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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第9話 月光の狩人と、春告げの仔羊ロースト

 国境の森の朝は、昨晩の熱気が嘘のように、凛とした冷涼な空気に包まれていた。


 カフェ・ヴァレンタインの厨房で、私はいつものように開店準備に追われていた。

 磨き上げたカトラリーを並べ、リネンのクロスを敷き、その日のスープの仕込みにかかる。

 けれど、今日の手元は、自分でも呆れるほどに覚束ない。


(……不作法ですわ、ルイ様。あんな……あんなことをなさった翌朝に、平然とした顔で「おはよう、アリシア」なんて爽やかに現れるだなんて!)


 思い出されるのは、月の光だけが頼りだったログハウスのソファでの出来事。

 熱い吐息、奪われる呼吸、そして耳元で囁かれた甘い言葉。


 カチャン、とスプーンを落としてしまい、私は慌てて自分の頬を両手で挟んだ。

 熱い。絶対に今、完熟トマトみたいに真っ赤になっているに違いない。


「やあ、アリシア。精が出るね」


 背後からかけられた声に、私は「ひゃっ!」と情けない声を上げて飛び上がった。

 振り返れば、そこには昨晩の「犯人」、ルイ様が、何食わぬ涼しい顔で立っていた。


「ル、ルイ様……! 朝のご挨拶にしては、気配を消しすぎではありませんこと!?」


「おや、驚かせてすまない。君があまりに熱心に鍋を見つめていたものだから、声をかけそびれてね……昨夜はよく眠れたかい?」


 ルイ様が、少しだけ悪戯っぽく目を細める。

 その視線が私の唇を一瞬だけ掠めた気がして、私の体温はさらに急上昇した。


「……っ、おかげさまで! 夢も見ないほど熟睡いたしましたわ! さあ、開店準備に戻りますので、ルイ様は客席でおとなしくしていてくださいませ!」


 私が必死に平静を装って背を向けたその時。

 カフェの扉が、不機嫌そうに開け放たれた。


「……朝から、耳障りな『ノイズ』だ。これでは森の獣たちも逃げ出してしまうぞ」


 入ってきたのは、ダークエルフのテリオンだった。

 背中にはいつもの黒弓を背負い、カメリア色の瞳でジロリと私とルイ様を交互に見比べる。

 彼には、この場の空気が物理的な騒音として感じ取れるらしい。


「やあ、テリオン。おはよう。今日の『ノイズ』は、春の訪れを告げる鳥のさえずりのようなものだよ。君も楽しむといい」


「……フン。人間の王の戯言には付き合いきれん。いつもの席で、静かにコーヒーを……」


 テリオンが定位置のカウンター席に向かおうとした、その瞬間――カランコロン、と軽やかなベルの音が響き、再び扉が開いた。

 そこに立っていた人物の姿に、店内の空気が一瞬止まった。


 逆光の中に浮かび上がったのは、すらりと背の高い、しなやかな肢体を持つ女性だった。

 月光をそのまま溶かし込んだような艶のある褐色の肌。

 漆黒に深い紫が混じる長髪を、高い位置で一本に束ねている。

 その耳は長く尖り、彼女がテリオンと同じ種族――ダークエルフであることを示していた。


 身につけているのは、森での隠密行動に適した軽装の革鎧と、背中に背負った美しい曲線を描く弓矢。

 そして何より印象的なのは、その瞳。

 深い赤紫色の瞳は、戦士としての鋭い光を宿しながらも、どこか揺らぎやすい情熱を秘めているように見えた。


「……ここが、噂のカフェか」


 彼女の声は、鈴を転がすように涼やかでありながら、芯の通った強さがあった。


「サ、サイラ……? なぜ、お前がここにいる」


 いつも冷静なテリオンが、珍しく目を見開き、低い声で呻いた。

 彼がこれほど動揺を見せるのは初めてかもしれない。


「……別に。里の近くまで来たついでに、寄ってみただけだよ。あんたが入り浸ってるっていう、奇妙な店の視察さ」


 サイラと呼ばれた女性は、テリオンから視線を逸らし、ぶっきらぼうにそう言った。

 けれど、彼女の赤紫の瞳は、明らかにテリオンの姿を追いかけて揺れている。

 そして、彼女の首元には、テリオンが身につけているものと同じ意匠の、小さな護符が揺れていた。


(まあ。これはまた……複雑な事情がありそうですわね)


