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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第5話 鉄の休息、ジョッキ越しの再会

 春の陽光が、森の深い緑を鮮やかに透かし、湿った土の香りを柔らかく運び上げている。


 先日の雨が残した瑞々しい雫が、新緑の葉の先で宝石のように揺れ、時折訪れる風に誘われて土へと還っていく。

 冬の名残を完全に払拭した国境の森は、今や生命の呼吸で満たされていた。


 カフェ・ヴァレンタインの裏庭では、先日いただいたばかりの野菜の苗たちが、イグニスが丹精込めて耕した土にしっかりと根を下ろし、春の光を存分に浴びている。


「ゾア、その辺りでよろしいかしら? あまり深く掘りすぎると、苗の呼吸が苦しくなってしまいますわよ」


「……ぬう。承知した、あるじ。この我の爪が、柔らかな命を傷つけぬよう細心の注意を払おう」


 私はゾアと共に、菜園のメンテナンスに勤しんでいた。

 身の丈二メートルを超える巨躯、鈍く光る深緑の鱗に覆われたリザードマンの戦士・ゾア。

 彼がその鋭い鉤爪を器用に使って、ちんまりとした苗の周りの土を整える姿は、何度見ても微笑ましい。

 黄金の瞳が、まるで宝物を見るかのように熱心に土を見つめている。


「我らリザードマンは、一度戦いから離れれば、こうして静かに命が育つ様を眺めるのも、また一つの贅沢よ」


 穏やかな時間が流れる中、森の小道から、重厚で規則正しい足音が響いてきた。

 カサカサという落ち葉の音ではない。

 ずしり、ずしりと、大地をしっかりと踏みしめる、岩が転がるような力強い足音。

 ゾアが不意に手を止め、鼻を僅かに動かして顔を上げた。


「……おう、ゾア! 久しぶりだな。相変わらず、そのデカい図体でちまちまと土いじりか?」


 木々の影から現れたのは、一人のドワーフだった。

 人間よりも頭一つ以上低いが、その肩幅は並の男の倍ほどもあるだろうか。

 ずんぐりした体躯には無駄な肉など一切なく、全身が鍛え上げられた鉄塊、あるいは古の岩石のように硬そうだ。

 

 髪は、長年の鍛冶仕事で煤けたような、深い鉄色ダークグレー

 それを後ろで短く無造作に束ねている。

 一番印象的なのは、その瞳だった。

 くすんだ、けれど芯に熱を孕んだ琥珀色。

 まるで冷え固まる寸前の溶岩のようなその眼差しは、静かに、けれど鋭く周囲を観察している。

 節くれ立ち、数多の火傷跡が刻まれたその手は、彼が熟練の職人であることを無言で語っていた。


「……ドルガンか。なぜ、こんなところまで」


 ゾアが土を払い、立ち上がる。

 黄金の瞳と琥珀色の瞳が視線を交わした。

 二人の間には、多くを語らずとも通じ合う、岩石のような揺るぎない信頼関係が漂っていた。


「なに、街の連中が騒いでたんでな。国境の森に、どんな不作法もフライパン一つで黙らせる『銀髪の女王』が経営する、とんでもなく旨い店があるってよ。俺の作った『最高傑作』を使いこなす男が、どんな場所で飯を食ってるのか、この目で確かめに来たのさ」


 ドルガンと呼ばれたドワーフは、太い腕を組んで私をじろりと見た。

 その視線は無礼というよりは、鑑定士が名剣の出来を確かめるような、真摯な鋭さだ。


「カフェ・ヴァレンタインへようこそ。ゾアの古いご友人ですわね?」


「ああ。こいつが戦場を回ってた頃からの付き合いだ。俺はドルガン。しがない鉄叩きよ」


 ドルガンは不敵に笑うと、店内のカウンターへと腰を下ろした。


「今日は休暇だ。仕事がある日は、鉄を叩く腕が鈍るから酒は一滴も飲まねえんだが……今日は噂の『おもてなし』ってやつを、じっくり堪能させてもらうぜ」


 彼はカウンターを拳で軽く叩き、期待を込めて告げた。


「黒麦の濃いビールをくれ。泡は少なめ、冷やしすぎないのがドワーフの流儀だ。それと、それに合う、腹にズシリとくる飯もな」


(『鉄の休息』に相応しい、究極の一皿を用意して差し上げますわよ! 仕事中は飲まないというそのストイックな職人の胃袋、私の料理で蕩けさせてあげますわ!!)


