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店主アリシアは今日も未来を美味しく調理する 〜婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の上客に甘やかされて困ってます〜  作者: 白月つむぎ
第3章

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第20話 孤独な王の残り火、不作法な独り言

 押し寄せた村人たちにスープを配り終え、彼らの怒りが安堵の涙へと変わるのを見届けた後、私の身体は鉛のように重くなっていた。

 不作法なほどに張り詰めていた緊張の糸が、カフェに静寂が戻った途端にぷつりと切れてしまったのだ。


 クラリスに支えられながら、私は二階の自室ではなく、一階の隅にある、いつものお気に入りのソファに倒れ込んだ。

 暖炉では、カトリーナが魔法で熾してくれた炎が、爆ぜることもなく静かに揺れている。

 窓の外、夜の森はどこまでも深く、冷たい。

 けれど、背中に感じるソファの感触と、微かに漂う薪の匂いが、ここが私の「城」であることを教えてくれていた。


「……お嬢様。これ以上は、おもてなしの精神よりもお体の方が悲鳴を上げます。今夜は、ここでこのままお休みください」


 クラリスが私の肩に厚手の毛布をかけ、耳元で囁いた。

 彼女の淡々とした声が、今は最高の子守唄に聞こえる。


 私は、重たい瞼を閉じる直前、暖炉の前に座り、月光に照らされた自身の右手をじっと見つめている人の姿を見た。


 ルイ様。

 かつて宴の後、離れのログハウスで「出会いの日」の思い出話を語り合った時、彼は私のステップを笑い、私の焼いたスコーンが彼を救ったと言ってくれた。

 けれど、今夜の彼の瞳には、あの時のような穏やかな熱だけではなく、もっと深淵にある、私さえもまだ踏み込ませていない「絶望の記憶」が揺らめいているように見えた。


 暖炉の爆ぜる音が、遠い日の「崩壊」の音と重なり合う。

 ルイ様は、眠りについた私の傍らで、静かに独白を始めた。

 それは私との思い出話ではなく、彼がその身に宿した「太陽」という呪いの、血塗られた起源そのものだった。


「……アリシア。君には、私が『死に場所を探していた』とだけ話したね……だが、あの夜、私が本当は何を捨て、何に焼かれたのかを語るには、まだ私の心が不作法すぎたのだ」


 ルイ様の右手の甲に刻まれた『太陽の紋章』が、暖炉の火よりも赤く、不気味に脈動していた。


 かつてのアストライア王宮。

 ルイ様の父、先代の王が崩御する直前、王宮はすでに親族たちのどす黒い欲望に飲み込まれていた。

 叔父のジョエルを筆頭とする反乱軍が王家の象徴である「紋章の魔力」を奪い取ろうと、聖域を蹂躙じゅうりんする。

 ルイ様が見たのは、父の愛ではなく、死を目前にした父の「王としての冷徹な義務」だった。


「父の手は、血と硝煙に汚れ、氷のように冷たかった……彼は私を抱きしめるのではなく、私の腕を掴み、無理やりこの紋章を刻み込んだのだ。『これをジョエルに渡してはならぬ。アストライアを、お前の命を賭して守れ』……それが、最期の言葉だった」


 紋章が強制的に継承された瞬間、ルイ様の全身を駆け巡ったのは、温かな光などではなかった。

 それは、自我を焼き尽くし、世界をすべて白く塗りつぶしてしまうほどの、暴力的なまでの「熱」だった。

 ルイ様は、父の亡骸を抱きしめる間もなく、身内同士が魔力を巡って殺し合う醜い光景を目の当たりにした。


「……太陽が、私の中で叫んでいた。奪い合う者も、奪われる者も、すべて焼き尽くせと……私は自ら聖域に火を放った。ジョエルたちの野心を灰にするためではない……こんな力があるから争いが生まれるのだという、呪いと共に、自分自身を終わらせたかったのだ」


