望まれずに嫁いだ辺境で、鑑定士としての人生を始めました
馬車が辺境伯領の門をくぐったのは、王都を発って五日目の夕暮れだった。
石造りの屋敷は質実で、飾り気の少ない建物だった。庭の薔薇も王都の屋敷ほど手入れが行き届いておらず、代わりに実のなる木が何本も植えられている。イレーネ・クロヴィスは馬車の窓からそれを見て、悪くない、と思った。
「イレーネ嬢。ようこそ、アッカーマン辺境伯領へ」
出迎えたギルバート・アッカーマンは、想像していたよりも大柄で、日に焼けた顔をしていた。政略結婚の相手として顔合わせをしたのは一度きりで、あとは書面での取り決めがほとんどだった。
「このたびは、よろしくお願いいたします」
イレーネは丁寧に礼をした。ギルバートは少し居心地悪そうに視線を逸らし、それから意を決したように口を開いた。
「先に言っておく。これは政略だと、俺も分かっている。無理に仲良くしようとしなくていい。お飾りでいてくれれば構わない」
その言葉に、悪意は感じられなかった。むしろ、不器用な気遣いのつもりなのだろう、とイレーネは思った。重荷に思わせたくない、負担をかけたくない——そういう類の言葉だった。
それでも、「お飾りでいい」という響きは、実家で聞き慣れた言葉と、驚くほどよく似ていた。
「承知いたしました」
表情を変えずに、そう答えた。
馬車を降りるとき、ギルバートが手を差し出した。形式的な仕草だとすぐに分かったが、イレーネは大人しく手を借りた。指先が触れた瞬間、ギルバートがわずかに肩を強張らせたのが分かった。彼もまた、この結婚に慣れていないのだろう。
「長旅で疲れただろう。今日はもう休んでくれ」
「お気遣い、痛み入ります」
定型のやり取りを交わし、二人はそれきり言葉少なに屋敷へ入った。
案内された屋敷の中は、質実剛健を絵に描いたような内装だった。壁に掛けられた古い肖像画、暖炉の上の年代物の壺、飾り棚に並ぶ宝飾品の数々。先代から受け継がれてきたものだろう、とイレーネは見当をつけた。
通されながら、視線が自然と飾り棚に吸い寄せられる。棚の隅に置かれた、小さな首飾り。石の輝き方に、わずかな違和感があった。
(——後で、確かめよう)
イレーネは、内心でそう思っただけで、その場では何も言わなかった。せめて、屋敷の役に立てることを見つけよう。それだけを、静かに決めていた。
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数日後、執事のバルトが応接間で先代からの宝飾品を手入れしているところに、イレーネは通りかかった。
「バルトさん、少しよろしいでしょうか」
「イレーネ様。何か御用でしょうか」
「その首飾り、よろしければ拝見しても」
「イレーネ様が、宝飾品に興味をお持ちとは存じませんでした」
バルトは怪訝そうにしながらも、手にしていた首飾りをイレーネに渡した。
イレーネは窓辺に寄り、光にかざしてしばらく眺めた。指先で石の表面をなぞり、裏側の留め具を確認する。表情は普段と変わらないはずだったが、目だけが、明らかに違う動きをしていた。石の角度を変えるたびに、瞳が小さく動く。バルトはその様子を、少し不思議そうに見守っていた。
「……恐れながら、これは贋作かと存じます」
「な……」
バルトの顔色が変わった。
「本物の紅玉であれば、この角度で光を当てたときに、内部にわずかな筋——インクルージョンと呼ばれるものが見えるはずです。これには見えません。それに、留め具の細工が、先代の時代の職人の作風と少し違うようにお見受けします。恐らく、どこかの時点ですり替えられたものかと」
「そんな……これは、先々代から伝わる家宝と伺っておりましたが」
「贋作を作らせた上ですり替え、本物を売却する、という手口は珍しくございません。もし本物が売却されているとすれば、二十年から三十年ほど前の記録に、何か痕跡が残っているかもしれません」
バルトはしばらく言葉を失っていたが、やがて震える声で言った。
「……旦那様に、ご報告いたします」
その日の夕方、ギルバートが直々にイレーネの部屋を訪ねてきた。
「バルトから聞いた。首飾りが、贋作だと」
「はい。専門の鑑定士に見ていただければ、より確実になるかと存じます」
「もう、見てもらった」
ギルバートは、少し呆れたような、それでいて驚いたような表情をしていた。
