第12話 帰還の騎士たち、そして街に漂う戦の予兆
国境の森に、早すぎる嵐の予兆のような、湿り気を帯びた重い風が吹き抜けていた。
カフェ・ヴァレンタインが開店して以来、常に私の盾となり、この不器用な店主を守り続けてくれた「鉄衛騎士団」。
かつてお父様の元を離れ、私の身勝手な覚悟に命を預ける道を選んでくれた彼らには、ここ一ヶ月ほど、交代で「休暇」を取らせていた。
それは、私なりの配慮だった。
なれない辺境での生活を支えてくれる彼らへの労いであり、また、かつて自分たちが守っていた王都グラン・ロアや隣国ベリウス公国の空気を、今一度自由に吸ってきてほしいという願いからだ。
もちろん、それだけではない。
彼らのような熟練の騎士が市井に混じることで、王都の流行や政変、商流のわずかな変化を「現場の肌感覚」で持ち帰ってくれることを、私も、そしてルイ様も期待していた。
その休暇の最後の一陣が、今日、ようやくこの森へと戻ってくる。
◇
昨日の森の散策で得た春の恵みが厨房を彩っている最中の出来事だった。
銀嶺の芽のほろ苦い香りと、ドルガンに直してもらったばかりのフライパンが奏でる小気味よい音が響く中、カフェの扉を叩いたのは、聞き慣れた、けれど久しぶりの重厚な「鉄の音」だった。
ガチャン、ガチャンと、規律正しく、それでいてどこか安堵を含んだ金属音。
私は手を止め、入り口へと視線を向けた。
「ただいま戻りました、アリシア様。ルイ様も、ご健勝のようで何よりです」
先頭に立っていたのは、使い込まれた銀の甲冑を纏った、長身の男。
鉄衛騎士団の団長、マルクスだ。
彼の後ろには、同じくグラン・ロアでの休暇を終えた数名の騎士たちが、少し日焼けした顔で並んでいた。
「マルクス! それに皆さんも! おかえりなさい、無事で何よりですわ!」
私は思わずカウンターから飛び出した。
マルクスたちの顔を見る。
グラン・ロアでの休暇は楽しめたのだろうか。
少し痩せたようにも見えるが、その眼光は以前よりも鋭く、そしてどこか「硬い」質感を帯びているように感じられた。
「やあ、マルクス。待っていたよ。君たちのいない森は、少しばかり静かすぎたからね」
奥の席で書類を整理していたルイ様が立ち上がり、彼らを労うように手を挙げた。
ルイ様のエメラルドの瞳が、マルクスの表情の奥にある「何か」を鋭く捉えたのが分かった。
「……申し訳ないが、再会の挨拶もそこそこに、まずは空腹を満たさせてもらえないだろうか……少しばかり、嫌な道中だったものでな」
マルクスは、いつもの冷静な口調で言った。
けれど、その眉間に刻まれた深い皺が、それが単なる移動の疲れではないことを雄弁に物語っていた。
◇
私は厨房に戻り、猛烈な勢いで腕を振るった。帰還した騎士たちの胃袋を黙らせるための、本気の「おもてなし」だ。
メインは、『厚切り豚のソテー・銀嶺の芽とナッツのクラッシュソース』。
フライパンに、厚切りにした豚のロースを並べる。
ジュワッという爆音と共に、脂の甘い香りが立ち上がった。
そこに、昨日ルイ様と一緒に摘んだ銀嶺の芽を刻んで投入し、香ばしく炒ったクルミと、たっぷりのニンニク、さらに隠し味としてベリウス公国特産の果実酢を加える。
酸味、苦味、そして暴力的なまでの肉の旨味。
強火で一気に焼き上げ、肉汁を閉じ込める。
新調されたフライパンは驚くほど火の通りが良く、私の意思をダイレクトに鉄へと伝えてくれた。
これを、焼き立ての分厚いパンと共に大皿に盛り付ける。
「さあ、遠慮はいりませんわ! たっぷり召し上がれ!」
騎士たちは、まるで飢えた狼のように料理に食らいついた。
「……旨い! やっぱり、この味だ!」
「グラン・ロアの高級店も悪くなかったが、この不作法なほどの満足感には敵わないな」
