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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第3章

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第3話 女王の食卓、あるいは優雅な窒息

 三日の猶予が過ぎ、約束の朝が訪れた。


 森にはあの日と同じ、静寂を纏った黒塗りの馬車が止まっている。

 カフェ・ヴァレンタインのテラス席には、今日のために用意した最高級の白のリネンが敷かれ、磨き抜かれた銀のカトラリーが、春の陽光を跳ね返して眩い光を放っていた。


 私は、ヴァレンタインの家紋が入った古いエプロンを脱ぎ捨て、淑女としての品位と、店主としての誇りを込めた清潔な純白の衣に身を包む。


「……準備はよろしいかしら、アリシア。貴女が三日間、この不作法な厨房で何を見つけたのか、見せていただきましょう」


 馬車から降り立ったお母様は、相変わらず一筋の乱れもない夜会巻きに、完璧な微笑みを湛えていた。

 その隣には、状況を見守るべくルイ様が毅然と座っている。


「ええ、お母様。ヴァレンタインの娘として、そしてこの店の店主として……貴女にこそ相応しい『完璧な一皿』をご用意いたしましたわ」


 最初に運ばれたのは、透き通るような白のスープに、春告げ苺の鮮やかな紅が一点、宝石のように落とされた一皿だ。

 お母様は優雅にスプーンを取り、一口、その味を確かめる。


「……完璧な温度、そして雑味のない素材の処理。王妃の食卓に並べても、誰一人文句は言わないでしょうね」


 お母様の評価は正しい。だが、彼女は気づかない。

 このスープの甘味は、以前ジュリアンが絶望の中で流した涙を拭った時に学んだ、『痛みを分かち合う者』のための黄金比。

 宮廷のレシピにはない、誰かの心に寄り添った「温度」が隠されていることに。


 続いて運ばれたのは、皮目を驚くほど力強く焼き上げた川魚だ。

 焼き色は、王宮の基準からすれば「わずかに強い」。

 だが、その焦がしバターの芳醇な香りが、テリオンたちが摘んできた野草の鮮烈な酸味と合わさり、魚の生命力を極限まで引き出している。


「……少し火が強すぎますわね。ですが、この野草の扱い……計算され尽くした『野生』ですわ」


 お母様の眉が、微かに動く。

 完璧な技術を用いながら、自分の支配下にはない「森の呼吸」を皿に盛り込まれている。

 彼女はそれを「育ちが悪い」と切り捨てることができない。

 なぜなら、味そのものが、彼女の知性を圧倒して「美味」を告げているからだ。


 そして、運命の主菜。

 黄金色に焼き上がった骨付きの仔羊が、あえてカットされずにそのまま供される。

 お母様は、淑女としての完璧なナイフ裁きで、その骨から肉を切り離さねばならない。


「……不作法な出し方ですこと。ですが、この塩……」


 肉に添えられたのは、ヴァレンタイン領の深層から採掘される、歴史ある岩塩。

 公爵家が何世代にもわたって守り続けてきた、一族の誇りそのもの。


「お母様。その塩は、貴女が守ろうとしている『家』の味ですわ……ですが、それをこうして不作法な仔羊に振りかけ、火にかけたのは、家を捨てたはずの私です」


 お母様の手が、一瞬止まる。

 この料理を否定すれば、彼女はヴァレンタインの歴史そのものを否定することになる。

 だが、これを認めれば、彼女の手を離れて「独り立ちした娘」の価値を認めざるを得ない。


 お母様は無言で、一切れの肉を口に運んだ。

 噛みしめるたび、力強い肉の旨味と、先祖代々の塩の味が彼女の喉を「制圧」していく。


 追い打ちをかけるように、私はカトラリーを使わず、手でちぎって食べるための素朴なパンを置いた。


「パンは、手で分かち合うものですわ。王妃教育では教わらない、本当の『親愛』の作法です」


 ルイ様が、迷わずそのパンを手に取り、大きくちぎって口にする。

 お母様は、その「不作法な光景」を前に、初めて微かに唇を震わせた。

 彼女の世界にある「完璧な礼儀」が、この温かなパンの湯気の前に、音を立てて崩れていく。


 最後の一皿。

 表面は滑らかに整えられた、完璧なショコラ。

 お母様がスプーンを差し入れた瞬間、中から熱いソースが、堰を切ったように溢れ出した。


「……っ」


「お母様。愛とは、完璧に閉じ込めるものではなく、溢れてしまうものですの」


 私は、お母様の氷のような瞳を真っ向から見据えて言い放った。


「貴女の『親愛』は、形を整えただけの冷たい器。ですが、私の料理は……そしてルイ様への想いは、どんなに完璧に装おうとしても、中から溢れて、火傷しそうなほど熱く、苦いものですわ」