 内心で高笑いしながらも、私は「完璧な店主」の微笑みを崩さず、静かに厨房へと入った。

 まずは、ドワーフのこだわりに応えるビールを用意する。

 地下の貯蔵庫で、温度が上がりすぎず、冷えすぎない一定の室温で管理していた黒麦の樽。

 それを丁寧に、静かにジョッキに注ぐ。

 泡は薄く、黒褐色の液体が重厚な光を放つ程度に。


 そして、料理。

 ドルガンのような職人の腹を黙らせるには、小細工は無用。

 力強く、けれど繊細な「塩」の加減が重要だ。

 私は、厚切りの燻製ベーコンを鉄鍋に放り込んだ。

 脂がパチパチと弾け、香ばしい燻製の香りが立ち上る。

 そこに、ホクホクとした大振りのジャガイモと、春の甘みを蓄えた新玉ねぎを加える。

 さらに、ピリッとした黒胡椒と、森の奥で採れた野生のクルミ。

 これを砕いて散らすことで、食感にアクセントと深みを出す。

 仕上げに、この店自慢の自家製ソーセージを焼き上げ、たっぷりのマスタードと、ビールに負けない濃い目のデミグラスソースを添えて。


 名付けて――『職人の休息:燻製肉と氷土のポテト・グリル』!!


「お待たせいたしましたわ。ドルガン」


 カウンターに置かれた一皿は、湯気と共に肉の猛々しい香りを放っている。

 ドルガンは琥珀色の瞳を輝かせ、まずはジョッキを手に取った。

 喉を鳴らして黒ビールを流し込み、ぷはっ、と深く短い息を吐く。


「……温度が完璧だ。冷えすぎた酒はドワーフの舌を麻痺させるが、これは麦の焦げた香りが鼻に抜ける。さて、飯の方はどうだ」


 彼は厚切りのベーコンとジャガイモを、大きなフォークで一度に突き刺し、口へ運んだ。

 咀嚼するたび、彼の眉間が険しくなり、そして……ゆっくりと解けていく。


「…………旨い。肉の脂が、このビールの苦味を追いかけて、腹の底で完璧な調和ハーモニーを奏でてやがる。それにこのクルミだ。この不意打ちの食感が、ただの肉料理を『逸品』に変えてやがるな」


 ドルガンは夢中でフォークを動かし始めた。

 その隣で、ゾアが静かに自分の分のジョッキを傾けていた。


「ドルガン。お前が打ってくれたこの斧は、今も一振りの狂いもない。この店を守るのにも、ちょうどいい塩梅だ」


 ゾアがカウンターに置かれた、自身の巨大な斧を愛おしそうに撫でた。

 黄金の瞳が誇らしげに細められる。

 その斧身には、ドルガンの刻印が鋭く刻まれている。

 

「当たり前だ。俺が打った鉄だぞ。お前がその斧を振るう相手がいなくなったなら、それは俺にとっちゃ少し寂しい話だが……この店の料理を食うためだけに振るうってんなら、それも悪くねえな」


 二人は、かつての戦場の話、そして鉄が火花を散らす音がいかに美しいかという、寡黙な男たちだけの思い出話に花を咲かせた。

 私はその様子を、少し離れた場所から見守る。

 かつては戦士たちの牙であった斧が、今は一人の店主を守るための盾となり、その作り手がこうして平和に酒を楽しんでいる。

 

 料理とは、単なる栄養補給ではない。

 誰かと誰かの人生を、温かな湯気で繋ぐための儀式なのだ。


 数時間後、皿もジョッキも、まるで磨き上げたかのように綺麗になっていた。

 ドルガンは満足げに腹を叩き、よろよろと立ち上がった。


「……ふう。休暇が終わっちまうのは惜しいが、これでまた明日からいい鉄が叩けそうだ。店主、礼を言うぜ。お前の料理は、下手な魔法よりよっぽど身体を再構築しやがる」


「光栄ですわ、ドルガン。次にまた休暇が取れましたら、新しいメニューを用意してお待ちしておりますわね」


 ドルガンは不敵に笑い、ゾアの肩を一度だけ強く叩いた。


「ゾア。その斧を、錆びさせるんじゃねえぞ。その銀髪のお嬢さんを守るためだけに、一番綺麗な鉄として持っておけ」


「……承知した。我が命ある限り、この牙が折れることはない」


 ◇


 夕暮れの茜色が森を染める中、ドワーフの巨匠は、力強い足取りで街へと帰っていった。

 その背中を見送りながら、私はふと自分の手を見つめた。


 鉄を叩く手、土をいじる手、そして、料理を作る手。

 形は違えど、誰かのために何かを創り出す手は、等しく尊いのだ。


「主……あいつも、また来るだろう。我らの戦いは終わったが、腹を満たす喜びには終わりがないのだな」


 ゾアが隣に立ち、黄金の瞳で沈みゆく太陽を見つめる。


「ええ。次は、もっと腹に響く『不作法な一皿』を考えておきませんとね。さあ、ゾア! デザートに蜂蜜たっぷりのミルクプリンはいかが?」


「ぬうっ、それは断れぬ……! ぜひ所望する!」


 春の夜気が、森に静寂を連れてくる。

 菜園の苗たちは、職人たちが残していった活力を吸い上げるように、暗闇の中で静かに、けれど力強く背を伸ばしていた。

 

 私たちの「おもてなし」は、また新しい出会いと共に、深く、温かく刻まれていく。

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