第1話 薫風の凱旋、あるいは森の静止
国境の森は、いつだって不作法なほどに生命力に満ちている。
王都を包囲していた、あの歴史の重みで押し潰されそうな石造りの冷徹な空気とは、正反対の風景がそこにはあった。
初夏の陽光をいっぱいに浴びた梢は、燃え上がるような深緑へとその色彩を変え、風が吹き抜けるたびに波打つ緑の海が、ざわめきと共に湿った土と若葉の芳香を運んでくる。
ガタゴトと揺れる馬車の車輪が踏みしめる、柔らかな土の感触。
木漏れ日がマリンブルーの瞳を優しく射抜き、視界の端では名もなき野花が、誰に見られるためでもなく奔放に揺れていた。
ようやく、帰ってきたのだ。
私の、そして私たちの、この騒がしくて愛おしい「聖域」へ。
「……お嬢様。これほどまでに草木が伸び放題では、明日の朝一番にでもマルクスたちの騎士団に草刈りを命じねばなりませんわね。不作法極まりない成長速度ですわ。雑巾の前に、まずは鎌を新調する必要がありそうです」
馬車の窓から、生い茂るシダや蔦を眺めていたクラリスが、淡々と、けれどどこか安堵を含んだ声で呟いた。
その白緑の瞳には、かつて王宮で完璧に研ぎ澄まされていた時とは違う、故郷に戻った安らぎが微かに宿っている。
「ふふ、構いませんわよ、クラリス。この奔放さこそが、この森の最高のおもてなしですもの」
馬車が止まり、扉が開く。
降り立ったのは、王都で流行りの派手な外套を纏った、一見すると軽薄そうな面立ちの男だった。
綺麗に切り揃えられた金髪と、インテリジェンスを感じさせる眼鏡。
ユリウスが、獲物を品定めする狐のように目を細めて一礼する。
「おやおや、店主殿。この森の生命力、私の『夢』を売る商売よりもよほど強欲なようですな……さて、この不毛な道中で私の腹はすっかり空っぽだ。お嬢様の料理という名の『配当』を期待してもよろしいのかな?」
「ええ、もちろんですわ、ユリウス。セシル、貴女もそうでしょう?」
ユリウスに続いて馬車を降りたのは、麦わら色の髪を一つに束ねたセシルだった。
大きな丸眼鏡の奥で、鳶色の瞳が期待に満ちてキラキラと輝いている。
先ほどまで王都の情勢を冷徹に分析していた「影のプロフェッショナル」の姿はどこへやら、彼女は期待に胸を膨らませていた。
「アリシア様……! そのお言葉をいただけるのを、心待ちにしておりました! そしてクラリス、相変わらずフライパンの磨き具合が完璧で安心しましたわ」
親友同士の再会を祝す間もなく、――カフェ・ヴァレンタインの大きな扉が開かれた。
◇
その夜、キッチンはこれまでにない熱気に包まれていた。
王都から共に帰還した仲間たちへの労い。
そして、留守を預かっていた仲間たちへの感謝。
私は、ドルガンに鍛え直してもらった愛用のフライパンを振るい、初夏の森の恵みと、保存しておいた最高の食材を次々と魔法のように一皿へと変えていく。
「おーっほっほっほ! 随分と遅いお帰りですこと、この出来損ない令嬢! 貴女がいない間、この私の魔力が不作法に余り散らかして、森を半分ほど焼き尽くすところでしたわよ!」
プラチナブロンドの縦ロールを揺らし、カトリーナが毒舌を飛ばす。
けれど、その手は忙しなく、ジュリアンが運んできた新じゃがを魔法で丁寧に洗っていた。
「おかえりなさい、アリシアさん! 屋根の上のワイバーンも、みんな喜んでます!」
ジュリアンがトパーズの瞳を輝かせ、ユニコーンと共にテラスを駆け回る。
「……主よ。我らリザードマンは、戦いの後の甘露を何よりも愛する……肉の塩気と、溢れんばかりの蜂蜜。今夜はそれが、我の魂への最高の報酬だ。王都の飯は……少々、上品すぎて我が顎には物足りなかったのだ」
二メートル超の巨躯を椅子に沈め、ゾアが黄金の瞳を光らせる。
私は微笑み、焼き立ての分厚いイノシシ肉に、ナッツとたっぷりのハチミツを絡めた「戦士の贅沢」を差し出した。
「ええ、ゾア……ドルガン、貴方も。見てくださいな、私の相棒は、最高に調子がいいですわよ」