「街の鑑定士に持って行かせたら、お前の言った通りだった。紅玉ではなく、色をつけたガラス細工だそうだ。しかも、かなり精巧な職人の手によるものだと。並の目利きでは気づけなかっただろうと言っていた」
イレーネは黙って頷いた。
「先代がすり替えに気づかなかったのも、無理はない。それだけの品だったということだ」
「恐れながら、他にも数点、気になる品がございました」
「他にも、あるのか」
ギルバートの声に、隠しきれない驚きが混じった。
「なぜ分かった」
その問いに、イレーネは少し言葉を探した。それから、いつもより早口になっていることに、自分でも気づかないまま話し始めた。
「石には、それぞれ育ち方の癖がございます。本物は、必ずどこかに不完全な部分がある。そこを見れば、大抵の贋作は見分けがつきます。留め具の細工も、時代ごとに癖があって、職人の手癖まで見えてくることがございます。この屋敷の品は、他にも少し気になるものが——」
言いかけて、イレーネは口を噤んだ。話しすぎている、と気づいたからだった。
「……失礼いたしました。差し出がましいことを」
「いや」
ギルバートは首を振った。
「もっと聞かせてくれ」
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イレーネが幼い頃、初めて宝飾品の違和感に気づいたのは、継母ヴァレリアの化粧台の上だった。
六歳のイレーネは、母の形見の指輪だと聞かされていた品を見て、「これは本物と違う」と口にした。その場にいた継母の顔が、みるみる強張ったのを覚えている。
「令嬢が、そのような下賤な技を持つのは恥です」
ヴァレリアはそう言って、イレーネの手から指輪を取り上げた。以来、屋敷の宝飾品に触れることも、鑑定めいた話をすることも禁じられた。
それでも、イレーネはやめなかった。使用人の目を盗んで、街の市場に足を運び、古びた道具屋の店主に頼み込んで、鑑定の基礎を教えてもらった。誰にも話さず、誰にも見せず、ただ独学で技術を磨き続けた。それが唯一、自分の裁量でできることだったからだ。
店主は無愛想な老人だったが、イレーネが石を見る目だけは、早い段階から認めていた。
「令嬢様がこんなところに通っていいのか、俺は知らんが」
老人はいつもそう言いながら、それでも根気強く見分け方を教えてくれた。屈折率の違い、内包物の形、金具の癖。誰にも褒められない技術を、イレーネはただ黙々と積み重ねていった。
継母は、その事実を知らないままだった。
「……そういうわけで、独学です。褒められるようなことでは」
イレーネがそこまで話すと、ギルバートはしばらく黙っていた。
「褒められることだろう」
短い一言だった。
「誰にも教わらず、それだけの技術を身につけたのなら、なおさらだ」
イレーネは、答えに詰まった。実家では、隠すべき欠点として扱われてきたものを、正面から肯定されたのは初めてだった。
「ここでは、好きにすればいい」
ギルバートはそう言って、部屋を出て行った。イレーネはしばらく、閉まった扉を見つめていた。
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それから、イレーネの日々は少しずつ変わっていった。
辺境伯領で扱う品々——税収として納められる宝飾品、オークションにかけられる骨董、他領との取引で持ち込まれる品々——の査定を、バルトを通じて任されるようになった。
「イレーネ様の見立てのおかげで、去年より査定額が正確になりました。無駄な出費も減っております」
バルトがそう報告するのを、ギルバートは満足げに聞いていた。
「お前がいると、屋敷の物の値打ちが全部分かるようになった」
不器用な褒め言葉だったが、イレーネにとっては、これまで受け取ったどんな言葉よりも実感のこもったものだった。
夕食の席で、ギルバートが仕事の話を持ちかけることも増えた。イレーネが鑑定について話すとき、いつもより言葉が多く、早口になる。それにギルバートが気づいているのかどうかは分からなかったが、彼はいつも黙って最後まで聞いていた。
「今日、オークションで面白い品がありました」
「聞かせてくれ」
ある夜会で、招待された貴族の一人が、イレーネの評判を耳にして皮肉を口にしたことがあった。
「辺境伯夫人は、市井の道具屋あがりの見立てをなさるとか。まるで商人のようですこと」
その場が、一瞬しんと静まった。イレーネが答えるより先に、ギルバートが口を開いた。
