番外編 双つの護符、そして分かち合った月光の記憶
国境の森よりもさらに奥深く、人智の及ばぬ闇が支配するダークエルフの隠れ里。
そこでは、月光さえも木々の梢に拒まれ、冷たい静寂だけが大地を覆っている。
数年前。
アリシアがその地に降り立ち、フライパン一つで森の住人たちを虜にするよりもずっと前のことだ。
里を囲む防衛境界線の外縁で、二人の若き狩人が闇の中を駆けていた。
「……サイラ。呼吸が乱れている。十五歩先、三時の方向に影蜘蛛の気配だ。無闇に突っ込むな」
低く、地を這うようなテリオンの声が、夜の静寂に溶け込む。
今の彼よりも幾分か若く、だが既に老練な戦士のような風格を漂わせたその横顔には、月光の冷たさに似た鋭さがあった。
「わ、わかってるよ! あんたこそ、さっきから一歩も後ろに下がってないじゃないか……私だって、里のまとめ役になる男の背中くらい守れるんだから!」
そう言い返すサイラの頬は、冷気とは別の理由で微かに赤らんでいた。
漆黒の髪を振り乱し、必死にテリオンの歩調に合わせる。
彼女にとって、この時間は誇りであり、同時に苦しいほどの試練でもあった。
テリオンという男は、常に誰よりも早く闇を見通し、誰よりも正確に獲物を射抜く。
その隣に並び立つためには、一瞬の油断も許されない。
「……フン。口を動かす暇があるなら、矢を番えろ。来るぞ」
テリオンが短く告げた瞬間、頭上の梢から巨大な影が音もなく降りてきた。
影蜘蛛――その名の通り、闇と同化し、獲物の体温と魔力を感知して襲いかかる魔物。
その八本の脚が、鎌のように鋭くしなる。
「――っ、はあ!」
サイラが叫びと共に弓を引き絞る。
放たれた矢は一匹の影蜘蛛を貫くが、その背後からさらに三匹の影が躍り出た。
ダークエルフとしての天性の勘が、サイラに「次の一撃」を急がせる。
だが、その焦りが彼女の足元を狂わせた。
ぬかるんだ土に足を取られ、体勢が崩れる。
「しまっ……!」
視界が大きく揺れ、眼前に影蜘蛛の毒牙が迫る。
死を覚悟し、サイラが瞳を閉じた――その瞬間。
ドッ、と空気を切り裂く轟音が、彼女の鼓膜を震わせた。
「……言ったはずだ。無闇に突っ込むなと」
目を開けると、そこには、テリオンの広い背中があった。
彼はサイラの前に割って入り、漆黒の長弓で影蜘蛛の猛攻を弾き飛ばしていた。
流れるような所作で背中の矢筒から三本の矢を引き抜き、同時に弦へと番える。
ヒュン、という短い風切り音が三度。
三匹の影蜘蛛は、空中でその眉間を射抜かれ、物言わぬ骸となって地面に転がった。
「……大丈夫か、サイラ」
テリオンが振り返る。
そのカメリア色の瞳には、冷酷なまでの冷静さと、それ以上に――わずかな、本当にわずかな揺らぎが浮かんでいた。
「わ、私だって、別に助けてなんて頼んで……! でも……ありがとう。助かったよ、テリオン」
サイラは、泥で汚れた手を貸される前に自分で立ち上がった。
テリオンは差し出しかけていた手を、何事もなかったかのように自分の腰のベルトへと戻した。
あの日、二人の間に流れていた空気は、確かに「対等」な戦友のそれだった。
戦いが終わり、里の喧騒からも遠く離れた岩陰で、二人は小さな焚き火を囲んでいた。
パチパチと爆ぜる薪の音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが響く、親密な静寂。
サイラは、破れた革鎧の隙間から覗く肩の傷を、布で乱雑に拭っていた。
「……痛むか」
「これくらい、里に戻ればすぐに治るよ……それより、あんたの矢、また一段と鋭くなったね。私はあんな芸当、一生かかってもできそうにないよ」
サイラが自嘲気味に笑うと、テリオンは焚き火に視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「……私は、お前のようにはなれない」
「え?」
