第6話 蜂蜜色のまどろみ、そして微かな不協和音
国境の森の春は、一日ごとにその色彩を深めていく。
朝靄がゆっくりと梢の隙間から立ち上り、まだ少し冷たさを残した空気が新緑の香りを運んでくる。
テラスを囲む花々には真珠のような朝露が宿り、陽光を浴びて宝石のようにきらめいていた。
カフェ・ヴァレンタインの煙突からは、朝の準備を知らせる柔らかな煙が揺らめき、森の小鳥たちがその合図に合わせていっせいに囀り始める。
「クラリス、テラスの準備は終わりましたかしら? 今日は風が心地よいから、きっと外でのお食事が進みますわよ」
「はい、お嬢様。テーブルクロスも新調したものに取り替えましたわ……あら、お嬢様、少し襟元が乱れておりますわね」
クラリスが流れるような所作で私の襟を直してくれる。
この森での生活は、王宮や公爵邸でのそれよりもずっと自由で不作法なはずなのに、彼女の「完璧な侍女」としての献身だけは、あの日から一分一秒たりとも変わらない。
そんな私たちの穏やかな開店準備を破るように、森の小道から頼りなげな足音が近づいてきた。
ガサリ、と草を分ける音。そこに立っていたのは、見覚えのある……けれど、この場所にはあまりに不釣り合いな小柄な女性だった。
「あれ。ここ、かな。クラリスがいるって聞いたのは……」
ふわりとした蜂蜜色の癖毛が、少し乱れた状態で肩にかかっている。
薄い茶色の瞳はいつも眠たげで、その場の空気をおっとりと弛ませてしまうような独特の雰囲気。
メイド服を着てはいるが、カフスが少し曲がり、リボンの結び目もどこか甘い。
「エレナ……? どうして貴女がここに」
いつも沈着冷静なクラリスが、珍しく目を見開いた。
エレナ。ヴァレンタイン公爵邸で、私やクラリスと共に過ごしていた、クラリスの元同僚。
クラリスが教育係として手を焼きつつも、失敗して叱られた夜には、二人でこっそり厨房に忍び込んで夜食を分け合った仲。
鉄の仮面を被る前のクラリスが、唯一「明日も頑張りましょうね」と弱音を吐くことができた、不思議な少女だった。
「えへへ。クラリス、久しぶり。歩くの疲れちゃった」
エレナは力なく微笑むと、そのままテラスの椅子にふにゃりと座り込んだ。
(大・勝・利! ……ではなくて、これは大・再・会ですわ!! あの不作法にまで噂が届くなんて、私のカフェ・ヴァレンタインもいよいよ国際的な知名度を得てきましたわね!!)
私は内心で拳を握り締めつつも、淑女の微笑みを崩さず彼女に近づいた。
「ようこそ、エレナ。貴女のことはクラリスからよく聞いていましたわ……クラリス、さっそく彼女に最高のお茶と、焼きたてのクッキーを用意して差し上げて」
「……は、はい。かしこまりました」
クラリスはまだ戸惑いの中にいるようだったが、エレナの顔を見ると自然と身体が動くようだった。
運ばれてきたのは、春の香りをブレンドした紅茶と、バターたっぷりのラングドシャ。
エレナはそれを一口食べると、とろんとした目をさらに細めた。
「おいしい……クラリスのいれるお茶、懐かしい味がする。お屋敷の夜、一緒に食べたクッキーも、こんな感じだったね」
「貴女がいつも隠れて食べるから、お皿の数を合わせるのが大変だったのですよ、エレナ……本当に、少しも変わっていませんのね」
クラリスの口調が、いつもの「完璧な従者」から、少しだけ「昔の友人」に戻る。
二人は、かつての公爵邸での失敗談や、厳しかったお母様の教育に怯えた日々について、ぽつりぽつりと話し始めた。
エレナの眠たげな相槌に、クラリスが時折小さく笑う。
その光景は、戦火や陰謀とは無縁の、あまりに温かな「かつての日常」だった。
私はその様子を微笑ましく見守りながら、厨房へと踵を返した。
エレナに振る舞うべきものは、お茶だけではない。
彼女がかつて大好きだと言っていた、あの素朴な味。
私は大きな鍋に、今朝イグニスが収穫したばかりの泥付きの人参、ジャガイモ、蕪をたっぷりと用意した。
皮を剥き、あえてゴロゴロと大きめに切り分ける。
それを鶏の出汁でじっくりと煮込み、野菜の甘みを存分に引き出していく。
仕上げにバターと小麦粉でとろみをつけ、少しのミルクでまろやかに整える。
名付けて――『追憶の白、あるいは寄り添う根菜のポタージュ・シチュー』!!
