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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第8話 竜の贈りもの、そして熱を帯びた夜の帳

 国境の森の朝は、静謐せいひつな青から柔らかな金色へと溶け出していく。


 梢の間から差し込む陽光が、カフェ・ヴァレンタインの窓ガラスを叩き、まだ眠りの中にあった森の生き物たちを優しく揺り起こす。

 厨房では、クラリスが丁寧に磨き上げた銅の鍋が朝日を反射し、私の相棒であるフライパンもまた、戦(調理)の始まりを静かに待っていた。


 いつものように、エプロンの紐をキリリと締め、今日のおすすめメニューを考えていたその時。

 テラスの方から、バタバタという、およそこの場所には似つかわしくない不作法な足音が近づいてきた。


「た、大変です……! アリシアさん! ワイバーンが……ワイバーンが……!」


 真っ青な顔をして飛び込んできたのは、ジュリアンだった。

 暗緑色の髪を振り乱し、トパーズのような瞳を潤ませている。

 その必死な様子に、私の胸に嫌な予感がよぎった。


(これは一大事ですわ! まさかお母様の刺客に襲われた!? あるいは、毒でも盛られたのかしら!?)


「落ち着きなさい、ジュリアン。ワイバーンに何があったのです?」


「わ、わからないんです、とにかく来て……! あの子、朝からずっと変なんです!」


 私は手に持っていた木べらを置き、ジュリアンの後を追って駐竜スペースへと走った。

 そこには、いつもは誇り高く翼を休めている古の竜――ワイバーンが、心なしか落ち着かない様子で足元を気にしながらうずくまっていた。


「ワイバーン、しっかりなさい! 何があったの……って、あら?」


 駆け寄った私の目に飛び込んできたのは、ワイバーンの足元――柔らかい藁の中に鎮座する、淡い琥珀色に輝く巨大な「卵」だった。

 ワイバーンは私と目が合うと、少し照れくさそうに「クルル……」と喉を鳴らし、その大きな鼻先で卵を私の方へと転がしてきた。


「まぁ……女の子でしたのね、貴女」


「ええっ!? ワイバーン、お母さんだったの……!?」


 驚愕するジュリアンの傍らで、私はその卵にそっと触れた。

 まだ温かく、中からは膨大な魔力の鼓動が伝わってくる。


「……お嬢様。これは『無精卵』、いわゆる魔力の結晶ですわね」


 いつの間にか背後に立っていたクラリスが、白緑の瞳で冷静に観察して告げた。


「ワイバーンは、自分が心から安全だと信じ、守りたいと思う場所にこうして余剰な魔力を卵の形で捧げることがあります。これは竜からの『供物』……つまり、このカフェへの家賃のようなものですわ。有精卵ではありませんから、孵ることはございません。放置すれば石のように硬くなり、魔力が霧散むさんしてしまいますわね」


 ワイバーンはもう一度、卵を私の足元へ押しやった。

 その瞳は、はっきりと「食べて」と言っている。


 竜の魔力は強大だ。

 そのまま放置して森の生態系を乱すより、その想い(魔力)を受け取り、血肉に変えることこそが、彼女に対する礼儀というものだろう。


「……わかりましたわ。ワイバーン、貴女の不作法なほどの情熱、この私が最高の一皿として昇華させてあげますわ!」


 ◇


 厨房に戻った私は、さっそくその「竜の卵」の調理に取り掛かった。


 殻は魔導鉄のように硬かったが、私の愛用する特製フライパンの角で一撃を加えると、中から太陽をそのまま閉じ込めたような、濃厚でとろりとした黄金色の液があふれ出した。

 これを使って作るのは、卵料理の基本にして究極――オムレツ。

 熱したバターの香りが厨房を満たす。

 溶いた卵を流し入れると、ジュワッという小気味よい音と共に、魔力の余韻が白い湯気となって立ち上った。

 手早く、かつ繊細に。外側は薄い絹のように滑らかに焼き固め、内側はナイフを入れた瞬間にあふれ出すような半熟の極致を目指す。


 名付けて――『黄金竜の祝福、あるいは絆を紡ぐ極上のオムレツ』!!


