第7話 令嬢、エメラルドの瞳に陥落する
おかわりの紅茶を注ぎ、私は意を決してルイ様の正面に座り直した。
指先はまだ少し震えているけれど、もう迷いはない。
私は彼の真っ直ぐな想いに、店主としてではなく、一人の女性――アリシア・ヴァレンタインとして向き合おうと決めたのだ。
「ルイ様。先ほどのお話ですが……私――」
私が潤んだ瞳で彼を見つめ、そっとその大きな手に自分の手を重ねようとした、まさにその時だった。
「ただいま戻りました、お嬢様。街の市場は相変わらずの俗世でしたが、質の良いベーコンだけは確保できました」
森の静寂を乱すことのない、淡々とした声。
買い物袋を両手に下げたクラリスが、いつの間にかテラスの入り口に立っていた。
彼女の視線は、触れ合いそうだった私とルイ様の手元を、温度のない瞳でじっと見つめている。
「……お嬢様。お茶の時間は結構ですが、新メニューの試作を忘れたわけではありませんよね? このベーコンを提供するには、まだ仕込みが足りませんが」
……クラリス。今なの? 今来ちゃうわけ?
私は引きつりそうになる微笑みを必死に維持し、内心で天を仰いだ。
クラリスは表情一つ変えず、ルイ様に向かって事務的に一礼する。
「ルイ様。お嬢様を森ごと囲い込むという果敢な行動、街でも噂になっておりました。その熱意には敬意を表しますが……」
クラリスは一度言葉を切り、買い物袋を抱えたまま、ジロリと私の姿を頭からつま先まで観察した。
その温度のない瞳に、私は背筋が凍る思いがした。
「……私の不在中、お嬢様が冷静さを欠いて柱の影あたりで、人目を忍んでおかしな動きをしていた可能性については、どのようにお考えでしょうか。今の彼女の、エプロンの不自然なシワと、隠しきれない浮ついた顔を見るに、推して知るべしですが」
「ク、クラリス……っ!」
図星をつかれ、私は反射的に声を上げた。買い物に行っていたはずの彼女が、なぜこれほど正確に私の「狂喜乱舞」を言い当てられるのか。
私は一寸の狂いもない優雅な動作で彼女をキッチンの奥へと促しつつ、ルイ様には最高級の「何も聞こえなかったことにしてください」という微笑みを向けた。
「……失礼。少々、食材の検品に立ち会う必要があるようですわ。ルイ様、お茶が冷めないうちに召し上がっていてくださいね」
キッチンの扉が閉まった瞬間。私はクラリスに向き直り、誰にも聞こえないような小声で、けれど必死に詰め寄った。
(……ちょっと! 見ていたわけでもないのに、適当なことを言わないでちょうだい! せっかく整えた私の淑女としての姿が、台無しよ!)
対してクラリスは、瞬き一つせず私を見返した。
「お嬢様の行動パターンなど、計算すれば容易に導き出せます。それに、あちらの旦那様は、お嬢様のいささか落ち着きのない本性も含めて、既に受け入れておいでですよ。そうでなければ、わざわざ森など買いません」
彼女のあまりに冷静な正論に、私はぐうの音も出なかった。
◇
「……お待たせいたしました、ルイ様。騒がしくて失礼いたしましたわ」
私は、心臓の鼓動がドレスの上からでも分かりそうなほど高鳴っているのを隠し、静かに席に戻った。
先ほどクラリスに「浮ついた顔」と言われたばかりで、今さらどんな顔をして彼と向き合えばいいのか分からない。
視線を落とし、ティーカップに逃げようとしたその時だった。
「アリシア、顔を上げて。君の相棒は実に賢いね」
ルイ様の穏やかな声に誘われるように顔を上げると、彼のエメラルドの瞳が、いたずらっぽく、けれどこの上なく優しく細められていた。
「君が柱の影で何をしていたのか……確かに彼女の言う通り、私には想像がつくよ」
「……っ!?」
私は言葉を失った。やはり、すべてお見通しだったのだ。
追放令嬢として、どこまでも完璧な淑女を演じようとしていた私のメッキが、音を立てて剥がれていくような気がして、思わず身を縮める。
けれど、ルイ様はそのまま椅子から立ち上がると、私の手元へ歩み寄り、その大きな手で私の震える指先をそっと包み込んだ。
「だが、彼女の想像を上回っていることが一つある……私の決意だよ」
ルイ様が膝をつき、私の目線に合わせるようにして顔を覗き込んできた。
「君が淑女として美しく微笑む姿はもちろん、人目を忍んで小さく跳ねるほど喜ぶ姿も……そのすべてが、私にとってはかけがえのない愛おしいものなんだ。だから、君は私の前で、無理に完璧であろうとしなくていい」
彼の手の温もりが、指先からゆっくりと心まで溶かしていく。
これまでは「ヴァレンタイン家の令嬢」として、あるいは「完璧な婚約者」として、常に誰かの期待に応える自分しか価値がないと思っていた。
けれど、目の前のこの人は、私の最も「淑女らしくない」部分さえも肯定してくれる。
「……ルイ様。私は、あなたが思っているよりもずっと、自分勝手で……落ち着きのない女ですわよ?」
「ああ、知っている。だからこそ、君の隣に座る権利が欲しいと言ったんだ。君の自由と、その瑞々しい感情を、一番近くで守らせてほしい」
ルイ様は私の手の甲に、誓いを立てるように優しく唇を落とした。
まだ結婚という約束ではない。けれど、この広い世界で、ありのままの私を必要としてくれる人がいる。
その事実に、私の胸は熱く、甘い幸せで満たされた。
「……もう。そんなことを仰るから、また柱の影に行きたくなってしまいますわ」
私は頬を赤らめながら、けれど今度は逃げずに、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。