「……へっ、当たり前だ。この俺が魂込めて打ったんだからな……いい火加減だ、嬢ちゃん。仕事ってのは、こうして最後の一口まで責任を持って完結させるもんだな」
ドルガンが不器用に笑い、黒ビールを豪快に煽る。
バルトがルイ様の背後に控え、群青の瞳で周囲に「不作法な虫」がいないかを油断なく警戒しつつ、完璧な所作でハーブの香る茶を淹れる。
イグニスはいつものように隅の席で、死の気配を纏いながらも、運ばれてきたポタージュの香りに「生きた匂いだ」と鈍色の瞳を細めていた。
「……さて。腹が落ち着いたところで、お嬢様に『デザート』代わりの不吉な話を聞いてもらいたいところですが……」
ユリウスがフォカッチャにソースをたっぷりと付け、少食ながらも料理を堪能し終えて眼鏡を光らせる。
「ユリウス、それは野暮というものですわ。今はセシルを見てくださいな。あんなに幸せそうにスコーンを頬張っているのですから」
私の言葉通り、セシルは「影のプロフェッショナル」の面影を微塵も残さず、頬をリスのように膨らませてスコーンを楽しんでいた。
テラスの端では、サイラとテリオンが静かに座っている。
エレナもまた、クラリスが差し出した温かいスープを啜り、少しずつ、このカフェの熱に強張った心を溶かしていた。
賑やかな笑い声。食器の触れ合う音。
誰もが、「すべてを取り戻した」という幸福と、初夏の夜の風に酔いしれていた。
◇
けれど、宴も終盤に差し掛かった頃。
テラスの柵に寄りかかっていたテリオンが、不意に、森の深淵へと視線を向けた。
カメリア色の瞳が、温かな灯火を拒むように、冷徹な狩人のそれへと戻る。
「……森が、黙っている。何かが来る前の、嫌な静けさだ」
私がその後を追ってテラスに出ると、テリオンは首元の双生石を強く握りしめていた。
先ほどまで聞こえていた夜鳥の声も、初夏の夜を彩る虫の羽音も、まるで電源を切られたかのように途絶えている。
風さえも死んだ。
初夏の夜風は爽やかであるはずなのに、今の空気は不自然なほどに重く、淀み、何かに怯えている。
「テリオン? お疲れのせいですわ、きっと……この森は、私たちの味方ですもの」
「……アリシア。森は味方でも敵でもない。ただ、変化に敏感なだけだ。森が呼吸を止めるのは、圧倒的な捕食者が近くにいる時か……あるいは、森そのものの理が、見えない糸で歪められている時だ」
テリオンが指差す先。
月光を浴びて輝いているはずの木々が、不自然な角度で固まり、まるで絵画のように静止していた。
◇
深夜。
仲間たちがそれぞれの部屋へ引き上げ、私とルイ様の二人だけが残った。
暖炉の残り火を見つめていたルイ様が、不意に右手の甲を左手で強く抑え、苦しげに眉を寄せた。
「ルイ様!? どうされましたの……!」
「……熱くない。痛くも、ないんだ……ただ」
ルイ様が、震えながら手を解いた。
そこにある『太陽の紋章』は、黄金の光を失い、むしろ深く、暗い沈殿したような不気味な色を帯びていた。
そして、紋章の輪郭が、特定の方向――アストライアの方角へと、目に見えない「糸」で引かれているかのように、微かに、けれど確実に歪んでいた。
「……引っ張られている。誰かが、私の内側から、この紋章の根源を手繰り寄せようとしているんだ」
ルイ様のエメラルドの瞳に、深い戦慄が走る。
これは、お母様のような政治的な外圧でも、兵を向けた直接的な攻撃でもない。
王家の血筋そのものに干渉し、その根源から力を剥ぎ取ろうとする、非情で冷徹な、そして圧倒的な上位者の魔術。
「……こんな不作法な真似ができる人間は、この世界に一人しかいない」
ルイ様は、自身の紋章を忌々しげに見つめ、その名を口にした。
「……ジョエル叔父上だ。叔父上は、もう動いている……私から太陽を奪い、己の王座を照らすだけの、冷たい火にするために」
窓の外、月の光が雲に遮られ、森は完全な闇に飲み込まれた。
お母様という「嵐」が去った後に訪れた、死のような静寂。
それは、アストライアの真の王権を巡る、地獄の遊戯が始まった合図だった。




