第11話 春告げの薄衣、そして密やかに交差する視線
国境の森の春は、光の粒が空気に溶け込んでいるかのような不思議な輝きに満ちている。
カフェ・ヴァレンタインの窓から差し込む陽光は、もはや冬の鋭さを完全に失い、焼きたてのパンのような温かさで店内のテーブルを撫でていた。
「……ふう。ようやく、山のような書類に終止符を打つことができたよ」
カウンターの奥で、ルイ様が深く、長い溜息をついた。
そのエメラルドの瞳からは、連日の激務による疲労の色が消え、柔らかな安らぎが溢れ出している。
「お疲れ様でしたわ、ルイ様。本当によく頑張られましたわね。今朝のルイ様、一段と晴れやかなお顔をしていらっしゃいますわ」
私は、淹れたてのハーブティーを彼の前に置き、最高の微笑みを浮かべた。
「ああ。君の淹れる茶を、こうしてゆっくり楽しめる時間が何よりの報酬だ……ところで、アリシア。今日は少し、森の奥へ行ってみないかい? 仕事の合間に窓から眺めていたのだが、ちょうど『春告げの芽』が旬を迎えている頃だろう?」
「まぁ! ルイ様も同じことを考えていらっしゃいましたのね。私も今朝、裏庭の様子を見て、あの子たちを薄衣の揚げ物にしたら、どんなに美味しいかしらと考えていたところですの」
山菜。春の息吹をそのまま閉じ込めたような、ほろ苦くも力強い大地の恵み。
それを薄い衣で包み、高温の油で短時間で揚げる。
サクッとした食感の後に広がる芽吹きの香りは、この季節にしか味わえない至高の贅沢だ。
「……だが、春の森は目覚めたばかりの魔物も多い。私一人で君を守りながらの採集も不可能ではないが、より安全を期すなら、彼の手を借りるのが賢明だろうな」
ルイ様が視線を向けた先。
店の隅、影に溶け込むようにして座っていた一人の男が、無言で顔を上げた。
「テリオン……貴方に、道案内をお願いしてもよろしいかしら?」
ダークエルフの狩人、テリオン。
彼はカメリア色の瞳を細め、短く「……フン」と鼻を鳴らした。
「……不作法な音を立てて獲物を逃すような真似をしないなら、構わない。今の時期、北の斜面にある『精霊の雫』の群生地なら、魔物の縄張りを避けて通れる」
「ありがとうございますわ、テリオン! さすが森の守護者ですわね」
◇
三人は、芽吹き始めた森の奥へと足を踏み入れた。
先頭を歩くのは、足音一つ立てずに進むテリオン。
その背中には巨大な黒弓があり、周囲の微かな空気の揺らぎさえも見逃さない緊張感が漂っている。
その後ろを、ルイ様が私の手を取り、エスコートするように歩いていく。
「気をつけて、アリシア。このあたりの根は、まだ湿り気を帯びていて滑りやすい」
「ええ、ありがとうございますわ、ルイ様」
ルイ様の大きな手が、私の腰をそっと支える。
その指先から伝わる体温に、私の心臓は不作法なほど大きな音を立て始めた。
先日の甘い時間の記憶が、不意に鮮明な色彩を持って脳裏に蘇る。
――ガサッ。
「……止まれ」
テリオンの声が低く響き、私たちは足を止めた。
彼は前方にある茂みを指し示す。
そこには、銀色の産毛に包まれた、愛らしい山菜の芽がいくつも顔を出していた。
「目的のものはこれか? ……毒はないようだが、この芽を欲しがるのは人間だけではないぞ」
「まぁ、素晴らしいわ! テリオン、よく見つけてくださいましたわね。この『銀嶺の芽』、今しか食べられない最高級の食材ですの」
私は喜び勇んで駆け寄ろうとしたが、それよりも早く、ルイ様が私の前に一歩踏み出した。
「待って、アリシア。斜面が急だ。私が採ってあげよう……君は、そこで籠を持っていてくれるかい?」
ルイ様は、魔法で強化されたしなやかな指先で、丁寧に芽を摘み取っていく。
知的に山菜の形状を観察しながら、「なるほど、この茎の曲がり具合が鮮度の証か」と楽しそうに語るルイ様。
