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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第19話 飢えた群衆、逆転のチェックメイト

 お母様が仕掛けた「生存試験」の二日目。


 森の境界線は、不気味なほどの静寂に包まれていた。

 供給が止まり、外部との音信が絶たれた世界で、私たちは大釜の湯気だけを頼りに結束を固めていた。

 だが、その平穏は、夕闇とともに現れた「赤」によって無残に焼き払われた。


 森の入り口を照らしたのは、沈みゆく夕日ではない。

 それは、数百の松明が放つ、怒りと絶望の火光だった。


「食料を出せ! ヴァレンタインの娘が備蓄を独占しているのは分かっているんだ!」


「俺たちの子供は今日、一欠片のパンも食べていないんだぞ! 貴族だけが温かいスープを飲んでいるなんて許さない!」


 怒号が、冷たい夜気を震わせてカフェまで届く。

 押し寄せたのは、近隣の村々に住む人々だった。

 本来ならば、私の店に新鮮な卵や野菜を届けてくれていた、顔なじみの人々。

 彼らの手には農具や薪が握られ、その瞳には理性を失った飢えの衝動が宿っていた。


「……不作法にも程がありますわね」


 私はテラスの最前線に立ち、暗い森の奥から迫る火の列を見つめた。

 隣ではマルクスが剣の柄に手をかけ、テリオンが音もなく矢を番えている。

 ゾアは巨大な斧を地面に突き立て、黄金の瞳を険しく光らせていた。


「主。我に命じよ。一度でも吼えれば、あの程度の人間ども、一睨みで追い散らしてくれよう」


「……アリシア。奴らは完全に正気を失っている……少し、脅してやる必要があるな」


 テリオンのカメリア色の瞳が、冷徹な狩人のそれへと変わる。


「待ちなさい……マルクス、テリオン、ゾア。武器を収めてちょうだい」


 私の静かな、けれど拒絶を許さない声に、彼らが驚いたように私を見た。


「アリシア様、彼らは暴徒です! 放置すればこの店は火の海になりますわ!」


 セシルが丸眼鏡の奥で焦燥を露わにする。

 ユリウスも眼鏡を指先で叩き、冷たく分析した。


「……店主殿、これはお母様の差し金ですよ。村々に『カフェが全食料を接収した』というデマを流し、困窮した民をわざとこちらへ誘導した……お母様は、貴女が彼らを武力で退けるのを待っている。自国の民を傷つけた残虐な令嬢という汚名を、貴女に被せるためにね」


 分かっていた。

 お母様にとって、村人の命さえも私を汚すための使い捨ての道具に過ぎないのだ。

 だからこそ、私は彼らの期待に、これっぽっちも応えてやるつもりはなかった。


「……クラリス、準備は良くて?」


「……はい、お嬢様。不作法な数ですが、幸いにして、私たちの『心臓』は絶好調ですので」


 クラリスの視線の先には、大釜の前で顔を真っ赤にして魔力を練り上げるカトリーナの姿があった。


「おーっほっほっほ! あー忙しい! 宮廷魔導師であるこの私が、どうしてこんな無知な連中のために火力を調整しなきゃならないのよ! ……さあ、アリシア! 準備はできていますわ、さっさと始めなさい!」


 私は頷き、一人で森の入り口へと歩き出した。

 背後でルイ様が「アリシア!」と叫ぶ声がしたが、私は振り返らなかった。

 松明の明かりが、私の銀髪を不気味に照らし出す。

 暴徒たちの怒号が、私を飲み込もうと波のように押し寄せた。


「ヴァレンタインの娘が出てきたぞ! 隠しているパンを今すぐ出せ!」


 最前線の男が、錆びた鍬を私に突きつけた。


「……淑女に対して、ずいぶんと不作法な挨拶ですわね」


 私は、凛とした声を森全体に響かせた。

 その声の鋭さに、男たちが一瞬、怯んだように動きを止める。


「皆さんは、お母様の嘘に踊らされていることに、まだお気づきになりませんの? ……私の倉庫にあるのは、この森で採れたわずかな恵みだけ……ですが」


 私は、後ろに控えていた騎士たちに合図を送った。

 彼らが運び出してきたのは、煮えたぎる大釜だった。

 カトリーナが魔法で温度を保ち続けた、あの素朴な、けれど力強いスープ。


「……飢えているのは、貴方たちだけではありません。ですが、私の店では、おもてなしの精神だけは枯渇しておりませんの。そこに並びなさい。順番に、皆さんに温かいスープを振る舞いますわ」


「嘘だ! 毒でも入れているんだろう!? 俺たちを黙らせるための罠だ!」


 一人の若者が叫ぶ。

 私は迷うことなく、配給用の木べらでスープを掬い、自ら飲み干した。


「毒も、贅沢も入っておりませんわ……あるのは、今日という日を生き抜くための、土と森の力だけ。これを飲む者は、私の家族です。家族を裏切るほど、私は不作法な人間ではありませんの」


 沈黙が広がった。

 スープから立ち上る、滋養に満ちた野草ときのこと、わずかな肉の香り。

 お母様に供給を止められ、飢えに震えていた彼らの鼻腔に、その香りが「生きろ」という本能を呼び覚ました。

 一人、また一人と、鍬や薪を落とし、大釜の前へと跪く。

 クラリスとセシルが手際よくスープを配り、騎士団がそれを補助する。

 怒号は、いつの間にか啜り泣きと、感謝の呟きに変わっていった。


「……アリシア様の『おもてなし』は、武器よりも遥かに鋭いな」


 マルクスが剣を収め、感嘆の息を漏らした。

 お母様の仕掛けた「民衆の暴動」という駒は、温かなスープ一杯によって、完璧に瓦解したのだ。


 騒動がようやく収まり、村人たちが配られた食料を手に、静かに村へと帰っていった頃。

 森の深淵から、一羽の灰色の鷹が舞い降りてきた。

 その脚に結びつけられていたのは、小さな筒。

 私は震える指先でその封を解いた。

 中から現れたのは、イグニスの筆跡で記された短くも冷徹なメッセージだった。


『仕事は終わった。お前の母親の「二つ目の金庫」をこじ開けたぞ。中身は、あの女が絶対に公にできない「不法な魔術契約」の原本だ。三日後の正午。王都の北、公爵家の迎賓館で「最後の茶会」が催される。アリシア、お前の不作法な逆襲に、これ以上のスパイスはないはずだ。俺は先に行って、席を確保しておく』


「……死神から、招待状が届いたようですわね」


 私の言葉に、ユリウスが不敵に笑い、セシルが眼鏡を輝かせた。

 ルイ様が、私の肩を力強く抱き寄せた。


「三日後……アリシア。行こう、王都へ。お母様の用意した劇場を、今度は私たちが乗っ取ってやるんだ」


「ええ、ルイ様……不作法な期限はあと六日……ですが、お母様にトドメを刺すには、三日もあれば十分ですわ」


 私は、イグニスの招待状を握りしめ、闇の向こう側にそびえる王都の空を見据えた。

 村人との絆を深め、イグニスが決定的な「急所」を握りしめて戻ってきた。

 逆転のピースは、今、私の手の中で完璧に噛み合った。


 カウントダウン、残り五日。

 カフェ・ヴァレンタイン、その店主による史上最高の「おもてなし」――お母様の社会的処刑への準備が、今、猛烈な勢いで動き出した。

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