第5話 鉄の休息、ジョッキ越しの再会
春の陽光が、森の深い緑を鮮やかに透かし、湿った土の香りを柔らかく運び上げている。
先日の雨が残した瑞々しい雫が、新緑の葉の先で宝石のように揺れ、時折訪れる風に誘われて土へと還っていく。
冬の名残を完全に払拭した国境の森は、今や生命の呼吸で満たされていた。
カフェ・ヴァレンタインの裏庭では、先日いただいたばかりの野菜の苗たちが、イグニスが丹精込めて耕した土にしっかりと根を下ろし、春の光を存分に浴びている。
「ゾア、その辺りでよろしいかしら? あまり深く掘りすぎると、苗の呼吸が苦しくなってしまいますわよ」
「……ぬう。承知した、主。この我の爪が、柔らかな命を傷つけぬよう細心の注意を払おう」
私はゾアと共に、菜園のメンテナンスに勤しんでいた。
身の丈二メートルを超える巨躯、鈍く光る深緑の鱗に覆われたリザードマンの戦士・ゾア。
彼がその鋭い鉤爪を器用に使って、ちんまりとした苗の周りの土を整える姿は、何度見ても微笑ましい。
黄金の瞳が、まるで宝物を見るかのように熱心に土を見つめている。
「我らリザードマンは、一度戦いから離れれば、こうして静かに命が育つ様を眺めるのも、また一つの贅沢よ」
穏やかな時間が流れる中、森の小道から、重厚で規則正しい足音が響いてきた。
カサカサという落ち葉の音ではない。
ずしり、ずしりと、大地をしっかりと踏みしめる、岩が転がるような力強い足音。
ゾアが不意に手を止め、鼻を僅かに動かして顔を上げた。
「……おう、ゾア! 久しぶりだな。相変わらず、そのデカい図体でちまちまと土いじりか?」
木々の影から現れたのは、一人のドワーフだった。
人間よりも頭一つ以上低いが、その肩幅は並の男の倍ほどもあるだろうか。
ずんぐりした体躯には無駄な肉など一切なく、全身が鍛え上げられた鉄塊、あるいは古の岩石のように硬そうだ。
髪は、長年の鍛冶仕事で煤けたような、深い鉄色。
それを後ろで短く無造作に束ねている。
一番印象的なのは、その瞳だった。
くすんだ、けれど芯に熱を孕んだ琥珀色。
まるで冷え固まる寸前の溶岩のようなその眼差しは、静かに、けれど鋭く周囲を観察している。
節くれ立ち、数多の火傷跡が刻まれたその手は、彼が熟練の職人であることを無言で語っていた。
「……ドルガンか。なぜ、こんなところまで」
ゾアが土を払い、立ち上がる。
黄金の瞳と琥珀色の瞳が視線を交わした。
二人の間には、多くを語らずとも通じ合う、岩石のような揺るぎない信頼関係が漂っていた。
「なに、街の連中が騒いでたんでな。国境の森に、どんな不作法もフライパン一つで黙らせる『銀髪の女王』が経営する、とんでもなく旨い店があるってよ。俺の作った『最高傑作』を使いこなす男が、どんな場所で飯を食ってるのか、この目で確かめに来たのさ」
ドルガンと呼ばれたドワーフは、太い腕を組んで私をじろりと見た。
その視線は無礼というよりは、鑑定士が名剣の出来を確かめるような、真摯な鋭さだ。
「カフェ・ヴァレンタインへようこそ。ゾアの古いご友人ですわね?」
「ああ。こいつが戦場を回ってた頃からの付き合いだ。俺はドルガン。しがない鉄叩きよ」
ドルガンは不敵に笑うと、店内のカウンターへと腰を下ろした。
「今日は休暇だ。仕事がある日は、鉄を叩く腕が鈍るから酒は一滴も飲まねえんだが……今日は噂の『おもてなし』ってやつを、じっくり堪能させてもらうぜ」
彼はカウンターを拳で軽く叩き、期待を込めて告げた。
「黒麦の濃いビールをくれ。泡は少なめ、冷やしすぎないのがドワーフの流儀だ。それと、それに合う、腹にズシリとくる飯もな」
(『鉄の休息』に相応しい、究極の一皿を用意して差し上げますわよ! 仕事中は飲まないというそのストイックな職人の胃袋、私の料理で蕩けさせてあげますわ!!)