 あの聖域の火の海。

 ルイ様は「王」として生きる道ではなく、紋章と共に、アストライアという宿命と共に、灰になって消える道を選んだ。

 バルトが彼を救い出したのは、彼が完全に「火」に飲まれる寸前だった。

 けれど、救い出されたのは彼の肉体だけで、心はあの日、聖域の灰の下に置き去りにされていたのだ。


 バルトに救出された後の数ヶ月。

 ルイ様は生きる目的を失ったまま、死人しびとのように世界を彷徨っていた。

 バルトたちが裏で動き、ジョエルたちの腐敗を暴く準備を整えていた時も、彼はただ、自分の右手に宿る「太陽」が、いつか自分を焼き尽くしてくれるのを待っていたという。


「紋章の力を使えば、世界など容易に支配できるだろう。だが、私にはそのすべてが砂を噛むような虚無にしか思えなかった……この力は、人を幸せにするものではない。国家という名の檻、義務という名の重り。私は、私が誰であるかも分からぬ場所で、ただ消えたかった」


 そうして彼は、この「国境の森」へと辿り着いた。

 あの日、彼が扉を叩いた時、その瞳が極上のエメラルドのように美しく見えたのは、そこに「生」への執着が一切なかったからなのだ。

 透明で、空っぽで、今にも消え入りそうな美しさ。


 以前、彼は「君が焼いたスコーンが心を溶かした」と言ってくれた。

 けれど、今夜、彼が私の手をそっと包み込んで紡いだ言葉は、もっと切実で、痛切な本音だった。


「アリシア……あの日、君は完璧な令嬢の仮面を被りながら、その実、私を見て『上客だ』と歓喜していたね……君がフライパンを振りかざし、この紋章の力を『パンを焼く熱』だと言い切った時……私は、父に紋章を押し付けられた日からずっと止まっていた呼吸を、ようやく再開できた気がしたんだ」


 ルイ様にとって、太陽の力は「国家を背負う王の重圧」だった。

 それを、私が「美味しいお菓子を焼くためのコンロ代わり」に格下げしてしまった。

 その不作法極まりない扱いが、彼に「一人の男として生きる許可」を与えたのだ。


「……かつての私は、この光で世界を焼こうとした。だが今は、この光で、君が眠るこの部屋を温めることが何よりも誇らしい。君の母が、どんな理屈を並べようとも関係ない。私は、あの日死なせてしまった私自身の代わりに、この『ルイ』として、君を守り抜く」


 夜が更け、暖炉の火が静かに小さくなっていく。

 ルイ様の独白が終わり、沈黙が部屋を支配した。


 私は、意識の底で、彼が今まで一人で背負ってきた「太陽」の重みを、ようやく理解し始めていた。

 彼は、王として戻るために生きているのではない。

 私という「不作法な令嬢」に叩き起こされたあの日から、彼は一人の「ルイ」として、このカフェを、この生活を守るために生きている。

 私は、重い瞼をゆっくりと押し上げ、彼のエメラルドの瞳を見つめ返した。


「……ルイ様」


「アリシア……起こしてしまったかな。不作法な独り言を、聞いていたのかい?」


「いいえ……でも、ルイ様の『太陽』が、とても温かかったものですから……目が覚めてしまいましたわ」


 私は毛布から手を出して、彼の右手の紋章に、そっと自分の指先を重ねた。

 かつて父に無理やり刻まれた呪いの印は、今は私の体温を感じて、穏やかに、優しく輝いている。


「ルイ様……あの日、金貨を置いて消えた貴方を見送った時、私は『超・上客』を逃したくない一心でしたわ……けれど、今は違います」


 私はソファから身を乗り出し、彼の額に、自分の額をコツンと寄せた。


「貴方は、お代など不要ですわ……貴方が、今日もこの店で『美味しい』と笑ってくださること……それだけで、ヴァレンタインの家名なんて、何度でも真っ赤に燃えて灰になっても構いませんのよ」


 その声を聞いた瞬間、ルイ様の瞳から一筋の雫が零れ落ち、私の頬を濡らした。

 それは、聖域の炎でも消せなかった彼の孤独が、ようやく洗い流された瞬間だった。


 カウントダウン、残り五日。

 かつて死に場所を探していた王は、今、一人の店主を守るための「最強の剣」へと変わった。

 

 お母様。

 貴女は娘を連れ戻し、王を陥れるつもりでしょうけれど、それは大きな間違いですわ。

 今のルイ様が背負っているのは、国家の誇りなどではありません。

 私の焼くスコーンの温もりと、不作法にステップを踊る私の笑顔。


 その「生活」を守るために、彼は今度こそ、その真の太陽を解き放つでしょう。

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