第9話 月光の狩人と、春告げの仔羊ロースト
国境の森の朝は、昨晩の熱気が嘘のように、凛とした冷涼な空気に包まれていた。
カフェ・ヴァレンタインの厨房で、私はいつものように開店準備に追われていた。
磨き上げたカトラリーを並べ、リネンのクロスを敷き、その日のスープの仕込みにかかる。
けれど、今日の手元は、自分でも呆れるほどに覚束ない。
(……不作法ですわ、ルイ様。あんな……あんなことをなさった翌朝に、平然とした顔で「おはよう、アリシア」なんて爽やかに現れるだなんて!)
思い出されるのは、月の光だけが頼りだったログハウスのソファでの出来事。
熱い吐息、奪われる呼吸、そして耳元で囁かれた甘い言葉。
カチャン、とスプーンを落としてしまい、私は慌てて自分の頬を両手で挟んだ。
熱い。絶対に今、完熟トマトみたいに真っ赤になっているに違いない。
「やあ、アリシア。精が出るね」
背後からかけられた声に、私は「ひゃっ!」と情けない声を上げて飛び上がった。
振り返れば、そこには昨晩の「犯人」、ルイ様が、何食わぬ涼しい顔で立っていた。
「ル、ルイ様……! 朝のご挨拶にしては、気配を消しすぎではありませんこと!?」
「おや、驚かせてすまない。君があまりに熱心に鍋を見つめていたものだから、声をかけそびれてね……昨夜はよく眠れたかい?」
ルイ様が、少しだけ悪戯っぽく目を細める。
その視線が私の唇を一瞬だけ掠めた気がして、私の体温はさらに急上昇した。
「……っ、おかげさまで! 夢も見ないほど熟睡いたしましたわ! さあ、開店準備に戻りますので、ルイ様は客席でおとなしくしていてくださいませ!」
私が必死に平静を装って背を向けたその時。
カフェの扉が、不機嫌そうに開け放たれた。
「……朝から、耳障りな『ノイズ』だ。これでは森の獣たちも逃げ出してしまうぞ」
入ってきたのは、ダークエルフのテリオンだった。
背中にはいつもの黒弓を背負い、カメリア色の瞳でジロリと私とルイ様を交互に見比べる。
彼には、この場の空気が物理的な騒音として感じ取れるらしい。
「やあ、テリオン。おはよう。今日の『ノイズ』は、春の訪れを告げる鳥の囀りのようなものだよ。君も楽しむといい」
「……フン。人間の王の戯言には付き合いきれん。いつもの席で、静かにコーヒーを……」
テリオンが定位置のカウンター席に向かおうとした、その瞬間――カランコロン、と軽やかなベルの音が響き、再び扉が開いた。
そこに立っていた人物の姿に、店内の空気が一瞬止まった。
逆光の中に浮かび上がったのは、すらりと背の高い、しなやかな肢体を持つ女性だった。
月光をそのまま溶かし込んだような艶のある褐色の肌。
漆黒に深い紫が混じる長髪を、高い位置で一本に束ねている。
その耳は長く尖り、彼女がテリオンと同じ種族――ダークエルフであることを示していた。
身につけているのは、森での隠密行動に適した軽装の革鎧と、背中に背負った美しい曲線を描く弓矢。
そして何より印象的なのは、その瞳。
深い赤紫色の瞳は、戦士としての鋭い光を宿しながらも、どこか揺らぎやすい情熱を秘めているように見えた。
「……ここが、噂のカフェか」
彼女の声は、鈴を転がすように涼やかでありながら、芯の通った強さがあった。
「サ、サイラ……? なぜ、お前がここにいる」
いつも冷静なテリオンが、珍しく目を見開き、低い声で呻いた。
彼がこれほど動揺を見せるのは初めてかもしれない。
「……別に。里の近くまで来たついでに、寄ってみただけだよ。あんたが入り浸ってるっていう、奇妙な店の視察さ」
サイラと呼ばれた女性は、テリオンから視線を逸らし、ぶっきらぼうにそう言った。
けれど、彼女の赤紫の瞳は、明らかにテリオンの姿を追いかけて揺れている。
そして、彼女の首元には、テリオンが身につけているものと同じ意匠の、小さな護符が揺れていた。
(まあ。これはまた……複雑な事情がありそうですわね)
私は瞬時に店主の顔に戻り、美しい来客に微笑みかけた。
「いらっしゃいませ。遠いところをよくお越しくださいました。店主のアリシアと申します。どうぞ、お好きな席へ」
サイラは私を一瞥すると、少し驚いたように瞬きをした。
