第2話 凪の朝、盤を降りる者たち
国境の森の朝は、本来なら無数の生命が謳歌する騒がしい調べで幕を開ける。
だが、王都から帰還して二日目の朝は、耳の奥が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
カフェ・ヴァレンタインの玄関先。
朝靄が立ち込める中、昨夜の賑やかさが嘘のように、一台の大きな馬車が静かにその刻を待っていた。
「……さて。お嬢様、これ以上長居をすると、私の『夢』を売る商売が本当に夢となって霧散してしまいそうだ。名残惜しいが、私は一度王都へ戻り、次の配当のための種を蒔くとしましょう」
ユリウスが、派手な外套の襟を正し、眼鏡の奥の蒼い瞳を狐のように細めた。
彼は少食ゆえに残した、今朝のフォカッチャの包みを大切そうに懐へと仕舞い込む。
「ユリウス……貴方の『種』が、不作法な毒花を咲かせないことを祈っておりますわ」
私が微笑んで返すと、ユリウスは大仰に肩を竦め、馬車のステップに足をかけた。
そして、最後に一度だけ、王都の方角――ジョエル叔父上のいる方を見やり、声音を落とした。
「……では、私は一度盤から降りましょう。次に私がこの席へ戻る時、賭け金が跳ね上がっていないことを祈りますよ。店主殿、ルイ殿……盤上の駒は、自らが駒だと気づいた時が一番強い。お忘れなきよう」
食わせ者の詐欺師らしい、けれど冷徹な警告を遺し、彼は馬車の中へと消えた。
「アリシア様……! 次は必ず、あの『森の実りのタルト』をホールで予約させていただきますわ! 道中、ギルドの報告書を書きながら、その味を反芻して耐えることにします!」
丸眼鏡の奥で鳶色の瞳をキラキラと輝かせているのはセシルだ。
彼女はクラリスと短く、けれど深い信頼の籠もった視線を交わすと、エレナの背を優しく押して馬車へと乗り込んだ。
エレナは、窓から一度だけ私とクラリスを振り返った。
その瞳には、まだ深い迷いと罪悪感が澱んでいる。
けれど、隣に座るセシルがその手を握ったのを見て、私は静かに頷いた。
「ドルガン、貴方も行ってしまうのですか。私のフライパン、もう少し見ていただかなくてもよろしくて?」
「……へっ、これ以上見たら、俺のハンマーが嫉妬しちまう。嬢ちゃん、そのフライパンはもう『完成』してる。あとはあんたが、最後まで仕事をやり遂げるだけだ……ゾア、主を頼んだぞ。この斧を錆びさせるんじゃねぇぞ」
ドルガンが、見送りに並ぶゾアの屈強な腹を拳で軽く叩く。
ゾアは「ガオッ」と短く喉を鳴らし、黄金の瞳に戦士の誓いを宿して応えた。
最後に、サイラがテリオンの前に立った。
「……テリオン。あんたの選んだ場所、大切にしなよ……里の方は、私がなんとかしておくから」
「……ああ。サイラ、お前も……無茶な狩りはするな」
短いやり取り。
けれど、二人の首元の双生石は、朝の光を受けて静かに、けれど等しく明滅していた。
馬車がゆっくりと動き出す。
砂利を踏みしめる音。
森の奥へと遠ざかっていく車輪の響き。
知略、情報、技術、そして過去の絆。
頼もしき協力者たちが去っていくその後ろ姿を見送る私の胸に、得体の知れない「空白」が、不作法に広がっていくのを感じた。
◇
馬車が見えなくなると、私たちはそれぞれの「日常」へと戻った。
私は厨房に入り、いつものようにエプロンの紐をきつく締める。
ルイ様はテラスのテーブルで、バルトが淹れたお茶を飲みながら、マルクス率いる騎士団と今日の警備体制について話し合っている。
カトリーナは「不作法な埃が舞っていますわ!」と文句を言いながら、魔法でカウンターを磨き、ジュリアンはユニコーンを連れて裏庭の片付けに向かった。
いつもと変わらない、カフェ・ヴァレンタインの朝。
……のはずだった。
(……あら?)