「お待たせいたしましたわ。エレナ、貴女が好きだと言っていたスープですわよ」
テラスに運ばれたスープからは、大地の力強い香りと、乳製品の優しい湯気が立ち上っている。
エレナは、添えられた自家製パンをちぎり、スープの深いところへ浸した。
そして、とろみのついたそれを、大切そうに口へ運ぶ。
「……これ……あったかいね! 私、あの日もこれ、食べたかったんだ」
エレナの瞳に、微かな潤みが宿る。
失敗して、叱られて、自分が不器用で情けなくて仕方なかった夜。
クラリスと肩を並べて食べた、冷え切った身体に染み渡るような、あの温度。
「お母様……公爵夫人は、無駄を嫌います。けれど、このスープの『とろみ』は、無駄ではなく、誰かを待つための『余韻』ですわ。ここでは、いくらでもゆっくり温まってよろしいのよ」
「……ありがとう、お嬢様」
エレナは、何度もパンをスープに浸し、最後の一滴まで拭うようにして完食した。
彼女の満足げな溜息と共に、森の陽光がさらに暖かさを増していく。
お昼過ぎ、エレナは「そろそろ、帰らなくちゃ」と立ち上がった。
「またね、クラリス……アリシアお嬢様も、お元気で……ここは、本当にいい場所。帰りたくなくなっちゃうな」
彼女は蜂蜜色の髪を揺らしながら、再び頼りなげな足取りで森の小道へと消えていった。
私はその背中を、懐かしい友人を送り出すような、清々しい気持ちで見送った。
「クラリス。良かったわね。貴女があんなに柔らかい顔をするなんて、店主として嬉しい発見でしたわ」
私が微笑みかけると、クラリスは無言でエレナの去った方向を見つめ続けていた。
その横顔には、再会の喜びとは違う、硬く鋭い「警戒」が宿っている。
「……クラリス?」
「……お嬢様。申し訳ありません。片付けの前に、一度手を洗ってまいります」
彼女の声は、かつてないほど冷え切っていた。
クラリスが、エレナの座っていたテーブルに手を伸ばす。
そこには、食べ終わったスープの皿の横に、エレナが「無意識」にいじっていたナプキンが残されていた。
その折り目は……ヴァレンタイン公爵邸の秘密の合図、お母様が「潜入」を命じた者にだけ教える特殊な形に折られていた。
クラリスは、かつての友人が、今も「不器用」なままであったことを確信した。
エレナのメイド服が乱れていたのは、わざとだ。
彼女が眠たげな目で周囲を観察していたのは、ここを守るルイ様やゾアの配置、そしてアリシアの「本音」を探るため。
懐かしい夜食の味を語りながら、エレナは一度も、クラリスが以前公爵邸で大切にしていた「秘密の小箱」の話を出さなかった。
もし本当に昔を懐かしんでいるのなら、必ず出るはずの話題。
彼女の話した思い出は、どれも公爵夫人の記録にあるような『模範解答』ばかりだった。
それは、彼女が自分の記憶を辿っているのではなく、誰かが用意した『台本』をなぞっていることを意味していた。
「……不作法ですわ、エレナ。お嬢様のスープを、『毒味』のために使ったのですね」
クラリスの瞳から、一瞬にして友情の光が消え、冷徹なナイフのような輝きが戻る。
お母様――ヴァレンタイン公爵夫人は、一度は退散したものの決して諦めてはおらず、エレナを使い、このカフェの弱点やアリシアを取り戻すための「手がかり」を探らせていたのだ。
春風が、私のフライパンを冷やしていく。
私たちの「穏やかな日常」の裏側で、再び巨大な歯車が回り始めたことに、私はまだ気づいていなかった。




