第17話 加速する絶望、七日間のカウントダウン
夜明け前の蒼い霧を切り裂き、私たちはカフェ・ヴァレンタインへと帰り着いた。
背負った商人の呼吸は浅く、けれど確実に「生」の温もりを保っている。
隣を歩くテリオンの足取りには微かな疲労の色が見えたが、そのカメリア色の瞳は、任務を完遂した狩人の誇りで静かに光っていた。
裏口の扉を開けると、そこには寝る間も惜しんで待っていたルイ様、そしてユリウスとセシルの姿があった。
「アリシア……! 無事だったか!」
ルイ様が私を抱き寄せ、その安堵の吐息が私の首筋を揺らす。
「ただいま戻りましたわ、ルイ様。不作法な場所でしたけれど、連れ戻すべき『宝物』と、お母様の落とし物をしっかり回収して参りましたわ」
私は懐から、あの汚れた偽帳簿を取り出し、テーブルの上に置いた。
傷ついた商人をクラリスたちに託し、私たちはすぐさま作戦会議室――いつものカフェの奥の円卓に集まった。
マルクスが運んできた熱い珈琲の香りが、凍りついた私の神経をゆっくりと解きほぐしていく。
「……さて、狐の出番ですね。店主殿が命懸けで持ち帰ったこの『デザート』、じっくり吟味させてもらうとしましょう」
ユリウスが眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、帳簿のページを捲った。
その隣で、セシルもまた丸眼鏡を直し、恐ろしい速さで数字の羅列を読み解いていく。
「……なるほど。アリシア様、これは傑作ですわ」
セシルが、感嘆と嫌悪が混じり合ったような溜息を漏らした。
「お母様の狙いは、やはりルイ様でした。この帳簿には、公爵家の資産がベリウス公国を通じてアストライアの反政府勢力へ流れたという偽の記録が、極めて巧妙に仕込まれています。もしこれが公になれば、アストライア王であるルイ様は『隣国の力を借りて自国の秩序を乱そうとした』という大義名分で、国際社会から、そして自国内からも追放されることになりますわ」
「つまり、私はルイ様を陥れるための『共謀者』という配役だったわけですわね」
私の言葉に、ユリウスが低く笑った。
「ええ。ですが店主殿、お母様は一つだけ計算違いをしました。この帳簿、偽造の過程で『本物の汚職』の痕跡を隠しきれていない……このベリウス公国の高官への賄賂、そして私兵の維持費。これは公爵家がグラン・ロアに報告している公式の支出枠を遥かに超えています」
ユリウスが地図の上に一本の線を引く。
「この証拠を、お母様と敵対しているグラン・ロアの穏健派貴族、そしてアストライアの議会へ同時に投げ込む……そうすれば、お母様の仕掛けた『反逆罪』という爆弾は、彼女自身の『横領と私兵流用』という特大の自爆スイッチへと書き換わる……店主殿、逆転の筋道は見えましたよ」
セシルが不敵に、そしてお茶目に片目を瞑ってみせた。
「勝てる筋ですわ、アリシア様。残りの二十一日で、私たちが王都の世論と法廷を味方に付けてご覧に入れます。お母様が勝利を確信して口を開けた瞬間に、この毒入りスープを飲み込ませてやりましょう」
希望の光が見えた。
ユリウスとセシルという「影のプロフェッショナル」が揃えば、どんな複雑な不作法も解決できる。
お母様を……あの冷徹な支配を、今度こそ突き崩せるかもしれない。
そう確信し、私がようやく安堵の笑みを浮かべようとした、その時だった。
バタン! と、激しく表の扉が開かれた。
飛び込んできたのは、街へと偵察に出ていた鉄衛騎士団の一員だった。
その顔は蒼白で、肩で激しく息をしている。
「報告します! グレンディルの街、国境の全ての街道で異変が起きています!」
「……何があった」