「お前は、里の者たちの心を束ねることができる。私のように、ただ闇を射抜くだけの男とは違う……サイラ。私には、お前の直情的なまでの真っ直ぐさが、時折……眩しく見える」
「テリオン、あんた……」
サイラの胸が高鳴る。
今なら、この温かな火の光に紛れて、ずっと言えなかった言葉を口にできるかもしれない。
だが、テリオンはそれを遮るように、懐から小さな革袋を取り出した。
中から現れたのは、淡い赤紫色の石を嵌め込んだ、一対の無骨な護符だった。
里に伝わる秘石――『双生石』。
一つの原石を二つに分かち、同じ彫刻を施したそれは、持ち主同士の魔力が通い合っている間、互いの無事を知らせるという。
「……持っていけ」
テリオンは、その一つを無造作にサイラの手に握らせた。
「これ……双生石じゃないか。あんた、いつの間にこんな貴重なものを……」
「余った材料で試作した、ただの『お守り』だ。不器用なお前には、それくらいの守護が必要だろう」
テリオンはそっけなく言ったが、サイラは知っていた。
この石は余り物で作れるような代物ではない。
持ち主の血液と魔力を丁寧に馴染ませ、幾晩もかけて祈りを捧げなければ完成しない、極めて手間のかかる呪具だ。
サイラは、掌の中の護符をそっと握りしめた。
石からは、テリオンの体温と同じ、静かな熱が伝わってくる。
「……守護、か。あんたが私のことを守ってくれるって意味?」
「勘違いするな。私は……死なれるのが、寝覚めが良いとは思わないだけだ。次に背中を預ける時、お前が倒れれば私も道連れになる……だから、これは私自身のための保険だ」
テリオンは、サイラから視線を逸らし、焚き火の火を棒で弄った。
その耳の先が、わずかに赤くなっているのを、サイラは見逃さなかった。
「ふふ、不器用だね、本当に……わかったよ。大切にする。あんたの『保険』の一部として、肌身離さず持っておくよ」
サイラは、護符を自分の首元にかけた。
テリオンもまた、もう一つの護符を懐の奥へと仕舞い込む。
約束も、契約も、愛の告白もない。
ただ、暗い森の中で二人の間に確かに存在した「絆」を、この小さな石に預けただけ。
サイラは、これがテリオンなりの精一杯の誠実さなのだと信じたかった。
(……いつか、この石が必要なくなるくらい、私が強くなったら。その時は、ちゃんと言いたいな)
焚き火の火が小さくなり、夜が深まっていく。
二人の影は重なり合い、束の間の平穏の中で揺れていた。
サイラは、この幸せがいつまでも続くと、根拠のない確信を抱いていた。
◇
――そして、数年が流れた現在。
カフェ・ヴァレンタイン。
カウンターの隅で、冷めたコーヒーを啜るテリオンの指先は、不意に服の下に隠された護符に触れた。
あの日以来、一度も外したことのない、自分だけの秘めた絆。
今の自分は、彼女に背中を預けることはない。
彼女を危険な戦場に立たせることも、ましてや自分の隣で笑わせることも、もはや許されないことだと思っている。
「保険」だと言って渡した護符は、今や、彼女を遠ざけるための、あるいは彼女を守るために自分を律するための「枷」へと変わっていた。
テリオンは、去っていったサイラの残り香を、胸の奥で静かに噛みしめる。
一方、森を歩くサイラの首元でも、あの石が静かに眠っていた。
彼女は時折、その石を指先でなぞる。
「あいつなら大丈夫」という根拠のない信頼と、「いつか、あの日みたいに背中を預け合えるかもしれない」という、捨てきれない淡い希望。
二人の間に流れる時間は、もはや過去のように交わることはない。
テリオンは冷たい壁を築き、サイラはその壁に触れることさえできない。
けれど、二人の胸元で眠る双つの石は、今も同じ鼓動を刻んでいる。
それは、言葉にできない想いの残り火。
ただ、国境の森を吹き抜ける春の風だけが、かつて分かち合った月光の記憶を、優しく、そして切なく揺らしていた。