「その見立てのおかげで、我が領地は無駄な出費を大きく減らしている。商人のようだと言うなら、それは褒め言葉として受け取ろう」
静かだが、有無を言わせない声だった。相手の貴族は、それ以上何も言えなくなった。
帰りの馬車の中で、イレーネはギルバートに小さく礼を言った。
「かばっていただき、ありがとうございました」
「かばったわけじゃない。事実を言っただけだ」
ギルバートは、窓の外を見ながらぶっきらぼうに答えた。耳が少し赤くなっているように見えたが、夜の暗さのせいかもしれなかった。
その繰り返しが、二人の間に、政略結婚では得られないはずの何かを、少しずつ積み上げていった。
ある月、隣領の商人が持ち込んだ古い甲冑一式を、辺境伯領が高値で買い取る話が進んでいた。バルトが交渉をまとめかけていたところに、イレーネが確認を申し出た。
「恐れながら、この甲冑の紋章は、時代が合わないように見受けられます」
「時代が、合わない」
「本来の様式であれば、この紋章の意匠は今より一世代古いはずです。おそらく、由緒のない品に後から紋章を刻み、由緒ある品として売りつけようとしたものかと」
商人の顔が、みるみる青ざめた。結局、価格は当初の三分の一まで引き下げられ、屋敷の財政に無駄な出費を出さずに済んだ。
「また、お前の目が屋敷を助けたな」
ギルバートがそう言って笑うと、イレーネは珍しく、少しだけ得意げな顔をした。
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季節が一巡りする頃には、イレーネの名は辺境の商人たちの間で静かに知られるようになっていた。「アッカーマン家に品を持ち込むなら、贋作は通用しない」——そう囁かれるのを、バルトが苦笑交じりに教えてくれたこともある。
イレーネ自身は、その評判をさほど気にしていなかった。ただ、毎朝目を覚ますたびに、今日はどんな品を見られるだろうかと考えている自分に気づき、少し戸惑うことはあった。実家にいた頃は、朝が来ることに、これほどの高揚を覚えたことはなかった。
実家から手紙が届いたのは、辺境伯領に来てから半年ほど経った頃だった。差出人はヴァレリアで、宛先はバルト経由だった。
バルトが手紙を持って、困った顔でイレーネの元へやってきた。
「クロヴィス伯爵家より、鑑定士を紹介してほしいとの依頼が届いております。実は、購入された宝飾品が贋作だったことが社交界で噂になり、体面を大きく損なわれたとか。加えて、その品の購入額が高額だったため、家計にもかなりの影響が出ているようで」
イレーネは黙って手紙を受け取った。ヴァレリアの筆跡は、かつて見慣れたものだった。
「お受けするかどうかは、イレーネ様のご判断に」
「お受けします」
迷いはなかった。
「仕事ですので」
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依頼当日、応接間に現れたのはヴァレリアと、異母妹のアンネリーゼだった。二人とも、対応する鑑定士がイレーネだとは知らされていなかったらしい。
部屋に入り、イレーネの顔を見た瞬間、ヴァレリアの表情が凍りついた。
「イ……イレーネ」
「お久しぶりでございます。本日、鑑定を担当いたします、イレーネ・アッカーマンと申します」
辺境伯夫人としての名を、あえて名乗った。
「アッカーマン……」
アンネリーゼが、絶句したように立ち尽くしている。かつて「お姉様は地味だから、遠くへ嫁いでちょうどいい」と口にしていた顔が、今は青ざめていた。
「では、拝見いたします」
イレーネは、持ち込まれた宝飾品の箱を開けた。手つきに迷いはなかった。一つずつ手に取り、光にかざし、裏側の細工を確かめていく。
「こちらは、贋作です。留め具の細工から、およそ二年ほど前に作られたものと見受けられます」
「そんな……あれには、屋敷の権利書を担保に入れてまで……」
アンネリーゼが小さく声を漏らし、慌てて口を塞いだ。
「こちらは真作でございますが、経年の傷が多く、査定額はお値打ち以下となります。修復をご希望であれば、街の工房をご紹介いたしますが」
「イレーネ、待って。それは母様が一番大切にしていた……」
アンネリーゼが口を挟んだが、イレーネは表情を変えなかった。
「事実を申し上げているだけでございます」
ヴァレリアの唇が、かすかに震えていた。
「イレーネ……あなた、こんな仕事を」
「はい」
イレーネは、感情を交えずに答えた。
