも、王位継承に名乗りを上げ、多くの親族を切り捨ててきた。
あれから三年。今最終目的地だった王城の宝物庫の中にいる。
「これらのほとんどは売る。ただでさえ金はすっからかんだからな」
答えは最初から決まっている。自称王位継承者どもがあちらこちらで戦闘を繰り返したために土地のほとんどが焦土と化している。復興のためにも資金は必要なのだ。
「すっかり庶民的な発想になってしまったもんだ。あのぼうやがなー」
「ほっとけ」
彼女と知り合ったばかりの頃は今思うと赤面ものだったと言える。物の売り買いのことすらまともに知らず、同い年の少女にこんこんと説教されたことは一度や二度ではない。
「ま、パンがないならケーキを食えばいい、なんて言い出さなくて本当によかった」
「?どちらも小麦粉からできるじゃないか。誰がそんなことを言った」
「某国の王妃。ブチ切れた民衆に革命を起こされて最後は処刑された。美人だったらしいよ」
「俺だったらそんな女ごめんだな」
何をバカバカしいことを言っているのかと言ってやろうかと思ったが本当にうれしそうに笑う彼女の顔を見れば何も言う気にもなれなかった。
「なら気をつけて伴侶を選ぶといい。おとなしそうに見えて実はハイエナだった。なんてことにならないように」
言い終えると同時に踵を返して宝物庫を出ようとする彼女を、私は呼びとめていた。
「お前はこれからどうするんだ」
「……」
「ここに、いるのか?」
おそらく、焦っていたのだろうと思う。今ここで彼女を見失えばもう二度と会えないような気がして。その勘は間違っていなかったのだとわかったのは、彼女が泣きそうな顔で私を見たからだ。
「私は、必要ないだろう……?」
彼女は三年の間、友に戦場を駆け抜けた戦友である。しかし、戦は終わり私が王位を継ぐことが決定した以上、この先の国の復興という作業に彼女がいる余地はどこにもない。戦場でですら傭兵という扱いだったのだ。国の中枢に部外者である彼女は居座ることは難しい。
しかし。
「俺にとっては必要だ」
とうの昔に彼女にとらわれていることは分かっていた。早く戦いを終わらせたいと思うと同時に、戦が続けば彼女とまだ共にいられるという思いに揺れながらそれでも王族の務めと言い聞かせて方をつけた。
「俺のそばに、いてくれないか?」
彼女に右手を差し出す。この手を取ってくれると信じて。
結局、その手は何もつかむことはなかった。
「そばにあることはできない。私は貴方の隣に立つことはできないから」
だけど、と彼女はつづけた。
「同じ世界で貴方を見守ることはできる。それだけは約束しよう」
「……オウカ」
「私は貴方に何一つ上げることはできない。受けとることもない。どこまでも私たちは平行線で、背中を預けることはできても、手を取ることすら許されない」
だから、さようなら。
彼女は今度こそ出て行った。城も速やかに去り、行方をたった。
それでも、約束だけは守ってくれた。私が王位についたのちも、妃をめとり、子をなしても彼女は確かにこの世界に存在してくれていたのだから。
ただ、ここにあるだけ。約束一つがどれだけ困難であったのか私は知らなかった。
もう、会うことはないだろうと思っていた彼女と再会したのは、別れてから十年もたってからのことだった。私の即位十周年を記念した祭典に彼女は姿を現したのだ。
姿を現したことに驚いた私は盛り上がる会場からそっと離れ、暗い空き室の一つに彼女を連れ込んだ。
「久しぶり」
彼女はほとんど変わっていなかった。すでに三十近い筈なのに、まだ十代だといっても通るかもしれない。シンプルなドレスに身を包みながら剣を腰に吊り、鋭い視線で周囲の警戒を怠らない。誇り高き残月の頭領がそこにいた。
「…………変わってないな」
言いたいことは他にもたくさんあったはずなのに、口から出たのは何の変哲のない言葉。招待客のリストに名が上がっていても、本当に来るとはつゆほどにも思っていなかった。残月はどこにも属さず、屈さずの組織。頭領の望みで力を行使することはあるがスタンスは決して変わらない。彼女もまた頭領であるはずなのに。
「来るとは思わなかった?」
「確かに」
「でしょうね。私も最初来るつもりなかったし」
まるで貴族の貴婦人のように扇で口元を隠して笑うしぐさに、彼女が過ごした十年間の歳月を感じた。まるで少年のように馬を借り、駆けまわってた少女はもういないのだ。目の前にいるのは十年かけて女性の艶やかさを手に入れた一人の女。
伸ばしかけた手は次に来た衝撃によって止まった。
「今夜はね、お別れを言いに来たの」
「再会した日に別れを口にするのか?」
「そうではなくて。今度こそ、私は引退することにしたの」
頭領の座を降りる。と宣言したのだ。十年前の別れとは違うことはすぐにわかった。
「引退して……どうするつもりだ?」
そこまで口にして、彼女が話すわけがないと気付いた。残月は部外者に自分たちのことを話さない。引退したのちの話などするはずがなかった。
「かえるの」
どこへ。と尋ねることはできなかった。もう決めたのだとその表情がいっていた。く継がすことは誰にもできないのだと突きつける微笑みを浮かべる女に何も言うことなどできはしない。
――――――――――だが。
「いくな!」
とにかく、失いたくなくて私は彼女を捕まえた。十年前と同じく強く抱きしめる。腕の中に閉じ込めた彼女は小さかった。以前はもっと大きかったような気がした。逆に、自分が成長し、彼女の身長を超えてしまったのか。
「いかないでくれ……」
