第1話 慈愛という名の檻、あるいは正しさの真綿
世界が、鮮やかな色彩を奪い返していた。
つい先日まで白銀の静寂に包まれていた国境の森は、いまや生命の咆哮とも言えるほどの輝きに満ちている。
雪解け水をたっぷりと吸った黒土からは、若草が競い合うように芽吹き、梢では透き通った新緑の葉が、陽光を浴びて宝石のようにきらめいている。
風が吹くたび、目覚めたばかりの花々の芳香と、森の奥深くで眠っていた芳醇な大気の匂いが鼻腔をくすぐる。
冬の冷たさを置き去りにした春の陽だまりは、まるで世界全体を優しく包み込む「特製の温かなスープ」のようだった。
「アリシア、今日は一段と森が騒がしいね。命が芽吹く音が聞こえてきそうだ」
カフェの裏庭で、ルイ様が摘みたてのハーブをバスケットに入れながら、眩しそうに目を細めた。
王都アストライアの再建という重責をカインに押し付け――もとい、任せた彼は、こうして穏やかな春の光を浴びながら私を手伝う時間を、何よりも慈しんでいるようだった。
「ええ。ゾアが今朝、見回りついでに見つけてきてくれたこの『春告げ苺』も、驚くほど艶やかですわ。これなら、最高のタルトが焼けますわね」
私が真っ赤な苺を一粒差し出すと、ルイ様はそれを口にし、幸せそうに微笑んだ。
平和で、温かな、私たちの「聖域」。
けれど、その平穏を切り裂くように、森の奥から一台の馬車が近づいてくる音が響いた。
それは、お父様がかつて乗り込んできた時のような、傲慢で騒がしい音ではない。
車輪の軋みさえも抑えられ、静かに、けれど圧倒的な重厚感を持って地面を這うような音。
芽吹いたばかりの小枝さえも、その重圧に触れるのを恐れて道を空ける――そんな異質な「静寂の支配」を纏った馬車が、カフェ・ヴァレンタインの前に静かに停車した。
「……ルイ様。お客様ですわ。それも、とびきり『お行儀の良い』お客様」
私は手にしていたボウルを置き、馬車から降り立つ人物を注視した。
開かれた扉から現れたのは、私と同じシルバーの髪を、一筋の乱れもなく夜会巻きに結い上げた女性だった。
漆黒のドレスは派手さこそないが、一目見ればそれが一国の予算にも匹敵する極上の絹であると分かる。氷のように透き通った瞳が、穏やかな微笑みを湛えて私を捉えた。
「――お久しぶりね、アリシア。元気そうで安心いたしましたわ」
その声は、春の風のように柔らかく、けれど聞いた瞬間に背筋が凍りつくような支配力を秘めていた。
ヴァレンタイン公爵夫人。私の、母。
アストライアで収監されていた彼女とお父様を、私たちがイグニスのワイバーンを飛ばして救い出し、本国へ送り届けたのはつい先月のことだ。
まさか、こんなに早く、彼女が自らここへ現れるなんて。
「お、お母様……なぜ、ここに……?」
「あら、不作法なことを。命の恩人である愛しい娘に、お礼の一つも言いたいと思うのが母親というものですわ……それに、アストライアの若き王、ルイ陛下。貴方にも、正式にご挨拶をしなければなりませんもの」
母は優雅な所作で膝を折り、非の打ち所がない完璧なカーテシーを披露した。
その鋭い知性を湛えた瞳が、一瞬でルイ様と私の距離感を測り取ったのを、私は肌で感じた。
「……お初にお目にかかります、陛下。愚娘が大変なお騒がせをしておりますこと、心よりお詫び申し上げます。そして、このたびはヴァレンタインの危機を救っていただき、深く感謝いたしますわ」
母は再び私に向き直ると、驚きで固まっている私の頬を、ひどく慈しむように撫でた。
その手は温かい。
なのに、私は逃げ出したくなるような恐怖に駆られた。
お父様のような感情任せの暴力ではない。
もっと根深く、抗いがたい「義務」という名の鎖が、その指先から伸びている気がした。
「アリシア、貴女は本当に素晴らしいわ。お父様のような愚かなやり方ではなく、自らの価値を『アストライアの王』に認めさせることで、ヴァレンタインの家格を救うだなんて……まさに、私の最高傑作にふさわしい働きですわ」
「……何が言いたい」
