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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第6話 蜂蜜色のまどろみ、そして微かな不協和音

 国境の森の春は、一日ごとにその色彩を深めていく。


 朝靄あさもやがゆっくりと梢の隙間から立ち上り、まだ少し冷たさを残した空気が新緑の香りを運んでくる。

 テラスを囲む花々には真珠のような朝露が宿り、陽光を浴びて宝石のようにきらめいていた。


 カフェ・ヴァレンタインの煙突からは、朝の準備を知らせる柔らかな煙が揺らめき、森の小鳥たちがその合図に合わせていっせいにさえずり始める。


「クラリス、テラスの準備は終わりましたかしら? 今日は風が心地よいから、きっと外でのお食事が進みますわよ」


「はい、お嬢様。テーブルクロスも新調したものに取り替えましたわ……あら、お嬢様、少し襟元が乱れておりますわね」


 クラリスが流れるような所作で私の襟を直してくれる。

 この森での生活は、王宮や公爵邸でのそれよりもずっと自由で不作法なはずなのに、彼女の「完璧な侍女」としての献身だけは、あの日から一分一秒たりとも変わらない。


 そんな私たちの穏やかな開店準備を破るように、森の小道から頼りなげな足音が近づいてきた。

 ガサリ、と草を分ける音。そこに立っていたのは、見覚えのある……けれど、この場所にはあまりに不釣り合いな小柄な女性だった。


「あれ。ここ、かな。クラリスがいるって聞いたのは……」


 ふわりとした蜂蜜色の癖毛が、少し乱れた状態で肩にかかっている。

 薄い茶色の瞳はいつも眠たげで、その場の空気をおっとりとゆるませてしまうような独特の雰囲気。

 メイド服を着てはいるが、カフスが少し曲がり、リボンの結び目もどこか甘い。


「エレナ……? どうして貴女がここに」


 いつも沈着冷静なクラリスが、珍しく目を見開いた。

 エレナ。ヴァレンタイン公爵邸で、私やクラリスと共に過ごしていた、クラリスの元同僚。

 クラリスが教育係として手を焼きつつも、失敗して叱られた夜には、二人でこっそり厨房に忍び込んで夜食を分け合った仲。

 鉄の仮面を被る前のクラリスが、唯一「明日も頑張りましょうね」と弱音を吐くことができた、不思議な少女だった。


「えへへ。クラリス、久しぶり。歩くの疲れちゃった」


 エレナは力なく微笑むと、そのままテラスの椅子にふにゃりと座り込んだ。


(大・勝・利! ……ではなくて、これは大・再・会ですわ!! あの不作法エレナにまで噂が届くなんて、私のカフェ・ヴァレンタインもいよいよ国際的な知名度を得てきましたわね!!)


 私は内心で拳を握り締めつつも、淑女の微笑みを崩さず彼女に近づいた。


「ようこそ、エレナ。貴女のことはクラリスからよく聞いていましたわ……クラリス、さっそく彼女に最高のお茶と、焼きたてのクッキーを用意して差し上げて」


「……は、はい。かしこまりました」


 クラリスはまだ戸惑いの中にいるようだったが、エレナの顔を見ると自然と身体が動くようだった。

 運ばれてきたのは、春の香りをブレンドした紅茶と、バターたっぷりのラングドシャ。

 エレナはそれを一口食べると、とろんとした目をさらに細めた。


「おいしい……クラリスのいれるお茶、懐かしい味がする。お屋敷の夜、一緒に食べたクッキーも、こんな感じだったね」


「貴女がいつも隠れて食べるから、お皿の数を合わせるのが大変だったのですよ、エレナ……本当に、少しも変わっていませんのね」


 クラリスの口調が、いつもの「完璧な従者」から、少しだけ「昔の友人」に戻る。

 二人は、かつての公爵邸での失敗談や、厳しかったお母様の教育に怯えた日々について、ぽつりぽつりと話し始めた。

 エレナの眠たげな相槌に、クラリスが時折小さく笑う。

 その光景は、戦火や陰謀とは無縁の、あまりに温かな「かつての日常」だった。


 私はその様子を微笑ましく見守りながら、厨房へときびすを返した。

 エレナに振る舞うべきものは、お茶だけではない。

 彼女がかつて大好きだと言っていた、あの素朴な味。

 私は大きな鍋に、今朝イグニスが収穫したばかりの泥付きの人参、ジャガイモ、かぶをたっぷりと用意した。

 皮を剥き、あえてゴロゴロと大きめに切り分ける。

 それを鶏の出汁でじっくりと煮込み、野菜の甘みを存分に引き出していく。

 仕上げにバターと小麦粉でとろみをつけ、少しのミルクでまろやかに整える。


 名付けて――『追憶の白、あるいは寄り添う根菜のポタージュ・シチュー』!!