まるでただをこねる幼子のような所業だと自分ではわかっているのに、心が折れそうな自分を叱咤しながら腕に力を込める。目の前の存在が、自分の光が今度こそ失われてしまう。恐ろしいことだった。決してあってはならないことだった。
「ごめんなさい」
どれほど腕の中に閉じ込めようとも彼女はその決意を翻そうとしなかった。
「本来ならもっと前に帰る筈だった。でも、もう限界」
期間を延ばしていたのは自分が理由だと自惚れてもいいだろうか。瞳の中にせつない光が宿っていると思ってもいいのだろうか。思いは同じと信じていいだろうか。
「もう、今度こそ会うことはないでしょう。約束も残さない。何も残さない」
ただ純粋に思いのみ。これこそが彼女なりの愛し方なのだと、分かっていいだろうか。
「オウカ」
「何も聞くつもりはない。だから放して」
「オウカ!!」
どこまでも彼女らしいと思う。それでも、何もない、なんてことはしたくなかった。
「頼む。頼むから……今夜だけは」
記憶が欲しかった。確かに思いが通じ合っているという証。物でなくても、姿が無くても、確かに残るものが欲しかった。この国の頂点に立って早十年。何年たっても自分の一部はあの頃の少年のままだった。
「オウカ」
残月の頭領が引退したという知らせが届いたのは最後に別れの直後のことだった。頭領は姿を消し、残された者たちも表舞台から姿を消した。やがて人々の記憶から忘れ去られていくのだろう。次の頭領が現れるまで。長い間そうやって彼らはこの世界に生きてきたのだ。
彼女の情報は全く伝わらなかった。それでもよかった。
ただ、生きていてほしいと願い続けた。決して行くことのできない遠い場所に去ってしまったのだとしても、生きてさえいればいつかまた会えるという夢を見ることができるから。
そして、気がつけば彼女と別れて五十年の時が流れていた。
「目が覚めましたか」
横たわっているのが自分の寝台だと気付くまで時間がかかった。茫然としている私を見下ろしているのは彼女と同じ黒髪の青年。当代の残月の頭領だった。
「私は……」
青年の謁見時に彼女の死を聞いたのち、当たり障りのない受け答えをした。自室に戻った後、自分がどのように過ごしていたのか全く覚えていなかったが。
「御休みのところ申し訳ないと思いましたが、内密の話がありまして」
今更だが、王の寝室に部外者を通す筈がない。と、すれば彼は不法侵入してきたとしか考えられない。
「摘まみ出されたいか」
「それはご遠慮したい。先代のことです」
ドクン、と心臓がなったような気がした。生きていて欲しいと願っていた思いをあっさり打ち砕かれた衝撃はまだ失せていない。彼女は帰ってから一年とたたずに亡くなったという事実は落雷の直撃を受けたようなものだったのだ。
「なぜ、謁見時に話さなかった?」
「できれば内密にしたかったので。それに話すべきかどうか最後まで悩みましたから」
それでもここにいるということは話す気になったということだろうか。彼の慇懃無礼な態度が不愉快だと思うが、それよりも彼女の話が聞きたかった。
「……話せ」
「まずはこれをご覧ください」
青年は顔に両手をやり、目元を抑えるしぐさをするとすぐに私に向き直った。彼の顔を見た瞬間、私は息をのみ、凝視した。
「その目は……まさか」
「申し遅れました。俺は先代の頭領オウカの孫に当たるものです。お初にお目にかかります、おじい様」
彼の右目は、私と全く同じの紫を宿していた。
何も残さない。そう彼女は言った。せめて形なき記憶が欲しいと私は思った。
「オウカ……祖母の体は帰ってきた時点でもうボロボロでした。その上、妊娠まで発覚した。出産に母体は耐えきれないだろうと言われても、周囲の猛反対の中で祖母は父を産みました」
出産後間もなく産褥に倒れ、残された赤子は彼女の従兄弟夫婦に託された。
「父がこちらに来ることはありませんでしたが、俺はこちらに来た時、顔も名も知らぬ祖父を探してみたいと思っていたのですよ。まさか王だとも、まだ生きているとも思っていませんでしたがね」
「瞳の色で見つけたのか?」
まだ信じられない思いの方が強かった。目の前にいるのは自分とオウカとの孫だという青年の言葉に耳を傾けることが精いっぱいだった。
「それもありますが。私の父は貴方の若いころにそっくり生き写しなんですよ。貴方の若いころの肖像画を見つけて間違いない、と確信しました」
紫の瞳は王族によく表れる特徴の一つでもあった。
「会えてよかったです。だからどうこうするつもりも、孫だと名乗るつもりもありませんが。ただ、自分のルーツが知りたかったのです」
現在、私後を継ぐ候補は息子を第一とし孫たちを含めて十人近くいる。孫だと口にしても王位が彼に回ってくることはまずない。それでも私にあったのは自分のルーツを探るという意味があるのかどうかわからない答えのためだという。
「俺にとっては重要な事ですよ。あなたは、祖母の欠片だったのでしょう」
「欠片?」
「俺や祖母のようなこちらに来る人間は何かが欠けていて、その欠けた部分を埋めるためにこちらに来るといわれているんです」
彼女の最後のピースを埋めたのは貴方だったのでしょう。そう言って笑う青年は自分の欠片を見つけることができたのか。
その答えは青年にしかわからない。
「欠片、か」
青年が去って静かになった寝室で私は月を見上げた。ほんの少しだけゆがんだ月を見上げ、よく彼女が月を見上げていたことを思い出す。欠けて満ちる月を見て、彼女は何を思っていたのだろう。
「私は、お前を満たすことができたのか?」
月は何も答えなかった。