表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

85/316

第14話 店主の逆襲、影の狩人と共に

 二十一日。

 セシルが提示したその数字は、カフェ・ヴァレンタインの壁に掛かっている古ぼけた時計の秒針よりも、残酷で正確なリズムを刻み始めていた。


 窓の外では、春の月が朧げに森を照らしている。

 けれど、その穏やかな光さえも、お母様が仕掛けた巨大な鳥籠の格子に見えて仕方がなかった。


 セシルとユリウスが持ち込んだ「地獄の設計図」を前に、店内の空気は、もはや料理の香りを許さないほどに凍りついている。

 マルクスたち騎士団は、静かに武器を磨き直し、ゾアは黄金の瞳に怒りの火を宿して闇を睨んでいた。


「……店主殿。付け加えるなら、その消えた商人は、まだ生きている可能性が高い。お母様にとっては、彼は貴女を誘い出すための『最良の餌』だ。供給路が完全に閉ざされ、貴女が絶望する瞬間まで、その命を弄び続けるつもりだろうよ」


 ユリウスが、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせながら、淡々と付け加えた。

 少食な彼が残したフォカッチャの欠片が、皿の上で寂しげに転がっている。


「処分は満月の夜、供給網が完全に封鎖された直後に行われるはずですわ……ベリウス公国の国境付近にある私設監獄。そこがおそらく、彼の終着駅です」


 セシルが、丸眼鏡を指先で押し上げながら、地図の一点を指し示した。

 そこは、国境の森から険しい山道を抜けた先にある、闇に沈んだ砦だった。

 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の内で、何かが静かに、けれど決定的な音を立てて弾けた。


 不作法。

 これほど不作法なことがあっていいはずがない。

 私の店のために、私の焼くパンを運ぶために、命を懸けてくれた人がいる。

 その人が今、闇の中で震えている。

 それを見過ごして、何が「最高のおもてなし」だろうか。

 私は、フライパンを握る右手に力を込めた。


「……でしたら、救えますわね」


 私の口から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、揺るぎなかった。


「供給を守るために誰かが犠牲になるのなら、その『誰か』を、私は見捨てません……お母様が私を店主として認めないというのなら、私がお母様の想定を、根底から覆して差し上げますわ」


「待て、アリシア。それはあまりに無謀だ」


 ルイ様が、私の肩を掴んで静止した。

 彼のエメラルドの瞳には、王としての冷静な判断と、一人の男としての切実な危惧が混じり合っていた。


「ベリウス公国は今、公爵夫人の支配下にあると言っても過言ではない。そこへ君自身が踏み込めば、それこそ彼女の思う壺だ。捕まれば、アストライア王国としても手出しができなくなる……交渉の余地すらなくなるんだぞ」


「ルイ様の仰る通りです、アリシア様」


 マルクスもまた、厳しい表情で一歩前に出た。


「騎士団としても、そんな死地へお嬢様を送り出すわけにはいかない。それは、我々の誇りにかけて許可できない不作法だ。行くというなら、我らが行く」


「いいえ。騎士団が動けば、それは軍事行動と見なされます。アストライアとグラン・ロアの戦争の火種を、お母様に与えることになりますわ。ルイ様も、王として動くわけにはいきません……だからこそ、私が行かなければならないのです」


「……それでも、私は許可できない。アリシア、君を失うくらいなら、私は……」


 ルイ様の手が、私の肩を痛いほど強く握りしめる。

 彼の右手の甲にある「太陽の紋章」が、彼の激しい動揺に呼応するように、鈍く、熱く拍動していた。

 私を愛しているからこそ、彼は私をこの黄金の檻の中に閉じ込めておきたいのだ。

 その想いは、痛いほど伝わってきた。


 けれど、私はルイ様の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、ゆっくりとその手を解いた。


「ルイ様……私は、貴方の愛に甘えて、守られるだけの小鳥でいるつもりはありませんわ。皆さんが守ってくださったこの場所を、今度は私が、私の手で守る番ですの」


 私は、彼に向かって、最高の淑女の微笑みを浮かべた。


「これは店主としての、そしてヴァレンタインの娘としての『責任』。誰かの犠牲の上に成り立つ幸せを、私は一生、美味しいとは感じられません。そんな私を、ルイ様は愛してくださったのではありませんこと?」


