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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第4章

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第3話 初夏の微睡み、あるいは凪の返答

 国境の森は今、一年で最も眩い「青」の季節を迎えていた。


 早朝の雨が残した水滴が新緑の葉先で宝石のようにきらめき、湿った土の匂いと、爆発するように立ち上る若葉の芳香が混じり合う。

 耳を澄ませれば、涼を求める小鳥たちのさえずりが銀鈴のように響き、岩肌を打つ小川のせせらぎが、火照った大気を優しく冷やしていた。


 先日の不自然な「沈黙」が嘘のように、森は不作法なほどの生命力に満ち溢れている。


「……お嬢様。これほどまでに光が強いと、テラスのパラソルを新調した甲斐がありますわね。ですが、日焼けは淑女の敵。あまり長く外へいらしては困りますわ」


 背後から、完璧に磨き上げられた銀のトレイを手にしたクラリスが声をかけてくる。

 白緑の瞳に映る私は、きっと少しだけ、この平和な朝の光に毒気を抜かれた顔をしていたに違いない。


「ええ、分かっていますわ。ただ、あまりにも空が澄み渡っていて。王都でのあの冷え切った戦いが、まるで昨日の夢だったのではないかと思ってしまいますの」


「……左様でございますね。ですが、不作法な日常というものは、油断した瞬間にフライパンの底を焦がすものです……さあ、朝食の仕込みに参りましょう」


 クラリスのいつもの調子に、私はクスリと笑って、涼やかな風の抜ける厨房へと向かった。


 ◇


 厨房に入れば、そこには既に、いつもの「顔ぶれ」があった。


 ゾアは裏口の土間に座り込み、今朝ジュリアンが森で採ってきたばかりの野苺を、大きな指で大切そうに仕分けしている。

 二メートル超の巨躯が小さくなって苺を摘まむ姿は、いつ見てもこのカフェで一番微笑ましい光景の一つだ。


「……主よ。今朝の苺は格別だ。初夏の雨が、実の奥に甘露を閉じ込めたらしい。これは、あの蜂蜜をたっぷりかけたパイにするのだな?」


「ええ、もちろんですわ、ゾア。貴方が選んでくれた苺ですもの。カトリーナ、オーブンの温度調整をお願いしてもよろしくて?」


「おーっほっほっほ! 太陽の紋章を持つ王様を差し置いて、この宮廷魔導師である私に種火の番をさせるとは、どこまで不遜ですの!? ……まあ、この最高の苺を台無しにするのも不愉快ですから、特別に火を貸して差し上げますわ!」


 カトリーナが真っ赤な魔導衣の袖を少し捲り、真紅の瞳を輝かせてオーブンに魔導の炎を灯す。

 その横でジュリアンが「カトリーナさん、火力がちょうどいいです!」と、トパーズの瞳を丸くしていた。

 

 バルトはルイ様の背後に控え、群青の瞳で部屋の四隅を点検しながらも、静かに、けれど完璧な手際でルイ様好みの茶葉を蒸らしている。

 テリオンはといえば、一人窓際の席で弓の手入れをしながら、時折カメリア色の瞳を外へと向けていたが、その表情は昨日までの険しさを潜め、凪いだ海のように静かだった。


 それぞれの帰るべき場所へ戻った仲間たちの不在は、確かにこの場所を少しだけ広く感じさせた。

 けれど、残された私たちは、その空白を埋めるように、より一層丁寧に「今日」という時間を紡いでいた。


 ◇


 昼下がりの穏やかな時間。


 客足が途絶えたテラスで、私はルイ様と二人、新しく試作した「野苺と初夏ハーブの冷製スープ」を囲んでいた。


「……美味しいな。初夏の風がそのまま器の中に閉じ込められているようだ」


 ルイ様はエメラルドの瞳を和らげ、心から満足そうに微笑んだ。

 私たちは、王としての責任も、公爵令嬢としての過去も、今は一度、心の奥底に仕舞い込んでいた。

 語り合うのは、ただ、この森で生きていくための「明日」の話。


「ルイ様……来年のこの時期には、もう少し奥の谷で採れるという、あの青いベリーを加えてみようと思うのです。そうすれば、もっと涼やかな一皿になりますわ」


「来年、か……いいな。それは、君が作る新しい『夏の味』になるわけだ」


「ええ……再来年には、マルクスたちが植えてくれた果樹も実を結ぶでしょう。そうすれば、もっと贅沢なおもてなしができますわ。季節が巡るたびに、このカフェのメニューを、一つずつ増やしていきたいのです」


 結婚という言葉も、政治的な誓いも、今の私たちには必要なかった。

 ただ、「また来年も、この味を作ろう」という、ささやかな生活の延長線上にある約束。

 それが、どんな魔法の契約よりも強く、私たちの心を繋ぎ止めていた。


「……約束だ、アリシア。私は、そのすべての味を、一番近くで楽しむ客であり続けるよ」


 ルイ様の手が、私の手に重なる。

 右手の甲にある『太陽の紋章』は、今は穏やかな体温を伝えるだけの、ただの刻印のように静かだった。

 不作法な運命など、もうどこにも存在しないかのような――完璧に美しい、初夏の午後。


 ◇


 夜。

 仲間たちが寝静まり、カフェ・ヴァレンタインが深い眠りに落ちた頃。

 森の暗闇は、昼間の鮮やかさを嘘のように飲み込み、重厚な静寂を纏っていた。


 ルイ様は一人、リビングのソファで微睡まどろみの中にいた。

 窓から差し込む青白い月光が、彼の夕焼け色の髪を淡く照らしている。

 夢とうつつの境界線。

 その曖昧な意識の中で、ルイ様は「それ」を聞いた。


(……ルイ……)


 風の囁きか、あるいは木の葉が擦れ合う音か。

 けれど、それは間違いなく、彼の名を呼ぶ「声」だった。


(……聞こえているか、ルイ……良い居場所を見つけたようだな……)


 ルイ様は、跳ねるように目を開けた。

 静まり返ったリビング。

 暖炉の消えかけた炭が、パチリと微かな音を立てただけ。

 クラリスが磨き上げた銀器も、テリオンの置いた弓も、昼間と変わらぬ場所に鎮座している。

 

 気のせいか――そう思おうとしたルイ様の右手が、不意に、意思に反してピクリと跳ねた。

 紋章は光ってはいない。

 けれど、骨の芯まで届くような、絶対的な「冷たさ」がそこにあった。

 

(……アリシア、と言ったか……あの娘が焼くパンは、絶望の味によく合うだろう……楽しんでおけ、ルイ……夜明けは、すぐそこまで来ている……)


 声は、耳に届いたのではない。

 王家の血、太陽の紋章を介して、直接彼の魂へと刻み込まれた「返事」。

 アリシアが王都で見せた宣戦布告。

 ルイが選んだ「守るための王」という覚悟。

 

 ジョエル・アストライアは、それらすべてを「承知した」と言っているのだ。

 

 ルイ様は、震える右手を反対の手で固く押さえ、窓の外を見つめた。

 そこには、初夏の美しい森が広がっているはずだ。

 けれど、彼の目に映る闇の向こう側では、無数の「糸」が、このカフェを、アリシアを、そしてルイ自身の魂を絡め取ろうと、音もなくうごめいていた。


「……叔父上……貴方は、もう、ここまで……」


 ルイ様の掠れた声は、誰にも届くことなく闇に消えた。

 宣戦布告への返事は、既に届いていた。

 

 不作法な地獄へのカウントダウンは、この完璧に美しい平和な夜の中に、既に溶け込んでいた。

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