第5話 不作法な火花、あるいは選別の理
国境の森は、眩いほどの初夏の色彩に溢れている。
本来ならば、この時期のカフェ・ヴァレンタインは、新緑を求めてやってくる客や商人の馬車で賑わい、不作法なほどに活気に満ちているはずだった。
けれど、今のテラスに響くのは、風が梢を揺らす乾いた音だけだ。
「……お嬢様。本日の食材の納品ですが、やはり届いておりませんわ」
厨房で空になった棚を確認していた私の背後から、クラリスが静かに、けれど重い声をかけた。
白緑の瞳にはいつも通りの沈着冷静さが宿っているが、手に持った帳簿を握る指先には、いつになく微かな力が籠もっている。
「麓の村の養鶏家からも、配送を断る旨の連絡が届きました。数日前のジュリアン様の一件が、もはや無視できない規模の惨事として麓まで伝わっているようです。森の至る所で、本来ならば温厚なはずの灰色狼や大鹿たちが、狂ったように旅人を襲い、道を塞いでいるのだと。馬が怯えて一歩も動かなくなるため、命が惜しい商人は誰も近寄ろうとしません」
私は、冷え切ったフライパンの表面をそっとなぞった。
指先が微かに震えている。
卵も、粉も、お肉も。
来るはずのものが、何一つ届かない。
ジュリアンがアビーに救われたあの出来事は、ほんの序章に過ぎなかった。
森の優しい住人たちが、自らの意思を奪われ、私たちの息の根を止めるための「生きた壁」へと変えられている。
「クラリス。これでは、まるで。また、あの悪夢の再来ですの……?」
私の唇から、絞り出すような言葉が漏れた。
お母様がなさったことと同じ、いえ、それ以上に不作法な仕打ちだ。
人を遠ざけ、物理的に道を断ち、私のキッチンを無価値な箱へと塗り潰そうとする。
一度は皆で力を合わせて打ち勝ったはずの「孤立」という名の怪物が、今度は人の権力ではなく、形なき呪縛となって戻ってきたのだ。
◇
ホールの大きな円卓。
いつもなら客たちの笑い声で溢れるこの場所に、今は私たち身内だけが集まっている。
卓上に並んでいるのは、蔵に残っていた僅かな食材で作った、これ以上なく簡素なスープだけだ。
「アリシア……すまない」
ルイ様が、自らの右手をぎゅっと握りしめて俯いた。
夕焼け色の髪が、窓から差し込む陽光に透けているが、その表情は深い陰に沈んでいる。
「かつて公爵夫人が君を縛ったのは、権力と立場だった。だが、今この森を縛っているのは、私の血筋が招いた『手繰り寄せ』だ。私の存在そのものが、君に再び同じ悪夢を見せている。王都におわすあのお方は、手段を選ばない」
「ルイ様、仰らないで。貴方のせいではありませんわ」
私は静かに首を振った。
お母様のときは、交渉すべき相手がいて、説得すべき理屈があった。
けれど今回は、この森の住人たちが「見えない糸」で刺客に変えられている。
「お母様のときよりも、ずっとタチが悪いですわね」
テリオンが、カメリア色の瞳に険しい光を宿して言った。
「あの夫人は秩序と面子を重んじたが、今回の『お方』は、この場所の息の根を止めることそのものを楽しんでいる。ジュリアンを襲った狼たちは、空腹ではなかった。純粋な殺意だけで動かされていたんだ」
「誰も……悪くないのに」
隅で小さくなっていたジュリアンが、震える声で呟いた。
アビーの大きな翼が作る陰の中で、少年は悲しげに森の奥を見つめている。
「アビーも言ってるんだ。森が泣いてるって……誰かに心を上書きされて、みんな無理やり怖い夢を見せられてるんだよ」
沈黙が円卓を支配した。
ルイ様は、事務的に報告を続ける私の言葉を、噛みしめるように聞いていた。