内心で高笑いしながらも、私は「完璧な店主」の微笑みを崩さず、静かに厨房へと入った。
まずは、ドワーフのこだわりに応えるビールを用意する。
地下の貯蔵庫で、温度が上がりすぎず、冷えすぎない一定の室温で管理していた黒麦の樽。
それを丁寧に、静かにジョッキに注ぐ。
泡は薄く、黒褐色の液体が重厚な光を放つ程度に。
そして、料理。
ドルガンのような職人の腹を黙らせるには、小細工は無用。
力強く、けれど繊細な「塩」の加減が重要だ。
私は、厚切りの燻製ベーコンを鉄鍋に放り込んだ。
脂がパチパチと弾け、香ばしい燻製の香りが立ち上る。
そこに、ホクホクとした大振りのジャガイモと、春の甘みを蓄えた新玉ねぎを加える。
さらに、ピリッとした黒胡椒と、森の奥で採れた野生のクルミ。
これを砕いて散らすことで、食感にアクセントと深みを出す。
仕上げに、この店自慢の自家製ソーセージを焼き上げ、たっぷりのマスタードと、ビールに負けない濃い目のデミグラスソースを添えて。
名付けて――『職人の休息:燻製肉と氷土のポテト・グリル』!!
「お待たせいたしましたわ。ドルガン」
カウンターに置かれた一皿は、湯気と共に肉の猛々しい香りを放っている。
ドルガンは琥珀色の瞳を輝かせ、まずはジョッキを手に取った。
喉を鳴らして黒ビールを流し込み、ぷはっ、と深く短い息を吐く。
「……温度が完璧だ。冷えすぎた酒はドワーフの舌を麻痺させるが、これは麦の焦げた香りが鼻に抜ける。さて、飯の方はどうだ」
彼は厚切りのベーコンとジャガイモを、大きなフォークで一度に突き刺し、口へ運んだ。
咀嚼するたび、彼の眉間が険しくなり、そして……ゆっくりと解けていく。
「…………旨い。肉の脂が、このビールの苦味を追いかけて、腹の底で完璧な調和を奏でてやがる。それにこのクルミだ。この不意打ちの食感が、ただの肉料理を『逸品』に変えてやがるな」
ドルガンは夢中でフォークを動かし始めた。
その隣で、ゾアが静かに自分の分のジョッキを傾けていた。
「ドルガン。お前が打ってくれたこの斧は、今も一振りの狂いもない。この店を守るのにも、ちょうどいい塩梅だ」
ゾアがカウンターに置かれた、自身の巨大な斧を愛おしそうに撫でた。
黄金の瞳が誇らしげに細められる。
その斧身には、ドルガンの刻印が鋭く刻まれている。
「当たり前だ。俺が打った鉄だぞ。お前がその斧を振るう相手がいなくなったなら、それは俺にとっちゃ少し寂しい話だが……この店の料理を食うためだけに振るうってんなら、それも悪くねえな」
二人は、かつての戦場の話、そして鉄が火花を散らす音がいかに美しいかという、寡黙な男たちだけの思い出話に花を咲かせた。
私はその様子を、少し離れた場所から見守る。
かつては戦士たちの牙であった斧が、今は一人の店主を守るための盾となり、その作り手がこうして平和に酒を楽しんでいる。
料理とは、単なる栄養補給ではない。
誰かと誰かの人生を、温かな湯気で繋ぐための儀式なのだ。
数時間後、皿もジョッキも、まるで磨き上げたかのように綺麗になっていた。
ドルガンは満足げに腹を叩き、よろよろと立ち上がった。
「……ふう。休暇が終わっちまうのは惜しいが、これでまた明日からいい鉄が叩けそうだ。店主、礼を言うぜ。お前の料理は、下手な魔法よりよっぽど身体を再構築しやがる」
「光栄ですわ、ドルガン。次にまた休暇が取れましたら、新しいメニューを用意してお待ちしておりますわね」
ドルガンは不敵に笑い、ゾアの肩を一度だけ強く叩いた。
「ゾア。その斧を、錆びさせるんじゃねえぞ。その銀髪のお嬢さんを守るためだけに、一番綺麗な鉄として持っておけ」
「……承知した。我が命ある限り、この牙が折れることはない」
◇
夕暮れの茜色が森を染める中、ドワーフの巨匠は、力強い足取りで街へと帰っていった。
その背中を見送りながら、私はふと自分の手を見つめた。
鉄を叩く手、土をいじる手、そして、料理を作る手。
形は違えど、誰かのために何かを創り出す手は、等しく尊いのだ。
「主……あいつも、また来るだろう。我らの戦いは終わったが、腹を満たす喜びには終わりがないのだな」
ゾアが隣に立ち、黄金の瞳で沈みゆく太陽を見つめる。
「ええ。次は、もっと腹に響く『不作法な一皿』を考えておきませんとね。さあ、ゾア! デザートに蜂蜜たっぷりのミルクプリンはいかが?」
「ぬうっ、それは断れぬ……! ぜひ所望する!」
春の夜気が、森に静寂を連れてくる。
菜園の苗たちは、職人たちが残していった活力を吸い上げるように、暗闇の中で静かに、けれど力強く背を伸ばしていた。
私たちの「おもてなし」は、また新しい出会いと共に、深く、温かく刻まれていく。