私は、今朝摘んできたばかりのハーブを刻もうとして、その指を止めた。
初夏のこの時期、森のハーブは瑞々しく、鼻を突くような爽やかな香りを放つはずだ。
けれど、手元にあるミントの葉は、どこか色が沈み、香りに微かな「苦み」が混じっている。
「クラリス。今朝の素材、少し元気がありませんわね……昨夜の風が強かったのかしら」
傍らで銀器を磨いていたクラリスが、手を止めて瞳を細めた。
「……お嬢様。実は、裏庭の井戸の水も、少しばかり鉄の味が強くなっているように感じられます……バルト様も、茶の香りが立ちにくいと、先ほど眉を寄せておられました」
些細な、けれど確かな異変。
それは、ジョエルの「手繰り寄せ」が、ルイ様という個人だけでなく、この森そのものの理を歪め始めている証拠に他ならなかった。
ふと、窓の外に目をやる。
テリオンが、いつもより長い時間をかけて森の奥の偵察から戻ってきたところだった。
彼の肩には、仕留めた獲物もなく、その表情は王都にいた時よりも険しい。
「……テリオン。森はどうでしたの?」
「……沈黙が広がっている。鳥の巣は空で、獣の道は消えた。まるで、森が自分の意志で、ここを『隔離』しようとしているみたいだ」
テリオンの言葉に、厨房の空気が一気に凍りつく。
隔離。
物理的な包囲網ではなく、森の生命そのものが私たちを「避けて」いる。
それは、お母様が仕掛けたような派手な罠よりも、ずっと静かで、逃げ場のない包囲だった。
◇
その日の営業が終わり、夕闇がカフェを包み込む。
私は、ルイ様の様子を伺いにテラスへ出た。
ルイ様は右手の甲を見つめたまま、微動だにせず座っていた。
そのエメラルドの瞳は、夕焼けの赤を映しているはずなのに、どこか虚ろで冷たい。
「……アリシア……引っ張られる力が、強くなっている」
ルイ様の声は、乾いた砂のように掠れていた。
「……叔父上の魔術は、私を呼び寄せるだけじゃない……この紋章を『核』にして、森の魔力を吸い上げているんだ。このままでは、この場所が……」
「ルイ様……それ以上、仰らないで」
私は、ルイ様の右手に、自分の手をそっと重ねた。
かつて彼に預けられた、あの銀の鍵の重みを胸の奥で感じる。
ルイ様が、自らの意志で嵌め直した「王」という名の檻。
ならば、その檻の中で彼が飢えないように、最高の料理を差し出すのが私の「責任」だ。
「……ハーブが少し苦いのなら、それを活かした新しいソースを作ればよろしいのですわ。水が鉄臭いのなら、それを浄化するほどの情熱で沸かせばいい……不作法な運命に、私のキッチンが屈することなどあり得ませんわ」
私は強がって見せた。
けれど、ルイ様を包み込む「引力」は、私の手のひらを通り抜けて、確実に彼を王都へと、奈落へと引き摺り込もうとしている。
夜の森が、一段と深く、重い沈黙に沈んでいく。
昨日までの賑やかさが、遠い昔の夢のように思えるほどに。
ユリウスが言った「賭け金」は、私たちの預かり知らぬところで、既に跳ね上がり始めていた。
「……おもてなしの準備、もう一段階上げる必要がありそうですわね。クラリス、明日は蔵の奥にある、あの『特別なスパイス』を出してくださいな」
「……畏まりました、お嬢様。不作法な沈黙には、香辛料の爆辞がお似合いですわね」
私たちは、暗闇の中に独り立つカフェの灯りを、消さぬように守り続けた。
それが、これから始まる地獄のような遊戯への、私たちなりの「宣戦布告」だった。




