第10話 鉄色の名工、そして自由を支える魂の約束
国境の森に、早すぎる嵐の予兆のような湿った風が吹き抜けていた。
カフェ・ヴァレンタインの厨房では、今朝も薪のはぜる音と共に、芳醇なソースの香りが立ち上っている。
ログハウスでルイ様と過ごしたあの甘く、熱い時間の余韻が、今も肌の奥に残っているような気がして、私は無意識に火力を強めていた。
お母様の影、エレナの裏切り、そして昨日サイラが残していった切ない気配。
それらすべてをフライパンの熱で焼き尽くすように、私は無心で腕を動かす。
その瞬間のことだった。
――キィィィィン……。
耳の奥を直接爪で掻いたような、不快で、か細い悲鳴。
私の手元で、長年愛用してきた特注のフライパンが、見たこともないほど微かに震えていた。
一見すれば、煤けた鉄の色に変わりはない。
けれど、何万回と猛火を通し、何千人もの「不作法」を黙らせてきた私の指先は、鉄の粒子が悲鳴を上げているのを敏感に感じ取っていた。
(……大・ピンチですわ! これ、表面の魔導コーティングが、私の『情熱』という名の無茶な出力に耐えかねて、限界を迎えようとしていますわね!? このままでは、次の強火で私の魂が、いえ、料理が死んでしまいますわ!!)
私は青ざめた顔で、熱を帯びたフライパンを抱きしめた。
これは単なる調理道具ではない。
お母様の元を飛び出し、この森で生きていくと決めた私の「自由」そのもの。
そして、ルイ様から託された、私たちの絆の象徴でもある。
「……主よ。そのフライパン、もはや限界のようだな」
厨房の入り口に、二メートルを超える巨躯が音もなく現れた。
リザードマンの戦士、ゾアだ。
黄金の瞳を厳しく細め、彼は私の腕の中にある鉄の塊を、まるで傷ついた戦友を見守るような眼差しで見つめていた。
「わかりますの、ゾア? これ、私の無理な注文に応えすぎて……」
「我らリザードマンの斧も、死線を越えれば声を上げる。主、その道具を直せる者は、この付近には一人しかおらぬ……先日の『鉄の休息』を与えた男、ドルガンの元へ行くぞ。我のこの斧を打った男ならば、主の『自由』を再び鍛え上げることができるはずだ」
◇
森を抜け、西へと向かう。
アストライアとグラン・ロアの狭間に位置する宿場町、グレンディル。
多様な種族が入り乱れ、商業と情報が濁流のように渦巻くこの街の片隅に、その場所はあった。
立ち並ぶ商店の奥、一際重厚で、一切の隙がない石造りの建物。
煙突からは黒い煤を含んだ煙が立ち上り、周囲の空気を歪めるほどの熱気を放っている。
地響きのような槌音が規則正しく響くその場所は、周囲の喧騒から切り離された、鉄と炎の聖域だった。
「ドルガン! 我だ、入るぞ!」
ゾアが重厚な鉄の扉を押し開ける。
中に入った瞬間、むせ返るような熱気と、石炭が燃える匂い、そして鉄が焼ける独特の香りが私を包み込んだ。
奥にある巨大な炉の火影の中に、ずんぐりとした、けれど岩のように強固な肢体を持つ男が立っていた。
煤けた鉄色の髪を後ろで短く束ね、鍛冶傷で節くれだった手が、一本の巨大な槌を握りしめている。
「……ゾアか。仕事中に不作法な音を立てるなと言ったはずだ」
ドワーフの鍛冶師、ドルガン。
彼は槌を置くと、くすんだ琥珀色の瞳を私たちに向けた。
先日、私の店で黒ビールと燻製肉を堪能した時の穏やかな表情はどこにもない。
そこにあるのは、鉄という「命」と対峙する、職人の峻厳な顔だった。
「すまぬ。だが、急ぎなのだ。わが主の……アリシアの『武器』が悲鳴を上げている」
ゾアの言葉に、ドルガンの視線が私の手元へと移る。
彼は無言のまま歩み寄ると、私の手からフライパンを奪うようにして取り上げ、窓から差し込むわずかな光にかざした。
指先で鉄の肌をなぞり、爪の先で軽く弾いて音を聞く。
その指先は、まるで医者が病人の脈を測るかのように繊細だった。
「……なるほどな。先日、あんたの料理を食った時は『いい道具を使いこなしてやがる』と思ったが。こいつはひでぇ。表面の魔導回廊がズタズタだ。誰が打ったかは知らねぇが、業物なのは確かだな……だが、あんた。こいつをただの鍋だと思って使ってねぇだろう。こいつを己の一部として、死線を潜り抜けてやがる。これは武器だ」
「……いいえ、ドルガン。これは私の『生き方』ですわ」
私は、工房の熱気に負けない強さでドルガンを見据えた。