マルクスが立ち上がり、騎士の言葉を促した。
「公爵夫人の名で、通達が出されました……『国境の森への全物流を、本日この瞬間を以て、恒久的に遮断する』と! 期限だった満月を待たず、ベリウス公国の正規軍が国境門を封鎖。街道には公爵家の私兵が溢れ、森に向かう商車は一律で接収、抵抗する者はその場で処刑すると宣言しています!」
店内の空気が、一瞬で真空になったかのように凍りついた。
「……本日? 期限は二十一日後だったはずでは……!」
セシルが驚愕に目を見開く。
「お母様が……気づいたのですわ」
私は、震える唇を噛み締めた。
監獄から商人が消え、帳簿が奪われた。
お母様は、私の不作法な抵抗に即座に反応したのだ。
猶予を与えて私に策を練らせるよりも、今すぐ全てを叩き潰す道を選んだ。
ユリウスが忌々しげに眼鏡を指で叩く。
「……チッ、想定より遥かに手が早い。これでは世論を固める時間も、代わりの供給路を確保する時間もありません。店主殿、これは『兵糧攻め』ではなく、ただの『虐殺』ですよ」
さらに追い打ちをかけるように、騎士が告げた。
「それだけではありません。公爵夫人は『森の浄化』と称し、一週間後にはベリウス公国との合同演習として、武装した私兵団をこの森へ直接踏み込ませると……!」
「二十一日」という猶予は、一瞬にして消え去った。
残された時間は、わずか七日。
しかも、供給は「今」この瞬間から完全に断たれたのだ。
カフェの棚にある小麦粉の残量、地下室の貯蔵品、そして森の仲間たちの空腹。
お母様は、私が正論で戦うための「土俵」そのものを、暴力的に蹴り飛ばした。
これが、ヴァレンタイン公爵夫人の真の恐ろしさだった。
正論も、猶予も、希望も与えない。
ただ、逆らう者には物理的な滅びのみを与える。
「……不作法にも程がありますわ。お母様、貴方はそこまでして、私の居場所を……私の愛する人たちを壊したいのですのね」
ルイ様が、私の手を痛いほど強く握りしめた。
「アリシア……アストライアの軍を動かす準備をしよう。もはや外交の問題ではない。これは侵略だ。君を守るためなら、私は……」
「……いいえ、ルイ様。それはお母様の思う壺ですわ」
私は、エメラルドの瞳を見つめ返し、静かに、けれど苛烈に首を振った。
ルイ様が動けば、グラン・ロアとの戦争になる。
そうなれば、この森は真っ先に戦火に包まれ、誰も救われない。
七日。供給は停止。
逆転のシナリオは手元にあるけれど、それを実行するための「時間」と「糧」が圧倒的に足りない。
絶望が、冷たい泥のように私の足元から這い上がってくる。
けれど、私の右手が触れているフライパンの柄だけは、驚くほど熱く、私の心臓を叩いていた。
イグニスがどこかで戦っている。
ユリウスとセシルが知恵を絞っている。
テリオンが私を導いてくれた。
この絆の全てを、私は「負けました」の一言で終わらせるわけにはいかない。
「……七日……結構ですわ。お母様がそう来るというのなら、私はその七日間で、この森に『奇跡』を調理して差し上げますわ」
窓の外、朝焼けが森を赤く染め始めていた。
それはまるで、これから流れる血の色か、あるいは、私の情熱が燃え上がる炎の色か。
蜂蜜色のまどろみは完全に消え去り、私たちは今、本当の意味で死線の上に立たされた。
勝てると思わせてから、もっと追い込む。
お母様らしい、最高に不作法なやり方だ。
だが、受けて立つ。
ヴァレンタインの娘を、甘く見ないことだ。
私は、拳を固く握りしめ、かつてないほど鋭い眼差しで、閉ざされた国境の向こう側を睨みつけた。
残り、七日。
カフェ・ヴァレンタイン、最大の「おもてなし」の準備が、今、始まった。