ルイ様の声が、かつてないほど低く、警戒に満ちたものに変わる。
母は、小首を傾げて可憐に微笑んだ。
「陛下。私は、娘にふさわしい舞台を整えたいだけですの。アリシア、貴女を『王妃』として、陛下にふさわしい完璧な淑女に育て直して差し上げますわ。ヴァレンタインの屋敷へ戻りましょう? 陛下をこれ以上、『格落ちの、森のカフェ店主を愛する王』として貶めないために」
――親愛。
母が差し出してきたのは、私の心を粉々にするような、完璧なまでの「善意」という名の毒だった。
「さあ、アリシア。陛下を愛しているのなら、分かるはずですわね? 貴女が選ぶべき、正しい道を」
私の前に、ルイ様が静かに一歩踏み出した。
その背中は、かつての絶望に沈んでいた青年のものではなく、一国を背負い、愛する人を守らんとする王のそれだった。
「――ヴァレンタイン公爵夫人。貴女の懸念は感謝するが、不要だ」
ルイ様の冷徹な声が、春の陽だまりを凍てつかせる。
彼は私の手を力強く握りしめ、お母様の氷のような瞳を真っ向から見据えた。
「私が愛し、救われたのは、完璧な淑女としての『ヴァレンタイン公爵令嬢』ではない。不作法に、けれど誇り高くフライパンを振るい、私に生きる活力を与えてくれた、この店のアリシアだ。彼女の居場所は、冷え切った王宮や窮屈な公爵邸ではなく、ここにある」
ルイ様の毅然とした言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ああ、この方は本当に、私という人間そのものを肯定してくださっている。
けれど、お母様は眉一つ動かさなかった。
それどころか、可憐な少女のように唇に指を当て、くすりと小さく笑ったのだ。
「……まあ。陛下は本当にお優しい。ですが、それは『若さ』ゆえの残酷な無知ですわ」
お母様は手に持っていた扇を閉じ、その先端で、私の足元にある瑞々しい若草を静かに指し示した。
「アリシア。貴女がここで陛下と『おままごと』に興じている間……お父様がどのような生活を強いられているか、ご存知かしら?」
「お父様……?」
「ええ。ワイバーンで送り届けられた彼を待っていたのは、かつての栄光ではなく、薄暗い別邸での軟禁生活ですわ。貴女がルイ陛下の心を掴んだことで、ヴァレンタイン家は一時の滅亡は免れました。ですが……それはあくまで『保留』。アストライアとの正式な婚姻も結ばれず、実家との縁を絶ったままの貴女がここに居座り続ければ、本国でのヴァレンタインの評価はどうなるかしら?」
お母様の声が、一段と低く、艶を帯びて私の耳に潜り込んでくる。
「『娘に捨てられ、王の愛人として媚びを売らせるしか脳のない、落ちぶれた家』……そう囁かれながら、お父様は酒に溺れ、誇りを失い、日々を枯らしております……愛しい娘。貴女は、自分が幸せになるために、老いた父親を泥水の中に放置するのですか?」
「それは……」
私は言葉に詰まった。
お父様のことは許せない。
けれど、彼をそこまで追い込んだ原因の一端が、私の「自由」にあるのだと突きつけられれば、喉の奥に苦い鉄の味が広がった。
「ルイ陛下。貴方がアリシアを愛しているのなら、彼女を『父親殺しの不孝者』にするべきではありませんわ。彼女が完璧な王妃として華々しく王都に立ち、公爵家との絆を証明してこそ、お父様の罪は雪がれ、ヴァレンタインは真に救われるのです……分かりますわね? 貴方の我が儘が、この子を苦しめているのですよ」
「……っ、黙れ!」
ルイ様が怒りに拳を震わせる。
けれど、お母様は勝ち誇ることもなく、ただ悲しげに私を見つめた。
「さあ、アリシア。選びなさい。このまま私の親愛を拒み、お父様を見殺しにして自分だけの幸福を貪るのか……それとも、私の手を取り、すべてを円満に解決する『完璧な結末』へと進むのか」
頭上では春の小鳥たちが囀っているというのに、私の視界からは色彩が失われていく。
お母様の差し出した白く細い手。
それが、逃げ場のない檻の格子に見えて、私は足がすくむのを止められなかった。