 焼き上がったオムレツを皿に並べ、開店を待つ一同に振る舞った。

 カトリーナも、ジュリアンも、バルトも、クラリスも、ゾアも、テリオンも。

 一口食べた瞬間、彼らの顔がパッと輝く。


「な、なによこれ……! 口に入れた瞬間に消えるのに、後から信じられないくらいの活力が湧いてくるわ! ……ま、まあ、私の魔力演算を助けるにはちょうどいい栄養ね!」


「あたたかい……ワイバーンの気持ちが、体に染み込んでくるみたいだ……」


 賑やかな朝食。

 けれど、その輪の中に、あるべき人物の姿がなかった。


 ルイ様だ。

 彼は昨晩から、アストライアから届いた「お母様」に関連すると思われる不穏な報告書の処理に、ログハウスに籠りきりになっている。


(……ルイ様。貴方、また無理をしていらっしゃいますのね。王としての義務も大切ですが、私のオムレツを食べ損ねるなんて、最大の不作法ですわよ)


 私は、自分用に残しておいた最後の卵で、ひときわ丁寧なオムレツを作り、それを銀のカバーで覆った。


 ◇


 夜。森が深い静寂に包まれ、銀色の月が中天に昇る頃。


 私は冷めない魔法をかけた皿を手に、ルイ様の住むログハウスを訪ねた。

 ドアを軽く叩くと、中から「入って」と少し疲れたような、けれど私を拒まない優しい声が響く。


「ルイ様。夜食を持ってきましたわ。まだ起きていらっしゃるのでしょう?」


 中に入ると、暖炉の火だけが赤々と燃える室内で、ルイ様が机一面に広げられた書類と格闘していた。

 眼鏡をかけたその瞳は少し充血しており、私を見るとふっと相好を崩した。


「アリシア……ああ、もうこんな時間か。すまない、少し熱中しすぎたようだ」


「少しどころではありませんわ。貴方は昔から一度集中すると周りが見えなくなる不作法な癖がありますもの。ほら、冷めないうちに召し上がれ。今日の目玉、竜の卵のオムレツですわ」


 私が銀のカバーを外すと、室内にかぐわしいバターと卵の香りが広がった。

 ルイ様は眼鏡を外して棚の上に置き、促されるままに椅子に座ってオムレツを一口口にした。


「……っ。これは、すごいな。疲れが霧散していくようだ。それに……なんて優しい味なんだ」


「ワイバーンが、私たちのために産んでくれた『祝福』ですもの。当然ですわ」


 ルイ様は黙々と食べ進め、最後の一口を飲み干すと、深く長い溜息をついた。

 食後の静寂が室内に満ちる。

 暖炉でパチリと爆ぜる薪の音だけが、私たちの沈黙を際立たせた。


「……アリシア。こっちへ」


 ルイ様が、そっと隣のソファを叩く。

 私は少し胸を高鳴らせながら、彼の隣に腰を下ろした。

 すると、不意に視界が揺れた。

 強い力で引き寄せられ、私はルイ様の腕の中に閉じ込められる。


「ルイ、様……?」


「君の料理を食べると、不思議だね。力が湧いてくるのと同時に……どうしても、君に触れたくて仕方がなくなる」


 至近距離で見つめ合う。

 彼の熱い吐息が肌を掠め、心臓が不作法なほど大きな音を立て始めた。


 ルイ様の顔がゆっくりと近づき――唇が重なった。

 一度目は、羽が触れるような軽い挨拶。

 二度目は、確かめるような深い愛撫。

 三度目は……お互いの呼吸を奪い合うような、熱く、執拗な口付けだった。


「ん……っ……」


 抗う術など、最初から持っていなかった。

 ルイ様の大きな手が私の背中に回り、そのまま押し込まれるようにして体勢を崩され、ソファに身を預ける形になった。

 視界には、月光を背負ったルイ様の影と、情熱に濡れた彼の瞳だけが映る。

 ルイ様は私の唇から鎖骨へと口付けを落とし、耳元で低く、甘く囁いた。


「アリシア。君は私を甘やかしすぎる……おかげで、もっと『不作法』なことまでしたくなってしまう」


 ルイ様の指先が私の髪を掬い、再び唇が重なる。

 今度はもっと深く、もっと熱く。

 私の体温は、厨房の火よりも高く沸騰し、頭の中が真っ白に塗り潰されていく。


(……こ、これでは私の理性が溶けてしまいますわ……!)


 私が顔を真っ赤にして、熱に浮かされたような声を漏らすと、ルイ様は不意に動きを止め、私の反応を楽しむように悪戯っぽく口角を上げた。


「……ふふ。今日はこの辺にしておこうか。これ以上は、君が煮えてしまいそうだ」


 ルイ様はそう言って、私の額に最後のご褒美のような軽い口付けを残すと、私を抱き起こした。

 まだ熱の冷めない体を支えられながら、私は必死に乱れた息を整える。


「……不作法ですわ……本当に、ルイ様は」


「ああ、自覚はあるよ……でも、最高の晩餐を届けてくれたご褒美としては、悪くなかっただろう?」


 ルイ様の穏やかで、けれど独占欲を隠さない微笑みに、私は言葉を失う。


 窓の外では、春の夜風が静かに木々を揺らしていた。

 まだまだ解決すべき問題は山積みだけれど、この甘い温度がある限り、私は何度でもフライパンを握り、そして、この「幸せ」という名の城を守り抜いてみせる。


 夜のとばりが、二人の吐息を優しく隠していった。

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