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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第23話 不作法な店主と、孤独を捨てた王

 迎賓館のテラスに、正午の鐘が重く、腹に響くような音で鳴り渡った。


 ヴァレンタイン公爵夫人――お母様の手から滑り落ちた最高級の磁器が、床で無惨な破片となって飛び散る。

 それは、これまで彼女が完璧に築き上げてきた「支配」という名の虚構が、音を立てて崩壊した合図だった。


「……イグニス、貴方。自分が何をしているか分かっているの!? 取り立て屋ごときが、私を裁くというの……!」


 お母様が、初めて取り乱した声を上げた。

 氷細工のようだった美貌は、屈辱と焦燥で歪んでいる。

 けれど、イグニスは冷徹な眼差しを崩さない。


「言ったはずだ。俺は仕事をしに来ただけだと……あんたが結んだ『禁忌の契約』。その不作法な対価を、今ここで支払ってもらう」


「ふ、ふざけないでちょうだい……! ここは私の迎賓館よ! 私兵たち、この不作法な者たちを全員捕らえなさい! 今すぐに!」


 お母様が裂帛の気合で指を鳴らす。

 テラスを囲んでいた私兵たちが一斉に剣を抜き、殺気を放って踏み込もうとした。


「――そこまでだ」


 静かな、けれど有無を言わせぬ王の威厳を纏った声。

 ルイ様が一歩前へ出る。その右手の甲に刻まれた『太陽の紋章』が、かつてないほどに力強く、黄金の光を放った。


「アストライア国王の名において命ずる。武器を収めよ……貴公らが守っているのは、国家への反逆者だ。これ以上の抵抗は、一族郎党に及ぶ罪となるぞ」


 その瞬間、回廊の奥から鉄靴の音が轟いた。


「鉄衛騎士団、展開! 反逆者を包囲せよ!」


 マルクス率いる騎士たちが、正規軍の証である盾を掲げ、怒涛の勢いで雪崩れ込んできた。

 ユリウスとセシルが事前に根回しを済ませていた王都の警備隊も、既にこの館を何重にも包囲している。

 お母様の私兵たちは、互いに顔を見合わせ、力なく剣を地面に落とした。


 数的不利、大義名分の喪失。

 そして何より、目の前に立つルイ様の、すべてを焼き尽くさんとする太陽の圧力に、彼らの戦意は完全に粉砕された。


「……あ、ああ……そんな……私が、選ばれる側になるなんて……」


 お母様は、力なく椅子に崩れ落ちた。

 彼女はもう、誰の命を救うか、誰を見捨てるかを選ぶ立場ではない。ただ、自らが犯した不作法の報いを受けるだけの、一人の罪人に過ぎなかった。


 ◇


 決着がついた後、私たちはすぐに館の地下へと向かった。

 そこには、お母様の「盤面」の一部として利用されていた、大切な仲間たちが待っていた。


 地下牢へと続く階段を、人質の一報を受けて王都へ急行していたゾアが、地響きを立てて駆け下りる。

 分厚い鉄格子の前で、ゾアは咆哮を上げた。


「ガオッ! ドルガン! 我だ! 迎えに来たぞ!」


 二メートルを超える巨躯を撓ませ、ゾアが渾身の力で鉄格子を掴む。

 不快な軋み音を立てて、歪んだ鉄が強引に引き剥がされた。

 独房の奥、煤けた鉄色の髪を揺らして立ち上がったドルガンは、眩しそうに目を細めた。


「……遅ぇんだよ、トカゲ野郎。おかげでこの俺が、不作法に居眠りしちまったじゃねぇか」


「ふん、減り口を叩く余裕があるなら無事だな……さあ、立て。主の飯が待っているぞ」


 ゾアが差し出した節くれだった大きな手を、ドルガンは無言で、けれど力強く握り返した。

 ドルガンは私の方を見ると、腰にある私のフライパンを顎で差した。


「アリシアの嬢ちゃん……あんた、約束を守りやがったな。俺の仕事を、未完成のまま終わらせなかった。礼を言うぜ」


 その言葉には、職人としての誇りと、友を信じ抜いた熱い信頼が宿っていた。

 ドルガンは不器用に鼻を鳴らし、ゾアの肩を借りて歩き出した。

 戦士と鍛冶師。

 言葉などなくとも通じ合う、硬く、熱い男たちの絆がそこにはあった。


 ◇


 迎賓館の離れ。

 華やかな客間に軟禁されていたのは、サイラだった。

 テリオンが音もなく部屋に飛び込み、彼女の前に立つ。


「……無事か」


「テリオン……あんたこそ、馬鹿だね。こんなところまで来て」


 サイラは、強気な笑みを浮かべながらも、その赤紫色の瞳に安堵の涙を滲ませていた。

