第15話 血色の監獄、凍てつく境界線
二十一日という刻限が、音もなく私の背後を追いかけてくる。
深夜、カフェの裏口から森へ踏み出す直前、私はふと裏庭の菜園へと視線を向けた。
春の月光を浴びる土の上、先日イグニスが丁寧に耕した場所に、新しい苗が力強く根を下ろしている。
イグニス。
アッシュグレーの長髪を無造作に編み、死神と揶揄されるほどの冷徹さを持つあの男は、今、この場所にはいない。
数日前、彼は「少しばかり、取り立ての仕事が立て込んでいる。俺にしかできない片付け方があるんでな」とだけ言い残し、霧に溶けるようにして姿を消した。
どこで何をしているのか、仲間の誰も詳しく知らない。
殺し屋であり、取り立て屋。
土を愛でる穏やかな手を持つ反面、その実体は闇の住人そのものだ。
(イグニス。貴方がいない間に、不作法な嵐が吹き荒れ始めてしまいましたわよ)
私は胸元で、新調されたばかりのフライパンの重みを確認した。
隣には、音もなく立つテリオンがいる。
漆黒の弓を背負い、カメリア色の瞳で森の深淵を見据える彼の隠密能力は、この世の誰よりも信頼に値する。
彼という最高の「影」がいてくれるからこそ、私はこうして敵陣へ足を踏み入れる決意ができたのだ。
けれど、イグニスという「毒」がこの場にいないことには、それとは別の意味があるような気がしてならなかった。
ユリウスは「彼は私たちが見逃すような、もっと泥臭い場所の急所を追っている」と漏らしていた。
お母様が仕掛けたこの兵糧攻めの裏側で、さらにどす黒い何かが蠢いていることを、あの死神だけは察知していたのかもしれない。
今は、彼を信じるしかない。
正規の戦力であるルイ様も、鉄衛騎士団も、動けば戦争の引き金になる。
ならば、闇には闇を。影には影を。
「……行くぞ。これ以上留まっていては、夜が明ける前に国境を越えられん」
テリオンの声は、夜風のように冷たく、けれど確かな実体を持って私の背中を押した。
私は力強く頷き、彼と共に森の深淵へと吸い込まれていった。
◇
国境の森を抜けるルートは、テリオンがいなければ到底突破できないものだった。
断崖の隙間、獣さえ避けるような急斜面。
彼はカメリア色の瞳で闇を見通し、時折立ち止まっては風の音に耳を澄ませる。
その足運びは木の葉が落ちる音よりも静かで、隣を歩く私を常に気遣うように、微かな魔力で足元の安全を確保してくれていた。
「……ここから先は、ベリウス公国の領土だ。お前の母が放った私兵たちが、山狩りのように巡回している。私の影から離れるな」
テリオンが指し示した先、木々の切れ間から見える平原には、点々と動く篝火の光が見えた。
それは、獲物を追い詰める猟犬の目のようだった。
お母様――公爵夫人。
彼女は、ただ物流を止めただけではない。
このベリウス公国という一国さえも、己の手足のように使いこなしているのだ。
山道を下り、最初に見えてきた宿場町の灯り。
かつてはお父様の領地とも交易があり、賑わっていたはずのその場所には、死んだような沈黙が漂っていた。
街の入り口には、公爵家の紋章を刻んだ盾を持つ兵士たちが立ち並び、通行する村人一人一人の荷物を執拗に調べている。
「……略奪、ですわね」
私は岩陰に身を潜めながら、唇を噛み締めた。
兵士たちが無理やり奪い取っているのは、わずかな塩の袋や、灯りに使うための油だ。
お母様は、私を孤立させるために、この地の民からも「生活」を奪い取っている。
私を救おうとする者、私に荷を届けようとする者に、見せしめとしての恐怖を植え付けているのだ。
「不作法にも程がありますわ。こんな寒々しい光景、おもてなしの精神が欠片もありませんことよ」
「……感情を殺せ、アリシア。ここで騒ぎを起こせば、商人を救う前に私たちが首を吊るされることになるぞ」
テリオンが低い声で私を制した。
彼の大きな手が私の腕を掴み、影の濃い場所へと引き寄せる。
その節くれだった手のひらから伝わる熱だけが、凍てつくようなこの地の空気の中で唯一、生きた温もりを感じさせてくれた。
テリオンが隣にいてくれる。
その事実が、どれほど私の心を支えてくれているか。
私たちは、検問を避け、下水道や建物の隙間を抜けて、目的の場所へと近づいていった。
ベリウス公国北端。断崖絶壁の上にそびえ立つ、私設監獄。
お母様が「餌」として商人を閉じ込めている、巨大な鉄の檻だ。
「……あそこか」
テリオンが、岩陰から監獄を見上げた。
篝火に照らされた外壁は、湿った血のような色をしていた。
警備は厳重だ。
入り口を固めるのは、正規軍ではない。公爵家が直接雇い入れた、血の匂いのする傭兵たちだ。
私はふと、イグニスのことを考えた。
今頃彼は、どの戦場でそのダガーを振るっているのだろうか。
この監獄のさらに奥底、お母様がひた隠しにする「本当の醜聞」を探っているのではないか。
ユリウスは言っていた。
今回の兵糧攻めは、単なる娘の連れ戻しではない。
アリシアという「自由の象徴」を、徹底的に破壊し、服従させるための、ある種の儀式なのだと。
ならば、イグニスはその儀式の壇上そのものを叩き壊すための「火種」を探しているに違いない。
(お母様。貴女は、私が絶望して這いつくばるのを待っていらっしゃるのでしょうけれど)
私は旅装束の下に隠したフライパンの感触を確かめた。
ドルガンが魂を込めて直してくれた、私の相棒。
イグニスが耕した土から生まれた、命の香りを纏う料理。
ルイ様が守ろうとしてくれた、かけがえのない居場所。
テリオンが今、命を懸けて導いてくれているこの道。
その全てが、今、私の背中を支えている。
「テリオン……突入のルートは、見つかりまして?」
「……東側の排水溝だ。そこなら、私の術で一時的に監視の目を逸らせる。だが、中に入れば、あとはお前次第だぞ。私はお前を運ぶことはできても、お前の戦いを代わることはできん……いいな」
「ええ、望むところですわ……不作法な汚れを落とす『お掃除』の時間は、夜の方が捗りますもの」
私は不敵に微笑み、銀髪を夜風になびかせた。
二十一日というカウントダウン。
その最前線。
お母様が用意した地獄の底で、私は最高に「不作法」な逆襲を仕掛けてやる。
闇の中で、テリオンの瞳がカメリア色に妖しく光った。
二つの影は、音もなく、巨大な監獄の壁へと這い寄っていった。
その頃、遠く離れた別の場所。
死神・イグニスもまた、鈍色の瞳を細め、お母様の喉元を切り裂くための「致命的な牙」を研ぎ澄ましていた。
役者は、出揃いつつある。
不作法な嵐の真ん中で、本当の「おもてなし」が、今、始まろうとしていた。