 お母様は、溢れ出した漆黒のソースを見つめたまま、動かなくなった。

 否定もできない。怒ることもできない。

 ただ、自分が一生をかけて築き上げてきた「完璧な檻」が、この小さなカフェの一皿によって、完全に無意味なものだと証明されてしまった。


「……ごちそうさま、アリシア」


 絞り出すような、けれどどこまでも気高いお母様の声。

 彼女は溢れたソースを一口も残さず口に運び、ゆっくりと立ち上がった。


「……迎えの馬車は、空のまま帰しましょう……貴女は、もう私の知る『最高傑作』ではない。自分自身を調理し、完成させてしまった、一人の不作法な女性ひとですわ」


 お母様は、一度も振り返ることなく馬車へと戻っていった。

 春の陽光の下、その背中は、かつてないほど「窒息」しそうなほどの気品に満ち、そして、孤独だった。


 馬車のわだちが描いた一筋の線が、春の深緑に溶けて見えなくなる。

 その瞬間まで、私は指先一つ動かさず、完璧な淑女の背筋を保ち続けていた。


 だが、馬車の音が完全に森の静寂に吸い込まれた、その直後――。


「……はぁあああああああああああああああ!!」


 私は肺の底にある空気をすべて吐き出し、膝からガクンと崩れ落ちそうになった。

 それを、ルイ様がすかさず背後から支えてくれる。


「お疲れ様、アリシア。見事な勝利だったよ」


「……しょ、勝利! 大・勝・利ですわ!!」


 私はドレスの裾を乱暴に掴み上げる。


(危なかった……! お母様のあの圧、本当に心臓が止まるかと思いましたわ! あんなに冷たいポーカーフェイスを三日間も練習した私を褒めて差し上げたいですわ! ああ、でも清々しましたわ、あのお高くとまった野心を完食してやりましたわよ!!)


 淑女の仮面をかなぐり捨て、荒い呼吸を繰り返す私を見て、ルイ様は驚くこともなく、むしろ愛おしそうに声をあげて笑った。


「ははは! やっぱり君はこうでなくてはね。あんなに完璧な『おもてなし』を見せられた後で、今の君を見ると、なんだかひどく安心するよ」


「ルイ様、笑い事ではありませんわ! これでお母様がグラン・ロアで変な噂を流しでもしたら、私、今度こそ本気で公爵邸を『大掃除(物理)』しに行かなくてはならなくなりますわよ!」


 私はふくれっ面で彼を見上げた。

 けれど、ルイ様は私の手をとり、優しく自分の頬に寄せた。

 エメラルドの瞳に、真摯な光が灯る。


「……無理に王妃になれとは言わないよ。君がこの場所を、この自分自身を愛していることを、今日誰よりも強く思い知らされたからね。ただ、これからは一人で背負わなくていい。君の不作法に、一生振り回される覚悟はもうできているんだ」


「……っ、ルイ様は時々、フォンダン・ショコラより甘いことをおっしゃいますのね」


 私は熱くなった顔を隠すように、彼の胸元を軽く小突いた。


(危なかった……! あそこで『じゃあ結婚しましょう』なんて言われたら、勢いでイエスと叫んで、今頃グラン・ロア行きの馬車に逆戻りでしたわ! 危うく私の自由なカフェ経営が終了するところでしたわよ!!)


 内心で冷や汗を拭いながら、私はようやく一息つく。

 そんな私たちの様子を、テラスの陰から呆れたように眺めていたのは、旅支度を整えた二人の情報通だった。


「さて、店主殿。甘い空気で窒息する前に、私とお騒がせな賢者は失礼するとしましょうか。公爵夫人が落としていった『野心の欠片』を、王都で上手く処理してこなくてはなりませんからね」


 ユリウスが眼鏡を光らせ、皮肉な笑みを浮かべて帽子を被る。

 その隣では、セシルが名残惜しそうに、私が包んだ『厚切りローストビーフのサンドイッチ』のバスケットを抱え込んでいた。


「アリシア様、本当にありがとうございました! このサンドイッチの味を思い出せば、どんな過酷な潜入調査も耐えられますわ……ユリウス、貴方の分は一口だけですからね!」


「一口が大きすぎるんですよ、君は……では陛下、お嬢様。春の嵐は過ぎましたが、芽吹いたばかりの森を大切に。不作法な客が来たら、また知らせてください」


 ユリウスは優雅に、セシルは満面の笑みで手を振り、二人は新緑の影へと消えていった。

 アストライアの闇を掃除する「狐と雀」の旅立ち。

 彼らが去った後の森には、ようやく本当の静寂が戻ってきた。


 ◇


 翌朝。

 私はいつも通り、夜明けと共に厨房に立っていた。


 窓を開ければ、冷たくも瑞々しい春の空気が流れ込み、鳥たちの囀りがキッチンにやさしく流れていた。

 小麦粉を捏ね、オーブンの火加減を調整し、昨日テリオンが届けてくれたハーブを刻む。

 派手な事件も、命懸けの「おもてなし」もない。

 ただ、目の前の料理を一番美味しく仕上げることだけに集中する、尊い時間。


「おはよう、アリシア。いい香りだね」


 少し寝癖のついたルイ様が、寝巻きのままキッチンに顔を出す。

 私はフライパンを握ったまま、最高の笑顔で振り返った。


「おはようございます、ルイ様。今日の日替わりは、森のキノコをたっぷり使ったオムレツですわ。お代はしっかり働いていただきますから、覚悟してくださいませ!」


 不作法な店主と、甘い王様。

 そして騒がしい仲間たちが集う国境の森。

 私たちの「カフェ・ヴァレンタイン」は、今日も春の光の中で、穏やかに扉を開く。

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