第4話 名もなき絆、あるいは魂の咆哮
初夏の陽光は、本来ならば世界を等しく祝福する黄金の雨であるはずだった。
若葉を透かす光は目に眩しく、森の隅々まで温かな熱を運び、生命の躍動を促す。
しかし、今、カフェ・ヴァレンタインを包み込む国境の森は、その眩い新緑の中に、目に見えない「毒」を孕んでいた。
昨日まで涼やかに囀っていた鳥たちの調べは不自然に途絶え、代わりに聞こえてくるのは、湿った下草の奥で何かが這い回るような、粘り気のある不快な音。
森の理が、目に見えない漆黒の「糸」によって強制的に書き換えられている。
その不気味な変化に、誰よりも早く、そして最も敏感に反応したのは、森の動物たちを愛する純粋な少年、ジュリアンだった。
「……おかしいな。みんな、どこへ行っちゃったんだろう。いつもなら、この時間はシカさんたちが水を飲みに来ているはずなのに」
ジュリアンは暗緑色の髪を不安げに揺らし、トパーズのような瞳で森の奥を覗き込んだ。
十二歳ほどの、今にも初夏の風に溶けて消えてしまいそうな細い身体。
彼は一枚の古びた外套を羽織り、小さな足取りで森の深淵へと足を踏み入れようとしていた。
気弱で儚げに見える少年。
けれど、彼は知っていた。
森の静止が「安らぎ」ではなく、何か恐ろしい「重圧」によるものであることを。
動物たちの悲鳴なき助けを求める声を、彼はその繊細な魂で受け止めてしまっていたのだ。
それが、彼を「深入り」させてしまった。
◇
異変は、唐突に、そしてあまりに無慈悲に訪れた。
ガサリ、と前方の茂みが大きく波打った。
飛び出してきたのは、この森で何度も顔を合わせ、ジュリアンが「毛並みが綺麗だね」と声をかけ、時にはアリシアの厨房から持ち出した干し肉を分けてやっていた灰色狼の群れだった。
だが、その瞳に、かつての知性は微塵もなかった。
代わりに宿っていたのは、澱んだ沼の底のような、不気味なくすんだ緑色の光。
「……あ、みんな! 良かった、無事だったんだ――えっ?」
ジュリアンの期待は、次の瞬間に向けられた鋭い牙と、剥き出しの殺意によって木っ端微塵に打ち砕かれた。
低く響く唸り声。
狼たちは、まるで何かに操られる人形のように、不自然なほど統率された動きで少年に襲いかかる。
「や、やめて! 僕だよ、ジュリアンだよ! ……っ、うわああ!」
必死に叫ぶが、狼たちの耳に少年の声は届かない。
彼らの魂は既に、森を覆う正体不明の「悪意」に絡め取られ、ただの動く刺客へと変えられていた。
逃げようと踵を返した瞬間、ぬかるんだ地面に足を取られ、ジュリアンは転倒した。
鋭い棘を持つ茨が彼の腕を裂き、痛みと恐怖で視界が歪む。
そこへ、群れのリーダーと思わしき、一際巨大な狼が覆い被さった。
「……っ! みんな、下がって……! お願いだから!」
ジュリアンは反射的に、腰にある銀の笛を掴んだ。
これを吹き鳴らし、旋律を奏でれば、大空を駆ける相棒が自分を見つけてくれる。
だが、この森を歪めている「何か」の残酷さは、ジュリアンの想像を遥かに超えていた。
彼が笛を唇に寄せようとしたその瞬間、森の空気が「凝固」した。
圧倒的な魔力の圧力によって、音そのものが質量を持って抑え込まれる。
ジュリアンが必死に笛に息を吹き込んでも、鳴り響くはずの美しい銀の旋律は、掠れた空気の漏れる音へと無惨に書き換えられた。
「……あ、あれ……? 音が……出ない……っ」
さらに追い打ちをかけるように、別の狼が、ジュリアンの右腕を銀の笛ごと地面に力任せに押さえつけた。
ドッ、という鈍い音と共に、鋭い爪が細い腕に食い込む。
「あ……が、あああああ……っ!」
激痛が奔り、指先から力が抜けていく。
銀の笛が、泥の中に虚しく転がった。
助けを呼ぶための「道具」を奪われ、言葉を伝えるための「音」を封じられた少年。
喉は恐怖で焼け付くように乾き、もう助けを呼ぶ声さえ出ない。
狼が、ジュリアンの喉元を狙って顎を大きく開く。
絶望が少年の全身を縛り上げた。
(……ごめんね、みんな……僕が頼りないから……助けてあげられなくて……ごめん……)
もはや、抗う術はどこにもなかった。
ジュリアンは、迫りくる死の牙を直視できず、強く、強く、思い切り両目を閉じた。
それは諦めではない。
自分が愛した森の仲間たちに殺されるという、あまりに哀しい「不作法」を、せめて見たくないという最後の抵抗だった。
――その時だった。
キィィィィィィィィン……ッ!!
