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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第4話 春告げの苗と、寡黙な耕し手

 国境の森が、冬の長い眠りから完全に解き放たれようとしていた。


 朝霧がゆっくりと晴れていくこずえの向こう、空は透き通った瑠璃色に染まり、柔らかな春の陽光がシャワーのように降り注いでいる。

 梢に芽吹いたばかりの新緑は、光を透過して若草色のレースのように輝き、微風に揺れるたびにサラサラと心地よい音を立てる。


 足元の湿った土からは、冬の間じっと耐えていた命の匂いが立ち上っていた。

 それは少し土臭く、けれど不思議と甘やかな、力強い再生の香りだ。

 どこか遠くで氷を割って流れる小川のせせらぎに、冬を越えたミツバチたちの羽音が低く重なり、森全体が巨大な楽器となって新しい季節の調べを奏でている。


 窓を開け放つと、凛とした冷気を孕みながらもどこか温かな風が、カフェ・ヴァレンタインの店内に流れ込んできた。


「……ふむ。冬の澱みが、ようやく完全に消えたか。今日の風は、悪くないな」


 キッチンの勝手口、影の落ちる場所に、一人の男が立っていた。

 黒いロングコートを纏い、顔の半分を深い帽子で隠した男――イグニスだ。

 アッシュグレーの長い髪を一つに編み、鈍色の瞳を細めるその姿は、相変わらず森の静寂を塗り潰すような、圧倒的に「死」に近い拒絶の空気を纏っている。

 けれど、その視線の先にあるのは庭の一角にある小さな菜園だった。

 彼は無造作にその場にしゃがみ込むと、研ぎ澄まされたナイフのように鋭い指先で、土の湿り具合を確かめる。

 その動作には、かつて「取り立て屋」として振るった冷酷な殺気はなく、代わりに、土と対話する者特有の静かな敬意が宿っていた。


「あら、イグニス。もう庭仕事の準備かしら? まだ少し土が冷たいかもしれませんわよ」


「……土はもう目覚めている。お前が寝坊している間にな」


 ぶっきらぼうな答え。

 けれど、その鈍色の瞳が、冬を越えて頭を出した小さな芽を見つめる時だけは、微かに熱を帯びるのを私は知っていた。


 その時だった。

 森の入り口から、カタカタとリズミカルな荷車の音と、それを打ち消すような元気な歌声が響いてきた。


「あーるーけー、あーるーけー! お姉ちゃんの、おみせにいこうー!」


 その歌声に、私は思わず顔を綻ばせる。

 新緑をかき分けて現れたのは、小さな荷車を引いた二人連れだった。


「お姉ちゃーーーん!!」


 弾けたような声と共に駆け寄ってきたのは、琥珀色のふわふわとした髪をなびかせた少女、ミシェルちゃんだ。

 ローズピンクの瞳をキラキラと輝かせ、彼女は私の胸に飛び込んできた。

 以前、森で迷子になって大泣きしていた時の面影はない。

 今の彼女は、春そのもののような眩しさに満ちていた。


「あら、ミシェルちゃん! お久しぶりですわ。今日は一段と元気そうですわね」


「うん! あのね、お母さんと一緒に、お姉ちゃんにお土産持ってきたの!」


 遅れて、上品な足取りで近づいてきたのは、ミシェルちゃんの母親、エメラダだ。

 艶やかな栗色の髪を上品に結い上げ、生成りのリネンのワンピースに刺繍のエプロンを纏った彼女は、そこに立っているだけで周囲に花が咲いたような穏やかな空気を醸し出す。


「お久しぶりですわ、アリシア様。ミシェルの母、エメラダです。ようやく春が落ち着きましたので、約束の品を持ってまいりましたの」


 彼女が荷車の覆いを取り払うと、そこには瑞々しい緑の苗がぎっしりと並んでいた。

 春の朝陽を浴びて艶やかに光る、トマトやピーマン、そして香草の苗たち。


「今の時期に植えれば、夏には最高に美味しい実をつけますわ。アリシア様なら、きっと大切に育ててくださると思って」


 オルセーユの瞳を優しく細めるエメラダ。

 その背後で、先ほどまで「死」の空気を纏っていた男の肩が、ピクリと揺れた。

 イグニスは帽子を深く被り直しながらも、吸い寄せられるように荷車へと近づいてくる。


「……ふん。悪くない苗だ。根がしっかりと張っている」


 イグニスが、まるで獲物を鑑定するような冷徹な瞳で苗を覗き込んだ。

 けれど、彼が苗に触れるその手つきは、羽毛を扱うように繊細だ。


「あら、イグニス様もお変わりなく……ふふ、貴方がいらっしゃるなら、この子たちの未来も安心ですわね」


 エメラダが微笑むと、イグニスは居心地悪そうに鼻を鳴らした。

 けれど、その指先は既に「どの順番で、どの場所に植えるか」を無言でシミュレートしている。

 彼の中から、喜びが静かな湯気のように立ち上っているのが見えて、私は思わず噴き出しそうになった。


「さて! 最高の苗を届けてくださったんですもの。店主として、最高のお礼を差し上げなくてはなりませんわ。お二人とも、テラスへどうぞ!」


 私は厨房に入り、春の生命力をそのまま皿に閉じ込めるべく、腕を振るった。

 まずは、冬の間に蓄えられた甘みが頂点に達した新玉ねぎを、たっぷりのバターで飴色になるまで炒める。

 そこに加えるのは、今朝テリオンが届けてくれたばかりの、山菜の王様・タラの芽と、瑞々しいアスパラガス。

 生地はサクサクのパイ仕立て。

 そこに濃厚なグリュイエールチーズと、新鮮な卵で作ったアパレイユを流し込む。


 名付けて――『春の目覚めと新緑のキッシュ』!!