「……あんたが、店主? ずいぶんと……華奢な人間だな」
彼女は値踏みするように私を見た後、テリオンの隣の席――ではなく、一つ空けた席に、少しぎこちなく腰を下ろした。
「注文は……そうだな。この森の『春』を一番感じられるものを頼む。私は里では狩猟のまとめ役だ。生半可な獲物では満足しないよ」
彼女の言葉には、戦士としての誇りと、少しの虚勢が混じっているように聞こえた。
春の森の恵み、そして狩人を満足させる一皿。
私の料理人としての魂に火がついた。
「かしこまりました。最高の春をご用意いたしますわ」
◇
私が選んだ食材は、今が旬の「春告げの仔羊」だ。
冬の間にたっぷりと栄養を蓄え、柔らかく、臭みのない極上の肉。
これを骨付きのまま豪快にカットし、塩胡椒、そして森で採れたばかりの新鮮なローズマリーとタイムをたっぷりとまぶす。
熱したフライパンで表面を焼き付け、旨味を閉じ込める。
ジューッという音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いとハーブの清涼感のある香りが店内に広がった。
サイラの鼻がピクリと動くのが見える。
付け合わせには、皮が薄く甘みのある新じゃがと、鮮やかな緑のアスパラガスを。
仔羊から出た脂でこれらをソテーし、肉の旨味を野菜にも吸わせる。
仕上げにオーブンでじっくりと火を通し、中は美しいロゼ色に仕上げる。
ソースは、春の野草「セリ」と「ミント」をすり潰し、オリーブオイルと合わせた鮮やかな緑のソースを添えた。
名付けて――『月光の狩人に捧ぐ、春告げ仔羊の香草ロースト・ヴェルデソース』!!
「お待たせいたしました。春の森の生命力を、そのまま閉じ込めた一皿ですわ」
サイラの前に皿を置くと、彼女の赤紫の瞳が輝いた。
彼女はナイフとフォークを手に取り、慣れた手つきで肉を切り分ける。
そして、鮮やかな緑のソースをたっぷりと絡め、口へと運んだ。
「……っ!」
咀嚼する彼女の動きが止まる。
「……なんだ、これは。肉は驚くほど柔らかいのに、噛むたびに力強い旨味が溢れてくる。それに、この草のソース……鼻に抜ける香りが、森そのものを食べているようだ」
彼女は夢中でナイフを動かし始めた。
その食べっぷりは豪快で見ていて気持ちがいい。
――ガツッ。
「あ……」
突然、鈍い音がした。
見れば、サイラがフォークで刺した肉を口に運ぶ途中、隣のテリオンの方をチラリと見た拍子に、フォークが皿の縁にぶつかり、肉がテーブルに転がってしまっていた。
「……不作法だぞ、サイラ。食事に集中しろ」
テリオンが呆れたようにため息をつく。
「う、うるさいな! ちょっと手が滑っただけだよ!」
サイラは顔を真っ赤にして、慌てて肉を拾い上げた。その耳の先まで赤くなっている。
里のまとめ役だという彼女の、凛とした外見からは想像もつかない「隙」。
(……なるほど。彼女、テリオンの前だと調子が狂ってしまうのですわね。可愛らしいですわ)
私が微笑ましく見守っていると、不意にサイラと目が合った。
彼女は肉を咀嚼しながら、探るような目で私を見て、それから視線をテリオンに戻し……そして、ふっと寂しげに目を伏せた。
「……なるほどね。あんたがここに居座る理由が、少しだけ分かった気がするよ」
彼女の呟きは、誰に向けたものでもなかった。
ただ、彼女の鋭い聴覚は、テリオンが私に向ける、彼自身も気づいていないかもしれない微かな「感情」を、敏感に感じ取ってしまったようだった。
食事を終えたサイラは、席を立ち、私に向かって深く頭を下げた。
「……美味かった。礼を言うよ、店主。あんたの料理は、里の宴でも食べたことがない味だった」
「お粗末様でした。またいつでも、春の味を楽しみにいらしてくださいな」
「ああ……テリオン。長居は無用だ。私は里に戻る」
サイラはテリオンに短く告げると、逃げるように早足で店を出て行った。
残されたテリオンは、彼女の背中を複雑な表情で見つめ、冷めたコーヒーを一口すすった。
扉の向こうに消えた月光の狩人。
彼女が運んできたのは、春の風だけではない、どこか切ない嵐の予感だった。