「ルイ様。あと三日で小麦が底をつきますわ。ゾアの分のお肉は、明日の朝食が最後。塩も、もうほとんど残っておりません……おもてなしの心があっても、食材もなく、お客様も来られないこの場所で、私は何を誇りにフライパンを握ればいいのでしょう」
私は、ルイ様に預けられた「銀の鍵」を服越しに握りしめた。
自由を掴み取ったはずの場所で、再び訪れた詰みの盤面。
その絶望を切り裂くように、地響きが鳴り渡った。
◇
突如として、森の深淵から猛々しい唸り声が響き渡った。
それは、これまでの静かな封鎖とは一線を画す、明確な暴力の胎動だった。
テラスの柵を飛び越え、庭の芝生を乱暴に蹴散らして現れたのは、影のように黒く、くすんだペリドット色の眼光を放つ魔獣の群れだ。
「アリシア、下がれ!」
テリオンが誰よりも早く屋根から飛び降り、殺気を宿して弓を引き絞る。
「ガオォォォッ! 貴様ら、我の主の庭で何を晒している!」
ゾアが巨大な斧を振り上げ、魔獣の一体を正面から叩き伏せた。
だが、魔獣たちの狙いは、戦士たちではなかった。
彼らはゾアの斧もテリオンの矢も恐れず、ただ一直線に、厨房の入り口に立つ私へと牙を向けて殺到してきたのだ。
「――そこまでだ」
凛烈な声と共に、私の前に眩い黄金の障壁が展開される。
ルイ様だ。
彼の右手の紋章は激しく明滅し、夕焼け色の髪が魔力の余波で逆立っている。
「私の前で、彼女に触れることは許さない。不作法な影ども――塵に帰れ!」
ルイ様の手から放たれた衝撃波が、最前列の魔獣を吹き飛ばす。
同時に、上空からアビーの咆哮が降り注いだ。
「アビー、一掃しちゃえ!」
ジュリアンの叫びに合わせ、アビーが深紅の熱線を吐き出す。
王の守護、狩人の狙撃、戦士の剛力、そして竜の絆。
それは、お母様の時には決して見ることのできなかった、このカフェが積み上げてきた最強の防衛線だった。
◇
魔獣の群れが、あまりの反撃の激しさに怯み、森の奥へと退散していく。
静寂が戻った庭で、ルイ様は苦しげに右手を抑え、膝を突いた。
「ルイ様!」
私は駆け寄り、彼の震える手を包み込んだ。
紋章の光は、以前よりも暗く濁っている。
「気づきましたわ、ルイ様。叔父上――ジョエルは、ただ私たちを飢えさせているわけではありません。彼は『恐怖』で、このカフェに来る価値がある者を選別しているのですわ」
私は、倒された魔獣の死骸が黒い霧となって消えていくのを見つめた。
「ここは危ない、関われば死ぬ。そう思わせることで、弱き心を篩にかけているのです。ですが、それは裏を返せば、この恐怖を乗り越えてでも来ようとする人を、あのお方は止めることができないということですわ!」
私は、汚れ一つないエプロンを翻し、リビングに集まった仲間たちに向かって宣言した。
「食材がないのなら、今ある僅かなもので最高のおもてなしをいたしますわ。道が塞がれているのなら、マルクス、騎士団の皆様、お客様が通れるだけの安全な航路を維持してくださいな。私は、この不作法な挑戦、喜んでお受けいたしますわよ!」
ルイ様も、テリオンも、ゾアも。
私の言葉に、その表情へ守るべき日常の輝きを取り戻していた。
ジョエル。
貴方がどれほど恐怖を振りまこうとも、想いは恐怖よりも強い。
盤面は、まだ崩れていない。
厨房のコンロに、青い火を灯す。
食材は底をつきかけている。
けれど、私はまだフライパンを置いてはいない。
「クラリス。蔵の奥にある僅かな粉と、ドライフルーツを出してくださいな……どんなに道が険しくても、ここへ辿り着く不作法なお客様が、必ずいらっしゃいますわ」
嵐の前の、あまりにも静かな、けれど熱い決意。
真の戦いは、この空っぽのキッチンから始まるのだ。