 オーブンから焼き上がったばかりの、香ばしいバターとチーズの香りが店内に広がると、テラス席のミシェルちゃんが「わあ……!」と声を上げた。


 さらに、春の苺を贅沢に使ったサラダも添えた。

 真っ赤な苺の酸味と、バルサミコソースのコク、そして軽く焼いた生ハムの塩気。

 仕上げに、先ほどエメラダにいただいた香草の端を少しだけ散らして。


「お待たせいたしましたわ。春を丸ごと召し上がれ」


 テーブルに置かれたキッシュの黄金色の輝きに、エメラダは驚き、ミシェルちゃんは身を乗り出した。


「お姉ちゃん、これ、お花畑みたい!」


「ふふ、本当。食べるのが勿体ないくらい、美しいわ」


 二人が一口、同時に口に運ぶ。

 サクッ、という完璧な音が響き、その直後に濃厚なチーズと玉ねぎの甘みが口いっぱいに弾けた。


「……おいしいっ! お口の中が、春のポカポカでおなかいっぱいになる!」


 ミシェルちゃんが頬を膨らませ、満面の笑みで足をパタパタとさせた。

 エメラダもまた、瞳を潤ませ、深く吐息をつく。


「……信じられませんわ。このアスパラガスの歯ごたえ、そして野草の微かな苦味が、こんなにも優しく調和するなんて。アリシア様、貴女の料理は、本当に心を解かしてくださるわ」


 その言葉に、私はカウンター越しに会心の笑みを浮かべた。


(勝利ですわ!! この幸せそうな笑顔こそ、私の不作法な情熱が目指した最高の精算ですわよ!!)


 内心で全力のガッツポーズを決めながらも、表面上は優雅に微笑み、お代わりのお茶を注ぐ。


 テラスの隅では、イグニスが一人、供されたキッシュを黙々と食べていた。

 彼だけは何も言わない。

 けれど、キッシュの最後の一片まで丁寧にフォークで掬い取り、皿が鏡のように綺麗になったのを見て、私は彼の「満足」を確信した。


「……この山菜の処理、悪くない。次は、俺が育てたトマトでこれを作れ」


 食べ終えたイグニスが、低く鋭い声でそう言い残して立ち上がった。

 それが、彼なりの最大級の賛辞であることを、今の私はよく知っている。


 陽が少しだけ傾き始めた頃、お腹も心もいっぱいになった二人が、帰途につく準備を始めた。


「また来るね、お姉ちゃん! トマトが赤くなったら、ぜったいに一番に食べに来るから!」


 ミシェルちゃんが、小さな手をちぎれんばかりに振る。

 エメラダもまた、深々と一礼した。


「アリシア様、素敵な時間をありがとうございました。あの苗たちが、この森で強く育つのを楽しみにしていますわ」


 荷車を引いて去っていく二人の背中を見送る。

 その光景は、数日前まで公爵夫人と火花を散らしていたことが嘘のような、穏やかで美しい「日常」の一枚の絵画のようだった。


「……さあて。お見送りも済んだし、後片付けを――」


 私が店内に戻ろうとした時、裏庭からガサガサという激しい音が聞こえてきた。

 慌てて覗いてみると、そこには驚くべき光景があった。


 先ほどまで「死」を纏っていたはずのイグニスが、コートを脱ぎ捨て、ワイシャツの腕を捲り上げ、本気でくわを振るっていたのだ。

 

「イ、イグニス!? なにをそんなに必死に……」


「……土が乾く。苗が呼吸を求めている。不作法な店主に任せていたら、明日にはこの命たちが枯れるだろう」


 汗を流し、泥にまみれながら、彼は神聖な儀式でも行うかのような手つきで苗を一つ一つ、丁寧に土へと定着させていく。

 トマト、ピーマン、香草。

 黒いコートを脱いだ彼の背中は、もはや死神のそれではなく、新しい命の誕生を慈しむ「森の耕し手」そのものだった。

 その隣で、いつの間にか現れたルイ様が、楽しそうに笑いながら苗に水をやっている。


「ははは! イグニス、そんなに睨みつけなくても苗は逃げないよ。アリシア、君の料理が、また一人の『不作法な男』を変えてしまったようだね」


「あら、それは光栄ですわ。でも、イグニス。あまり夜更けまで働いて、明日の朝食に遅れないでくださいませね?」


 私が笑いかけると、イグニスは一度だけこちらを鋭く一瞥し、それからふんと鼻を鳴らして、再び愛しげに土を弄り始めた。


 国境の森、カフェ・ヴァレンタイン。

 新しい苗たちが根を下ろしたばかりの菜園には、明日への希望と、少しばかりの賑やかな笑い声が満ちている。


 春の夜風が、新芽の香りを連れてテラスを吹き抜けていった。

 私たちの物語は、この小さな土の中から、また一つ、力強く芽吹いていくのだ。

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