第13話 不作法な設計図、あるいは二十一日の宣戦布告
マルクスたちが持ち帰った「戦の匂い」は、またたく間にカフェの温かな空気を塗り替えてしまった。
騎士たちが食事を終え、それぞれの持ち場へと戻った後も私とルイ様の間に流れる沈黙は冬の氷のように硬く冷たい。
新調したばかりのフライパンはコンロの上で出番を待っているけれど、今の私の手はその柄を握るのをためらうほどに震えていた。
そんな中、カフェの裏口に激しく土を蹴る馬の嘶きが響いた。
扉が勢いよく開かれ、滑り込んできた二人。
王都で流行りの派手な外套を纏い、眼鏡を指先で直しながら皮肉げな笑みを浮かべる金髪の男、ユリウス。
そして、簡素な旅装束に身を包み、大きな丸眼鏡の奥で鳶色の瞳を鋭く光らせる、麦わら色の髪の女性、セシル。
王都グラン・ロアの情報ギルドを支える「影のプロフェッショナル」たちが、馬を乗り潰さんばかりの勢いで、この森まで駆けつけてきたのだ。
「お久しぶりです、アリシアお嬢様。いえ、『店主殿』とお呼びすべきかな? 不作法にも程がある道中でしたが、この香ばしい匂いのおかげで、なんとか魂を繋ぎ止められましたよ」
ユリウスは大仰な動作で帽子を取ると、優雅に、しかしどこか人を食ったような笑みを浮かべて一礼した。
蒼色の瞳は獲物を品定めする狐のように細められ、一見すると軽薄そうだが、その奥には抜き身の刀のような鋭さが同居している。
「お久しぶりです、アリシア様。道中、こちらで味わえるお料理のことばかり考えて、空腹を紛らわせるのに必死でしたの……ですが、今の私たちは、アリシア様に『毒』を届けに来たと言っても過言ではありませんわ」
セシルは丸眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせ、一瞬だけ食いしん坊な顔を見せた。
けれど、彼女が机に広げた分厚い羊皮紙の束を見た瞬間、その場の温度が十度は下がった。
彼女は、クラリスの親友でありながら、ギルドと孤児院を運営する多忙な身。
そんな彼女が自ら足を運んだ。
その事実だけで、事態が「手紙」では済まないレベルに達していることが理解できた。
「まずは、これを。店主殿、そしてルイ殿」
ユリウスは少食を公言している通り、私が慌てて出したフォカッチャに三口ほど口をつけただけで、視線を鋭くした。
「腹が落ち着いたところで、お嬢様に『デザート』代わりの不吉な話を聞いてもらいましょうか」
彼が指し示した最初の一枚。
そこには、私の母であるヴァレンタイン公爵夫人と、ベリウス公国との間で交わされようとしている、商業密約の「署名直前の草案」が記されていた。
「これは経済制裁ではありません、見せしめです。お母様は、貴女という『旗印』を完封するための設計図を完成させましたわ」
セシルの声は冷徹だった。
彼女の持ってきた書類は、単なる噂の集積ではない。
誰が、いつまでに、何を切るか。
その全容を白日の下に晒す「死の宣告書」だ。
草案によれば、お母様はベリウス公国に対し、莫大な資金と利権を盾に「国境の森への物流統制」を認めさせていた。
供給停止リストの最上位には、塩、油、香辛料が並ぶ。
それだけではない。
「ここを見てください、アリシア様。特筆すべきは、例外なき『協力者の排除』です。貴女に食材を卸す商団は、即刻資格を剥奪される。さらに、貴女に協力した周辺の村々には、来月より三倍の重税が課されることが確定しました」
セシルが指先で叩いた一文。
それは、お母様が私を直接攻撃するのではなく、私の周りにある「善意」と「生活」を人質に取ったことを意味していた。
私が店を続ければ、馴染みの商人は破産し、無実の村人が飢える。