「これは私の自由を守るための盾であり、私の理想を形にするための矛。私にとって、これは単なる鉄の塊ではなく、この場所で生きていくという覚悟そのものですの。だから、私はこいつを置いて逃げることはできませんわ。直してくださるかしら?」
ドルガンはしばらく黙って私を見つめていたが、やがてふっと口角を上げた。
それは笑いではなく、目の前の「使い手」の覚悟に対する、職人なりの敬意の表明だった。
「……いい面構えだ。道具の扱いは不作法極まりねぇが、使い手の『覚悟』だけは本物らしい。いいだろう。この俺が打った斧を使うゾアが認めた主だ、そんな女が持つ『相棒』が、こんなところで不完全なまま朽ちるのを許すわけにはいかねぇからな」
ドルガンは、フライパンを炉の傍にある作業台に置いた。
「だが、約束しろ、アリシア。俺の仕事は、金じゃねぇ」
「……約束?」
「ああ。代価は『責任』だ……あんた、これからはこいつが悲鳴を上げる前に、俺のところへ持ってこい。無茶をするのは勝手だが、道具は使い手より先に死んじまう。道具を預けるってのは、その命を預かるってことだ。忘れるなよ。次に壊れたら、また必ずここへ持ってこい。あんたの仕事を、未完成のまま終わらせるな」
琥珀色の瞳に、熱い炉の火が反射する。
それは単なる修理の依頼ではない。
作り手と使い手の間で結ばれた、魂の契約だった。
「……責任。ええ、肝に銘じますわ、ドルガン。約束します。私の相棒がまた我儘を言ったら、必ず貴方の元へ。貴方の仕事を、私が汚すようなことはいたしませんわ」
「……よし。ゾア、そこの蜂蜜酒でも飲んで待ってろ。一刻で仕上げてやる」
作業が始まった。
ドルガンが炉の鞴を動かすと、炎が黄金色に爆ぜ、工房内の温度が一段階跳ね上がる。
彼は真っ赤に熱せられた鉄を台に乗せ、槌を振るい始めた。
――カン、カン、カン、と。
規則正しく、それでいて重厚な音が響くたび、火花が夜空の星のように散り、歪んでいた鉄の粒子が再びその本来の密度を取り戻していく。
無愛想で、余計な言葉は一切ない。
けれど、彼が槌を振るうその背中からは、鉄に対する深い敬意と、それを使うアリシアへの厳しい愛情が伝わってきた。
ゾアは隅の方で、自分の斧を愛おしそうに眺めながら、満足そうにその光景を見守っている。
(本当に感謝ですわね、ゾア。貴方の友人は、本当に素晴らしい名工ですわ)
やがて、ドルガンが真っ赤に焼けた鉄を、霊水が満たされた水槽に沈めた。
ジュゥゥゥ、という激しい蒸気と共に、生まれ変わったフライパンが姿を現す。
表面にはドルガンの手によって、以前よりも深く、精緻な魔導の波紋が再構築され、その黒い肌は月光を吸い込んだかのような重厚な輝きを放っていた。
「……ほらよ。以前より魔力伝導率を高めておいた。あんたの『不作法』な出力にも、当分は耐えられるはずだ。だが忘れるな、こいつは生きているんだ。使い手が殺しちゃならねぇ」
手渡されたフライパンは、驚くほど私の手に馴染んだ。
重厚なはずなのに、まるでもう一つの腕を得たかのように軽い。
指先に伝わるのは、ただの冷たい金属の感触ではなく、ドルガンが込めた「熱」の余韻だった。
「ドルガン、これ……最高ですわ。ありがとう」
「礼には及ばねぇ。約束、忘れるなよ。あんたの自由を支えるのは、この鉄だけじゃねぇ。それを使うあんたの『責任』だ。未完成の仕事で、俺をガッカリさせるんじゃねぇぞ」
◇
グレンディルの街を後にし、夕暮れの森を歩く。
私の手には、命を吹き込まれた最高の相棒。
そして胸には、新しく結ばれた、無骨な名工との絆。
「……主よ。ドルガンもまた、主の『味』だけでなく、その『魂』を認めたようだな」
「ええ。次に彼が店に来たら、最高に力のつく、彼にしか作れない一皿を振る舞ってあげなくては……彼の仕事を支えるのも、私の責任ですもの」
私は、新しくなったフライパンを強く握りしめた。
お母様の影がどれほど濃くなろうとも、こうして私の背中を支えてくれる、不器用で情熱的な人々がいる。
その人々を守り、彼らが作ってくれた「自由」という名の舞台を、最高の料理で彩ること。
それが私の果たすべき、最大の「責任」であり「おもてなし」。
夕闇の迫る森の向こうに、カフェ・ヴァレンタインの温かな灯りが見えてきた。
今はまだ、ドルガンの「あんたの仕事を未完成にするな」という言葉が、後の悲劇の中でどれほど大きな意味を持つことになるのか、私はまだ知る由もなかった。
けれど、握りしめたフライパンから伝わる熱だけが、私の覚悟を静かに、けれど熱く鼓舞し続けていた。




