第21話 見えない糸、張り巡らされた罠
夜が明けた。
ルイ様との静かな誓いを胸に、私たちは夜明け前の霧が晴れるよりも早く、住み慣れたカフェを後にした。
潜入メンバーは、私とルイ様、そして私の侍女であるクラリス。
ルイ様の絶対的な盾であるバルト。
実務と頭脳を担うセシルとユリウス。
そして、隠密として先行するテリオンだ。
森の守りはマルクス率いる騎士団とゾア、そしてカトリーナやジュリアンに託した。
少数精鋭による、王都への強行潜入。
イグニスが差し出した「招待状」が示す三日後の正午。
そこが、お母様との、そして私の過去との最終決戦の場になる。
◇
王都へと続く街道は、国境の森とは全く別の空気を孕んでいた。
森を一歩出れば、そこにあるのはお母様が支配する「世俗」だ。
テリオンの隠密術に導かれ、バルトが周囲の警戒を完璧にこなしながら、私たちは検問を避け、公爵家の私兵の目を盗んで馬を走らせる。
王都へ近づくにつれ、街道沿いの宿場町には不穏な気配が満ちていた。
市場には活気がなく、並んでいるのは萎びた野菜ばかり。
お母様による「物流統制」の余波は、ターゲットである私だけでなく、無関係な民の食卓さえも侵食し始めていた。
「……見てくださいな。あちこちで、妙な噂が囁かれていますわ」
セシルが丸眼鏡の奥で、鳶色の瞳を険しく光らせた。
休憩のために立ち寄った小さな村の広場。
壁に貼られた布告文の周りで、人々が怯えたように、けれどどこか熱を帯びた口調で話し合っている。
『森の魔女が、王を誘惑し、王国の富を食い潰している』
『銀髪の令嬢は、公爵家の慈悲を捨て、禁忌の魔術で呪いのパンを焼いている』
語られているのは、私の知らない私の姿。
事実を歪め、正義を反転させる。
これこそが、ヴァレンタイン公爵夫人が最も得意とする「不作法な戦い方」だ。
「……徹底しているな。店主殿、貴女の母親は、王都へ着く頃には貴女を『国民の敵』に仕立て上げるつもりだ」
ユリウスが眼鏡を指先で叩き、皮肉な笑みを浮かべた。
蒼い瞳には、状況を冷徹に分析するエージェントとしての光が宿っている。
「王都へ戻るルイ殿が『魔女に操られた哀れな傀儡』として扱われれば、軍を動かす大義名分すら奪われる……招待状を受け取ってのこのこ歩いている我々を、向こうは安全な高みから笑っているだろうよ」
ルイ様は、私の手を握る力を強めた。
「……構わない。世界が君を魔女と呼ぶなら、私は喜んでその共犯者になろう」
お母様は、暴力で私を捕らえるのではなく、言葉という毒で私の「外堀」を埋め立て、国民を味方につけて私を孤立させようとしていた。
――だが、お母様の真の狙いは、もっと残酷な「配置」の中にあったのだ。
◇
潜入二日目の夜。
王都の門を目前にした野営地で、ユリウスが王都の「影」から届いた報告書を広げた。
その表情は、かつてないほどに冷え切っていた。
「……店主殿。やはり、あの女は『逃げ道』をすべて塞いで待っているようだ」
ユリウスが挙げたのは、私たちがこの森で築いた「繋がり」の急所だった。
一人は、ゾアとの言葉少なな信頼を築き上げた鍛冶師、ドルガン。
私のフライパンを直してくれたその節くれだった手に、王都の軍部から「公爵家守護兵の武装修復」という名目で召喚状が届いた。
職人としての責任を逆手に取られた彼は、王都の工廠へ足を踏み入れた瞬間に拘束されたという。
ゾアという「力」を縛るための、鉄の枷。
一人は、テリオンの心に唯一触れられるダークエルフ、サイラ。
里の存続を盾に王都の調停会議へ引きずり出された彼女は、今や迎賓館の奥で「賓客」という名の虜囚となっている。