それは、笛の音などではなかった。
大気を震わせ、周囲を覆う沈黙の結界を内側から木っ端微塵に粉砕するような、凄まじい「魂の咆哮」。
直後、猛烈な風圧がジュリアンの全身を叩いた。
「ガァァァァァァッ!!」
ジュリアンが恐る恐る目を開けると、そこには、巨大な、あまりに巨大な翼を広げた古の竜――ワイバーンの姿があった。
彼女は、ジュリアンに牙を立てようとしていた狼たちを、その強靭な鉤爪で、一撃で弾き飛ばしていた。
「……あ、相棒……? どうして……僕は、笛を吹いてないのに……」
呆然と呟くジュリアンの前で、ワイバーンは周囲を威嚇し、森に満ちる淀んだ気配さえもその翼で吹き飛ばしていく。
弾き飛ばされた狼たちは、不気味な呪縛が一時的に解けたのか、這うようにして森の奥へと退散していった。
ワイバーンは、静かになった森の中でゆっくりと着地し、ジュリアンの方を向いた。
その琥珀色の瞳は、不自然な魔力に侵されることなく、澄み渡った知性と、深い慈愛を湛えていた。
彼女は、銀の笛という「命令」に従って来たのではない。
笛の音が聞こえなくても。
主が声を上げられなくても。
魂の繋がりが、大切な友の危機を彼女に伝えていた。
彼女は「道具」で呼び出されたのではない。
自らの意志で、自らの翼で、大切な少年を守るために舞い降りたのだ。
「……助けに、来てくれたんだね。呼んでないのに、僕のこと、見つけてくれたんだ……ずっと、見ててくれたんだね……」
ジュリアンは、溢れ出す涙を拭うことも忘れ、震える手でワイバーンの温かい鼻面に触れた。
ワイバーンは、甘えるように喉の奥で低く音を鳴らし、大きな頭を少年の細い身体にそっと摺り寄せた。
それは、支配でも命令でもない。
孤独を分かち合ってきた一頭と一人が、今、この残酷な森の中で初めて、真の意味で「対等」になった瞬間だった。
「……ねえ、いつまでも『相棒』って呼ぶのは、不作法だよね……アリシアさんたちが、名前は魂を結ぶ大切なものだって、言ってたんだ」
ジュリアンは、夕焼けの光を宿したようなワイバーンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君の名前は……アビー……アビー、って呼んでもいいかな?」
ワイバーン――アビーは、その名を慈しむように、そして肯定するように、高く、誇らしげに天へと向かって咆哮を上げた。
その声は、もはや魔物を統べる命令ではなく、友を呼ぶ、愛の旋律だった。
◇
「ジュリアン!」
異変を察知し、森の奥から私とルイ様、そしてテリオンが駆けつけた。
惨状を目の当たりにし、私は息を呑んだが、アビーの広い背中に体を預け、傷だらけになりながらもジュリアンの命に別状はなかった。
それどころか、彼はこれまでで一番強く、凛とした瞳で私たちを見つめた。
「アリシアさん、ルイさん! あの、僕……この子に、名前をつけたんです」
ジュリアンは愛おしそうにワイバーンの首を撫で、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに告げた。
「アビー、って言います。僕が呼ぶ前に、助けに来てくれたんだ。笛も吹けなかったのに……」
その報告を聞き、ルイ様は驚きに目を見開いた後、優しくエメラルドの瞳を和らげた。
「アビー……か。慈しみ深く、気高い、素晴らしい名前だ。そうか、彼女は自らの意志で、君を選んだのだね」
テリオンもまた、サイラから預かった護符を握りしめ、静かにアビーを見上げた。
「……道具による『支配』ではなく、魂の『呼応』か。不自然な術を内側から食い破るとはな」
周囲を取り巻く森の気配は、一段と重く、険しさを増している。
この森の住人たちの意思を奪い、絆を書き換えようとする、あまりに残酷で冷徹な何者かの干渉。
けれど、今、この二人の間に流れている「名前」という名の絆は、どんな暗黒の魔術であっても、決して断ち切ることはできない。
「……道具で縛る支配など、私のキッチンでは通用しませんわ。見えない場所で糸を引く不作法なお方。貴方がどれほどこの森を歪めようとも……」
私はルイ様の隣で、自身の右手を、そしてルイ様に預けられたあの「鍵」を強く握りしめた。
「私たちは『名前』を呼び合い、絆を深め、貴方の冷たい理さえも、情熱の火で焼き尽くして差し上げますわ……おもてなしの主導権は、まだ私たちが握っていますのよ」
アビーという名を得た古の竜が、再び力強く空へと舞い上がる。
その大きな翼が巻き起こす風は、初夏の湿った絶望を、一瞬だけ、けれど確かに、希望の色へと塗り替えていた。