その後ろで、テリオンは弓に手をかけたまま、微動だにせず周囲を警戒している。
「……お前たち人間は、命を味わうために、わざわざ危険を冒してまでこんな場所へ来るのだな」
テリオンが、低く鼓膜に響く声で呟いた。
その瞳は、収穫に夢中な私たちを冷ややかに、けれどどこか熱を帯びた視線で見つめている。
「季節を逃すのは惜しいものですわ、テリオン。この苦味こそが、冬を乗り越えた証。貴方にも、後で最高の一皿を振る舞って差し上げますから、楽しみにしていてくださいな」
「……私は、腹が満たされればそれでいい……だが」
テリオンの視線が、アリシアを支えるルイ様の手に注がれた。
ルイ様が、アリシアの髪についた小さな木の葉を優しく指先で払う。
その時の、ルイ様の慈愛に満ちた、独占欲を孕んだ眼差し。
テリオンは瞳をわずかに伏せ、唇を固く結んだ。
彼には聞こえている。
アリシアの高鳴る鼓動。
そして、ルイ様が放つ、彼女を誰にも渡さないという静かな決意。
それはテリオンにとって、どんな魔物の咆哮よりも騒がしく、そして、胸を締め付ける音だった。
「テリオン? どうされましたの?」
私が不思議そうに首を傾げると、テリオンは再び無表情に戻り、背を向けた。
「……何でもない。風向きが変わった。獲物を持ち帰るなら、急ぐことだ」
◇
カフェに戻った私は、さっそく収穫したばかりの『銀嶺の芽』の調理に取り掛かった。
今日のメニューは、『春告げの薄衣、銀嶺の芽の黄金揚げ』。
極限まで薄く、けれどサクッとした食感を生むために、冷たい炭酸水と小麦粉をさっと合わせる。
新調したばかりの、ドルガン特製のフライパンに、澄んだ油をなみなみと注ぐ。
温度は、衣が散った瞬間に花開くように浮き上がる百八十度。
シュワッ、パチパチ、という軽やかな音と共に、山菜の芽が黄金色の衣を纏っていく。
揚げる時間は、ほんの数十秒。
素材の緑を殺さず、かつ苦味を旨味へと昇華させる、私にしかできない火加減。
「さあ、召し上がれ。春の森の生命力、そのものですわ」
テラス席に並べられた、山積みの揚げ物。
ルイ様は、まずは何もつけずにその一片を口に運んだ。
「……っ。素晴らしい。サクッとした衣の中から、春の香りが弾けるようだ。この絶妙な苦味……アリシア、君は本当に、食材の魂を呼び覚ますのが上手いな」
「光栄ですわ、ルイ様」
ルイ様は満足そうに目を細め、私に向かって優しく微笑んだ。
「テリオン、貴方も。そんなところで立っていないで、早く召し上がってくださいな。揚げたてが一番美味しいのですから」
テリオンは、促されるままに椅子に座り、無造作に山菜を口に放り込んだ。
「………………」
咀嚼する彼の手が、一瞬だけ止まる。
「……悪くない。不作法な騒音に付き合わされた対価としては、妥当な味だ」
彼はそう言って、無心で皿を空にしていった。
ぶっきらぼうな物言い。
けれど、彼が何度もおかわりを要求するその姿に、私は彼なりの「美味しい」という賛辞を読み取っていた。
ルイ様の夕焼け色の髪が、傾き始めた太陽の光に照らされて輝いている。
その隣で、静かに、けれど確実に私を守るように座るテリオン。
二人との、穏やかで満たされた時間。
お母様の執念も、国境の森を侵食しようとする不穏な影も、今この瞬間だけは、どこか遠い国の出来事のように思えた。
(大・幸・福、ですわ。この温かな時間を、私は、私のフライパンで守り抜いてみせますわ)
私は最後の一切れを口に運び、春の喜びを噛み締めた。
窓の外では、春の風が静かに木々を揺らしている。
これから訪れるであろう嵐の予兆を、まだ誰も知らない蜂蜜色のまどろみの中。
三人の視線はそれぞれの想いを秘めたまま、春の夕暮れの中に溶けていった。




