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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第16話 不作法な帳簿、死神との交差

 鼻腔を刺すのは、湿った土の匂いと、鉄錆が混じったような重い水の香りだった。


 テリオンの導きで潜り込んだ排水溝は、大柄な男性なら肩を擦るほどに狭く、這うようにして進むしかなかった。

 冷たい泥水が指先を麻痺させ、暗闇が視覚を奪おうとする。

 けれど、私の前を行くテリオンの背中からは、迷いというノイズが一切聞こえなかった。


 カチャリ、と微かな金属音が響く。

 テリオンが監獄内部へと続く鉄格子を、音もなく外した合図だった。

 私たちは、湿った空気が淀む地下通路へと這い上がった。

 そこは外気から遮断され、魔法灯の淡い光だけが壁を不気味に照らし出していた。


「……静かすぎますわね。交代の看守の足音も、鍵の束が鳴る音も聞こえませんの?」


 私は、旅装束の下に忍ばせたフライパンの柄を握りしめながら、小声で呟いた。

 ここはベリウス公国北端。

 お母様が息の掛かった傭兵たちを配置し、厳重に固めているはずの私設監獄だ。

 それなのに、通路の奥から漂ってくるのは、凍りついたような静寂だけだった。


「……フン。不気味なほど、仕事の痕が綺麗だ」


 テリオンが瞳を細め、前方の角にある看守室を見据えた。

 私たちは壁に背を預けながら、慎重に部屋の中を覗き込んだ。

 そこには、三人の看守がいた。

 一人は机に突っ伏し、二人は壁に背を預けて座り込んでいる。

 まるで、あまりの退屈さに深い眠りに落ちたかのような姿だった。

 けれど、その傍らにある魔法灯が、彼らの首筋に刻まれた「一閃」を無慈悲に照らし出していた。

 苦悶の表情も、争った形跡もない。

 ただ、呼吸という行為だけが、そこから完璧に、そして静かに取り除かれていた。


「これ……テリオン、貴方の仕業ではありませわよね?」


「……馬鹿を言うな。私はお前とずっと一緒にいた。それに、これは弓の仕事ではない……刃、それも極限まで研ぎ澄まされた、一撃必殺の職人の仕業だ」


 テリオンは死体に触れることなく、その傷口を一瞥しただけで断じた。

 彼の声には、同じ「闇」に生きる者としての、隠しきれない警戒と敬意が混じっていた。

 私の脳裏に、アッシュグレーの長髪を編んだ一人の男の姿が浮かんだ。


(イグニス……貴方、まさか。先回りして、この場所を掃除してくださったの?)


「……アリシア、止まっている暇はない。奥の独房だ。そこだけ、魔力の流れが不自然に澱んでいる」


 テリオンに促され、私は思考を切り替えて走り出した。

 死体が転がる通路を抜け、最下層の重厚な扉の前に立つ。

 テリオンが細い針を使って解錠すると、重苦しい音を立てて扉が開いた。

 独房の隅、藁の山の上に、一人の男がうずくまっていた。

 泥と汗に汚れ、見る影もなくやつれたその姿は、かつて私の店に、最高の果実酢や新鮮なオリーブを誇らしげに届けてくれた、あの陽気な商人のものだった。


「……あ、アリシア様……? 幻、か……ついに、お迎えが来たのか……」


 男は力なく顔を上げた。

 その瞳には絶望の影が深く刻まれ、震える手には、くしゃくしゃになった一枚の紙が握りしめられていた。


「幻ではありませんわ! 迎えに来ましたの。不作法にも程があるこの檻から、貴方を連れ出しに」


 私が駆け寄ると、商人は信じられないものを見るように、私の服の裾を震える手で掴んだ。


「逃げて、ください……アリシア様。これは、罠だ……公爵夫人の狙いは、店を止めることじゃない……この森を……アストライアの王ごと、反逆罪に……」


「反逆罪……? どういうことですの?」


 商人が差し出した、その汚れた紙束。

 私はそれをひったくるようにして受け取り、淡い魔法灯の光にかざした。

 そこに記されていたのは、商流の記録ではない。

 お母様が、ベリウス公国の腐敗した貴族たちと共謀し、公爵家の資産を「アストライア王国への軍事資金」として偽装して流した、架空の帳簿だった。


 お母様の真の目的は、私を捕らえることではない。

 この「偽りの帳簿」を証拠として突きつけ、ルイ様が私のカフェに便宜を図ったことを「公爵家を通じた国家反逆の共謀」として、社会的、政治的に抹殺すること。

 カフェは、そのための劇場に過ぎなかったのだ。


「……徹底していますわね。私の自由を奪うだけでなく、私が愛したこの森も、ルイ様さえも、完膚なきまでに焼き尽くすつもりですのね、お母様」


 怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、私は必死で抑えた。

 この商人が生かされていたのは、満月の夜に、お母様の目の前で「ルイ王との共謀」を認めさせるための拷問の時間を稼ぐためだったのだ。


「……話は後だ。追手が来るぞ」


 テリオンが鋭く警告を発した。

 通路の向こうから、複数の足音が近づいてくる。先ほどの死体を見つけた者たちだろう。


「テリオン……この方を、連れ出せますわね?」


「……私の背中を信じろ。だが、正面の露払いは頼んだぞ、アリシア。そのフライパン、ただの飾りではないのだろう?」


「勿論ですわ。不作法な汚れを落とす『お掃除』の時間ですもの」


 私は、腰からフライパンを引き抜き、力強く構えた。

 ドルガンが直してくれたこの重み。

 私の自由を支える、世界でたった一つの相棒。


 その時。

 通路の奥、迫り来る足音とは別の方向から、聞き覚えのある低く冷ややかな声が響いた。


「……ふむ。案外、早かったな。畑の『害虫』を片付けるのに、もう少し時間がかかると思ったが」


 暗闇の中から、アッシュグレーの髪を揺らしながら、一人の男が姿を現した。

 漆黒のロングコートを纏い、鈍色の瞳に一切の感情を宿さない死神。

 イグニスだ。

 彼のダガーからは、まだ赤い雫が床に滴り落ちていた。


「イグニス! 貴方、やはりここに……!」


「……挨拶は抜きだ。アリシア、その不細工な紙束、さっさと懐に仕舞え。それは、あの女の首を撥ねるための、最高に『汚い』取り立ての証拠だ」


 イグニスは、私が手にしていた偽帳簿を一瞥し、鼻で笑った。


「……俺は俺の仕事を完遂する。お前はお前の『おもてなし』を完遂してさっさとこの場所から消えろ。ここは、もうすぐ『死人』しか残らない場所になる」


 イグニスは、私たちに背を向け、迫り来る追手の集団へと、霧のように消えていった。

 背後から響くのは、悲鳴さえも許さない、冷徹な一撃の音。

 私は、商人を抱えるテリオンと視線を交わし、力強く頷いた。


 二十一日というカウントダウン。

 逆転のための「最初の駒」は、今、私たちの手の中に落ちた。


 お母様の描いた地獄の設計図を、今度は私たちが、泥沼へと引きずり込んでやる番だ。

 私は、追手の最後尾をフライパンで薙ぎ払い、テリオンと共に、血色に染まった監獄を駆け抜けた。


 夜明け前の冷たい風が、頬を撫でる。

 本当の闘争は、ここから始まるのだ。

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