 ルイ様は、息を呑んだように言葉を失った。

 私の瞳の中に、かつて彼が愛した「自由」と「誇り」が、揺るぎない炎となって宿っているのを悟ったのだろう。

 沈黙が店内を支配する中、ユリウスが眼鏡を直し、くつくつと低く笑った。


「……困りましたね。店主殿がここまで『不作法』だと、狐も知恵を貸さざるを得ない……ルイ殿、王としてのメンツは捨てなさい。これは戦争ではなく、一人の店主による『不法投棄物の回収』だ……であれば、やりようはある」


「ユリウス、貴方……」


「成功率は三割といったところですがね。セシル、例の『影のルート』はまだ生きているか?」


「ええ。グラン・ロアの商人ギルドも、お母様の専横には辟易していますわ。潜入のための偽装工作なら、私が一晩で仕上げてご覧に入れますわよ。ただし、アリシア様。条件があります」


 セシルが、丸眼鏡の奥で真剣な眼差しを私に向けた。


「完全に単独で行くのは、自殺行為ですわ……一人だけ、同行者を連れて行ってください。それも、公的な身分を持たず、闇に溶け込み、いかなる罠からも貴女を逃がせる者を」


 その場にいた全員の視線が、自然と、店の一番暗い隅へと向けられた。

 影に溶け込むように座り、カメリア色の瞳を細めていたその男は、静かに立ち上がった。


「……フン。不作法な騒音に付き合わされるのは、昨日で終わりだと思っていたが」


 テリオンが、背中の黒弓を軽く揺らしながら歩み寄った。


「……森の道は、私が最もよく知っている。ベリウスの国境警備など、ダークエルフの眼からは穴だらけのザルと同じだ……ただし、足手まといになるなら、その場に置いていくぞ。アリシア」


「ええ、テリオン。よろしく頼みますわ」


 ルイ様は、苦々しい表情で、けれど最後には諦めたように深く溜息をついた。


「……二十一日。その期限が来る前に、必ず戻ってくると約束してくれ……アリシア。君に万が一のことがあれば、私は王としての理性を捨て、この森ごと世界を焼き尽くすことになるだろう」


「……不吉な愛の告白ですわね。でも、承知いたしました。ルイ様、貴方の愛する店主は、これっぽっちの罠で捕まるほど、柔ではありませんわ」


 決断は下された。

 セシルとユリウスによる偽装工作が始まり、私は潜入のための準備に取り掛かった。


 豪華なドレスを脱ぎ捨て、動きやすい暗褐色の旅装束に身を包む。

 けれど、腰にはしっかりと、ドルガンが直してくれたあのフライパンを忍ばせた。

 これは私の盾。私の自由。

 そして、お母様という「呪い」を断ち切るための、たった一つの武器だ。


 夜の帳が最も深くなった刻。

 私は、誰にも見送らせず、裏口から森へと踏み出した。

 隣には、音もなく歩くテリオン。

 背後に残るカフェの温かな灯りを見つめ、私は一度だけ深く息を吸い込んだ。


(これからが、本当の『おもてなし』の時間……お母様。貴方が用意したこの汚れた舞台を、私の情熱という名の猛火で、跡形もなく焼き尽くして差し上げますわ……!)


 春の夜風は、どこか鉄の匂いを孕んでいた。

 私とテリオンの二つの影は、月明かりを避けるようにして、ベリウス公国へと続く暗い獣道の中へと消えていった。


 二十一日というカウントダウン。

 その最初の一秒が、今、激しく火花を散らして、真夜中の森を駆け抜けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