第7話 魔導の演算が導く、宝石のクラフティー
カフェ・ヴァレンタインの店内には、今朝も焼きたてのパンの香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーの深い香りが満ちていた。
窓から差し込む春の光が、クラリスが毎朝丹念に磨き上げているカトラリーに反射し、壁に小さな光の粒を踊らせている。
表向きはいつも通りの穏やかな朝。
けれど、カウンターの奥で行われている「報告」の内容は、春の陽気とは裏腹にひどく冷ややかなものだった。
「……以上が、昨日のエレナの動向ですわ。お嬢様」
クラリスが、白緑の瞳を厳しく細めて、朝の報告を締めくくった。
その手には、昨日の「再会」の証である、折り癖のついた一枚のナプキンが握られている。
「お母様……あんなに鮮やかに引き上げたふりをして、まだ私を駒として連れ戻すことを諦めてはいらっしゃらないのね。それも、私の懐かしい思い出さえも、潜入の道具にして」
私は、カウンターに置いたフライパンの柄を強く握りしめた。
(お母様の執念、もはや感心を通り越して不気味ですわよ! 私の思い出に泥を塗るなんて、不作法にも程がありますわ!!)
「公爵夫人の執念は、私も身に沁みて知っているつもりだったけれど……まさか、アリシアの心を直接揺さぶりに来るとはね」
隣で話を聞いていたルイ様が、険しい表情で腕を組んだ。
彼の瞳には、愛する人を危険に晒されていることへの、静かな怒りが宿っている。
「クラリス。すぐにセシルとユリウスに連絡を。お母様……ヴァレンタイン公爵夫人が、グラン・ロアでどのような動きを見せているのか、再度詳しく探るよう伝えてください。特に、彼女が最近接触した貴族のリストを」
「既に手配の準備は整っておりますわ。情報のプロフェッショナルであるあの方々なら、公爵夫人の『次の一手』の尻尾を掴んでくれるはずです」
クラリスは、伝書鳩の入った籠を手に取った。
グラン・ロアで協力してくれている、クラリスの親友のセシルと、切れ者のユリウス。
彼らにこの「ナプキンの暗号」の詳細を伝えれば、お母様の意図をさらに深く読み解けるはずだ。
「引き続き、警戒を強めよう……私もすぐに動きたいところだが、アストライアから届いたこの膨大な報告書を片付けなくてはならない。アリシア、今日は君の傍にいてあげられなくて申し訳ない」
ルイ様が、机に積み上がった書類の山を見て、眉を下げて溜息をつく。
「構いませんわ、ルイ様。貴方は貴方の戦場で勝利を収めてくださいませ。私たちは私たちのやり方で、この不穏な空気を吹き飛ばしてきますわよ」
私が微笑んだその時、店のドアが勢いよく開け放たれた。
「おーっほっほっほ! 掃き溜めに集まる野蛮な用心棒に、不遜な詐欺師。そして家名を汚す出来損ないの令嬢! 一掃するには、ちょうどいいゴミ溜めですわね!」
これ見よがしに派手な、金糸の刺繍が施された真紅の魔導衣を纏った少女――カトリーナが、宝石を散りばめた杖を掲げて立っていた。
「あら、カトリーナ。朝から一段と『お元気』ですわね。何か御用かしら?」
「決まっていますわ! この季節、森の奥に実る『春告げの果実』を収穫しに行きますわよ! 首席卒業の私がいなければ、貴方たちのような不作法者は、毒苺でも食べて寝込むのが関の山ですもの!」
カトリーナはそう言いながら、私の背後に隠れるように立っていたジュリアンを、杖でビシッと指し示した。
「そこの詐欺師! 貴方も来なさい! 貴方のその頼りない魔物使いの力が、少しは役に立つかもしれませんわよ!」
ジュリアンは、暗緑色の髪を揺らし、トパーズのような瞳を瞬かせて困ったように笑った。
「あ……カトリーナさん。うん、わかった。お手伝いするよ」
かつて敵に奴隷のように扱われ、その力を悪用させられていたジュリアン。
彼を「詐欺師」と呼ぶのは、カトリーナなりの歪んだ虚勢と、彼の過去を否定したいという不器用な優しさが入り混じった毒舌なのだ。
「それでしたらカトリーナ、ジュリアン、行きましょうか。春の恵みを奪い取りに!」
◇
森の奥深く。