 私は瞬時に店主の顔に戻り、美しい来客に微笑みかけた。


「いらっしゃいませ。遠いところをよくお越しくださいました。店主のアリシアと申します。どうぞ、お好きな席へ」


 サイラは私を一瞥すると、少し驚いたように瞬きをした。


「……あんたが、店主? ずいぶんと……華奢な人間だな」


 彼女は値踏みするように私を見た後、テリオンの隣の席――ではなく、一つ空けた席に、少しぎこちなく腰を下ろした。


「注文は……そうだな。この森の『春』を一番感じられるものを頼む。私は里では狩猟のまとめ役だ。生半可な獲物では満足しないよ」


 彼女の言葉には、戦士としての誇りと、少しの虚勢が混じっているように聞こえた。


 春の森の恵み、そして狩人を満足させる一皿。

 私の料理人としての魂に火がついた。


「かしこまりました。最高の春をご用意いたしますわ」


 ◇


 私が選んだ食材は、今が旬の「春告げの仔羊スプリングラム」だ。

 冬の間にたっぷりと栄養を蓄え、柔らかく、臭みのない極上の肉。

 これを骨付きのまま豪快にカットし、塩胡椒、そして森で採れたばかりの新鮮なローズマリーとタイムをたっぷりとまぶす。

 熱したフライパンで表面を焼き付け、旨味を閉じ込める。

 ジューッという音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いとハーブの清涼感のある香りが店内に広がった。

 サイラの鼻がピクリと動くのが見える。


 付け合わせには、皮が薄く甘みのある新じゃがと、鮮やかな緑のアスパラガスを。

 仔羊から出た脂でこれらをソテーし、肉の旨味を野菜にも吸わせる。

 仕上げにオーブンでじっくりと火を通し、中は美しいロゼ色に仕上げる。

 ソースは、春の野草「セリ」と「ミント」をすり潰し、オリーブオイルと合わせた鮮やかな緑のソースサルサ・ヴェルデを添えた。


 名付けて――『月光の狩人に捧ぐ、春告げ仔羊の香草ロースト・ヴェルデソース』!!


「お待たせいたしました。春の森の生命力を、そのまま閉じ込めた一皿ですわ」


 サイラの前に皿を置くと、彼女の赤紫の瞳が輝いた。

 彼女はナイフとフォークを手に取り、慣れた手つきで肉を切り分ける。

 そして、鮮やかな緑のソースをたっぷりと絡め、口へと運んだ。


「……っ!」


 咀嚼する彼女の動きが止まる。


「……なんだ、これは。肉は驚くほど柔らかいのに、噛むたびに力強い旨味が溢れてくる。それに、この草のソース……鼻に抜ける香りが、森そのものを食べているようだ」


 彼女は夢中でナイフを動かし始めた。

 その食べっぷりは豪快で見ていて気持ちがいい。


 ――ガツッ。


「あ……」


 突然、鈍い音がした。

 見れば、サイラがフォークで刺した肉を口に運ぶ途中、隣のテリオンの方をチラリと見た拍子に、フォークが皿の縁にぶつかり、肉がテーブルに転がってしまっていた。


「……不作法だぞ、サイラ。食事に集中しろ」


 テリオンが呆れたようにため息をつく。


「う、うるさいな! ちょっと手が滑っただけだよ!」


 サイラは顔を真っ赤にして、慌てて肉を拾い上げた。その耳の先まで赤くなっている。

 里のまとめ役だという彼女の、凛とした外見からは想像もつかない「隙」。


(……なるほど。彼女、テリオンの前だと調子が狂ってしまうのですわね。可愛らしいですわ)


 私が微笑ましく見守っていると、不意にサイラと目が合った。

 彼女は肉を咀嚼しながら、探るような目で私を見て、それから視線をテリオンに戻し……そして、ふっと寂しげに目を伏せた。


「……なるほどね。あんたがここに居座る理由が、少しだけ分かった気がするよ」


 彼女の呟きは、誰に向けたものでもなかった。

 ただ、彼女の鋭い聴覚は、テリオンが私に向ける、彼自身も気づいていないかもしれない微かな「感情ノイズ」を、敏感に感じ取ってしまったようだった。


 食事を終えたサイラは、席を立ち、私に向かって深く頭を下げた。


「……美味かった。礼を言うよ、店主。あんたの料理は、里の宴でも食べたことがない味だった」


「お粗末様でした。またいつでも、春の味を楽しみにいらしてくださいな」


「ああ……テリオン。長居は無用だ。私は里に戻る」


 サイラはテリオンに短く告げると、逃げるように早足で店を出て行った。

 残されたテリオンは、彼女の背中を複雑な表情で見つめ、冷めたコーヒーを一口すすった。


 扉の向こうに消えた月光の狩人。

 彼女が運んできたのは、春の風だけではない、どこか切ない嵐の予感だった。

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