第2話 盤上の狐と、空腹の賢者
「……ふむ。我が儘、ですか」
お母様の容赦ない言葉に対し、ルイ様は怒りに身を任せるのではなく、冷え切った静寂を纏って問い返した。
その瞳には、かつて見たことのないほど冷徹な王としての光が宿っている。
「公爵夫人。貴女はヴァレンタインの家格を救うと言ったが、それは詰まるところ『アストライアの王の温情』を確約させたいだけではないのか? 夫人が語る『親愛』とは、娘を盾にした醜い取引に過ぎない」
ルイ様はお母様の一歩前まで詰め寄ると、その圧倒的な威圧感で彼女の「月光の論理」を押し返した。
「アリシアがここに居ることで父が苦しむというのなら、私が王としてアストラ王国への再定住と爵位の保護を命じよう。ヴァレンタインを救うのは、アリシアの犠牲ではなく私の意志だ。貴女の『完璧な計画』に、私の愛を組み込むのはやめていただきたい」
お母様は、ルイ様の言葉を真っ向から受けながらも、眉一つ動かさず優雅に首を傾げた。
「……あら、力強い。ですが、陛下。王の命令一つで、人々の心に刻まれた『没落した裏切り者の影』を拭うことはできませんのよ? それができるのは、アリシア自身の立ち振る舞いだけですわ」
お母様は静かに扇を閉じ、満足げに微笑んだ。
「今日はこのあたりで引き上げましょうか。アリシア、三日だけ猶予を差し上げます。その間に、自分とお父様、そして陛下の評判、どれが一番大切か、よくお考えなさいな……三日後の朝、迎えの馬車を出しますわ」
お母様は非の打ち所のない所作で一礼すると、冷気を引き連れたまま、静かに馬車へと消えていった。
馬車が去り、森に静寂が戻った途端、私はフライパンを握ったままその場にへたり込みそうになった。
「アリシア!」
「ルイ様……私……」
「大丈夫だ。君を一人にはさせない」
張り詰めた空気を打ち破るように、カフェの入り口からひょっこりと顔を出したのは、クラリスだった。
「お嬢様、お疲れ様です。ちょうど、良いタイミングで『不作法な助っ人』が到着したようですわ」
彼女の指し示す先、森の小道から現れたのは、王都で流行りの派手な外套を纏い、眼鏡をキラリと光らせた男。
そしてその隣には、大きな丸眼鏡をかけた、どこか親しみやすい雰囲気の女性。
「お久しぶりですね、アリシアお嬢様。いえ、『店主殿』とお呼びすべきかな?」
ユリウスは、大仰な動作で帽子を取ると、獲物を品定めする狐のように目を細めて一礼した。
「……素晴らしい。公爵夫人のあの凍てつくような『圧』を、フライパン一本で受け流すとは。相変わらず見事なプロフェッショナリズムだ」
「ユリウス、感心している場合ではありませんわ! アリシア様、ルイ様……! そのお顔を見られて安心しました。そして、この森から漂う芳しい香りを嗅げたことにも!」
セシルが大きな丸眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせ、鼻をひくつかせながら駆け寄ってきた。
「道中も、こちらで味わえるお料理のことばかり考えてしまって……今、私の胃袋はかつてないほどの『有事』を迎えておりますのよ!」
お母様との戦いで荒れ果てた心が、セシルのあまりに真っ直ぐで潔い食欲によって、一瞬で現実に引き戻される。
私は手にしていたフライパンを軽く掲げ、彼らに向かって精一杯の微笑みを向けた。
「……ふふ。セシル、ユリウス。相変わらず騒がしいお二人ですこと。ええ、まずは厨房に入ってくださいな。話を聞く前に、その有事を解決する一皿を振る舞わせていただきますわ!」
厨房に立ち、火を熾すと、不思議と心が落ち着いた。
お母様の「正論」で冷え切った指先を、コンロの熱が温めてくれる。
私は、お母様の呪縛を振り払うように、鋭い手つきで包丁を動かす。