お母様は私に、誰かの犠牲の上に成り立つ不作法なパンを焼けと命じているのだ。
「そして……ルイ殿。さらに悪い知らせがあります」
ユリウスが眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせた。
「もう、商人が一人消えました。ベリウス公国との仲介をしていた、お嬢様の馴染みの運び屋です。表向きは夜逃げですが、実際は公爵夫人の私兵によって捕らえられ、処分を待っている状態だ……名前も出ない、公式の記録にも残らない。ただ、お嬢様の逃げ道を塞ぐための『塵』として扱われた」
ユリウスの言葉が、私の心臓を鋭く抉る。
私のために、私の店を支えるために動いてくれた人が、今、闇の中で消されようとしている。
それはマルクスの言った「戦の匂い」などという曖昧なものではない。
私を追い詰め、心をへし折るための、冷徹なまでの「実行計画」だった。
「期限も確定しています。次の満月。二十一日後ですわ」
セシルが丸眼鏡を直し、重い口調で告げた。
「その日、ベリウス公国の国境門は完全に閉鎖される。アストライア側からの供給も、お母様の手の者が『賊』を装って街道で待ち伏せているはずです……ルイ様が王として軍を動かせば、グラン・ロアとの全面戦争の火種にされる。お母様は、貴女が二十一日で干上がり、泣いて慈悲を乞う姿を、最前列の特等席で待っていらっしゃいますわ」
二十一日。
それが、私の「自由」に残されたカウントダウン。
お母様は、私がこの森で得た温かな時間を、一つ残らず焼き尽くすつもりなのだ。
ルイ様が私の肩を強く抱き寄せ、右手の甲の紋章を熱く鼓動させているのを感じる。
「……ルイ殿。アストライアの王としての力は、お母様にとっては『次の罠』のトリガーに過ぎない。この盤面、正面からぶつかれば、お嬢様ごと全てが砕けるように設計されていますよ」
ユリウスの皮肉な言葉が、今の私たちの無力さを残酷に浮き彫りにした。
(お母様、貴女は本当に……これ以上ないほどに不作法ですわよ)
私は、震える拳を隠すように、新調されたばかりのフライパンの柄をそっと撫でた。
ドルガンが言った「道具を預ける責任」。
マルクスが感じた「消えていく音」。
そして今、セシルとユリウスが持ち込んできた「完成された詰みの形」。
逃げ道は、最初から用意されていなかった。
「……セシル。ユリウス。届けてくれて、ありがとうございますわ。最高のデザートでしたわよ。吐き気がするほどに」
私は二人を見つめて、静かに、けれど熱く微笑んだ。
「二十一日……十分ですわ。お母様の用意したこの不作法な台本を、私の料理で、いえ、私の生き方で、根底から書き換えてあげますわ。誰かの犠牲の上に成り立つ平和なんて、私のプライドが許しませんもの」
セシルは、私の言葉を聞いて、丸眼鏡の奥で不敵に片目を瞑ってみせた。
「……その言葉を待っておりました。アリシア様、こちらにいる間、最高の料理を食べさせていただけるのなら、私は何度でも地獄の設計図を盗んできて差し上げますわよ」
ユリウスもまた、人を食ったような笑みを深くした。
「……店主殿、その意気ですよ。さて、狐も戦の準備を始めるとしましょうか」
窓の外、春の日はすでに傾き、森に長い、不吉な影を落としていた。
カウントダウンは、今、この瞬間から始まったのだ。
平和な日常の皮を被った黄金色の季節は終わりを告げ、血と鉄と炎の匂いが混じり合う、過酷な闘争の幕が上がろうとしていた。
二十一日後。
お母様が期待する「絶望」を、私は最高の「おもてなし」で叩き潰してやる。
私は羊皮紙を強く握りしめ、沈みゆく太陽を見つめながら、心の中で静かに、けれど苛烈にフライパンを振りかざした。




