第14話 店主の逆襲、影の狩人と共に
二十一日。
セシルが提示したその数字は、カフェ・ヴァレンタインの壁に掛かっている古ぼけた時計の秒針よりも、残酷で正確なリズムを刻み始めていた。
窓の外では、春の月が朧げに森を照らしている。
けれど、その穏やかな光さえも、お母様が仕掛けた巨大な鳥籠の格子に見えて仕方がなかった。
セシルとユリウスが持ち込んだ「地獄の設計図」を前に、店内の空気は、もはや料理の香りを許さないほどに凍りついている。
マルクスたち騎士団は、静かに武器を磨き直し、ゾアは黄金の瞳に怒りの火を宿して闇を睨んでいた。
「……店主殿。付け加えるなら、その消えた商人は、まだ生きている可能性が高い。お母様にとっては、彼は貴女を誘い出すための『最良の餌』だ。供給路が完全に閉ざされ、貴女が絶望する瞬間まで、その命を弄び続けるつもりだろうよ」
ユリウスが、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせながら、淡々と付け加えた。
少食な彼が残したフォカッチャの欠片が、皿の上で寂しげに転がっている。
「処分は満月の夜、供給網が完全に封鎖された直後に行われるはずですわ……ベリウス公国の国境付近にある私設監獄。そこがおそらく、彼の終着駅です」
セシルが、丸眼鏡を指先で押し上げながら、地図の一点を指し示した。
そこは、国境の森から険しい山道を抜けた先にある、闇に沈んだ砦だった。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の内で、何かが静かに、けれど決定的な音を立てて弾けた。
不作法。
これほど不作法なことがあっていいはずがない。
私の店のために、私の焼くパンを運ぶために、命を懸けてくれた人がいる。
その人が今、闇の中で震えている。
それを見過ごして、何が「最高のおもてなし」だろうか。
私は、フライパンを握る右手に力を込めた。
「……でしたら、救えますわね」
私の口から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、揺るぎなかった。
「供給を守るために誰かが犠牲になるのなら、その『誰か』を、私は見捨てません……お母様が私を店主として認めないというのなら、私がお母様の想定を、根底から覆して差し上げますわ」
「待て、アリシア。それはあまりに無謀だ」
ルイ様が、私の肩を掴んで静止した。
彼のエメラルドの瞳には、王としての冷静な判断と、一人の男としての切実な危惧が混じり合っていた。
「ベリウス公国は今、公爵夫人の支配下にあると言っても過言ではない。そこへ君自身が踏み込めば、それこそ彼女の思う壺だ。捕まれば、アストライア王国としても手出しができなくなる……交渉の余地すらなくなるんだぞ」
「ルイ様の仰る通りです、アリシア様」
マルクスもまた、厳しい表情で一歩前に出た。
「騎士団としても、そんな死地へお嬢様を送り出すわけにはいかない。それは、我々の誇りにかけて許可できない不作法だ。行くというなら、我らが行く」
「いいえ。騎士団が動けば、それは軍事行動と見なされます。アストライアとグラン・ロアの戦争の火種を、お母様に与えることになりますわ。ルイ様も、王として動くわけにはいきません……だからこそ、私が行かなければならないのです」
「……それでも、私は許可できない。アリシア、君を失うくらいなら、私は……」
ルイ様の手が、私の肩を痛いほど強く握りしめる。
彼の右手の甲にある「太陽の紋章」が、彼の激しい動揺に呼応するように、鈍く、熱く拍動していた。
私を愛しているからこそ、彼は私をこの黄金の檻の中に閉じ込めておきたいのだ。
その想いは、痛いほど伝わってきた。
けれど、私はルイ様の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、ゆっくりとその手を解いた。
「ルイ様……私は、貴方の愛に甘えて、守られるだけの小鳥でいるつもりはありませんわ。皆さんが守ってくださったこの場所を、今度は私が、私の手で守る番ですの」
私は、彼に向かって、最高の淑女の微笑みを浮かべた。
「これは店主としての、そしてヴァレンタインの娘としての『責任』。誰かの犠牲の上に成り立つ幸せを、私は一生、美味しいとは感じられません。そんな私を、ルイ様は愛してくださったのではありませんこと?」
ルイ様は、息を呑んだように言葉を失った。
私の瞳の中に、かつて彼が愛した「自由」と「誇り」が、揺るぎない炎となって宿っているのを悟ったのだろう。
沈黙が店内を支配する中、ユリウスが眼鏡を直し、くつくつと低く笑った。
「……困りましたね。店主殿がここまで『不作法』だと、狐も知恵を貸さざるを得ない……ルイ殿、王としてのメンツは捨てなさい。これは戦争ではなく、一人の店主による『不法投棄物の回収』だ……であれば、やりようはある」
「ユリウス、貴方……」
「成功率は三割といったところですがね。セシル、例の『影のルート』はまだ生きているか?」
「ええ。グラン・ロアの商人ギルドも、お母様の専横には辟易していますわ。潜入のための偽装工作なら、私が一晩で仕上げてご覧に入れますわよ。ただし、アリシア様。条件があります」
セシルが、丸眼鏡の奥で真剣な眼差しを私に向けた。
「完全に単独で行くのは、自殺行為ですわ……一人だけ、同行者を連れて行ってください。それも、公的な身分を持たず、闇に溶け込み、いかなる罠からも貴女を逃がせる者を」
その場にいた全員の視線が、自然と、店の一番暗い隅へと向けられた。
影に溶け込むように座り、カメリア色の瞳を細めていたその男は、静かに立ち上がった。
「……フン。不作法な騒音に付き合わされるのは、昨日で終わりだと思っていたが」
テリオンが、背中の黒弓を軽く揺らしながら歩み寄った。
「……森の道は、私が最もよく知っている。ベリウスの国境警備など、ダークエルフの眼からは穴だらけのザルと同じだ……ただし、足手まといになるなら、その場に置いていくぞ。アリシア」
「ええ、テリオン。よろしく頼みますわ」
ルイ様は、苦々しい表情で、けれど最後には諦めたように深く溜息をついた。
「……二十一日。その期限が来る前に、必ず戻ってくると約束してくれ……アリシア。君に万が一のことがあれば、私は王としての理性を捨て、この森ごと世界を焼き尽くすことになるだろう」
「……不吉な愛の告白ですわね。でも、承知いたしました。ルイ様、貴方の愛する店主は、これっぽっちの罠で捕まるほど、柔ではありませんわ」
決断は下された。
セシルとユリウスによる偽装工作が始まり、私は潜入のための準備に取り掛かった。
豪華なドレスを脱ぎ捨て、動きやすい暗褐色の旅装束に身を包む。
けれど、腰にはしっかりと、ドルガンが直してくれたあのフライパンを忍ばせた。
これは私の盾。私の自由。
そして、お母様という「呪い」を断ち切るための、たった一つの武器だ。
夜の帳が最も深くなった刻。
私は、誰にも見送らせず、裏口から森へと踏み出した。
隣には、音もなく歩くテリオン。
背後に残るカフェの温かな灯りを見つめ、私は一度だけ深く息を吸い込んだ。
(これからが、本当の『おもてなし』の時間……お母様。貴方が用意したこの汚れた舞台を、私の情熱という名の猛火で、跡形もなく焼き尽くして差し上げますわ……!)
春の夜風は、どこか鉄の匂いを孕んでいた。
私とテリオンの二つの影は、月明かりを避けるようにして、ベリウス公国へと続く暗い獣道の中へと消えていった。
二十一日というカウントダウン。
その最初の一秒が、今、激しく火花を散らして、真夜中の森を駆け抜けていった。




