第16話 不作法な帳簿、死神との交差
鼻腔を刺すのは、湿った土の匂いと、鉄錆が混じったような重い水の香りだった。
テリオンの導きで潜り込んだ排水溝は、大柄な男性なら肩を擦るほどに狭く、這うようにして進むしかなかった。
冷たい泥水が指先を麻痺させ、暗闇が視覚を奪おうとする。
けれど、私の前を行くテリオンの背中からは、迷いというノイズが一切聞こえなかった。
カチャリ、と微かな金属音が響く。
テリオンが監獄内部へと続く鉄格子を、音もなく外した合図だった。
私たちは、湿った空気が淀む地下通路へと這い上がった。
そこは外気から遮断され、魔法灯の淡い光だけが壁を不気味に照らし出していた。
「……静かすぎますわね。交代の看守の足音も、鍵の束が鳴る音も聞こえませんの?」
私は、旅装束の下に忍ばせたフライパンの柄を握りしめながら、小声で呟いた。
ここはベリウス公国北端。
お母様が息の掛かった傭兵たちを配置し、厳重に固めているはずの私設監獄だ。
それなのに、通路の奥から漂ってくるのは、凍りついたような静寂だけだった。
「……フン。不気味なほど、仕事の痕が綺麗だ」
テリオンが瞳を細め、前方の角にある看守室を見据えた。
私たちは壁に背を預けながら、慎重に部屋の中を覗き込んだ。
そこには、三人の看守がいた。
一人は机に突っ伏し、二人は壁に背を預けて座り込んでいる。
まるで、あまりの退屈さに深い眠りに落ちたかのような姿だった。
けれど、その傍らにある魔法灯が、彼らの首筋に刻まれた「一閃」を無慈悲に照らし出していた。
苦悶の表情も、争った形跡もない。
ただ、呼吸という行為だけが、そこから完璧に、そして静かに取り除かれていた。
「これ……テリオン、貴方の仕業ではありませわよね?」
「……馬鹿を言うな。私はお前とずっと一緒にいた。それに、これは弓の仕事ではない……刃、それも極限まで研ぎ澄まされた、一撃必殺の職人の仕業だ」
テリオンは死体に触れることなく、その傷口を一瞥しただけで断じた。
彼の声には、同じ「闇」に生きる者としての、隠しきれない警戒と敬意が混じっていた。
私の脳裏に、アッシュグレーの長髪を編んだ一人の男の姿が浮かんだ。
(イグニス……貴方、まさか。先回りして、この場所を掃除してくださったの?)
「……アリシア、止まっている暇はない。奥の独房だ。そこだけ、魔力の流れが不自然に澱んでいる」
テリオンに促され、私は思考を切り替えて走り出した。
死体が転がる通路を抜け、最下層の重厚な扉の前に立つ。
テリオンが細い針を使って解錠すると、重苦しい音を立てて扉が開いた。
独房の隅、藁の山の上に、一人の男がうずくまっていた。
泥と汗に汚れ、見る影もなくやつれたその姿は、かつて私の店に、最高の果実酢や新鮮なオリーブを誇らしげに届けてくれた、あの陽気な商人のものだった。
「……あ、アリシア様……? 幻、か……ついに、お迎えが来たのか……」
男は力なく顔を上げた。
その瞳には絶望の影が深く刻まれ、震える手には、くしゃくしゃになった一枚の紙が握りしめられていた。
「幻ではありませんわ! 迎えに来ましたの。不作法にも程があるこの檻から、貴方を連れ出しに」
私が駆け寄ると、商人は信じられないものを見るように、私の服の裾を震える手で掴んだ。
「逃げて、ください……アリシア様。これは、罠だ……公爵夫人の狙いは、店を止めることじゃない……この森を……アストライアの王ごと、反逆罪に……」
「反逆罪……? どういうことですの?」
商人が差し出した、その汚れた紙束。
私はそれをひったくるようにして受け取り、淡い魔法灯の光にかざした。
そこに記されていたのは、商流の記録ではない。
お母様が、ベリウス公国の腐敗した貴族たちと共謀し、公爵家の資産を「アストライア王国への軍事資金」として偽装して流した、架空の帳簿だった。
お母様の真の目的は、私を捕らえることではない。
この「偽りの帳簿」を証拠として突きつけ、ルイ様が私のカフェに便宜を図ったことを「公爵家を通じた国家反逆の共謀」として、社会的、政治的に抹殺すること。
カフェは、そのための劇場に過ぎなかったのだ。
「……徹底していますわね。私の自由を奪うだけでなく、私が愛したこの森も、ルイ様さえも、完膚なきまでに焼き尽くすつもりですのね、お母様」
怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、私は必死で抑えた。
この商人が生かされていたのは、満月の夜に、お母様の目の前で「ルイ王との共謀」を認めさせるための拷問の時間を稼ぐためだったのだ。
「……話は後だ。追手が来るぞ」
テリオンが鋭く警告を発した。
通路の向こうから、複数の足音が近づいてくる。先ほどの死体を見つけた者たちだろう。
「テリオン……この方を、連れ出せますわね?」
「……私の背中を信じろ。だが、正面の露払いは頼んだぞ、アリシア。そのフライパン、ただの飾りではないのだろう?」
「勿論ですわ。不作法な汚れを落とす『お掃除』の時間ですもの」
私は、腰からフライパンを引き抜き、力強く構えた。
ドルガンが直してくれたこの重み。
私の自由を支える、世界でたった一つの相棒。
その時。
通路の奥、迫り来る足音とは別の方向から、聞き覚えのある低く冷ややかな声が響いた。
「……ふむ。案外、早かったな。畑の『害虫』を片付けるのに、もう少し時間がかかると思ったが」
暗闇の中から、アッシュグレーの髪を揺らしながら、一人の男が姿を現した。
漆黒のロングコートを纏い、鈍色の瞳に一切の感情を宿さない死神。
イグニスだ。
彼のダガーからは、まだ赤い雫が床に滴り落ちていた。
「イグニス! 貴方、やはりここに……!」
「……挨拶は抜きだ。アリシア、その不細工な紙束、さっさと懐に仕舞え。それは、あの女の首を撥ねるための、最高に『汚い』取り立ての証拠だ」
イグニスは、私が手にしていた偽帳簿を一瞥し、鼻で笑った。
「……俺は俺の仕事を完遂する。お前はお前の『おもてなし』を完遂してさっさとこの場所から消えろ。ここは、もうすぐ『死人』しか残らない場所になる」
イグニスは、私たちに背を向け、迫り来る追手の集団へと、霧のように消えていった。
背後から響くのは、悲鳴さえも許さない、冷徹な一撃の音。
私は、商人を抱えるテリオンと視線を交わし、力強く頷いた。
二十一日というカウントダウン。
逆転のための「最初の駒」は、今、私たちの手の中に落ちた。
お母様の描いた地獄の設計図を、今度は私たちが、泥沼へと引きずり込んでやる番だ。
私は、追手の最後尾をフライパンで薙ぎ払い、テリオンと共に、血色に染まった監獄を駆け抜けた。
夜明け前の冷たい風が、頬を撫でる。
本当の闘争は、ここから始まるのだ。