「今は仕事中ですので、私的なお話はまた別の機会に」
その一言で、ヴァレリアは何も言えなくなった。かつて自分が「下賤な技」と切り捨てたものが、今、目の前で自分たちを助ける唯一の術になっている。その皮肉に、気づかないほど鈍い人ではなかった。
「イレーネ……あなたに、そんな技術があったなんて」
ヴァレリアが、絞り出すように言った。
「知っていれば、私は……」
「知っていれば、何が変わったのでしょうか」
イレーネは、初めて視線を上げた。責めるでも、皮肉るでもない、ただ静かな声だった。
「私が幼い頃、指輪の贋作に気づいたとき、あなたはそれを恥だと仰いました。あの時から、私はずっと、この技術を隠して生きてきました。今更、知っていればとお聞きになられても、お答えのしようがございません」
ヴァレリアは何も言い返せなかった。アンネリーゼが、何か言いたげにイレーネを見ていたが、結局は俯いただけだった。
イレーネは残りの品を淡々と査定し終えると、書面にまとめてバルトに渡した。
「以上でございます。何かご不明な点があれば、辺境伯家までご連絡ください」
深く礼をして、部屋を出た。
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その日の夜、仕事を終えたイレーネのもとに、ギルバートが茶を持ってやってきた。
「大変だったな」
「いえ。仕事ですので」
同じ言葉を、今日は二度目に口にしていることに、イレーネは少し遅れて気づいた。ギルバートは何も指摘せず、ただ隣に腰を下ろした。
部屋には暖炉の火が小さく爆ぜる音だけが響いていた。窓の外は、すっかり夜の色に沈んでいる。ギルバートは茶器を机に並べながら、少し様子をうかがうようにイレーネを見た。
「無理はしていないか」
「しておりません。仰る通り、正確に仕事をこなしただけです」
「そうか」
ギルバートは、それ以上踏み込まなかった。ただ、静かに隣に座り続けた。その気遣いのなさが、かえってイレーネには心地よかった。
「実家の連中、何か言ったか」
「贋作を掴まされたことに、驚いておいででした」
「それだけか」
イレーネは、少し考えてから答えた。
「私が仕事をしていることに、驚いていたようでした」
「見返してやろうとは思わなかったのか」
ギルバートの問いに、イレーネはわずかに首を振った。
「思いませんでした。ただ、正確に仕事をしただけです。それ以上でも、以下でもございません」
「……お前らしいな」
ギルバートが、ふっと笑った。イレーネは、その笑い方を見るのが、少しだけ好きだった。
「お前が来てから、この屋敷はずいぶん変わった。物の値打ちも、俺自身の見る目も」
「大袈裟でございます」
「大袈裟なものか」
ギルバートは茶碗を差し出した。
「お飾りでいいと言ったことは、詫びる。あれは、お前に無理をさせたくなかっただけの、下手な言い訳だった」
イレーネは、茶碗を受け取る手を止めた。
「……存じておりました」
「知っていたのか」
「はい。それでも、少しだけ寂しく思っておりました」
正直な言葉が、思いのほか自然に出た。ギルバートが、驚いたようにイレーネを見た。
「今は」
「今は」
イレーネは、窓の外に目をやった。星の多い夜空が、辺境の空にはよく似合っていた。
「悪くない場所だと、思っております」
ギルバートが、小さく頷いた。それから、少し照れくさそうに付け加えた。
「来月、隣領で大きなオークションがある。骨董品も宝飾品も、かなりの数が出るそうだ」
「それは……楽しみです」
イレーネの声が、わずかに弾んだ。ギルバートがそれに気づいて、ふっと笑う。
「お前がそういう顔をするのは、鑑定の話をしているときだけだな」
「……そう、でしょうか」
「そうだ。政略の相手としては、少し物足りないかもしれんが」
「物足りないなどとは、思っておりません」
思わず、いつもより強い口調で返してしまった。ギルバートが目を丸くし、それから声を上げて笑った。イレーネは頬にわずかな熱がのぼるのを自覚しながら、それを気づかれないよう、茶碗に視線を落とした。
「来月のオークション、一緒に見に行くか」
「……はい。喜んで」
窓の外では、辺境の星が変わらず瞬いていた。政略から始まったこの結婚が、いつの間にか、イレーネにとって手放したくないものになりつつあった。それに気づいて、少しだけおかしくなる。
茶碗の温かさが、二人の間の沈黙を、心地よいものに変えていた。