賑やかな声が店内に溢れる。
クラリスが淹れるエールがジョッキを満たし、束の間の平和がカフェを包み込んだ。
(大・歓・喜! ですわ。皆さんの食べっぷり、見ていて本当に気持ちがいい。けれど、マルクスのあの目は……ただ事ではありませんわね)
マルクスだけは、料理を半分ほど平らげたところで、静かにフォークを置いた。
彼は視線でルイ様と私を呼び、カフェの隅にある、人目のつかないテーブルへと移動した。
◇
「……マルクス。休暇はどうだった。グラン・ロアの様子は」
ルイ様が、低い声で問いかけた。
「……休暇、と呼べるものではありませんでしたな」
マルクスは、くすんだ茶色の瞳を険しく光らせ、声を潜めた。
「アリシア様、貴女がかつていたグラン・ロアの王都、そして、ベリウス公国との国境沿いの街……あそこの空気が、異様なまでに『硬く』なっている」
「異様……? どういうことですの?」
「表向きはいつも通りの喧騒だ。だが、市場に不自然な動きがある……香辛料、保存の利く油、そして特に『塩』の流通が、ここ数週間で極端に絞られている」
私の背中に、冷たい汗が伝った。
塩と油。
それは、軍隊を動かすための、あるいは一つの領土を干上がらせるための、兵糧攻めの基本だ。
「商人の多くが口を閉ざしていた……だが、馴染みの運び屋から聞き出した話では、それらの物資がすべて『ヴァレンタイン公爵夫人』、貴女の母の直轄領へと運び込まれているという噂だ」
「お母様が……不作法にも程がありますわ。王都の物資を独占するなんて、一体何を考えていらっしゃるの……」
「それだけではない。ベリウス公国との国境付近では、通行許可が極端に厳格化されている。それも、特定の『商団』……アリシア様、貴女のカフェに食材を卸している者たちを狙い撃ちにするかのようにだ」
ルイ様が、指先でテーブルをトントンと叩いた。
これは、彼が深い思考に沈む時の癖だ。
「……包囲網、か。直接軍を出すのではなく、アリシアから『食』を奪い、孤立させる。ヴァレンタイン公爵夫人のやりそうなことだ。私としても、アストライア側からの供給を強化する必要があるな」
「私が感じ取ったのは、もっと生々しい不気味さだ」
マルクスは、窓の外に広がる長閑な春の森を見つめながら、断じるように言った。
「戦が始まる前の街の匂いと、よく似ている……敵意を剥き出しにしているわけではない。準備だ。誰かが、我々の『逃げ道』を一つずつ、丁寧に、確実に塞いでいる。アリシア様、貴女の周りから、少しずつ音が消え始めている。まるで、獲物を追い込むための、静かな包囲陣のようにな」
外では、春の風が心地よく木々を揺らしている。
けれど、マルクスの言葉を聞いた途端、その風さえもが不吉な冷気を帯びて感じられた。
騎士団の面々は、再び食事に戻り、楽しそうに笑い声を上げている。
その光景を、何としても守りたい。
私は、新調されたばかりのフライパンの柄を、痛いほど強く握りしめた。
「セシルとユリウスからの報告も、間もなく届くはずだ……マルクス、君たちの帰還は心強い。これからはより一層、警戒を強めてくれ」
ルイ様がマルクスの肩に手を置く。
マルクスは、かつて騎士として戦場を駆けていた頃の、峻厳な表情で頷いた。
「……承知している。この場所を――この旨い飯を食べられる場所を、錆びさせるわけにはいかないからな!」
お母様の影が、ついに国境の森の入り口まで届こうとしている。
蜂蜜色のまどろみは、今、静かに終わりを告げようとしていた。
(お母様。貴方の不作法、この私が最高の『おもてなし』で叩き潰してあげますわ……!)
私は沈みゆく夕日を見つめながら、心の中で静かに、けれど熱く、自らの誇りとフライパンに誓った。
嵐が、すぐそこまで来ている。




