第8話 淑女のプライド、ソースと一緒に拭い去られる
「お嬢様。その蕩けたお顔を戻すのに、あと何分必要ですか? 愛の語らいも結構ですが、ベーコンの鮮度は待ってくれません」
背後から響いた、氷のように冷ややかな声。
私はハッと我に返り、ルイ様に預けていた手をもぎ取るようにして引き剥がした。
「ク、クラリス! いつからそこに……っ!」
「お嬢様が『落ち着きのない女です』と、これまで費やした淑女教育の歳月を無に帰すような発言をされたあたりから、ずっとここに控えております」
クラリスは感情を一切表に出さず、銀トレイの上に市場で仕入れたばかりの最高級ベーコンを、まるで儀式のように広げて見せた。
「愛ではお腹は膨れません。自由を謳歌するには、まず新メニューの開発が急務です。さあ、キッチンへ。ルイ様も、お嬢様の『隣に座る権利』を行使なさるなら、見学料代わりに少し働いていただけますか?」
不敬! なんて不敬なのクラリス!!
私は内心で絶叫し、ルイ様に謝罪しようと振り返る。
しかし、彼は気分を害するどころか、むしろ楽しそうに目を輝かせていた。
「ああ、もちろんだ。私も、アリシアが新しいメニューを生み出す過程に協力できるなら、これほど嬉しいことはない」
そう言うと、ルイ様はこともあろうに、その仕立ての良い上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げ始めた。
露わになったのは、一人の男として鍛え上げられた、しなやかで力強い腕。
(ちょっ……待って、ルイ様!? その腕まくりは反則ですわ! そんな格好で包丁を持たれたら、私の心臓がベーコンより先に刻まれてしまいます!!)
私は完璧な淑女の微笑みを貼り付けたまま、内心ではドレスの裾を握りしめて悶絶する。
(……ああ、もう。かっこよすぎて視線のやり場に困りますわ。追放されて、この店を開いて、本当に、本当に良かった……!)
クラリスはそんな私の様子を横目に、「やれやれ」と小さく肩をすくめる。
「お嬢様、顔が赤いです。火の気のせいにするには、まだコンロに火も点けていませんが」
「……っ、うるさいわね! さあ、始めますわよ、新メニュー試作会を!」
私は必死に自分を鼓舞し、エプロンの紐を強く締め直す。
ルイ様はナイフを手に取ると、迷いのない動きで色鮮やかな野菜を次々と刻んでいく。
「実は、たまに周囲の目を盗んで一人で遠出した時に、少し覚えたんだ……自分の食べるものを自分で用意するのは、案外、心が落ち着くものでね」
(……お忍びで一人旅? そんな危ないことをなさっていたの!?)
驚きつつも、その無駄のない所作に見惚れてしまった。
高貴な身分であれば、指先一つ動かさずとも最高の料理が運ばれてくるはず。それなのに、彼はあえて自分の手を汚し、自ら糧を得る道を選んだことがある。
それは、彼がどれほど切実に「一人の人間」としての実感を求めていたかの証だった。
「ルイ様、お上手ですわ……でも、これからは一人で旅をなさる必要はありません。この店に来ていただければ、私がいつでも、最高のお料理をお作りしますから」
ルイ様はナイフを止め、ふっと柔らかく微笑んだ。
「それは心強い……では、今は助手として、君の技術を盗ませてもらおうかな」
二人の間に流れる、穏やかで、けれど少しだけ熱を帯びた空気。
それを背後から見ていたクラリスが、まな板の上にこれ見よがしにベーコンを置いた。
「お嬢様、ルイ様。見つめ合ってもベーコンは焼けません。そろそろ火を入れてもよろしいですか? 鮮度が泣いています」
「わ、分かっているわよ、クラリス!」
私は慌ててフライパンを火にかけた。
焼きたてのベーコンから溢れ出す芳醇な脂の香りが、キッチンの空気を支配した。
クラリスが手際よくトーストしたパンに、厚切りベーコンと瑞々しいレタス、そして真っ赤なトマトを挟んでいく。
「さあ、試作第一号です。ベーコンと彩り野菜のサンドイッチ、お召し上がりください」
クラリスが差し出した一皿を、私たちはテラスへと運び、三人で同時に頬張った。
サクッとしたパンの歯ごたえの後に、燻製の香りが鼻を抜け、トマトの酸味とベーコンの旨味が口いっぱいに広がる。
「……美味しい! これなら、お菓子以外の軽食を求めているお客様も大満足ですわ!」
私はあまりの美味しさに、思わず淑女の仮面を忘れて頬を緩ませた。
ルイ様も一口食べると、驚いたように目を見開き、それから心底幸せそうに目を細めた。
「……素晴らしいな。市場で選んだ素材が、君たちの手でこれほど力強い味になるとは。一人で旅をしていた時に食べた、どの食事よりも温かいよ」
ルイ様のその言葉に、胸が熱くなる。
彼が求めていた「自由」を、私の店で提供できたことが、何よりも誇らしかった。
「よかったです。ルイ様にも気に入っていただけて、私――」
嬉しさのあまり饒舌になろうとした私の言葉が、不意に途切れた。
ルイ様が、ごく自然な動作で身を乗り出し、私の顔の近くに手を伸ばしてきたからだ。
「……アリシア、少しついているよ」
彼の手のひらが私の頬を包み込み、親指が私の唇の端をそっと、なぞるように拭った。
(……!? ひっ、今、何を――!?)
指先が触れた一瞬の熱が、唇から顔中へと燃え広がる。
ルイ様は拭ったソースを気にする風もなく、ただ慈しむような瞳で私を見つめていた。
そのあまりにも甘く、真っ直ぐな視線に、私は心臓が口から飛び出しそうになる。
「……ふむ。お嬢様の顔色が、トマトよりも赤くなりましたね。火はもう止めてあるはずですが」
クラリスの、淡々とした、けれど確実な追撃が飛んでくる。
「クラリス! もう、あなたは黙ってベーコンを食べていてちょうだい!」
私は、爆発しそうな羞恥心を隠すように、残りのサンドイッチを必死に口に詰め込んだ。
もしお父様やお母様が、殿方に口元を拭われ、私が完全に茹で上がったタコのような無様な姿で悶絶している今の光景を見たならば。
間違いなく「ヴァレンタイン家の品位が、ソースと一緒に拭い去られた!」と叫びながら、その場で卒倒することだろう。