 二人は抱き合うことも、言葉を交わすこともなかった。

 テリオンはそっけなく、けれど視線だけは彼女の全身を舐めるように動かして怪我がないかを確認する。

 そして二人は、お互いの首元にあるお揃いの護符――『双生石』に、無意識に手を触れた。

 かつて、里の焚き火の前でテリオンが渡した、不器用な「守護」の証。

 その時、二人の指先の下で、淡い赤紫色の石が穏やかな熱を帯びた。

 それは悲劇の警笛などではなく、ただ、お互いが今この瞬間に生き、体温を分かち合っていることを知らせる、静かで確かな温もりだった。


「……温かいな」


 サイラがポツリと呟く。

 その温もりは、テリオンが自分を救いに来てくれたという「事実」そのもののように思えた。

 けれど、テリオンはすぐに護符から手を離し、窓の外を見つめた。

 彼の視線の先にあるのは、アリシアたちが待つ馬車だ。


「行くぞ。アリシアたちが待っている」


「……そうだね。わかったよ、テリオン」


 サイラは、テリオンの背中を追って部屋を出た。


 ◇


 そして、使用人用の待機室。

 隅で顔を覆って震えていたエレナの前に、クラリスが静かに跪いた。


「……エレナ」


「クラリス……! ごめんなさい、私……私、公爵夫人もお屋敷の掟も、怖くて……貴女を、騙していたのに……」


 エレナは涙で声を詰まらせ、床に伏した。

 友だと思っていた日々が、お母様の台本による「スパイ活動」だったという残酷な告白。

 けれど、クラリスは静かにエレナの肩を抱き寄せた。

 クラリスの手も、微かに震えている。


「……エレナ。貴女は不器用な人ですわ……貴女が、あの日森で食べたスープを『あったかい』と言って泣いたこと……私と夜食を食べた時の、あの眠たげな顔……それさえも演技だと言うほど、貴女は器用ではありませんわ」


 クラリスは、自分の懐から一枚の刺繍入りのナプキンを取り出した。

 エレナが、公爵邸の秘密の合図をわざと間違えて残した、あの日。


「貴女は、知らせてくれたのでしょう? ……自分がここにいることを。助けてほしいと、叫んでいたのでしょう?」


「……っ、クラリス……!」


 エレナは、クラリスの胸に縋り付いて声を上げて泣いた。

 クラリスは、友の背中を、まるで子供をあやすように優しく、何度も何度も撫で続けた。


「帰りましょう、エレナ……お嬢様の厨房は、不作法な私たちを温めるための、たくさんのスープで溢れていますのよ」


 裏切りも、偽りも、今は温かな体温の中に溶けていった。

 二人の間に流れる時間は、かつての冷え切った夜食ではなく、共に明日を生きるための、確かな希望の色に染まっていた。


 ◇


 夜明け前の王都。

 迎賓館での激闘と決着を終えた私たちは、まだ眠りの中にある街を静かに抜け、郊外の丘へと辿り着いていた。

 朝焼けの光が地平線の向こうから微かに漏れ出し、冷え切った大気を薄紫色のベールが包んでいる。


 馬車を止め、私たちはしばしの休息をとった。

 ルイ様は一人、朝露に濡れた草を踏みしめながら、遠くアストライアの王宮がそびえる方角を見つめていた。

 その背中は、かつて出会った日のような危うい孤独ではなく、一つの答えに辿り着いた者の、静かな重みを湛えている。


「……アリシア。少し、話をしてもいいかな」


 私が隣に並ぶと、ルイ様は視線を落とし、自身の右手の甲を見つめた。

 そこには、王家の宿命であり、呪いでもあった『太陽の紋章』が、夜明けの光を吸い込んで鈍く輝いている。


「父は、死の間際に私に言ったんだ……『これをジョエルに渡してはならぬ。アストライアを、お前の命を賭して守れ』と」


 ルイ様の声は、風に溶けてしまいそうなほど静かだった。


「かつての私は、この力を『壊すこと』だけを考えていた。消えてしまえば、奪い合いも憎しみも終わると思っていたんだ……だが、それは父の願いではなかった」


 ルイ様は拳を握りしめた。

 その紋章は、万物を焼き尽くす「力」ではない。

 野心家に渡せば凶器となる。けれど、王が抱え続けている限り、それは誰にも振るわせない「盾」となる。


「私は、王であり続ける……壊す王でも、奪う王でもなく、ただ『誰にも渡さない』ために……この力が二度と、君のような誰かの日常を脅かす道具にならないために、私はこの王座を、生涯の檻として受け入れようと思う」


