第20話 孤独な王の残り火、不作法な独り言
押し寄せた村人たちにスープを配り終え、彼らの怒りが安堵の涙へと変わるのを見届けた後、私の身体は鉛のように重くなっていた。
不作法なほどに張り詰めていた緊張の糸が、カフェに静寂が戻った途端にぷつりと切れてしまったのだ。
クラリスに支えられながら、私は二階の自室ではなく、一階の隅にある、いつものお気に入りのソファに倒れ込んだ。
暖炉では、カトリーナが魔法で熾してくれた炎が、爆ぜることもなく静かに揺れている。
窓の外、夜の森はどこまでも深く、冷たい。
けれど、背中に感じるソファの感触と、微かに漂う薪の匂いが、ここが私の「城」であることを教えてくれていた。
「……お嬢様。これ以上は、おもてなしの精神よりもお体の方が悲鳴を上げます。今夜は、ここでこのままお休みください」
クラリスが私の肩に厚手の毛布をかけ、耳元で囁いた。
彼女の淡々とした声が、今は最高の子守唄に聞こえる。
私は、重たい瞼を閉じる直前、暖炉の前に座り、月光に照らされた自身の右手をじっと見つめている人の姿を見た。
ルイ様。
かつて宴の後、離れのログハウスで「出会いの日」の思い出話を語り合った時、彼は私のステップを笑い、私の焼いたスコーンが彼を救ったと言ってくれた。
けれど、今夜の彼の瞳には、あの時のような穏やかな熱だけではなく、もっと深淵にある、私さえもまだ踏み込ませていない「絶望の記憶」が揺らめいているように見えた。
暖炉の爆ぜる音が、遠い日の「崩壊」の音と重なり合う。
ルイ様は、眠りについた私の傍らで、静かに独白を始めた。
それは私との思い出話ではなく、彼がその身に宿した「太陽」という呪いの、血塗られた起源そのものだった。
「……アリシア。君には、私が『死に場所を探していた』とだけ話したね……だが、あの夜、私が本当は何を捨て、何に焼かれたのかを語るには、まだ私の心が不作法すぎたのだ」
ルイ様の右手の甲に刻まれた『太陽の紋章』が、暖炉の火よりも赤く、不気味に脈動していた。
かつてのアストライア王宮。
ルイ様の父、先代の王が崩御する直前、王宮はすでに親族たちのどす黒い欲望に飲み込まれていた。
叔父のジョエルを筆頭とする反乱軍が王家の象徴である「紋章の魔力」を奪い取ろうと、聖域を蹂躙する。
ルイ様が見たのは、父の愛ではなく、死を目前にした父の「王としての冷徹な義務」だった。
「父の手は、血と硝煙に汚れ、氷のように冷たかった……彼は私を抱きしめるのではなく、私の腕を掴み、無理やりこの紋章を刻み込んだのだ。『これをジョエルに渡してはならぬ。アストライアを、お前の命を賭して守れ』……それが、最期の言葉だった」
紋章が強制的に継承された瞬間、ルイ様の全身を駆け巡ったのは、温かな光などではなかった。
それは、自我を焼き尽くし、世界をすべて白く塗りつぶしてしまうほどの、暴力的なまでの「熱」だった。
ルイ様は、父の亡骸を抱きしめる間もなく、身内同士が魔力を巡って殺し合う醜い光景を目の当たりにした。
「……太陽が、私の中で叫んでいた。奪い合う者も、奪われる者も、すべて焼き尽くせと……私は自ら聖域に火を放った。ジョエルたちの野心を灰にするためではない……こんな力があるから争いが生まれるのだという、呪いと共に、自分自身を終わらせたかったのだ」
あの聖域の火の海。
ルイ様は「王」として生きる道ではなく、紋章と共に、アストライアという宿命と共に、灰になって消える道を選んだ。
バルトが彼を救い出したのは、彼が完全に「火」に飲まれる寸前だった。
けれど、救い出されたのは彼の肉体だけで、心はあの日、聖域の灰の下に置き去りにされていたのだ。
バルトに救出された後の数ヶ月。
ルイ様は生きる目的を失ったまま、死人のように世界を彷徨っていた。