テリオンという「影」を、光の下へ引き摺り出すための生け贄。
そして。
「……クラリス殿。君が最も案じていた『彼女』についても、動きがあった」
ユリウスの言葉に、私の隣に座っていたクラリスの指先が、目に見えて震えた。
エレナ。
かつてクラリスが公爵家で失敗し、孤独だった夜。
共に夜食を食べ、唯一弱音を吐くことができた同僚。
彼女は今も王都の公爵家でメイドとして働いているはずだった。
「エレナは……無事なのですか」
クラリスの声は、絞り出すように細かった。
「無事とは言えんな……彼女は最初から、店主殿の母親が君を監視するために付けていた『目』だったのだから」
そして、ユリウスの言葉はさらに残酷な事実を告げる。
「……だが、彼女は監視役としての任務に失敗した。店主殿がこうして王と結託し、君の母親の手を離れるのを止められなかったからな……失敗作は、処分されるのがヴァレンタイン家の掟だ」
クラリスの瞳が、これまでに見たことがないほどに激しく揺れた。
裏切られた怒りよりも先に、自分の選択のせいで、あの眠たげな瞳の友が処刑台に送られようとしているという事実。
お母様は、クラリスが最も大切にしていた「過去の温もり」さえも、彼女を飼い慣らすための冷酷な盾に変えたのだ。
「……私の友は……今は、私を跪かせるための『駒』にされている、と」
クラリスはそう呟き、それ以上、言葉を続けることができなかった。
焚き火の爆ぜる音だけが、夜の静寂を引き裂く。
誰も彼女を慰められず、誰も否定できなかった。
それが事実であり、そして――今この場では、覆しようのない現実だったからだ。
私は奥歯を噛みしめ、視線を夜空へと逃がした。
星はあまりにも澄んでいて、残酷なほどに美しい。
まるで、この世界が起きているすべてを、最初から知っていたかのように。
お母様は、私たちに選択肢を与えない。
奪い、縛り、差し出し、そして笑う。
そうして心を削りきった先で、ようやく「対話」の席に着くつもりなのだ。
――逃げ場のない夜が、静かに更けていった。
◇
潜入三日目。
目前に迫る王都の門は、獲物を飲み込もうと口を開けた巨大な怪物のようだった。
お母様は、私を止めたいのではない。
私を王都へと招き入れ、私の目の前で、私が守りたかったものすべてを「選ばせたい」のだ。
ゾアの誇りである、友の命か。
テリオンが守りたかった、里の乙女か。
クラリスが大切にしている、友との思い出か。
そして、ルイ様という運命そのものか。
「……お母様。貴女は本当に、どこまでも趣味が悪くていらっしゃいますわ」
私は、王都の迎賓館を見上げ、静かに吐き捨てた。
背後で、見えない糸が次々と手繰り寄せられていく音が聞こえる。
ドルガン、サイラ、そしてエレナ。
私たちが王都の土を踏むのと時を同じくして、彼女たちもまた、逃げ場のない「配置」へと追い込まれている。
守るべきものは、いつもこちらが気づく前に、先に捕まえられている。
それが、ヴァレンタイン公爵夫人のやり方。
私はルイ様の手を、痛いほどに強く握りしめた。
その熱だけが、冷え切った私の理性を辛うじて繋ぎ止めていた。
王都の門が、重苦しい音を立てて開く。
三日後の正午。
イグニスが待つ「最後の茶会」は、もはや話し合いの場ではない。
誰の心を折り、誰の絶望を啜るか。
お母様が完璧に配置した残酷な盤面の上で、私たちは今、最初の一歩を踏み出した。
(お母様。貴女が用意したこの茶会……私の大切なものを奪おうとするなら、そのお茶、熱々のうちに貴方のドレスへぶちまけて差し上げますわ!)
夜の王都。
華やかな祝祭の裏側で、逆襲の幕が、静かに、けれど苛烈に上がろうとしていた。