「お待たせいたしましたわ。エレナ、貴女が好きだと言っていたスープですわよ」


 テラスに運ばれたスープからは、大地の力強い香りと、乳製品の優しい湯気が立ち上っている。

 エレナは、添えられた自家製パンをちぎり、スープの深いところへ浸した。

 そして、とろみのついたそれを、大切そうに口へ運ぶ。


「……これ……あったかいね! 私、あの日もこれ、食べたかったんだ」


 エレナの瞳に、微かな潤みが宿る。

 失敗して、叱られて、自分が不器用で情けなくて仕方なかった夜。

 クラリスと肩を並べて食べた、冷え切った身体に染み渡るような、あの温度。


「お母様……公爵夫人は、無駄を嫌います。けれど、このスープの『とろみ』は、無駄ではなく、誰かを待つための『余韻』ですわ。ここでは、いくらでもゆっくり温まってよろしいのよ」


「……ありがとう、お嬢様」


 エレナは、何度もパンをスープに浸し、最後の一滴まで拭うようにして完食した。

 彼女の満足げな溜息と共に、森の陽光がさらに暖かさを増していく。


 お昼過ぎ、エレナは「そろそろ、帰らなくちゃ」と立ち上がった。


「またね、クラリス……アリシアお嬢様も、お元気で……ここは、本当にいい場所。帰りたくなくなっちゃうな」


 彼女は蜂蜜色の髪を揺らしながら、再び頼りなげな足取りで森の小道へと消えていった。

 私はその背中を、懐かしい友人を送り出すような、清々しい気持ちで見送った。


「クラリス。良かったわね。貴女があんなに柔らかい顔をするなんて、店主として嬉しい発見でしたわ」


 私が微笑みかけると、クラリスは無言でエレナの去った方向を見つめ続けていた。

 その横顔には、再会の喜びとは違う、硬く鋭い「警戒」が宿っている。


「……クラリス?」


「……お嬢様。申し訳ありません。片付けの前に、一度手を洗ってまいります」


 彼女の声は、かつてないほど冷え切っていた。

 クラリスが、エレナの座っていたテーブルに手を伸ばす。

 そこには、食べ終わったスープの皿の横に、エレナが「無意識」にいじっていたナプキンが残されていた。

 その折り目は……ヴァレンタイン公爵邸の秘密の合図、お母様が「潜入」を命じた者にだけ教える特殊な形に折られていた。


 クラリスは、かつての友人が、今も「不器用」なままであったことを確信した。

 エレナのメイド服が乱れていたのは、わざとだ。

 彼女が眠たげな目で周囲を観察していたのは、ここを守るルイ様やゾアの配置、そしてアリシアの「本音」を探るため。

 懐かしい夜食の味を語りながら、エレナは一度も、クラリスが以前公爵邸で大切にしていた「秘密の小箱」の話を出さなかった。

 もし本当に昔を懐かしんでいるのなら、必ず出るはずの話題。

 彼女の話した思い出は、どれも公爵夫人の記録にあるような『模範解答』ばかりだった。

 それは、彼女が自分の記憶を辿っているのではなく、誰かが用意した『台本』をなぞっていることを意味していた。


「……不作法ですわ、エレナ。お嬢様のスープを、『毒味』のために使ったのですね」


 クラリスの瞳から、一瞬にして友情の光が消え、冷徹なナイフのような輝きが戻る。

 お母様――ヴァレンタイン公爵夫人は、一度は退散したものの決して諦めてはおらず、エレナを使い、このカフェの弱点やアリシアを取り戻すための「手がかり」を探らせていたのだ。


 春風が、私のフライパンを冷やしていく。

 私たちの「穏やかな日常」の裏側で、再び巨大な歯車が回り始めたことに、私はまだ気づいていなかった。

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