バルトたちが裏で動き、ジョエルたちの腐敗を暴く準備を整えていた時も、彼はただ、自分の右手に宿る「太陽」が、いつか自分を焼き尽くしてくれるのを待っていたという。
「紋章の力を使えば、世界など容易に支配できるだろう。だが、私にはそのすべてが砂を噛むような虚無にしか思えなかった……この力は、人を幸せにするものではない。国家という名の檻、義務という名の重り。私は、私が誰であるかも分からぬ場所で、ただ消えたかった」
そうして彼は、この「国境の森」へと辿り着いた。
あの日、彼が扉を叩いた時、その瞳が極上のエメラルドのように美しく見えたのは、そこに「生」への執着が一切なかったからなのだ。
透明で、空っぽで、今にも消え入りそうな美しさ。
以前、彼は「君が焼いたスコーンが心を溶かした」と言ってくれた。
けれど、今夜、彼が私の手をそっと包み込んで紡いだ言葉は、もっと切実で、痛切な本音だった。
「アリシア……あの日、君は完璧な令嬢の仮面を被りながら、その実、私を見て『上客だ』と歓喜していたね……君がフライパンを振りかざし、この紋章の力を『パンを焼く熱』だと言い切った時……私は、父に紋章を押し付けられた日からずっと止まっていた呼吸を、ようやく再開できた気がしたんだ」
ルイ様にとって、太陽の力は「国家を背負う王の重圧」だった。
それを、私が「美味しいお菓子を焼くためのコンロ代わり」に格下げしてしまった。
その不作法極まりない扱いが、彼に「一人の男として生きる許可」を与えたのだ。
「……かつての私は、この光で世界を焼こうとした。だが今は、この光で、君が眠るこの部屋を温めることが何よりも誇らしい。君の母が、どんな理屈を並べようとも関係ない。私は、あの日死なせてしまった私自身の代わりに、この『ルイ』として、君を守り抜く」
夜が更け、暖炉の火が静かに小さくなっていく。
ルイ様の独白が終わり、沈黙が部屋を支配した。
私は、意識の底で、彼が今まで一人で背負ってきた「太陽」の重みを、ようやく理解し始めていた。
彼は、王として戻るために生きているのではない。
私という「不作法な令嬢」に叩き起こされたあの日から、彼は一人の「ルイ」として、このカフェを、この生活を守るために生きている。
私は、重い瞼をゆっくりと押し上げ、彼のエメラルドの瞳を見つめ返した。
「……ルイ様」
「アリシア……起こしてしまったかな。不作法な独り言を、聞いていたのかい?」
「いいえ……でも、ルイ様の『太陽』が、とても温かかったものですから……目が覚めてしまいましたわ」
私は毛布から手を出して、彼の右手の紋章に、そっと自分の指先を重ねた。
かつて父に無理やり刻まれた呪いの印は、今は私の体温を感じて、穏やかに、優しく輝いている。
「ルイ様……あの日、金貨を置いて消えた貴方を見送った時、私は『超・上客』を逃したくない一心でしたわ……けれど、今は違います」
私はソファから身を乗り出し、彼の額に、自分の額をコツンと寄せた。
「貴方は、お代など不要ですわ……貴方が、今日もこの店で『美味しい』と笑ってくださること……それだけで、ヴァレンタインの家名なんて、何度でも真っ赤に燃えて灰になっても構いませんのよ」
その声を聞いた瞬間、ルイ様の瞳から一筋の雫が零れ落ち、私の頬を濡らした。
それは、聖域の炎でも消せなかった彼の孤独が、ようやく洗い流された瞬間だった。
カウントダウン、残り五日。
かつて死に場所を探していた王は、今、一人の店主を守るための「最強の剣」へと変わった。
お母様。
貴女は娘を連れ戻し、王を陥れるつもりでしょうけれど、それは大きな間違いですわ。
今のルイ様が背負っているのは、国家の誇りなどではありません。
私の焼くスコーンの温もりと、不作法にステップを踊る私の笑顔。
その「生活」を守るために、彼は今度こそ、その真の太陽を解き放つでしょう。