用意したのは、刺激的でいて胃に優しい『春の森のプッタネスカ』。
テリオンが今朝、見回りついでに採ってきた野生のハーブと、ゾアが届けてくれた香り高いニンニク。
そこに、熟したトマトの酸味と、塩気の効いたアンチョビを合わせる。
パスタが茹で上がる直前、隠し味に森の柑橘を絞り、ピリッとした辛みをアクセントに加えた。
「さあ、召し上がれ。春の毒消しですわよ」
運ばれた一皿に、セシルは「待っていました!」とばかりにフォークを構えた。
「この……ニンニクとハーブの香りが、戦場のような空腹を鎮めてくれますわ……っ! 美味しい……アリシア様、天才です!」
一方でユリウスは、フォカッチャにソースをたっぷりと付け、皮肉な笑みを消して純粋に料理を楽しんでいる。
「……ふむ。店主殿。この料理、今の貴女の心境そのものだね。刺激的で、けれど土台は揺るがない……さて」
ユリウスは眼鏡を指先で押し上げ、三口ほど食べたところで視線を鋭くした。
「腹が落ち着いたところで、お嬢様に『デザート』代わりの不吉な話を……いや、公爵夫人の『綻び』の話を聞いてもらいましょうか。彼女が今、グラン・ロアで本当は何を企んでいるのかを」
セシルがプッタネスカを「有事」の勢いで完食する傍らで、ユリウスは静かにフォークを置いた。
眼鏡の奥の蒼い瞳が、知的な光を放ちながら私とルイ様を交互に捉える。
「さて、店主殿。先ほど公爵夫人が語った『お父様への親愛』……あれは、半分は真実ですが、残り半分は極上のまやかしですよ」
「まやかし……? でも、お父様が苦境に立たされているのは事実なのでしょう?」
私が問い返すと、ユリウスは皮肉な笑みを深くした。
「ええ。ですが、彼女にとって夫(公爵)の安否など、盤上の駒が一つ傷ついた程度の認識です。彼女の真の目的は、グラン・ロアにおける『ヴァレンタイン派』の再構築……そして、そのための絶対的な切り札として、アストライアの王、ルイ陛下との『鉄のパイプ』を手に入れることです」
ユリウスの説明によれば、お母様は収監中も秘密裏に本国の貴族層と連絡を取り合い、無能を晒したお父様に代わって実権を握る準備を進めていたのだという。
「彼女は、貴女を『完璧な王妃』に仕立て上げ、ルイ陛下を完全に籠絡させることで、両国の利権を牛耳る女帝になろうとしている。お父様をダシに使ったのは、貴女の優しさを利用するのが最も効率的だと判断したからです。実に合理的で、不作法なやり方だ」
「……私とのパイプを作るために、アリシアの心を壊そうというのか」
ルイ様の声に、抑えきれない怒りが滲む。
握りしめられた彼の手が、小刻みに震えていた。
お母様にとって、私は娘ではなく、家格を再興するための「最高品質の輸出商品」に過ぎなかったのだ。
「……分かりましたわ」
私はゆっくりと立ち上がり、厨房の隅に置かれた、使い込まれた大鍋を見つめた。
お母様は三日の猶予をくれた。
それは、私が恐怖に屈し、絶望して自分の足で馬車に乗るのを待つ時間だ。
「ユリウス様、セシル様。教えてくださって感謝しますわ……お母様の『毒』が親愛だというのなら、私はそれを上回る『真実の味』で、彼女の野心を完食して差し上げます」
私はマリンブルーの瞳に、不退転の決意を宿した。
お父様の時は暴力と傲慢を叩き潰した。
ならば今度は、お母様の「完璧な論理」と「偽りの正しさ」を、私の料理ですべて磨き上げてみせる。
「ルイ様。三日後、お母様が迎えに来た時、最高の『おもてなし』を用意しましょう。ヴァレンタイン公爵夫人の喉を詰まらせるような、とびきり不作法なメニューを!」
春の夜気が、窓の外からそっと流れ込んでくる。
嵐の前の静けさの中、私は次なる「大掃除」のレシピを、頭の中で一気呵成に書き上げていった。