陽光が若葉を透かし、足元では春の野花が風に揺れている。
「な、なによジュリアン! 私がついていながら、段差に躓くなんて不作法よ! ほら、私の腕でも掴んでいなさいな!」
カトリーナは毒づきながらも、険しい道でふらつくジュリアンの細い腕を、顔を真っ赤にしてぎゅっと掴んでいる。
「ありがとう、カトリーナさん……じゃあ、あそこの高い枝にある実を採るために、あの子たちに手伝ってもらおうかな」
ジュリアンが、外套の内側から一振りの「銀の笛」を取り出した。
彼が唇にそれを当て、静かに旋律を奏でる。
ピ――ッ、と。
森の空気を震わせるような、高く澄んだ音が響き渡る。
すると、梢を揺らすガサガサという音と共に、数匹の影が素早く飛び出してきた。
現れたのは、淡い若草色の毛並みを持つ、小猿の魔物たちだ。
「まあ……! 可愛い」
「ふ、ふん! まあまあね。魔物使いとしての腕だけは、認めてあげなくもないわ。ほら、そこの猿たち! 早くあの熟した実を採りなさいな!」
ジュリアンの奏でる笛の音に導かれ、小猿たちは長い腕を使って、人間には手の届かない高い枝から、宝石のような果実を次々と籠に放り込んでいく。
「カトリーナさんは、本当に教えるのが上手だね」
「なっ……! だ、誰が褒めていいと言いましたの!? 私はただ、不器用な貴方を監視しているだけですわよ!!」
二人のやり取りを見守りながら、私は籠をいっぱいにしていった。
(ご馳走様ですわ。この甘酸っぱい空気、収穫したばかりの果実より刺激的ですわよ!)
思わず、口元に手を添えてくすりと笑った。
木漏れ日が揺れ、枝の影が足元で踊る。
二人の背中を邪魔しないよう、気配を殺したまま、そっと視線を外した。
◇
カフェに戻ると、私はさっそく収穫したばかりの果実を調理し始めた。
今日のデザートは、春の生命力を閉じ込めた『新緑の森のクラフティー』。
「いい、カトリーナ! 表面は黄金色の焼き色がつく百度。でも、中のアパレイユは、果実の果汁が溢れ出しつつ、プリンのように滑らかな質感を保つ八十度をキープして。一秒でも外れたら、それはもう私の料理ではありませんわ!」
「わ、分かってるわよ! この私を誰だと思ってるの、魔法演算なら完璧にやってのけるわ! ふんっ、コンマ単位で熱伝導率を固定してあげるんだから!」
厨房では、真紅の魔導衣を翻したカトリーナが、宝石のついた杖をオーブンに向けて必死に魔力を注いでいた。
王立魔導院首席卒業のプライドは、今や「完璧なテクスチャのクラフティー」を完成させるという一点に集約されている。
オーブンの熱が、カトリーナの魔力によって精密に制御されていく。
次第に甘酸っぱい香りが厨房を満たし、果実の果汁がアパレイユと溶け合い、宝石を散りばめたような黄金色のケーキが焼き上がっていく。
「さあ、召し上がれ。春の香りのご褒美ですわ」
テラス席に並んだのは、焼き立ての熱々なクラフティー。
書類仕事の手を休めて顔を出したルイ様も、その芸術的な焼き上がりに目を細めた。
「……っ。な、なによこれ……甘酸っぱくて、それでいて生地がプリンみたいにトロトロで……ま、まあ、私の火加減が完璧だったおかげね!」
カトリーナは毒づきながらも、誰よりも早く一切れを完食し、ジュリアンの分の皿を「不作法な食べ方をしていないか見てあげるわ」と、半分奪うようにして食べさせてあげている。
「おいしい……! アリシアさん、カトリーナさんがこんなにパクパク食べてるの、初めて見たよ」
「なっ……! ジュリアン! 貴方の分も、私が毒味してあげようって言ってるのよ! 感謝しなさいな!」
そんな賑やかな光景を、ゾアやクラリスも遠巻きに、けれど穏やかな表情で眺めていた。
お母様の影。エレナの裏切り。
解決すべき問題は山積みだけれど、今、この瞬間に流れる「美味しい」という共有された空気だけは、どんな完璧な台本でも作り出すことはできない。
私は、最後の一切れのクラフティーを口に運び、春の味を噛み締めた。
私たちの戦いは、まだ始まったばかり。
(けれど、この笑顔が絶えない限り、どんな不穏な影も焼き尽くして、最高の「おもてなし」に変えてみせますわ!)