 それは、自由を愛するルイ様にとって、あまりにも過酷な「覚悟」の告白だった。

 彼は王位という名の枷を、自らの意志で、もう一度嵌め直したのだ。


「……ルイ様。それは、とんでもなく不作法な、茨の道になりますわよ?」


「分かっている……だから、アリシア。君に、預けたいものがあるんだ」


 ルイ様は私の手を取り、その手のひらに、小さな、けれどずっしりと重い銀の鍵を置いた。

 それは王権の象徴でも、婚約の証でもない。


「これは、私が王であることを間違えそうになった時、私自身を止めるための『鍵』だ……もし私が、守るためではなく、力を振るうことに溺れてしまったら。その時は、君が私を、あの不作法なフライパンで叩き起こしてほしい」


 王として君臨し続ける。

 けれど、一人の「ルイ」という人間を、アリシアといういかりに預ける。

 ルイ様の瞳には、人生のすべてを委ねた、深い信頼が宿っていた。

 私は、その銀の鍵をそっと握りしめ、顔を上げた。

 プロポーズのような甘い言葉ではない。

 けれど、どんな契約書よりも重い、命の約束。

 私は、凛とした微笑みでお返しをした。


「……命を賭ける覚悟なら、もう十分に見せていただきましたわ」


 私は一歩、ルイ様に近づいた。

 朝焼けの光が、私たちの視線を黄金色に染め上げる。


「だから陛下……次は、何があっても私の元へ『生きて戻る覚悟』をなさいな。王様なんて不自由な役割、一人で背負うにはあまりにも退屈すぎますもの。貴方の帰る場所くらい、私が不作法に守り続けて差し上げますわ」


 結婚という形に縛られる必要など、今の私たちにはなかった。

 王として立つ男と、店主として待つ女。

 その対等な絆こそが、どんなお母様の策略も、どんな非情な宿命も打ち破る、最高のおもてなし。


 ルイ様は驚いたように目を見開いた後、これまでにないほど晴れやかな顔で笑った。


「ああ……約束する、アリシア。必ず、君の焼くパンの香りの元へ、帰るよ」


 私たちは、夜明けの光を背に受けて、愛する国境の森へと馬車を走らせた。

 車内には、再会を祝う仲間たちの声。

 ひとつの嵐は去り、私たちは確かな絆を手に、家路を急ぐ。


 ◇


 ――一方、同じ頃。

 アストライアの時計塔、その高いバルコニーから、すべてを見下ろす影があった。


「……やはり、ルイのやり方では甘すぎる」


 ルイ様の叔父――ジョエル・ソル・アストライア。


 彼は手に持った古い魔導書を閉じると、くすんだペリドットのような瞳を、去りゆく馬車へと向けた。


「太陽の紋章は、野心なき者の手にあるべきではない……あれは、世界を、運命を、思い通りに書き換えるための『筆』だ。私が、本来の持ち主であることを、その身に刻んでやろう」


 ジョエルの背後で、数人の不気味な黒魔導師たちが、影の中から音もなく現れた。

 お母様――公爵夫人のような「面子」や「家名」にこだわる戦いではない。

 ジョエルが狙うのは、ただ一つ。王権の核。


「……準備を整えろ。国境の森が、我が王座への『着火剤』となるのだ……アリシア・ヴァレンタイン。君がルイにとっての最大の弱点であるならば、君から、壊して差し上げよう」


 ジョエルの冷酷な哄笑が、朝の風に消えていく。


 馬車の揺れの中で、私はルイ様の肩に頭を預け、静かに目を閉じた。

 掴み取ったはずの平和。

 けれど、その足元で、より巨大で非情な、本物の「地獄」が口を開けて待っていることに、私はまだ気づいていなかった。



 第3章 Fin

お読みいただき、ありがとうございます!

これにて第3章完結になります。

引き続き、第4章(完結保証済です)も楽しんでいただけますと幸いです!


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